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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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御隠殿跡
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御隠殿跡(ごいんでんあと)
台東区根岸2丁目19番10号 薬師寺

輪王寺宮一品法親王(りんのうじのみやいっぽんほうしんのう)は、天台座主(てんだいざす)に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯したので「三山管領宮(さんざんかんりょうのみや)」とも呼ばれ、第三世から幕末の第十五世まで、親王あるいは天皇の猶子(ゆうし)(養子)を迎え継承されてきた。
当地は、この輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった所である。
御隠殿の創建年代は明らかではないが、幕府編纂の絵図『御府内沿革図書(ごふないえんかくずしょ)』には、宝暦3年(1753)7月に「百姓地四反一畝」を買い上げ、「御隠殿芝地」としたという記述があり、同年までには建造されていたようである。
敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことにここから眺める月は美しかったと言われている。
輪王寺宮は1年の内9ヶ月は上野に常在していたので、その時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用した。
また、谷中7丁目と上野桜木2丁目の境からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられたという。
慶応4年(1868)5月、御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在ではまったくその跡を留めていない。

平成12年3月
台東区教育委員会

御隠殿跡

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史跡 | 20:25:51 | Trackback(0) | Comments(0)
寛永寺本堂
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寛永寺本堂(かんえいじほんどう)
台東区上野桜木1丁目14番11号

旧本堂(根本中堂)は現在の国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。
そのため明治9年(1876)から12年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂(ほんじどう)が移築され、寛永寺の本堂となったのである。
寛永15年(1638)の建造といわれる。
間口・奥行ともに七間(17.4メートル)。
前面に三間の向拝(こうはい)と五段の木階、背面には一間の向拝がある。
周囲には勾欄付廻縁(こうらんつきまわりえん)をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。
桟唐戸(さんからど)(正面中央など)、蔀戸(しとみど)(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。
屋根は入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺、二重棰(にじゅうたるき)とし、細部の様式は和様を主とする。
内部は、内陣が土間で、外陣(げじん)と同じ高さの須弥壇(しゅみだん)が設けられている。
須弥壇の上の本尊その他の仏像を安置する。
内陣を土間とする構造は中堂造(ちゅうどうづくり)と呼ばれ、天台宗独特のものである。
現在は仮の板が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。

平成16年3月
台東区教育委員会

寛永寺本堂



史跡 | 19:11:39 | Trackback(0) | Comments(0)
銅鐘
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銅鐘(どうしょう)
(台東区有形文化財)
台東区上野桜木1丁目14番11号 寛永寺境内

本鐘の大きさは、総高177.2センチ、口径91.8センチ。
厳有院殿(4代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝9年(1681)5月8日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。
明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。
現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。
作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(17世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。
延宝元年(1673)から貞享3年(1686)にかけて、銅鐘を中心に17例の作例が知られている。
その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。
本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。
平成18年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。

平成19年3月
台東区教育委員会

銅鐘


史跡 | 18:51:37 | Trackback(0) | Comments(0)
虫塚
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虫塚(都指定旧跡)
台東区上野桜木1丁目14番11号 寛永寺境内

虫塚は、伊勢(現、三重県)長島藩主である増山雪斎(ますやませっさい)の遺志により、写生に使った虫類の霊をなぐさめるため、文政4年(1821)に建てられたものである。
増山雪斎は、宝暦4年(1754)の生まれ。
本名は正賢といい、雪斎はその号であるが、玉園・蕉亭・石顛道人・巣丘隠人など多くの別号がある。
江戸の文人大田南畝(おおたなんぽ)や大坂のの豪商木村兼葭堂(きむらけんかどう)など、広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者としても活躍した。
自ら文雅風流を愛し、清朝の画家、沈南蘋(しんなんぴん)に代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。
中でも虫類写生図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』は、その精緻さと本草学にのっとった正確さにおいて、殊に有名である。
文政2年、66歳で没した。
虫塚は、当初、増山家の菩提寺、寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に寛永寺に合併されたため、現在の場所に移転した。
勧善院は、4代将軍徳川家綱の生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。
碑は自然石で、正面は、葛西因是(かさいいんぜ)の撰文を大窪詩仏(おおくぼしぶつ)が書し、裏面は、詩仏と菊池五山(きくちござん)の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設に関わったことが知られる。

平成8年7月
台東区教育委員会

虫塚


史跡 | 18:18:30 | Trackback(0) | Comments(0)
徳川家綱霊廟勅額門
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徳川家綱霊廟勅額門(とくがわいえつなれいびょうちょくがくもん)
(重要文化財)
台東区上野桜木1丁目16番

4代将軍家綱は、慶安4年(1651)4月に父・家光の死に伴って、わずか10才で将軍の座につき、延宝8年(1680)5月8日に39才で没した。
法名を厳有院(げんゆういん)という。
病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。
時代は家綱の襲職直後に起こった由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。
家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎(すいばんしゃ)(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災いを免れた貴重な遺構である。
勅額門の形式は、四脚門(しきゃくもん)、切妻造(きりづまづくり)、前後軒唐破風付(ぜんごのきからはふつき)、銅瓦葺(どうかわらぶき)。
なお、このうち水盤舎は延宝8年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和32年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。

平成6年3月
台東区教育委員会

徳川家綱霊廟勅額門


史跡 | 17:55:05 | Trackback(0) | Comments(0)
お墓巡り
さて、今日は真っ直ぐ家に戻るのももったいない。
少し、“ぶらり旅”をしてから帰宅することにする。

浅草方面に向かって歩いてみる。
まずは・・・
葛飾北斎のお墓のある誓教寺。
敷地内に入ったら銅像を発見!
写真を撮っていたら住職に声をかけられ、ご住職にご案内いただき、お墓の前でご説明などを頂く。
続いて・・・北上し・・・・源空寺。
10年ぐらい前だろうか・・・・このお寺の前を歩いたことがあるのだが・・・
その時の記憶とは全く景色が違っているので驚いた。
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(源空寺)
あれ?こんなお寺だったっけ?
ここには江戸時代中期の暦学者・高橋至時(よしとき)のお墓、伊能忠敬のお墓、江戸初期の任侠・幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)のお墓、江戸後期の文人画家・谷文晁(たにぶんちょう)のお墓がある。
道を挟んだ隣の敷地に墓地があり、そこにお墓があるらしいのだが・・・
谷文晁のお墓だけはどうしても見つけることが出来なかった。

今度は東のほうに向かい・・・・
とにかく適当にぶらぶら歩いているうち辿り着いたのが宗恩寺。
ここに明治時代の僧侶・織田得能(とくのう)のお墓がある。
織田得能は我が国初の仏教辞典を著した人だということが寺前の史跡説明板に書いてあった。
更に歩くと・・・
正定寺。
ここには直心影流島田派の剣客・島田虎之助のお墓、江戸から明治にかけての画家・伊豆長八のお墓があった。

それにしても・・・・
いつの間にか、お墓めぐりをしている・・・・・
こうなったら、今日は「お墓巡り」に徹するか?
続いて・・・海禅寺。
ここに安政の大獄で投獄された梅田雲浜の墓があった。
今度は北西に向かい・・・・
台東区生涯学習センターに行く。
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(台東区生涯学習センター)
ここには『池波正太郎記念文庫』があるので、見学してみたが・・・
図書館の隅の一角に、ちょっとした展示物がある程度。
がっかり・・・・
ここからドンドン歩き、上野駅の隣駅・鶯谷(うぐいすだに)駅前を通過して寛永寺へ。
途中で、重要文化財の徳川家綱霊廟勅額門、徳川綱吉霊廟勅額門を見る。
寛永寺は徳川2代将軍秀忠が天台宗の僧・天海に寄進したことから始まるという。
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(寛永寺)
境内には、尾形乾山(おがたけんざん)墓碑、慈海僧正墓などがある。

寛永寺を抜けて更に歩き・・・・
谷中霊園の中に突入!
ここまでどのくらい歩いただろうか・・・・・
万歩計を忘れてきたのが残念。(笑)

とにかく広い霊園・・・・
適当に歩いてみる。
明治大学創立者・岸本辰夫先生の墓碑。
徳川慶喜のお墓。
幕末期の公卿・大原重徳(しげとみ)のお墓。
江戸幕府の幕臣で小笠原島の開発をした小花作好(おばなさくすけ)のお墓。
江戸中期の歴史人物画家・菊池容斎(きくちようさい)のお墓。

横山大観のお墓。
鳩山一郎のお墓。
伊達宗城のお墓。
渋沢栄一のお墓。
この4つのお墓には史跡としての説明板はない。

このまま墓地の中をウロウロしていてもキリがないので、今日はここまで。
上野駅へ行き、特急に乗って帰宅。

夜は“ウメちゃん”の会社に行き、今までご無沙汰だった彼の会社のホームページの更新をする。

日記 | 13:33:40 | Trackback(0) | Comments(0)