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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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追分尋常小学校跡
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追分尋常(おいわけじんじょう)小学校跡
向丘1-2-15

明治36年(1903)2月、この地(旧駒込追分町45)に「東京市追分尋常小学校」が設立された。
翌37年1月、校舎落成とともに誠之、駒本小学校の児童108名を受け入れ授業を開始した。
その後学級数も12学級に増加し、明治38年(1905)には高等科(年限2~3年)を併置(へいち)する。(41年4月に分離)
昭和8年(1933)9月、「追分尋常小学校」と「本郷高等小学校」二校併置の、当時としては最新の建築様式による鉄筋3階建て校舎が落成する。
昭和16年4月、「東京市追分国民学校」となる。
昭和19年集団疎開(そかい)。
昭和20年(1945)3月、「東京第二師範(しはん)学校附属国民学校」に移行、昭和27年「東京学芸大学附属追分小学校」と改称される。
昭和36年(1961)、「同附属竹早小学校」に合併、閉校。
その後校舎は「文京第六中学校」となり、今日にいたる。

―郷土愛をはぐくむ文化財―
東京都文京区教育委員会
平成元年11月

(説明板より)

追分尋常小学校跡


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史跡 | 23:43:10 | Trackback(0) | Comments(0)
夏目漱石旧居跡
DSC08830.jpg


夏目漱石旧居跡
夏目漱石は明治卅六年一月英國から帰り、三月三日ここ千駄木町五十七番地に居を構へた。
前半二箇年は一高と東大の授業に没頭したが、卅八年一月「吾輩は猫である」「倫敦塔」等を發表して忽ち天下の注目を浴び、更に「猫」の續稿と竝行、卅九年初から「坊ちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して作家漱石の名を不動にした歳末廾七日西片町に移り、翌四十年四月朝日新聞に入社し、以後創作に専念した。
千駄木町は漱石文學發祥の地である。
森鴎外も前に(自明廾三年十月 至同廾五年一月)その家に住んでゐた。
家は近年保存のため移築され、現在犬山市明治村にある。

昭和四十六年三月三日

(碑文より)




夏目漱石旧居跡(区指定史跡)
日本医科大学同窓会館 文京区向丘2-20-7

夏目漱石 本名・金之助。
慶応3年~大正5年(1867~1916)。
この地に、漱石がイギリス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10ヵ月住んだ家があった。(家主は東大同期の斉藤阿具氏)
当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の筆をとった。
その作品『吾輩は猫である』の舞台として、“猫の家”と呼ばれ親しまれた。
この地で、『倫敦塔(ろんどんとう)』『坊ちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわした。
漱石文学発祥(はっしょう)の地(ち)である。
漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。
鴎外は、ここから団子坂上の観潮楼(かんちょうろう)へ移っていった。
二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。
旧居は、愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。

―郷土愛をはぐくむ文化財―
文京区教育委員会
平成7年3月

(説明板より)

夏目漱石旧居跡


史跡 | 23:30:08 | Trackback(0) | Comments(0)
森鴎外の観潮楼跡
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森鴎外の観潮楼(かんちょうろう)跡
都指定文化財(旧跡)
(文京区立鴎外記念本郷図書館敷地)

森鴎外(林太郎・りんたろう・1862~1922)は、通称“猫の家”(現向丘2-20-7・鴎外が住み後夏目漱石も住んだ)から明治25年(1892)ここに移った。
2階書斎(しょさい)を増築し、東京湾の海が眺められたので観潮楼と名づけた。
鴎外は、大正11年(1922)60歳で没(ぼっ)するまで、30年間ここに住んだ。(家は昭和12年借主の失火と戦災により焼失)
観潮楼の表門は、藪下(やぶした)通りに面したこの場所にあり、門の礎石(そせき)や敷石(しきいし)は当時のままである。
庭には戦火で焼けた銀杏(いちょう)の老樹が生きかえっている。
三人冗語(さんにんじょうご)の石はそのままであるが、鴎外の愛した沙羅(さら)の木は、後に植えかえられた。
鴎外は、『舞姫』、『青年』、『雁』、や『阿部一族』などの小説、史伝、評論などを書き、ここは文学活動の中心舞台であった。
また、詩歌振興のため観潮楼歌会を開き、若い詩人、歌人に大きな影響を残した。
文京区は、この文学上由緒(ゆいしょ)ある地に、昭和37年9月、鴎外記念室を併設した特色ある文京区立鴎外記念本郷図書館を開設した。

―郷土愛をはぐくむ文化財―
文京区教育委員会
昭和57年3月

(説明板より)

森鴎外の観潮楼跡



史跡 | 23:20:37 | Trackback(0) | Comments(0)
藪下通り
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藪下通り(やぶしたどおり)
本郷台地の上を通る中山道(なかせんどう)(国道17号線)と下の根津谷(ねづだに)の道(不忍通り・しのばずどおり)の中間、つまり本郷台地の中腹に、根津神社裏門から駒込(こまごめ)方面へ通ずる古くから自然に出来た脇道(わきみち)である。
「藪下道(やぶしたみち)」ともよばれて親しまれている。
むかしは道幅もせまく、両側は笹薮(ささやぶ)で雪の日には、その重みでたれさがった笹に道をふさがれて歩けなかったという。
この道は森鴎外の散歩道で、小説の中にも登場してくる。
また、多くの文人(ぶんじん)がこの道を通って鴎外の観潮楼(かんちょうろう)を訪れた。
現在でも、ごく自然に開かれた道のおもかげを残している。
団子坂(だんござか)上から上富士(かみふじ)への区間は、「本郷保健所通り」の呼び方が通り名となっている。

―郷土愛をはぐくむ文化財―
文京区教育委員会
平成7年3月

(説明板より)

藪下通り


史跡 | 23:10:46 | Trackback(0) | Comments(0)
徳川家宣胞衣塚
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徳川家宣胞衣塚(とくがわいえのぶえなづか)
根津神社境内
文京区指定文化財

6代将軍家宣(いえのぶ)の胞衣(えな)を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。
この根津神社の境内(けいだい)は、もと5代将軍綱吉(つなよし)の兄綱重(つなしげ)(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文2年(1662)4月5日ここで生まれた。
胞衣(えな)とは、胎児(たいじ)(母体の中の子)を包んだ膜(まく)と胎盤(たいばん)をいう。
われわれの祖先は、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承(でんしょう)にある。
例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。
関東では、家の床下や入り口の敷居(しきい)の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。
一方上流の階層では、胞衣塚(えなづか)を築くことが早くから行われた。
愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。
この胞衣は誕生(たんじょう)の敷地(しきち)内に納められた。
徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴(そぼく)であるなど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。
本殿横には、明治14年に建てられた「胞衣塚碑」がある。
また、家宣の産湯(うぶゆ)の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。
家宣が綱吉将軍の後継(あとつ)ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土(うぶすな)神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。

―郷土愛をはぐくむ文化財―
文京区教育委員会
昭和58年3月

(説明板より)

徳川家宣胞衣塚


史跡 | 23:07:50 | Trackback(0) | Comments(0)
根津神社
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根津神社(ねづじんじゃ)
国指定建造物
文京区根津1-28-9

日本武尊(やまとたけるのみこと)が千駄木の地に創建したと伝えられている。
現在地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重の山手屋敷跡であり、のちに6代将軍となる徳川家宣(いえのぶ)の誕生の地であった。
5代将軍・徳川綱吉は家宣の産土神(うぶすながみ)として宝永3年(1706)に千駄木にあった社(やしろ)をこの地に移して、社領500石を附し、権現造(ごんげんづくり)の社殿を造営した。
社殿は拝殿・本殿と両者を接続する幣殿(へいでん)(相の間)からなり、しかも一つの屋根でまとめ、権現造の完成された姿をみせている。
拝殿前に唐門(からもん)を配し、その左右から透塀(すかしべい)で社殿を囲んでいる。
唐門前方の楼門(ろうもん)を含め、権現造神社建築様式の旧規を示すものとしてすべて国指定重要文化財である。
祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)、、菅原道真(みちざね)公である。
境内には「家宣の胞衣塚(えなづか)」(区指定民俗文化財)、「塞(さえ)の大神碑」などがある。

―郷土愛をはぐくむ文化財―
文京区教育委員会
平成10年3月

(説明板より)

根津神社


史跡 | 22:46:10 | Trackback(0) | Comments(0)
地震研究所記念碑
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大正14年11月14日地震研究所設立の官制が施行され、安田講堂裏に建物がつくられることとなった。
昭和2年3月に着工し、翌3年3月に竣工した。
建物は地下2階付きの鉄骨鉄筋コンクリート構造二階建てで、建築学科教授内田祥三先生が設計されたものであった。
大地震が襲来しても建物内で観測や研究が出来るようにと、当時の標準設計震度の2倍の計算で設計された。
正面玄関の壁面には日月の凹みの模様があり、また、玄関に近い西壁面には地震計を型どった石飾りがあった。
これらはやはり建築学科の岸田日出刀先生の手になったものである。
地震研究所が昭和38年から45年にかけて現在の場所に順次移転した後、安田講堂裏の建物は他部局が使用していたが、理学部の増築計画により昭和56年11月取り壊されることとなった。
地震研究所発足から40有余年、黎明期における地震学研究の輝かしい業績を生み出した旧地震研究所の建物を永く記念すべく、岸田先生の手になる石飾りの地震計と日月切り取り組合せてここに建立する。

昭和58年11月
地震研究所

(銘板より)

地震研究所記念碑


史跡 | 22:21:36 | Trackback(0) | Comments(0)
西教寺表門
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西教寺表門(さいきょうじおもてもん)
区指定有形文化財(建造物)

徳川家の重臣、酒井雅楽頭(うたのかみ)(井伊家と並ぶ大老の家柄)の屋敷から明治7年(1874)移築された。
複雑な寸法体系を持ち、近世初頭の標準からはずれる独自の特色を多く持ち、構成に独特な品格をもたらしている。
大正12年の関東大震災に被害を受け、重量軽減のため瓦葺から銅板棒葺に改めるなど、一部修理が行われた。

西教寺 文京区向丘2ノ1ノ10
―郷土愛をはぐくむ文化財―
文京区教育委員会
昭和56年1月

(説明板より)

西教寺表門

史跡 | 22:08:09 | Trackback(0) | Comments(0)
向陵碑
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向陵碑
我が第一高等学校は、初め東京英語学校と称し、神田一ツ橋に在り、明治8年に創立せらる。
10年、大学予備門と称し、19年、第一高等中学校と称し、22年、本郷向陵に遷る。
23年、今の名に改めて、法学博士木下廣次先生校長に任ぜらる。
此の時に当たり、欧米の奇靡の風、上下に弥浸し、殆(ほとん)ど将(まさ)に国の礎を危うくせんとす。
先生これを憂へ四大綱領を掲げ、自治寮の規制を制定し、以て天下に倡道す。
是(ここ)に於いて、全校学生、頓(とみ)に面目を改め、奪励踴躍し、人人国士を以て自ら任じ、向陵健児の名は四海を聳動せり。
爾来46年、時として汚隆(をりゅう)無くんばあらずと雖(いえど)も、向陵精神は一貫して令を更(あらため)ざるなり。
浮説世を惑はし、人心動揺し、其の禍は将に往日の如くならんとし、我が輩国士の遺風に迫らんとする者、豈寒心恐懼せざるべけんや。
数年前、当局に我が高校と駒場農科大学と、其の地を相ひ易(か)へんとするの議有りて、已(すで)に緒に就く。
今茲に8月、我が輩将に向陵と永訣せんとす。
嗟夫(ああ)向陵よ、汝の精神は長(とこし)へに我が高校とともに相ひ終へん。
始め固(もと)より地の東西を以て其の節を変ぜず。
然れども我が高校と汝とは、相ひ親しむこと40余年、其の去るに臨みて決然たるに忍びず。
一片の貞石を留め、以て遺蹟を表せんとし、乃(すなわ)ちこれに繋(か)くるに辞を以てす。
曰(い)わく我が石は志を磨くべく、奪ふべからず。
彼(か)の嶢(げう)たる者は丘(きう)、曷(なん)ぞ其れ蹶(たふ)るること有らんや。

昭和10年2月1日
第一高等学校寄宿寮
前第一高等学校教授 安井小太郎 撰
前第一高等学校教授 菅乕雄 書

(説明板より)

向陵碑


史跡 | 21:57:07 | Trackback(0) | Comments(0)
清正井
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清正井
この地に下屋敷を構えて居た加藤清正が掘ったと伝えられ、1年中絶ゆることなく湧き出る清水は南池の水源となり掘り方の巧妙と水質の優秀なことは早くから世に知られています。

(説明板より)

清正井


史跡 | 21:47:04 | Trackback(0) | Comments(0)
隔雲亭
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隔雲亭
元の隔雲亭は明治33年明治天皇の御思召により皇后様のために建てられましたが、戦災により焼失したので、昭和33年篤志の寄附と社殿御造営残材とにより一部増築して再建したものであります。

(説明板より)

隔雲亭


史跡 | 21:05:51 | Trackback(0) | Comments(0)
大鳥居
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大鳥居
我が国で最も大きい木造の『明神(みょうじん)鳥居』。
昭和50年12月23日建替竣功、篤志家により奉献。
形式寸法共に大正9年創建の鳥居に同じ。
原木は台湾丹大(たんだい)山の樹齢1,500年に及ぶ扁柏(ひのき)。

高さ 12メートル
柱と柱の間 9.1メートル
島木の長さ 15.5メートル
柱の径 1.2メートル
笠木の長さ 17メートル

(説明板より)

大鳥居



史跡 | 20:51:05 | Trackback(0) | Comments(0)
神宮橋
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神宮橋
神宮橋は大正9年、明治神宮造営時に山手線を跨いで架けられ、当時としては珍しく、鉄骨を使用したコンクリートの橋桁であった。
橋の装飾は最も苦心したところで、御影石の高欄部分には黒松を吹寄植して橋を渡る人々に下を走る列車を気付かせないよう配慮すると共に橋詰には石燈籠を現代化した親柱を建てた。
多くの人々に親しまれてきたこの橋も、寄る年波には勝てず、六十有余年間その使命を十分に果たし、新しい橋に架け替えられた。
新しい橋は古い橋の姿をできるだけ損なわないように高欄に御影石を使って再現し、親柱は当時の石材を補修しそのままの形に復元した。
そして歩道部分の舗装には御影石を組み合わせてその中に渋谷区の木「けやき」をデザインして配置し、新しい原宿の町にふさわしく明るい感じとしたものである。

昭和57年9月
東京都

(碑文より)

神宮橋


史跡 | 19:34:41 | Trackback(0) | Comments(0)
代々木公園沿革の碑
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沿革
この附近は、武蔵野特有の台地で、昔は雑木林の散在する景色のよい所であったといわれ、近世になり、幕府や諸社寺の領地となりました。
明治時代の末には、代々木練兵場となり、演習などがおこなわれていましたが、昭和20年米軍の宿舎用地として接収され、ワシントンハイツと呼ばれました。
第18回オリンピック東京大会開催のとき、日本に返還され選手村となり、終了後は森林公園として整備されました。

明治42年(1909) 代々木練兵場設置
明治43年(1910) 日本で最初の試験飛行に成功
昭和20年(1945) 練兵場接収、ワシントンハイツ開設
昭和39年(1964) 第18回オリンピック東京大会選手村開設
昭和40年(1965) 代々木公園造成に着手
昭和46年(1971) 代々木公園完成

東京都

(碑文より)

代々木公園由来の碑


史跡 | 18:21:10 | Trackback(0) | Comments(0)
オリンピック記念宿舎
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オリンピック記念宿舎と見本園
1964年第18回オリンピック大会が東京で開催され、その時の選手村の跡が代々木公園になりました。
この建物は当時各国の選手が利用した宿舎のひとつで(オランダ選手宿舎)、東京オリンピックを記念して保存されています。
見本園(宿舎の左手奥)の樹木は、オリンピックの時に世界各国の選手が持ち寄った種から育てたもので、東京オリンピックを記念して育てられています。

(説明板より)

オリンピック記念宿舎


史跡 | 17:04:15 | Trackback(0) | Comments(0)
国土緑化運動記念碑
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大戦は国土の荒廃と森林緑地の喪失を招き、災害を続発し水源を枯渇せしめ生活の潤いを奪った。
有志はその惨状の一刻も放置できないことを見、相はかって国土緑化推進委員会を結成してここに二十年、幣原喜重郎氏以来歴代の衆議院議長を委員長に、故村上竜太郎氏を始めとする多数関係者は、国民の繁栄は緑とともにあるという理念のもとに、全国土の緑化を提唱して献身的努力を重ねてきた。
山に木を植え都市を緑で包むこの国民運動は、全国にわたって着々と成果をあげ、現に明治百年記念事業として国が明治の森国民の森の造成を進めているほか、郷土の森県民の森等が各地に育ちつつある。
いま東京都が代々木の地に森林公園を開設するのを機とし、その一角を得てこの碑を建てるのは、顧みて国土緑化運動の由来を記念し、その力強い発展をさらに将来に期するためである。

昭和43年11月
国土緑化推進委員会

(碑文より)

国土緑化運動記念碑


史跡 | 16:44:05 | Trackback(0) | Comments(0)
日本初飛行の地
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日本初飛行の地
1910年(明治43年)12月19日、当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。
これが日本航空史上、最初の飛行である。

日本航空発始之地記念碑
建立 朝日新聞社
設計 今井兼次
彫刻 泉二勝麿

徳川好敏之像
建立 航空同人会
彫刻 市橋敏雄

日野熊蔵之像
建立 航空五〇会
彫刻 小金丸義久

東京都
昭和49年12月

(説明板より)

碑文
紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起ヒリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ
今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也

昭和十五年十二月
朝日新聞社

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日本初飛行の地


史跡 | 15:55:55 | Trackback(0) | Comments(0)
2・26事件慰霊像
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昭和11年2月26日未明、東京衛戍の歩兵第1、第3連隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸陸軍省警視廳等を占據した。
斉藤内大臣高橋大蔵大臣渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官のうち5名が殉職した。
蹶起部隊に對する處置は4日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが2月29日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。
世に是れを2・26事件という。
昭和維新の企圖壊えて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下19名は軍法會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した此の地は其の刑務所跡の一隅であり、刑死した19名と是れに先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した處刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した20名と自決2名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく廣く有志の浄財を集め事件30年記念の日を期して慰霊像建立と發願し、今ここに其の竣工をみた
謹んで諸霊の冥福を祈る

昭和40年2月26日
佛心会代表 河野 司 識

(碑文より)

2・26事件慰霊像



史跡 | 14:07:35 | Trackback(0) | Comments(0)
時間つぶしの“ぶらり旅”
今日は“ウメちゃん”と上野駅で待ち合わせをするが、予定の時刻は午後3時頃。
それまで、どこかで時間つぶしをせねば・・・
“ぶらり旅”でもするかぁ~

3時までに戻って来れそうな距離で・・・
簡単に行ける場所・・・
地下鉄銀座線で渋谷に行ってみることにする。

まずは、渋谷税務署!(笑)
ここに、2・26事件の慰霊碑がある。
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この場所は、昭和11年に2・26事件の決起将校ら首謀者が処刑された陸軍刑務所跡。
いつだったか・・・10年以上も前に一度だけここに来たことがある。
その時には、慰霊像の横に当時の刑務所の煉瓦塀の一部が残っていたのだが・・・・
ない!(驚)
あれぇ~
像の後ろの道路沿いに煉瓦の塀があったと思うんだけどなぁ~
煉瓦塀が無くなっている!
記憶違いかぁ?
何たることぞ!(ショック!)
貴重な歴史の証拠が消滅している。
我が恩師は銃殺隊の一員として同期生を銃殺したという。
我が祖父は留守第1師団副官として、この処刑に関係していたという。
拙者にとっても思い入れのある場所・・・・でもある。

続いて、テクテク歩いて代々木公園に向かう。
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ここには、明治43年、この地で初飛行をした徳川好敏、日野熊蔵の銅像が建っている。
徳川は東京都出身、日野は熊本出身なのだが、碑文はどちらも茨城県選出の国会議員が書いている。
何でだろう?(笑)
隣に『日本航空発始の地』の碑があり、その後ろに隠れるように小さな『日本初飛行離陸の地』の碑が建っている。
昔の練兵場跡である代々木公園内を散策しながら明治神宮に行ってみる。
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ここに参拝するのは30年ぶりである。
高校3年生の時、大学入試模擬試験を受けるため同級生と上京した。
この時に同級生の“ハカマヅカ君”と一緒にお参りに来た記憶が微かに残っている。
彼は背が低くて童顔。
拙者は背が高くて老け顔。(笑)
拙者の後ろから「パパ~待ってよ~」と言いながら付いて歩いてきたので、周りから怪訝な眼で見られて恥ずかしい思いをした。(笑)
「ふざけんなよ~馬鹿野郎!」と怒ったことを憶えている。
あれからもう30年も経つのかぁ~
早いなぁ~
彼は今どこで何をしているのやら・・・・
多分彼は「パパ」になっているんだろうなぁ~(笑)

ちょうど、ここで“ウメちゃん”から携帯にメールが届いた。
「今、特急に乗ったぞ!」
それ急げ!
1時間半後には上野駅に到着してしまう。
急ぎ上野駅に向かい到着を待つ。

無事に合流して東京大学へタクシーで向かう。
“ウメちゃん”は、ここで会議に出席。
会場まで送り届けて拙者は・・・・・さて・・・どうしようか?(笑)
会議終了までの2時間以内に戻ってくるには・・・
う~ん、この近辺を散策してみるかぁ~

ぶらぶら歩いて根津神社へ・・・・
続いて文京区立鴎外記念本郷図書館へ行き、森鴎外の資料室を見学する。
帰りに夏目漱石旧居跡を探して立ち寄る。
ここにあった建物は愛知県の明治村に移築保存されている。
う~ん、そういえば、昔、“ウメちゃん”と明治村に行った時に見たなぁ~
へぇ~ここにあの建物が建っていたんだぁ~

そろそろ時間だ・・・戻らねば・・・
ところが、得意の方向音痴!(笑)
あれ?
東京大学って・・・どっちの方角だっけ?
まずい・・・
道に迷った・・・・(笑)
拙者の「ぶらり」は本当は「ぶらり」ではない。
実は迷子になってオロオロしながら、不思議と史跡めぐりをしてしまうという「ぶらり旅」なのである。(笑)
正確に言うと・・・「迷子でオロオロ散歩」ということになろうか?

ようやく東大の煉瓦塀が遠くに見えた!
よし!戻れるぞ!(笑)
“ウメちゃん”から携帯に電話。
「会議が終わったけど・・・どこにいるの?」
「今・・・東大の門のところまで戻ってきた!合流まであと・・・1分!」(笑)
ギリギリ、セーフ!である。(笑)

帰りに会議の内容のご報告をされるが・・・
なにせ、学術的、専門的なお話。
16名ほどの学者、研究者に混じって“ウメちゃん”が参加しての会議。
頭のいい人たちの集まりなんでしょうが・・・
「素人が聞いてもおかしな話だよなぁ~。その方法論はおかしいだろ?」
「そうだろ?やっぱり誰が聞いてもおかしいよな?」と“ウメちゃん”
ど素人の拙者が散々「お偉いさん」の学説や方法論を批判しながら帰途につく。(笑)
あ~面白かった。

日記 | 11:29:35 | Trackback(0) | Comments(0)