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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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難波宮
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難波宮
遺跡の概要

発掘調査により、難波宮(なにわのみや)跡は大きく分けて前・後2回の宮殿遺跡とそれ以前の建物跡があることが明らかにされてきた。
前期難波宮跡はすべての建物が掘立柱(ほったてばしら)で、屋根に瓦を葺(ふ)かない建物であった。
7世紀の中頃、飛鳥(あすか)で蘇我(そが)氏が亡ぼされて後、都(みやこ)が難波に遷(うつ)されてつくられた難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)がこれにあたると考えられている。
天武(てんむ)天皇朱鳥(しゅちょう)元年(686年)に、火災で全焼するまでつづいたと考えられる。
この宮殿は最初の本格的な中国風の都といわれる大和(やまと)の藤原宮(ふじわらのみや)に先行するもので、古代国家の成立期の貴重な遺構である。
後期難波宮は、奈良時代の神亀(じんき)3年(726年)聖武(しょうむ)天皇の時に造営された宮殿である。
大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)の中心建物には礎石(そせき)が用いられ、屋根には蓮華文(れんげもん)、唐草文(からくさもん)、重圏文軒瓦(じゅうけんもんのきがわら)などの瓦が葺かれていた。
天平(てんぴょう)16年(744年)にはここ難波宮が首都と定められたが、翌年再び平城宮(へいじょうきゅう)へと遷された。
前後2時期の難波宮の遺跡のほか、それ以前の大規模な建物跡もほぼ全域で発見されている。
港をひかえた難波の地は、5世紀以降外交・文化・経済・政治の要衝(ようしょう)として栄えていたことがしのばれる。

(説明板より)

難波宮


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史跡 | 22:54:36 | Comments(0)
兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑
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兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

明治兵制ノ創始者兵部大輔大村益次郎卿ハ周防ノ人資性沈毅明敏少壮ニシテ漢籍ヲ廣瀬淡窓ニ蘭學ヲ梅田幽齊及緒方洪庵等ニ學ビ専ラ醫學及兵學ヲ修メ夙ニ皇政継進ノ大業ヲ翼賛シテ東京以北戡定ノ偉勲ヲ樹テ親兵ヲ創設シテ兵馬ノ大権確立ニ資シ徴兵ノ制ヲ布キテ國民皆兵ノ實ヲ擧ゲンコトヲ主張シ兵學寮及兵器弾薬製造所並軍艦碇泊場ノ設立等ニ拮据奔走中明治二年九月四日京都ニ於テ刺客ノ難ニ遭ヒ後大阪病院ニ於テ右大腿切断ノ手術ヲ受ク病床二ヶ月瀕死ノ中ニ在ッテ尚ホ書ヲ要路ニ致シ陸海兵制ノ整備ト軍事毉療ノ急設トヲ説キ傷■ノ疼痛ニ悩ミツゝ一言モ之ニ及ブ■ク愬フル所皆是レ國家公共ノ大策ニ非サルハ無カリキ不幸経過良好ナラズ遂ニ十一月五日経國ノ雄圖ヲ抱イテ空シク此ノ地ニ薨ス時ニ年四十六
本會ハ茲ニ卿ノ高邁ナル識見ト偉大ナル功績トヲ敬慕シ特ニ終焉ノ地ヲ選ビ記念碑ヲ建テ此遺跡ト共ニ其ノ洪勲ヲ長ヘニ後昆ニ傳フト云爾

昭和十五年十一月 大村卿遺徳顕彰會

(碑文より)

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑


史跡 | 21:53:09 | Comments(0)
越中井由来
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史蹟 越中井由来

ガラシャ夫人の名だけ聞いてもどんな人なのか知らない人が多いのではないでしょうか。
ガラシャは細川越中守忠興公の夫人で熱心なキリシタン信者でありました
慶長5年(1600年)忠興公が徳川家康に従って会津上杉を征伐に出陣した留守中及家康の石田三成が大名妻子たちを大阪城中に人質にしようとしたがガラシャ夫人は聞き入れず石田三成に取囲まれぜひもなく家来に首を打たせ家屋敷に火を放ちいさぎよく火中に果てました
この越中井はその屋敷の台所にあったと古くから伝えられております
昭和9年(1934年)当時地元の越中町内会の人々相寄りガラシャ夫人の徳をしのび顕彰碑を建立したものです
碑の正面表題の文字は徳富蘇峰先生の筆で側面(左側)の由来説明は京都帝大文学部長新村出先生の文です
改めてそれを読みながらガラシャ夫人の壮烈な最後を思い起こしてください

牧村史陽識
越中町会

細川ガラシャ夫人顕彰
頌徳会

(説明板より)

越中井由来


史跡 | 21:30:34 | Comments(0)
青刻昆布発祥の地
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青刻昆布発祥の地

昆布加工品の原点である青刻昆布の主産地大阪における創始は1721年(享保6年)頃と伝えられる。
文化年間に清国(中国)に試売し、1820年頃から販路を拡張、専ら大阪上町台地において製造していた1900年(明治33年)には、大阪の刻昆布が国の重要物産品に指定されている。
今日、大阪の昆布加工品は、なにわ名物として広く認められ、大阪の食文化に大きく寄与しており、1998年(平成10年)には大阪特産物品として国より認証された。
大阪昆布商工同業会(起源は明治34年認可の大阪刻昆布製造同業組合)は、平成13年に百周年を向かえたのを記念してこの碑を建立する。

平成13年3月建立
大阪昆布商工同業会

青刻昆布発祥の地


史跡 | 20:23:38 | Comments(0)
ファチマの聖母と羊飼い
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ファチマの聖母と羊飼い

ポルトガルのファチマ村にルチア(10才)フランシスコ(9才)ヤシンタ(7才)と呼ばれる3人連れの羊飼いがいた。
1917年5月から10月にかけて毎月13日の午后に聖母マリアは彼らに御出現になり祈りと苦業をお勧めになった。
ポルトガルの全国民は聖母マリアのこのメッセージに心をうたれて、宗教的生活の高揚に励み、世界中のカトリック信者もこれに和して神への道に精進している。
ここに展示された場面は牧場のかなたの澄み切った青空を背にしてひいらぎの木の上に立たせ給もうた聖母が羊飼いたちにメッセージをおおくりになるところを表している。
なお、ここに配置された7つ像はイタリア、カラフ産の純白大理石を用いてアリギーニ氏が作成したものである。

大阪玉造聖マリア大聖堂

(説明板より)

ファチマの聖母と羊飼い



史跡 | 20:04:53 | Comments(0)
真田山旧陸軍墓地の由来
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真田山旧陸軍墓地の由来

真田山旧陸軍墓地は大阪市天王寺区玉造本町にあり、明治4年8月わが国最初の鎮台(後の陸軍第4師団)が大阪に置かれて、この地、真田山が陸軍墓地となりました。
ちなみに真田山は大阪城の出丸で真田幸村が陣地を構えて、徳川の大軍を迎え撃った古戦場であります。
敷地は5,359坪(17,685平方米)あり、墓地には西南の役以来、日清、日露及び今次第二次世界大戦に至る間における、戦没英霊の御冥福を祈念し、4千8百余柱と清国及び独逸人戦病没者10柱の墓標が建立されており、尚 霊堂(納骨堂)には4万2千余柱の遺骨が奉安されてあります。
戦後陸軍省廃止と共に国家が維持及び祭祀を行う事が出来なくなり、大蔵省よりの大阪府又は大阪市の宗教団体、遺族会等により維持管理を行うべしとの通牒に基づき、財団法人大阪靖国霊場維持会が創立され、以来祭祀については靖国霊場維持会他有志多数の奉仕により行われております。

平成7年12月 建之
社団法人 日本郷友連盟大阪府支部他有志

(銘板・碑文より)

真田山旧陸軍墓地由来


史跡 | 19:30:32 | Comments(0)
井原西鶴の墓
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元禄時代の三文豪、西鶴、近松、芭蕉の内、当誓願寺の墓地に西鶴の墓が原形のまゝ安置され南区史蹟第一号となっています。
井原西鶴(1642~1693年)は摂津住吉社頭で一日一夜2万3千5百句独吟という超人的記録を樹立し、浮世草子(小説)「好色一代男」「好色五人女」「日本永代蔵」「世間胸算用」等数多くの名作を残して明治以降数々の有名作家に大きい影響を与えました。
墓の傍に
  鯛ハ花ハ見ぬ里もあり今日の月
と西鶴直筆の句をしたゝめた文学碑が建っております、又表門左側に西鶴の流れを汲む武田麟太郎の文学碑があります。

西鶴文学会代表 桝井寿郎
昭和62年11月

西鶴の墓は墓地中央参道奥、正面にあります。
(上本町北町会長 竹村富治献掲)

(説明板より)

井原西鶴の墓



史跡 | 17:53:11 | Comments(0)
薄田泣菫の詩碑
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あゝわが丈(たけ)よ五千尺、
脚(あし)は下なる野を踏みて、
頭(かしら)は高く雲に入る、―
そのかみ闇(やみ)のとろゝぎの
ニ(に)に別れたる初めより、
山と聳ゆる大悦(たいえつ)を、
自然よ、君に捧ぐると、
今歳(ことし)この春若やぎて、
どよみわたりぬ金剛山(こんごうせん)。

薄田泣菫 「金剛山の歌」より

(碑文より)




薄田泣菫(すすきだ きゅうきん)

1877(明治10)年 岡山県に生まれ 若くして大阪に出た
高踏な象徴詩で明治後期を代表する詩人となる
この詩は 寄宿した上町の本長寺辺から見た金剛山の雄姿に感動して歌い上げた

大阪市

(説明銘版より)

薄田泣菫の詩碑


史跡 | 17:24:55 | Comments(0)
上方落語発祥之地 米澤彦八の碑
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上方落語発祥之地 米澤彦八の碑

遠く寶永、正徳の砌、生國魂神社には太平記讀み、芸能、萬歳、人形操りなど諸々の藝能者が蝟集し、就中米澤彦八の芝居物真似、軽口咄はよく人の頤を解かしめ、世に彦八咄の稱を弘むるに至ったと云ふ。
享保年中初代彦八没して後も、幸いにしてその滑稽諧謔の精神は絶ゆることなく多くの名人上手輩出してよくその衣鉢を傳へ、遂に今日の上方落語の隆盛を将來した。
所謂、彦八咄の誕生より數へて凡そ三百年、茲に上方落語家相集ひ更めてその遺業を偲びその傳統を継承し、以て益々の藝道精進を誓ふべくこの碑を建立したる次第を略叙し、撰文に代ふると云爾。

平成2年9月5日
三田純市 記

(碑文より)

上方落語発祥之地・米澤彦八の碑


史跡 | 16:02:10 | Comments(0)
大阪の旅(1)
地下鉄難波駅から地下鉄千日前線に乗って谷町9丁目駅へ。
ここから徒歩で生国魂神社へ向かう。

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ここには井原西鶴の銅像があるので寄ってみた。
境内に鴫野神社(しぎのさん)という淀君ゆかりの神社があったのでお参りしたが・・・
お参り後、説明板を見たら・・・・
縁結びと悪縁切りの神様なんだそうで・・・・
しかも女性のための神様だとか・・・(笑)
ありゃぁ~・・・女性を守護する神様に男の拙者がお参りしてしまったぁ~(笑)

境内で気さくに声をかけてきた青年と、しばし雑談。
なんで麻雀屋が多いのかを尋ねてみたら、やっぱり大阪人は麻雀が好きなのだそうだ。
しかも・・・
最近では変わった麻雀屋が増えてきたそうで、一人で出かけて、店内の女の子の中から気に入った子を選んで、その女の子たちと麻雀をするという店に人気があるのだそうだ。
へぇ~・・・・である。
変わった商売もあるもんだ。

青年に別れを告げて、北上!
法性寺に行く。

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このお寺は、坂本龍馬が身を隠したり、オランダ医師ボードウィンが逗留したことで知られている寺だが、実際に行ってみたら、それを示すようなものはなにもなかった。
ただの、どこにでもあるようなお寺・・・・ガッカリ・・・・

ここから東に向かって歩くが・・・・
地図は平面だから高低がわからない。
この辺りは坂道・・・ゲゲッ!
実際に歩いてみないとわからないものである。
蒸し暑い中、汗をダラダラかきながら・・・・歩く!(笑)

次は大福寺。

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ここは浪華仮病院跡。
どうも大阪っていうところは史跡の説明が足りない。
京都もそうなのだが、石柱1本だけがポツンと建っているというのが多い。
史跡が多すぎて由来記などを建てるのに手が回らないのか、それとも基本的に歴史に重きを置いていない土地柄なのか?
教育委員会や観光協会の“顔”が見えない。

ここから、チョット戻って誓願寺。

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ここには井原西鶴の墓がある。
しかし・・・道路に面したところに小さな門がポツン・・・・
う~ん・・・入りづらいなぁ~(笑)
とにかく奥まで入ってみたが、お寺というより普通の住宅。
奥に墓所があるが・・・門が閉まっている。
勝手に入っていいものやら・・・・
迷っていたら、丁度、お寺の方が家から出てきた。
「どうぞお参りください」と言ってくださったので墓所内に入りお参りをする。
不審者扱いされず助かった。

次は・・・・一気に東に向かって歩き・・・・
15分ほどで真田山公園へ。

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ここは大阪冬の陣、夏の陣で戦った真田幸村の「真田丸」の跡のはずだが・・・
それを示す説明板は・・・・ない!
頭に来るんだよなぁ~こういうの・・・(怒)
ここは公園と球場となっている。
史跡としての扱いはされていないのか?
とにかく何かないかと公園内をウロウロする。

公園管理事務所のところに騎兵第4連隊跡の碑を見つける。
「騎兵営址」の碑なので、この真田山に連隊の兵営があったのだろう。

すぐ近くの真田山小学校から子供たちが下校して来た。
マズイ・・・
不審者と間違えられるんじゃないかと心穏やかではない。(笑)
正直言って小学校や幼稚園の周辺はウロウロしたくないのだが・・・

この小学校の北側に旧真田山陸軍墓地があるが、入口がわからずグルリと一周。
ようやく入口を見つけて中に入る。

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ここは大阪第4師団の戦没者の墓である。

この直ぐ側に宰相山公園と呼ばれる小高い丘に三光神社がある。
ここに真田幸村の銅像があるので訪ねる。
ここにはどうしても寄らねばならない。
以前、出版社から、この銅像の写真が欲しいと言われていたので、是非とも写真を撮って帰らねばならないのだ。(笑)
こうなると、趣味ではなく半分仕事みたいになってしまっているが・・・
それもまた楽しいのである。

ここに銅像があるということは・・・・ここが真田丸?
しかし、相変わらず説明板は・・・・ない!
三光神社の由来記も見当たらない!
何だ、これ!(怒)
これじゃ何がなんだかわからんじゃないか!(怒)

蒸し暑い中、歩き続けてさすがに疲れた。
近くの喫茶店で水分補給をして、ちょっと休憩!(笑)

続いて北に向かって歩く。
聖マリア大聖堂で細川ガラシャ、高山右近の銅像(石造?)を撮影。
更に越中公園の北で『越中井』を見つける。

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越中井とは細川ガラシャが自害した屋敷の井戸跡らしい。

ここで一度引き返し、今度は西に向かう。
最初の位置から言うと北に向かって東西にジグザグに歩いている感じか?

交差点角に大きな『兵部大輔大村益次郎卿殉難報国之碑』
ここにあった病院で息を引き取ったらしい。
時刻は5時半。
薄暗くなり写真を撮るのも限界に近くなる。

この一画は国立病院の敷地。
現在は大阪医療センターになっているが、その昔はここに歩兵第37連隊があった。
駐車場内の連隊跡碑を撮影し、今度は向かい側の難波宮(なにわのみや)に向かう。
ここには、その昔は歩兵第8連隊があった。
ここにも連隊跡碑があるので撮影。

今晩宿泊するホテルはこの直ぐ近くの地下鉄谷町4丁目駅の側。
ん?
ということは・・・谷町9丁目からジグザグに谷町4丁目まで歩いたということか?
このくらいで史跡めぐりは終了。
ホテルにチェックインする。
今日は夕食付きで頼んであるので、ホテル内の食堂で食事をする。

食後、ホテル周辺を散策に出かける。
明日もここに宿泊するが、夕食を付けてはいない。
近くに食事が出来る場所があるかどうか探しておかなければ・・・・(笑)
帰りにコンビニに寄ってお買い物。
実は、靴擦れをおこしてしまい、踵の皮が剥けて血だらけ!(笑)
歩いていて痛いのなんのって・・・・
ホテルに着いて足を見たら・・・・血だらけ!
重傷である!(笑)
まぁ~買ったばかりの靴を履いてこんなに歩けば皮も剥けるわな。(笑)
というわけで・・・絆創膏を買う。

夜、携帯に母のゴルフ仲間の“ニシヤマさん”から電話。
20日に仲間10人ほどでお線香をあげに来たいとのこと。
いやぁ~嬉しい話である。
母も喜ぶだろう。
が・・・しかし・・・親父がどう言うか・・・・それが問題。
ここで軽はずみな約束をするわけにはいかないので、帰宅後連絡することにする。

今日の歩数は約2万歩、約11キロ歩いた。

旅行 | 15:12:18 | Comments(0)
戦友会の旅行
今日は、戦友会の旅行である。
ホテルからタクシーに分乗して『海遊館』へ行く。
『海遊館』とは水族館である。
誰かがここに行きたいといって決まったわけではない。
旅行会社に任せたら、ここがよかろうということになったらしい。
水族館かぁ~・・・・
子供の時に行ったくらいで・・・
う~ん・・・大人の行く場所じゃないという気がしていたのだが・・・
いざ、行ってみたら予想外に・・・すごい!
巨大な水槽に大きなジンベエザメ・・・
おお~
最近の水族館はすごいんだねぇ~(笑)
大して期待していなかったが・・・結構面白かった。
とはいうものの・・・
拙者は団体の一番後ろを歩いて、迷子が出ないように監視役。
いつもの行動パターン。
人ごみの中の会員の動きを見ながら、チラチラと水槽のほうを見る。(笑)
それでも感動ものだね。
こういう施設をわが町にも欲しいものだ。

水族館の見学後、近くのうどん屋で昼食。
で・・・
今回の旅行はこれで終わり!(笑)

当初の予定では新大阪に移動して解散・・・・なのだが・・・
予定を変えて新大阪駅組と難波駅組とに分けて、それぞれタクシーで移動して解散とする。
関東から参加した“サトウ軍曹殿”“イイヅカ曹長殿”は新大阪駅組。
できれば拙者も一緒に帰って、新幹線の中でおしゃべりをしたかったが、これから2日ばかり大阪に残って史跡めぐりをする予定。
残念ながら一緒には帰れない。
拙者は難波駅組に入って、皆さんとはここでお別れとなる。

難波駅でタクシーを降りて、ここで関西組とお別れ。
ご苦労様でした!お疲れ様でした~!
地下街の喫茶店へ入り一服して、今からの行動計画を練る。(笑)

日記 | 14:47:11 | Comments(2)