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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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御堂筋完成五十周年記念碑
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御堂筋完成五十周年記念碑

明治22年鉄道の開通によって、大阪駅を玄関とした南北軸の道路の必要が叫ばれ、大正15年 巾44m 長さ4050mという、当時としては類をみない大規模な街路御堂筋の工事に着手し、昭和12年 3375万円の巨費を投じて完成しました。
その後今日まで、道路の使われ方や周辺の様子は、時代の移り変わりにともなって、幾多の変革をくり返しながらも、道路の構造は完成時と変わることなく、関西の経済・文化を支え、また、都心のオアシスともなっている大阪を象徴するメインストリートです。
御堂筋完成50周年を迎えるにあたり、ここに記念碑を建立します。

昭和62年8月10日 
建設省 大阪国道工事事務所

(碑文より)

御堂筋完成五十周年記念碑


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史跡 | 16:48:51 | Comments(0)
淀屋の碑
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淀屋の碑

淀屋は江戸時代前期の大坂を代表する最大の豪商であった
淀屋の豪富と関所のことはあまりにも有名である
淀屋の本姓は岡本氏通称三郎右衛門 城州岡本の荘の出身辰五郎の称もあった
豊臣氏が天下をとるに及んで大坂に出で 十三人町(いまの大川町)に卜居し 淀屋と称し 材木を商う
元和元年京橋1丁目の淀屋持地に青物市を開き また米の相場をたてる
中之島を開発し 常安請地を開く
常安橋―常安町の名がいまにのこる
初代常安の長子(養子)喜入善右衛門 常安町屋 斉藤町屋の祖となる
次子(実子)常有五郎左衛門は別に大川町家の初代となり 言直から6代までつゞく
心斎橋筋から西肥後橋の間にその宅地あり
その宅内の小路を淀屋小路という
四十八戸前のいろは蔵有り
町人蔵元の元祖といわれたが むしろ巨大なる米商人と目すべく淀屋米市のために土佐堀川に自費で橋をかける
淀屋橋であり こゝで行われた淀屋米市の盛大さはこの碑の絵が表現する通りであった

日本学士院会員 宮本又次 記

チャーターナイト25周年の記念事業としてこれを建てる

昭和62年2月19日
大阪北浜船場ライオンズクラブ

(碑文より)

淀屋の碑


史跡 | 16:20:40 | Comments(0)
大阪俵物会所跡
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大阪俵物会所跡

ほしあわび・いりこ・ふかひれ等の海産俵物流通の拠点である大阪の俵物会所は 延享元年(1744)備後町に設立され 安永6年(1777)にこの地に移された




大阪俵物会所跡

江戸時代には、金・銀・銅などの重要な生産物については、幕府の厳しい統制下におかれ、会所という売買センターで特定の商人しか扱うことができなかった。
俵物(たわらもの)と呼ばれるふかのひれや干なまこ、干あわびなどは、当時の日本の重要な特産品で、長崎から中国などにむけて輸出されていた。
この俵物は輸出入の代価に用いられることもあったので、延享元年(1744)に大阪に会所が設けられ、ここで売買が行なわれた。
会所ははじめ備後町にあったが、安永6年(1777)にこの地に移り、明治まで続いた。

大阪市教育委員会

(説明板より)

大阪俵物会所跡


史跡 | 16:07:15 | Comments(0)
八軒家船着場の跡
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この地は江戸時代には八軒家と称し淀川を上り下りの三十石船の発着場として さらに古くは渡辺といい紀伊熊野詣での旅人の上陸地として栄えた
また大江山の鬼を退治したといわれる渡辺綱はこの地を支配した摂津源氏一族の出身であり『地獄門』で知られる遠藤盛遠が袈裟御前を見初めたのもここに架けられた渡辺橋の渡りぞめの時のことと伝える
楠正行がこの橋からなだれ落ちる敵兵を救いあげ衣料を与えて国へ帰してやったという美談は明治初年わが国が万国赤十字に加盟のとき伝えられて感銘を与えた

昭和40年5月
牧村史陽識

(碑文より)

八軒家船着場の跡


史跡 | 15:46:24 | Comments(0)
大阪の旅(3)
大坂城ホール近くの『砲兵工廠跡』の碑文を書き写しているときのこと・・・・
保育園に入るか入らないかぐらいの幼い子を連れた家族が歩いていた・・・・
「パパ!抱っこして~」と子供がねだっている。
ん?ほほえましいなぁ~と思い顔を上げて見てみたら・・・
パパもママも子供を無視して歩いてる。
「お願いですからぁ~お願いしますからぁ~抱っこして~」と子供は半べそ状態で訴えている。
こんな幼い子供が「お願いしますから~」と言うとは・・・・
それでも、この夫婦は子供を無視している。
子供を甘やかさないという教育方針なのだろうが・・・
本当に正しいのだろうか?
「お願いしますからぁ~」の声が切ない声なのである。
聞いていて、こちらが辛くなる。
このぐらいの子供は甘やかしてもいいんじゃないか?
親の愛情をもっと注いでやってもいいんじゃないか?
少なくとも無視はまずいだろう・・・・何か一言返事をしてやればいいと思うのだが・・・
夫婦してしらんぷりには、他人ながら腹が立つ。
幼い頃の親の愛情不足がその後、この子供にどういう影響を与えるだろうか?
あ~あ、嫌なものを見ちゃったなぁ~

時刻は5時・・・・しかしまだ明るい。
もう少し歩き回るか!
大坂城を離れ西に向かい歩く・・・・・

かんぽ生命大阪支店で前島密の銅像を見つける。
ここは以前は郵政公社・・・・・
隅っこに『紀州邸址』の碑が建っているが説明文はなにもない。
更に西に向かって歩き、大阪証券取引所ビルの前に立つ五代友厚の銅像を撮影。
五代友厚・・・・・
高校生の時か大学生の時か・・・・この人の伝記を読んだことは覚えているのだが・・・
今ではその内容はすっかり忘れている。
え~と・・・・・一体何をした人だっけ?(笑)
更に西に向かって歩き『適塾跡』に到着。
「跡」と地図には書いてあるが建物が残っている・・・・が、しかし、時刻は既に6時。
閉館となっていた。
まぁ~明日来ればいいやぁ~(笑)
もう1日余裕を作っておいてよかった。

ここから御堂筋に出て南下する。
御堂筋・・・・・
ふっと「雨の御堂筋」という歌を思い出した。
拙者が小学生の時に欧陽菲菲が歌っていた歌で、結構はやっていた。
この曲が何故か好きで、今でも微かながら覚えている。
突然、このメロディーが頭に蘇ってきたのだ。
で・・・・
この「雨の御堂筋」の鼻歌を歌いながら御堂筋を歩く。(笑)
「こぬかぁ~あめふるぅ~みどぉ~すじぃ~・・・・」
御堂筋を「雨の御堂筋」を歌いながら歩いている馬鹿は拙者しかおるまい!(笑)

北御堂で親鸞聖人、蓮如上人の銅像を見つける。
更に南下して久太郎3丁目の交差点近く・・・・
車道の中の分離帯の中に「芭蕉終焉の地」の碑が建っている。
なんで・・・こんな場所に・・・
分離帯の中にあったのでは近づけない。
歩道側に建ててくれれば写真が撮れるのに・・・・
車道に建てる馬鹿がいるか?
時刻は7時を過ぎた。
暗くなり、ストロボ撮影しても光が届くまい。
あ~何たることぞ!

ここから東に向かいホテルに向かって歩く。
このまま真っ直ぐ歩けばホテルに着くはず。
途中、居酒屋に入り夕食を食べる。

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居酒屋のオバサンに・・・・「飲み物は何にします?」と尋ねられ・・・・
「お茶をください」と答えたところ、怪訝な顔をされた。
あっ!と気がついたが遅かった。
ここは居酒屋であった。
居酒屋に来て酒を飲まぬとは・・・・やはりおかしいよなぁ~(笑)
刺身にご飯と味噌汁をつけてもらい夕食とする。

今日の歩数3万2099歩、約17.6km歩く。

旅行 | 15:35:51 | Comments(0)
砲兵工廠跡
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砲兵工廠跡

大阪陸軍造兵廠は明治3年(1870)2月大坂城三の丸跡に創設され大阪造兵司と称して兵器製造の作業を始めた
その後大阪砲兵工廠などと数度改称されたが終戦によって陸軍が終止符を打った
昭和20年(1945)8月まで75年の長い間主として各種火砲戦車弾薬類を製造し終戦時の従業員は約6万人地積は約40万坪であった
特に当工廠は陸軍唯一の大口径火砲の製造工廠でありいくたびかの戦役に際してその重責を果たした功績は大きかった
またその技術は国内外から高く評価され諸外国から受註して製作した兵器は多数に達した
昭和34年8月14日殉職者のみたまを慰める式典を行なったのを機会に当時をしのぶためその遺跡の一角にこのいしぶみを建てるものである

昭和34年8月14日
大阪廠友会会長
根本荘行 識
道■峰石 書

(碑文より)

砲兵工廠跡


史跡 | 15:07:53 | Comments(0)
永遠の平和を願って
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永遠の平和を願って

人間にとって、戦争ほど恐ろしいものはありません。
その苦しみや残酷さを知った戦傷病者とその妻が、永遠の平和の願いをこめて植樹しこの碑を建てました。
どうかいつまでも知っていてください。

1992年3月
大阪府傷痍軍人会同妻の会会員一同

(碑文より)

永遠の平和を願って


史跡 | 14:53:30 | Comments(0)
教育塔
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教育塔

この塔は、1934年第一次室戸台風によって多くの犠牲者を出したことを機に、大阪の教育界が提唱し、当時の帝國教育会によって、1936年10月30日に建立されました。
1948年、日本教職員組合が憲法・教育基本法の理念にたち、塔の維持・管理をうけつぎ、現在にいたっています。
本年、1月17日におこった阪神・淡路大震災により、多数犠牲となった教職員・子どもたち・保護者など教育関係者が特別合葬されました。
本年はまた、第二次世界大戦後50年にあたります。
未来の恒久平和と安全に心を留め、あらためて犠牲者のご冥福をお祈りいたします。
第60回教育祭にあたり、教育塔の補修工事を行いました。
塔の高さは30m、面積は333㎡、塔の下の中央は162㎡、両側はそれぞれ86㎡です。
外側は白色の花崗岩でおおわれています。
芳名室には合葬された方々の名板がおさめられています。

1995年10月
教育塔維持管理委員会

(説明板より)

教育塔


史跡 | 14:30:25 | Comments(0)
大坂城代屋敷跡
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大坂城代屋敷跡

現在の西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城の防衛や維持管理の最高責任者である大坂城代の屋敷(官邸)があった。
東向きの玄関は唐破風(からはふ)造りで、公務を行う広間や書院だけでなく、城代の妻子が居住する建物も備えており、本丸御殿に次ぐ規模の御殿であった。
明治維新の際の火災で焼失。
ここは城代屋敷の表門付近にあたる。

(説明板より)




西の丸庭園

古く豊臣時代の西の丸には多くの御殿が建ち並び、秀吉没後、慶長4年(1599年)には秀吉の正室「北の政所」が一時住み、その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦まで、徳川家康が移り住んだことが知られています。
徳川時代に入り、元和5年(1619年)、内藤信正が初代の「大坂城代」となり、翌元和6年(1620年)すっかり築き直しました。
その後、明治維新(1868年)まで、70代の城代が交代で城の管理にあたりました。
明治以降は軍用施設として使用されていましたが、徳川時代の「西の丸」跡地と、その南側に続いていた「城代屋敷」跡地などを一つにまとめ、昭和40年(1965年)西の丸庭園として開園しました。

(説明板より)

大坂城代屋敷跡


史跡 | 14:08:36 | Comments(0)
秀頼・淀殿ら自刃の地
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秀頼(ひでより)・淀殿(よどどの)ら自刃の地

慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓(やぐら)にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。

(説明板より)




慶長20年(1615)5月8日 大坂城主豊臣秀頼とその母淀殿をはじめとする主従約30名は 落城直後の大坂城内で自刃した
その場所については諸説あるが ここ山里曲輪の一角にあった矢倉の中とする説が有力である

(碑文より)

秀頼・淀殿ら自刃の地


史跡 | 14:00:00 | Comments(0)
号砲
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号砲

この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。
1863年、幕府の命令により、美作(みまさか)津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎(くだらせいじろう)らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。
明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お午(ひる)のドン」の名で市民に親しまれた。
火薬節約その他の理由により大正12~3(1923~24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。

(説明板より)

号砲


史跡 | 13:53:16 | Comments(0)
残念石
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残念石

両脇に鎮座しているこの石は元和6年(1620年)から始まる大坂城修復の時、天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石としての念願かなわず、いまなお数多く残されていることから「残念石」と呼ばれている。
この大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さな石は豊前細川忠興の手になるものである。
これらの石を、小豆島青年会議所が創立10周年記念事業として、「島は一つ」の社会活動の実践に大阪青年会議所は商都大阪の復権を願い「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共同事業として当時を再現し、小豆島よりこの地に運び据えたものである。

昭和56年7月19日
(社)大阪青年会議所
(社)小豆島青年会議所

(碑文より)

残念石


史跡 | 13:14:42 | Comments(0)
もと大阪市立博物館
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もと大阪市立博物館

もと大阪市立博物館の建物は、昭和天皇の即位を記念して、昭和6年に、市民の寄付により当時の金額にして150万円が集められ、大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設とあわせて、第四師団司令部として建設されたものです。
外観をヨーロッパ中世の古城に似せた堂々とした建築で、壁面上部の装飾や、正面及び四隅の隅塔などにその特徴があります。
戦後は大阪市警視庁として、またその後は大阪府警本部として使用されましたが、内部を改装し、昭和35年から平成13年まで、大阪市立博物館として使用されました。
なお博物館は「大阪歴史博物館」として、平成13年11月3日、大阪市中央区大手町4丁目に開館しました。

大阪市教育委員会

(説明板より)

もと大阪市立博物館


建物 | 12:19:42 | Comments(0)
大阪陸軍造兵廠科学分析場
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大阪陸軍造兵廠科学分析場
(元自衛隊大阪地方連絡部)

大阪陸軍造兵廠科学分析場


建物 | 11:42:46 | Comments(0)
蓮如上人袈裟懸の松
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蓮如上人袈裟懸の松

本願寺第8代蓮如上人は明応5年9月この地をえらんで一宇の坊舎を建立し明応8年2月まで居住す。
天文元年8月第10代証如上人は山科より本願寺をこの地に移し大坂(石山)本願寺と称す。
ここに本願寺は大いに繁昌し道俗男女群集した。
永禄13年(元亀元年)織田信長本願寺に難題を申し入れ遂に石山合戦の発端をなす。
而して11年間攻防の末天正8年3月勅によって和議なる。
天正11年豊臣秀吉大坂城を築く。
のち時代は変われども蓮如上人袈裟懸の松の根のみが残りわずかに往昔を偲ぶ。

本願寺津村別院誌(抜粋)

(説明板より)

蓮如上人袈裟懸の松


史跡 | 11:11:45 | Comments(0)
石山本願寺推定地
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石山本願寺推定地

明応5年(1496)に、本願寺8世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。
これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現われる初例である。
『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。
その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。
この造営が現在の大阪の町並の原形になったと考えられる。
その後11世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。
一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。
この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。
さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行なわれた。
このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。

大阪市教育委員会

(説明板より)

石山本願寺推定地


史跡 | 11:08:32 | Comments(0)
大阪衛生試験所発祥の地
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大阪衛生試験所発祥の地

大阪衛生試験所は官営の医薬品試験機関大阪司薬場として明治8年3月、この舎密局跡に発足し、明治20年5月の官制公布により大阪衛生試験所となった。
昭和20年6月の大空襲で焼失し、業務停止に至る70年余、わが国における保健衛生行政の拠点として多大な貢献をなした。
昭和24年4月、国立衛生試験所大阪支所として業務を再開し、現在は国立医薬品食品衛生研究所大阪支所として、中央区法円坂において引続き試験研究業務を行っている。
本年、業務再開から50周年を迎えここに記念碑を設置するものである。

平成11年12月建立
国立医薬品食品衛生研究所大阪支所

(碑文より)

大阪衛生試験所発祥の地


史跡 | 10:49:43 | Comments(0)
法円坂建物群
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法円坂建物群
5世紀の大型高床建物群

瀬戸内海の水運により大陸と結び、淀川や大和川をさかのぼって古代の政治の中心である大和や河内に直結する難波(なにわ)は、交通の要地でした。
その中心である上町台地の北端にあたるこの地から、1987(昭和62)年に行なわれた発掘調査で5世紀後半頃の巨大な建物群が発見されました。
16棟以上の高床建物が整然と建てられており、1棟あたりの規模は桁行(幅)が約10m、梁行(奥行き)は約9mです。
面積は約90㎡と、当時としては極めて大規模な建物でした。
柱配置の特徴から、屋根の形は入母屋造りになると思われます。
建物群は東西方向に棟を揃え、厳密な計画のもとに建てられていました。
百舌鳥(もず)や古市(ふるいち)に巨大な古墳を築いた大王が、強大な権力を内外に誇示するためにつくったものと思われます。
6~7世紀には、この付近一帯にたくさんの建物が建てられるようになります。
難波津(なにわづ)と呼ばれる港を中心として、このあたりは物資の一大集散地として発達しました。
また中国や朝鮮からの外交使節を迎えたり、遣隋使や遣唐使が発着するなど、海外に開かれた玄関として古代史上に重要な位置を占めました。

(説明板より)

法円坂建物群



史跡 | 10:27:48 | Comments(0)
一等水準点
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一等水準点(第230号)

水準点は、土地の高さを測定する場合の基準を与える標識で、標高が精密に測定されています。
全国の主要道に沿って約2kmごとに設置され、各種公共事業の高さの基準、地震予知研究や地盤沈下による地盤変動の監視に重要な役割を果たしています。

この水準点の標高と位置は、
標高 17.3770m
緯度 34度40分54秒
経度 135度31分4秒

平成14年4月1日
国土交通省 国土地理院近畿地方測量部

(説明板より)

一等水準点


看板・標識・標語など | 10:01:44 | Comments(0)
大阪の旅(2)
今日は大阪城を中心に旅をすることにする。
ホテルからテクテク歩いて『大阪歴史博物館』に行ってみたら・・・・
なんと休館!
普通はこういう博物館は月曜日が休館日なのだが・・・
なんと火曜日が休館日とは!
大阪は・・・・わからん・・・・

府警本部の近くに『舎密局址』の碑があるが・・・・
植え込みが邪魔で碑文が読めない!
碑文が読めないように木を植え込むってどういうことよ?
一応・・・史跡なんだけど・・・・
どうでもいい史跡なのか?

続いて今回のメインの訪問地・・・大阪城に行く!
ここは母との思い出の地。
拙者が生れて初めて旅行した先が大阪城。
母と二人でここに来た。
6歳のときのことであるから・・・・42年前!(笑)
あれからもう42年も経つのかぁ~
母が死ぬのも無理もない・・・・かぁ・・・・

大阪城では買ってもらったばかりのカメラでパチパチと写真を撮りまくったが・・・
その記憶は断片的にしか残っていない。
塀に丸や三角の穴が空いていて・・・
母から「この穴はここから鉄砲で敵を撃ったりする穴なんだよ」と教えられ、大喜びで走り回って写真を撮ったのだが・・・・
その場所がどこだったのか思い出せない。

地元の老人会の史跡ウォークの方々とおしゃべりをする。
「42年前ねぇ~42年も前じゃ無理もないねぇ~この周辺は随分変わったからねぇ~」と笑われた。
やっぱりねぇ~・・・無理もないかぁ~

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昼食は本丸跡にある食堂でカツ丼を食べる。

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大阪城天守閣・・・外観にはなぜか記憶がない。(笑)
覚えているのは階段・・・
スーツケースを持って階段を最上階まで登った。
各階にどんな展示があったのかは全く覚えていない。
とにかくクタクタになり天守閣最上階にあるお土産屋さんのショーケースの前でへそを曲げて座り込んだのは覚えている。
「も~いやだ!」と、テコでも動かねぇぞと座り込んで散々母を困らせたことを覚えている。(笑)

今では天守閣にはエレベーターもあり、係の人からエレベーターを勧められたが、そうはいかぬ。
思い出の階段を登って最上階に向かう。
それにしても6歳でスーツケースを持ってよくこの階段を登ったものだ・・・
子供の頃のほうが根性があったかも・・・(笑)

最上階・・・
昔とはお土産コーナーの場所は変わっているような気がするが・・・
店員さんは20代の女の子。
42年前にどの位置にお店があったのかなんて知るわけもないから聞くに聞けない。(笑)
このあたりに座りこんだんだよなぁ~・・・・多分・・・・
48歳にもなってまさか座り込むわけにも行かぬ・・・(笑)
ここでお土産を買ってもらって機嫌を直して降りたことを覚えているが、当時買ってもらったものと同じお土産は当然売っていなかった。(笑)

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本丸跡にある建物・・・・この建物はよく覚えている。
今は閉鎖されているが、当時は市立博物館だった。
42年前・・・ここに「ミイラ展」の幕がぶら下がっていた。
確か入口の左側に垂れ幕が下っていた。
「是非みたい!」と言ったが・・・・
「時間がないから」と言われて見せてもらえなかった記憶がある。
なんとも残念なので、外観の写真だけを撮った。
その後何年も、大阪というと、この時の「ミイラ展」の垂れ幕を思い出したものだ。
この建物が実は陸軍第4師団司令部の建物だったとは当時は知る由もない。
成長と共に随分興味も変わったものである。(笑)

大阪城を隅から隅まで隈なく回るが・・・
やっぱり記憶が蘇らない。(笑)
ほどほどに風が吹いてくれたからいいものの、それでも暑くてかなわん。
午前10時から午後5時まで、7時間も大阪城を歩き回る。
天守閣だけなら1時間もあれば充分なのだが・・・
堀の周辺まで歩き回るとこういうことになる。(笑)
さすがに我ながら呆れた。

旅行 | 09:19:57 | Comments(0)