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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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妻恋神社
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妻恋(つまこい)神社と夢枕
湯島3-2-6

その昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征のおり、三浦半島から房総へ渡るとき、大暴風雨に会い、妃(きさき)の弟橘姫(おとたちばなひめ)が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救った。
途中尊が、湯島の地に滞在したので、郷民は、尊の妃を慕われる心をあわれんで、尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝える。
後、稲荷明神(いなりみょうじん)(倉稲魂命=うがのみたまのみこと)を祭った。
江戸時代、妻恋稲荷と呼ばれ、関東惣社(そうじゃ)と名のり、王子稲荷と並んで参詣人(さんけいにん)が多かった。
また、正月2日の晩に枕の下に敷いて寝ると、よい夢を見るという縁起物の木版刷りの「夢枕」が売り出された。
“お宝お宝と大音声(おんじょう)に呼ばわったり”(宮島五丈原)「福寿鶴亀」と「七福神の乗合宝船」の2枚の夢枕は、万治年間(1658~61)に創案され当社が版権を所有していた。
版木は、戦災で焼けたと思われていたが昭和52年12月摺師(すりし)の家で見つかった。
幻の夢枕は、関係者によって日の目を見て、売り出されるようになった。

文京区教育委員会
昭和59年3月

(説明板より)

妻恋神社


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史跡 | 22:45:46 | Comments(0)
神田上水石樋
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神田上水石樋(かんだじょうすいせきひ)

徳川家康が入府した天正18年(1590)頃の江戸は、広大な武蔵野台地の東端(とうたん)に位置する小さな村落(そんらく)であったといわれている。
神田上水は、家康の江戸入府にさいして、家臣 大久保藤五郎忠行(おおくぼとうごろうただゆき)が開削(かいさく)した小石川上水がその起源といわれている。
神田上水は、井の頭(いのがしら)池の湧水(ゆうすい)を水源とする神田川に善福寺(ぜんぷくじ)川、妙正寺(みょうしょうじ)川の水路を合わせ、目白台下の大洗堰(おおあらいのせき)に至り、水戸藩邸を通って神田川を懸樋(かけひ)で渡し、神田、日本橋方面の飲み水などに利用していた江戸時代から明治時代はじめの水道である。
この石樋(せきひ)(石垣樋)は、昭和62年から平成元年にかけて発掘された神田上水幹線水路の一部を移築復原したものである。
石樋の内部寸法は、上幅(うわはば)150cm、下幅(したはば)120cm、石垣の高さ120~150cmで、長さ約180cm、幅60cm、厚さ30cm前後の蓋石(ふたいし)がのせられている。
江戸水道から現在の東京水道に至る400年を記念し、また、江戸時代遺跡の保存活用を図ることを目的としてここに移築復原したものである。

平成2年10月
東京都水道局

(説明板より)




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神田上水石樋の由来

神田上水は天正18年、すなわち西暦1590年、徳川家康が関東入国に際し、良質な飲料水を得るため、家臣大久保藤五郎忠行に命じて開削させたのが始まりと伝えられています。
この上水は、井の頭池を水源とする神田川の流れを、現在の文京区目白台下に堰を設けて取水し、後楽園あたりからは地下の石樋によって導き、途中、掛樋で神田川を渡して、神田、日本橋方面へ給水していました。
日本における最初の上水道といわれ、その後、明治34年、近代水道が整備されるのにともない廃止されるまで、ながく江戸・東京の人々の暮しに、大きな役割を果たしてきたのです。
ここに見られる石樋は、昭和62年、文京区本郷1丁目先の外堀通りで、神田川分水路の工事中発掘された神田上水遺跡の一部です。
4百年近く土中に埋もれていたにもかかわらず原型を損なわず、往時の技術の優秀さ、水準の高さを示しており、東京の水道発祥の記念として、永く後世に伝えるため移設復原されたものであります。

平成2年10月
杉本苑子 誌

(碑文より)

神田上水石樋


史跡 | 21:46:54 | Comments(0)
濟生学舎発祥の地
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濟生学舎(さいせいがくしゃ)発祥の地
(本郷2-7-8)

明治9年(1876)4月9日、この地に、医学者・長谷川泰(たい)(1842~1912)によって、「濟生学舎」が開校した。
濟生=“広く民衆の病苦を済(すく)う”
この願いを込めて、医術開業試験(当時)の予備教育を目ざして創立された学舎に、西洋医学を志す優れた生徒が多数集った。
明治12年冬、火災により校舎を失い、学舎長の自宅(現本郷2-7-8)とその隣地に移転、明治15年、現在の湯島2丁目(ガーデンパレスの地)に、本格的校舎を建設し、附属蘇門(そもん)病院及び薬学部を附設して、「東京医学専門学校濟生学舎」と称した。
かくして、学舎は隆盛の一途をたどったが、事情あって、明治36年(1903)8月31日、創設者・長谷川泰みずから廃校を布告して、28年間の歴史を閉じた。
その間、2万1千余の男女学生が学び、9千6百余の医師を輩出し、わが国黎明期の医学振興、地域医療に果たした役割は極めて大きい。
「濟生学舎」の廃校直後から、これを惜しむ教師・学生達によって、いくつかの医学講習会が設けられたが、その一つを母体にして明治37年4月、「私立日本医学校」が設立され、現在の「日本医科大学」(千駄木1丁目)へと発展し、濟生学舎教育の精神は受け継がれていった。
また、学舎ゆかりの「東京女子医科大学」、「東京医科大学」も、それぞれの道を歩み発展していった。

東京都文京区教育委員会
昭和63年3月

(説明板より)

濟生学舎発祥の地




史跡 | 20:56:17 | Comments(0)
角田竹冷の句碑
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角田竹冷(つのだちくれい)の句碑

白うおや
   はばかりながら
          江戸の水

安政3年(1856)5月に静岡県冨士郡加島村に誕生。
職業は明治初期の「代言人」(今の弁護士)であったが、俳人として名を知られていた。
明治28年10月、みずから発起者となり、尾崎紅葉・岡野知十・巌谷小波・川上眉山・戸川残花らの参加を得て秋声会を組織し、翌年11月俳詩「秋の声」を創刊した。
明治30年6月「卯杖」を出し、後に「木太刀」と改題主宰した。
正岡子規の日本派とともに、俳句革新運動の一勢力をなした時もあった。
晩年は古俳書の収集に熱中した。
いま「竹冷文庫」として東京大学図書館に保管されている。
竹冷は大正8年(1919)3月20日66歳で没す。

(説明板より)

角田竹冷の句碑


史跡 | 19:21:06 | Comments(0)
小唄塚・小唄作詞塚
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小唄塚・小唄作詞塚

当神社の神田祭は、江戸っ子の「粋」と「いなせ」と「勢い肌」の象徴でありました。
江戸小唄の中には神田祭は随所に取り入れられています。
この憧憬もあって、大正・昭和の小唄作曲に大きな足跡を残された吉田草紙庵(本名吉田金太郎)を縁りあるこの地に顕彰し、31年3月に小唄作詞家の市川三升・英十三・宮川曼魚の三長老(小唄作詞家グループ火星会の前身閑吟会を結成し後輩の指導に当った)により小唄塚は建立された。
その後昭和62年6月に、小唄火星会をはじめ小唄作詞家協会の人々の発起により、小唄塚建立30周年を記念して、作詞家を讃え、顕彰すべく小唄作詞塚が建立された。
茲に、小唄の両輪である、作詞・作曲双方の塚を揃え顕彰する事ができました。

(説明板より)

小唄塚・小唄作詞塚


史跡 | 18:41:04 | Comments(0)
江戸神社
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三天王 一の宮
江戸神社
御祭神 建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)
祭礼日 5月14日

大寶2年(702)武蔵国豊嶋郡江戸の地(今の皇居の内)に創建された大江戸最古の地主の神であります。
古くは江戸大明神あるいは江戸の天王と称された。
鎌倉時代には、江戸氏の氏神として崇敬され、その後江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の後、太田道灌築城してより、上杉氏・北条氏等引続き城地に祀ったが慶長8年(1603)江戸城の拡張により、神田神社と共に神田台に遷り、更に元和2年(1616)に当地に遷座された。
江戸時代中期以後は牛頭天王と称され、明治元年(1868)に須賀神社と改称、更に明治18年(1885)に江戸神社と復称された。
この神社は、江戸開府の頃幕府の食を賄う菜市が開かれその後、貞享年間(1684~)に神田多町一帯に青物商が相集い市場の形態が整った。
こうした発祥の頃から市場の守護神として崇敬されてきました。
現社殿は平成元年神田市場が大田区東海の地に移転するにあたり江戸神社奉賛会の人々により今上陛下御即位大礼の記念として、大神輿を御神座として再建鎮座された。
◎三天王祭・一の宮江戸神社の祭について
慶長18年(1613)より始まったと伝えられる神輿の神幸は6月7日の朝、明神の境内を発輿して南伝馬町2丁目に設けられた御仮屋に入り、氏子の町々を渡御して14日遷輿された。
その神幸の様は実に勇壮厳粛な行列であったと伝えられる。
現存する大神輿は、日本有数の華麗にして巨大な神輿で、通称「千貫神輿」として人々に親しまれ、神田祭に担がれる凡そ200基の神輿の象徴でもあります。

(説明板より)

江戸神社


史跡 | 17:59:14 | Comments(0)
水野年方顕彰碑
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千代田区指定有形文化財(歴史資料)
水野年方顕彰碑
平成13年4月1日指定

この顕彰碑(けんしょうひ)は、神田神社本殿の北側、裏参道の脇(わき)にあり、六角形の燈籠をかたどった小塔です。
高さが3メートル78センチメートル余(あまり)、正六角柱断面の六角形の一辺は40.7センチメートルです。
この碑は、浮世絵系の日本画家である水野年方(みずのとしかた)(慶応2年・1866~明治41年・1908)を顕彰するために、大正12年(1923)5月に門人らが建設したものです。
水野年方は、左官棟梁(とうりょう)の子として、江戸神田山本町に生まれています(一説に、神田紺屋町ともいわれています)。
明治28年(1895)ころまで、つまり彼の画業の前半期を神田東紺屋町で過ごしており、千代田区にとって関わりの深い画家のひとりです。
水野年方は、14歳で歌川派の月岡芳年(つきおかよしとし)の門に入ります。
更に芝田芳洲(ほうしゅう)・三島蕉窓(しょうそう)・渡辺省亭(しょうてい)らの画風も学んでいます。
年方が実際に活躍したのは明治時代で、人物画のほか草木風景の描法にも独自の様式を樹立したといわれ、明治中後期には戦争画も描いています。
さらに、「やまと新聞」を始めとする新聞や雑誌の挿絵(さしえ)も手がけており、新聞挿絵は年方によって一段と進展を遂(と)げたといわれています。
年方の門弟としては鏑木清方(かぶらききよかた)・池田輝方(てるかた)・池田(榊原・さかきばら)蕉園(しょうえん)・荒井寛方(ひろかた)らが、また鏑木清方の門弟としては伊東深水・山川秀峰(しゅうほう)がいるなど、水野年方一門からは近代日本画を代表する画家たちが多数輩出(はいしゅつ)されています。
この顕彰碑は、水野年方とその一門が、神田周辺に深く関わりをもっていたことを示すものであり、千代田区内における絵画の歴史を考えるうえで重要なものといえます。

平成14年3月
千代田区教育委員会

(説明板より)




浮世絵師
水野年方 顕彰碑

水野年方 慶応2年~明治41年(1866~1908)43歳没。
神田神社の氏子内神田紺屋町の左官職の家に生れ、水野家の養子となる。
通称粂次郎。
応斎・蕉雪と号す。
幼時より画を好み、芳年の門人となり浮世絵を学ぶかたわら、山田柳塘(陶磁絵)・柴田芳洲・三島蕉窓・渡辺省亭などについて南画を学んだ。
美人画や歴史風俗画を得意とした。
また明治20年頃から始めた「やまと新聞」の挿絵も好評を博した。
明治31年には岡倉天心の「日本美術院」創立に際し招かれている。
錦絵の代表作は「三十六佳選」「今様美人」シリーズなどがある。
門人の育成にも優れ、鏑木清方・大野静方・池田輝方・榊原蕉園などの優れた門弟を輩出した。

碑文(正面)
水野年方君は本姓野中氏通称粂次郎 慶応2年1月江戸神田に生る
月岡芳年に学び後諸派を研究し 率先浮世絵の向上に努力せり 屢展覧会審査員に選ばれ 其画筆致精緻気品最も高し 忠信参館図は忝くも御府に入れり 明治41年4月7日病没も年僅に43平生情義に厚く門下秀才に富む 茲に胥謀りて塔を建て永く其徳を紀す
嗚呼君芸に游びて華を摭ひ根を培い筆精に韻高し 稟命永からざりしかど 芬芳は窮りなからむ
大正12年4月
同庚の友 關巖二郎撰并書

碑文(裏面)
発起人
(~省略~)

(説明板より)

水野年方顕彰碑

史跡 | 16:34:02 | Comments(0)
籠祖講関係石造物群
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籠祖講関係石造物群 9点

籠祖神社は、寛政7年(1796)5月に鎮座したという社伝もち、塩土翁神と猿田彦大神を祭神とする神社です。
現在もこの両神を職神として信仰する籠祖講の人々により、信仰されています。
かつての亀井町(現在の千代田区岩本町1丁目と中央区小伝馬町にまたがる地域)には、神田の青物市場や日本橋の魚市場などで用いられる籠や笊などを作製する籠職人・葛籠職人たちが多く居住しており、彼らによって籠祖講は結成されました。
境内には、嘉永3年(1850)から昭和36年(1961)に作製された9点の石造物(鳥居・水盤・記念碑・狛犬・常夜燈・玉垣・石標)があります。
これらの石造物から、私たちは講の活動について知ることができます。
鳥居及び記念碑からは、嘉永3年(1850)10月に亀井町の人々により奉納された鳥居が、昭和13年(1938)9月1日の大暴風雨で倒壊し部材が破損したため、講員一同が協力して笠木及び島木を新調して再建したことが判ります。
また、戦時下の空襲で本殿と玉垣が被災したため、昭和27年(1951)11月に再建されましたが、その際に関わった講の人々の名を玉垣から読み取ることができます。
一方、狛犬には、昭和34年(1961)11月の銘があり、再建から10年という節目の年の記念として講が奉納したということがうかがえます。
区内には、かつて商工業や信仰にちなむ講が数多く存在しましたが、現在ではその活動を知ることはほとんどできません。
籠祖講は現在も引き続き活動を続けており、毎年11月には例大祭を執行しています。
これらの石造物は、江戸時代から現在に続く商職人の講活動を物語る、区内でも希少な文化財です。

平成17年12月
千代田区教育委員会

(説明板より)

籠祖講関係石造物群


史跡 | 15:48:04 | Comments(0)
国学発祥の地
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国学発祥の地
今東光 撰文
荷田東丸は京都伏見稲荷社家に生る
通称羽倉斎本名信盛なり
元禄13年3代将軍家光50年祭に勅使として大炊御門前右大臣経光公中仙道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で享保7年まで在府せり
その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり
その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真渕もこの邸を借用せり
当時神主は芝崎宮内少輔好高
その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の3代約百年に亘れり
然も好全妻女は東丸の女直子なり
されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽瘁し学園の場を供して国学振興に寄与せり
師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき
殊に元禄15年門弟の宗徧流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る
この東丸出でて吾が国学は賀茂真渕 本居宣長と伝統して今日に至る
今その遺跡に記して以て後学の為に伝ふ

(碑文より)

国学発祥の地


史跡 | 15:14:57 | Comments(0)
鉄製天水桶
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千代田区指定有形民俗文化財
指定平成11年4月
鉄製天水桶(てつせいてんすいおけ)

神田神社本殿前にある鉄製の天水桶は、その碑文から、神田あるいは新川(しんかわ)辺りの江戸の酒屋が世話人となり、「摂州灘大石(せっしゅうなだおおいし)」と「筋違外(すじかいそと)」の酒屋により、弘化4年(1847)に奉納されたことがわかります。
また他に、「下(くだ)り、地廻(じまわり)酒屋中」との碑文もあり、ここから株仲間(かぶなかま)との関わりが強く想起されます。
諸問屋の株仲間は、享保時代(1716~36)から特権化しはじめた商人が、田沼(たぬま)時代以降幕府に公認されてきたものです。
この株仲間は、物価騰貴(ぶっかとうき)の一因として見做(みな)され、天保12年(1841)に解散が命じられました。
しかしこの解散が、経済の一層の混乱をきたしたと判断され、株仲間は僅(わず)か10年後の嘉永4年(1851)新たな商人層を加えて再興されました。
なお株仲間再興以後の本組の問屋名などを記載した「諸問屋名前帳(しょどんやなまえちょう)」には、碑文にある世話人や願主などの名前を見出すことができます。
天水桶の奉納は株仲間の解散期間中のため、その碑文は「下り・地廻酒屋中」とされています。
しかし、仮にもし株仲間が組織されている期間であれば、前述した通り奉納に係わる商家は再興後の株仲間として組織されていることからみても、恐らくは「問屋中」などと表現されたことでしょう。
他の碑文の内、江山関根為宝(こうざんせきねいほう)は、幕末の書家(しょか)であり、天保12年前後の著作が幾(いく)つか残されています。
書道ばかりではなく歌をも詠(よ)み、音韻(おんいん)の学にも通じていたとされています。
また2人の鋳物師(いもじ)の名前が見られますが、おそらくは神田の堀口武兵衛が仕事を請負って、川口の永瀬源七に鋳造(ちゅうぞう)させたものと思われます。
神田神社の「鉄製天水桶」は、江戸時代の信仰の一端、特に神田神社と周辺の人々との関わりを考える上で、欠くことのできない貴重な資料です。

平成11年9月
千代田区教育委員会

(説明板より)

鉄製天水桶



史跡 | 14:20:18 | Comments(0)
神田明神
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江戸総鎮守・神田明神
神田神社御由緒

御祭神
一の宮 大己貴命 おおなむちのみこと (だいこく様)
二の宮 少彦名命 すくなひこなのみこと (えびす様)
三の宮 平将門命 たいらのまさかどのみこと (まさかど様)

正式名称・神田神社。
東京都心108町会総氏神様で、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内、そして東京の食を支える市場の発祥地の氏神様として、青果市場・魚市場の人々からもあつく崇敬されております。
縁結び、商売繁盛、社運隆昌、除災厄除、病気平癒など数多くのご神徳をお持ちの神々です。
当社は、天平2年(730)のご創建で、江戸東京の中で最も歴史ある神社のひとつです。
はじめは現在の千代田区大手町・将門塚周辺に鎮座していましたが徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城が拡張された時、江戸城から表鬼門にあたる現在の地へ遷座いたしました。
それ以降、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として幕府から江戸庶民にいたるまで多くの人々の崇敬を受けました。
さらに、明治に入り、准勅祭社・東京府社に列格し皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しくご参拝になられました。
境内には、日本初の本格的な鉄骨鉄筋コンクリート・総漆朱塗造の御社殿(国指定登録文化財)や、総檜造の随神門、神札授与所・参拝者待合室・休憩所を兼ねた鳳凰殿、明神会館・資料館・石造日本一の大きさを誇る大黒様尊像・えびす様尊像・江戸国学発祥の地碑・銭形平次の碑などがございます。
縁結びのご神徳から神前結婚式も多く行なわれております。
当社の祭札・神田祭は2年に一度執り行われ、江戸時代には江戸城内に入り徳川将軍が上覧したため、御用祭とも天下祭とも呼ばれました。
また日本三大祭、江戸三大祭のひとつにも数えられております。
現在は鳳輦・神輿をはじめとする江戸時代さながらの祭礼行列が、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内の広大な氏子108町会を巡行する「神幸祭」と、氏子の町神輿約200基が町を練り歩き、神社へ迫力ある宮入をする「神輿宮入」を中心に賑やかに行われております。

平成19年春
神田神社社務所

(説明板より)

神田明神




史跡 | 13:14:50 | Comments(0)
滝沢馬琴住居跡
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滝沢馬琴住居跡

『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』・『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などを著した滝沢馬琴は、江戸時代の戯作者(げさくしゃ)として有名です。
彼は千代田区内に二ヶ所の足跡を残しています。
旗本松平信成の家臣の子として生まれた馬琴は、元飯田町中坂下(千代田区九段北1丁目5)の下駄屋会田家の養子となり、戯作者としての道を歩み始めます。
文政元年(1818)になると、息子宗伯が母と妹を連れて、当時、神田明神石坂下の同朋町東神道(どうほうちょうひがしじんみち)と呼ばれていたこの地に転居してきます。
ここは、西丸書院番士を勤めていた旗本橋本喜八郎の所有する50坪の土地で、16坪の家屋が建っており、そこで暮らしました。
のち、文政7年(1824)には、飯田町の下駄屋を婿養子に継がせ、馬琴もここに引っ越してきます。
隣家を買収し、80坪の敷地として、書斎や庭園を設けています。
外神田に住んだ時期の作品としては、大内・陶(すえ)・毛利の物語をまとめた『近世説美少年録(きんせいせつびしょうねんろく)』や、楠・新田氏による南朝再興の物語をまとめた『開巻驚奇侠客伝(かいかんきょうききょうきゃくでん)』などがあります。
馬琴は、天保7年(1836)70歳の時四谷信濃坂に転居するまでの12年間を、ここで暮らしました。

平成17年3月
千代田区教育委員会

(説明板より)

滝沢馬琴住居跡


史跡 | 12:52:46 | Comments(0)
上京する。
明日は文藝春秋社主催の講演会に行き、その足で大阪に向かい『戦車第二師団の会』の慰霊祭に参加する。
ということで・・・いつものように前泊!(笑)
なにせ当日の朝に寝坊せずに起きられるか自信がない。(笑)
寝坊したら・・・・全てはパー!
ならば・・・多少はお金がかかっても都内に前泊したほうが間違いない。
多少寝坊しても何とかなる。
朝、ちゃんと起きられれば、こういう無駄なお金は使わなくてもすむのだが・・・(笑)
まぁ、気分転換も兼ねて・・・ということで・・・
これも一つの楽しみでもある。

昨日から引き続き、旅行の準備でバタバタし・・・・
家を出たのは午後。
東京に着いて・・・いつもの大好きな史跡巡りをする。

まずは・・・・
地下鉄銀座線の末広町駅で降りて“ぶらり旅”。
滝沢馬琴住居跡の公園に立ち寄り、続いて神田明神に行く。
神田明神は有名な場所のようで、名前は聞いたことはあるが行ったことはない。

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ここには平将門が御祭神の一人として祭られているというが・・・・
それらしき碑や銅像などは見当たらない。
ちょっと残念・・・
その代わり「江戸国学発祥の地」の碑などを見つける。
それにしても・・・この神社・・・・
江戸総鎮守の神社らしいのだが、縁結びの神徳があるという。
なんでだろう?(笑)
江戸の鎮守と縁結びって、どういう関係があるんだろう?
この歳で今更、縁結びでもあるまい。
10円ぐらいのお賽銭でお願いが叶うはずもない。(笑)
拙者が神様だったら、そんなはした金でお願いなんか聞くもんか。
今回、訪問したご挨拶のみとする。
拙者はいつもなのだが、神社でお願いをしたことがない。
「旅の途中で立ち寄りましたのでご挨拶します」といった挨拶しかしたことがない。
「おお~そうかぁ~わざわざ立ち寄ってくれてありがとう。折角来てくれたのだから何かお前のためにいいことをしてやろう」なんてことになれば・・・・ありがたい・・・と思っている。(笑)

続いて近くにある湯島聖堂に行く。
これが実にお恥ずかしい話なのだが・・・
拙者は今まで、湯島天神と湯島聖堂の区別がついていなかったのである。(笑)
どっちがどっちだったか・・・・

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湯島聖堂は想像以上にパッとしない場所。
こんなに面白くない場所だったのか・・・・唖然・・・
「大成殿」は土日祝日のみ公開とのこと。
う~ん・・・・見るもの何も無し。
収穫は孔子の銅像のみ。

その後、JR御茶ノ水駅まで足を伸ばし、順天堂病院周辺を歩く。
10年以上も前にこの病院に検査のために来たはずなのだが・・・・
さて・・・建物を見ても当時の自分の行動が思い出せない。
どこから入ってどこへ向かったのか・・・
相変わらず記憶力が悪い。

上野駅近くのホテルに向かいチェックインして史跡巡りは終了!
今日の歩数は約15,200歩。約8.3km歩く。

日記 | 11:55:32 | Comments(0)