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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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佐藤惣之助の碑
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佐藤惣之助の碑

わが国の近・現代文学に多大な功績をのこした佐藤惣之助(さとうそうのすけ)は、明治23年(1890)、橘樹(たちばな)郡川崎町砂子(いさご)(現在の川崎区本町)の旧川崎宿・上本陣(かみほんじん)(佐藤本陣)の次男として生まれました。
詩人・惣之助は、生涯で数多くのすぐれた作品をのこしていますが、その活動は俳句・小説・作詞などの分野にもおよんでいます。
しかし、真の評価は詩作にあります。
惣之助は友情にあつく、数多くの仲間と活発な創作活動を展開しましたが、特に大正14年(1925)には、川崎の自宅を「詩の家」と名づけ、同人誌『詩之家』を刊行しました。
同人の数は、多いときには70名にも達しました。
また、詩人としての才能を生かして、「赤城の子守唄」「緑の地平線」「青い背広で」「湖畔の宿」「人生劇場」など、今でも多くの人々に口ずさまれている名曲を作詞し、昭和17年(1942)、52歳の生涯を閉じました。
この碑は、惣之助を顕彰するため、川崎市文化協会の発意によって昭和30年10月に建立(こんりゅう)されました。
碑文は詩集「華やかな散歩」の序詩から選ばれ、文字は惣之助が尊敬していた武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)が揮毫(きごう)したものです。

平成2年2月
川崎市教育委員会

佐藤惣之助の碑


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史跡 | 12:54:54 | Trackback(0) | Comments(0)
歯車
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プラネタリー熱間圧延機(ねっかんあつえんき)フィードロール減速機用歯車
株式会社YAKIN川崎(旧日本冶金工業株式会社川崎製造所)寄贈

この「プラネタリー熱間圧延機フィードロール減速機用歯車」は、川崎の産業を支えてきた歴史的にも価値のある工都(こうと)川崎を象徴するものです。
多くの市民の憩いの場である富士見(ふじみ)公園にモニュメントとして展示することにより、川崎のものづくり文化を再認識してもらうとともに、次の世代に継承・発展させるメッセージとします。

本体のプラネタリー熱間圧延機は、厚さ150mmのステンレス鋼板(こうはん)を一度の圧延で最薄(さいはく)2.3mmに圧延する機械です。
世界に16基しかないといわれているうちの1基で、同方式としては世界最大です。
大径(だいけい)のバックアップロールの周りに、圧延を行う小径(しょうけい)のワークロールを多数配置した圧延機であるため、ワークロールが惑星(プラネット)のように見えるのが「プラネタリー」のゆえんです。
フィードロールとは、鋼板を圧延機の入り側(がわ)で保持し、一定量づつ送り込む役割を果たす部分で、その減速用に使われたのがこの歯車です。

日本冶金(やきん)工業株式会社では、昭和41年(1966年)から平成8年(1996年)まで川崎製造所(現(株)YAKIN川崎)において稼動させていました。
当時、この圧延機導入によって、初めて同社内でのステンレス鋼一貫生産体制が確立して、生産性が飛躍的に向上し、大量生産が可能となりました。
その後、経済成長につれてステンレス鋼の需要が急増し、生産量も増加していきました。

このようにプラネタリー熱間圧延機は日本の産業発展に大きく貢献した京浜工業地帯の中枢(ちゅうすう)である川崎において、高度成長時代を支えた、工都川崎を象徴す機械のひとつです。

2003年9月
川崎区役所区政推進課
環境局南部公園事務所

歯車


史跡 | 12:26:51 | Trackback(0) | Comments(0)
御神木大銀杏
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御神木大銀杏(ごしんぼくおおいちょう)

このご神木大銀杏は、樹齢約1千年といわれ、当神社の長い歴史と尊い由緒を物語っています。
江戸時代には東海道を旅する者に「山王さまの大銀杏」として知られ、安藤広重(あんどうひろしげ)の「武相(ぶそう)名所旅絵日記」などに当時の神々(こうごう)しい姿が描かれています。
また、別の書物には「この大銀杏の周囲を回りながら願い事をするとことごとく叶う。特に縁結び、子授(こさず)け、子育て、学問・習い事の向上に霊験(れいけん)があり、参拝者が絶えない」と書かれています。
さらに、色紙に願い事を書いて枝に結び、葉のある頃には一葉をとって御守とするとよい、と伝えられています。
戦前は神奈川県指定の天然記念物となっていましたが、惜しくも昭和20年、戦火を浴びて大きく損傷してしまいました。
しかし、年とともによみがえり、その生命力の強さは御神霊(ごしんれい)のなせるわざと人々はいよいよ篤い信仰を寄せています。
と同時に近年、平和のシンボルとしても仰がれるようになりました。
(以下略)

(説明板より)

御神木大銀杏

史跡 | 11:48:53 | Trackback(0) | Comments(0)
手洗石
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手洗石

本手洗石(ちょうずいし)は、田中休愚(きゅうぐ)が勘定支配格(かんじょうしはいかく)に就任した享保(きょうほう)14年(1729)に、彼の一族と手代衆(てだいしゅう)らによって、川崎宿の鎮守(ちんじゅ)であった山王社(さんのうしゃ)(現在の稲毛神社)へ奉納されたものです。
田中休愚(1662~1729)は、江戸時代中頃の人で、大著『民間省要(みんかんせいよう)』を著し、民政に大きな業績をあげたことで知られています。
また、彼は川崎宿の本陣職(ほんじんしょく)を務め、衰退していた川崎宿の立て直しや二ヶ領用水(にかりょうようすい)の改修などの大事業を成し遂げたことでも有名です。
本手洗石は、田中休愚と彼の活躍の舞台であった川崎宿との係わりを物語る資料であり川崎宿に残された数少ない資料として貴重な価値をもっています。
なお、本手洗石の正面には、これを奉納した5人の名前が、力強い文字で刻み込まれています。
田中仙五郎は休愚の次男で、田中団助も休愚の縁者であったと思われます。
森田重郎衛門・富永軍治・門田半四郎の3人は、休愚の土木治水事業を補佐した技術者で、現場をまわって土木工事を指導した監督者として、当時の文献にもしばしば登場しています。
川崎市教育委員会は、昭和63年11月29日、本手洗石を川崎市重要歴史記念物に指定しました。

平成6年3月
川崎市教育委員会

手洗石


史跡 | 11:20:45 | Trackback(0) | Comments(0)
弁天池
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弁天池
(河崎冠者基家居館堀跡)

河崎冠者基家(かわさきかんじゃもといえ)は坂東平氏の雄、秩父十郎武綱の子で、平安時代にこの地に移り住み荘園を開いてその子重家との二代にわたってこの地を領したと言われています。
その居館の跡とも推定されるのがこのあたりです。
当時の荘園領主は、その居館の周囲に堀をめぐらせました。
かつて、ここから第一国道に沿って小堤をともなった小川が流れていましたが、このあたりの地名を「堀之内」と言うことからも、それは堀の遺構ではなかったのかと言われています。
また、平氏はその氏神、山王権現(さんのうごんげん)をまつるのが常でした。
稲毛神社は古名を「武甕槌宮(たけみかつちのみや)」と言い、景行天皇とのゆかりを伝える川崎市屈指の古社ですが、慶応4年まであh「川崎山王社」と呼ばれていました。
かつては、その小川に接して大きな神池(弁天池)があり、その中の島に和嶋弁財天がまつられており、四季折々に参詣来遊するものが多かったと言います。
また、江戸時代にはこの池と小川を利用して「曲水の宴(きょくすいのえん)」が開かれておりました。
その弁財天と曲水宴の歌碑二基は今も稲毛神社の境内にあって、当時の川崎の文化水準の高さを伝えています。
残念ながら、この池と小川は昭和20年代に第一国道拡張の際に埋め立てられ、その後は、小川をせきとめて造った小さな弁天池だけが残されていました。
今回、稲毛公園改修にあたり近代的な公園にふさわしい姿に造りかえられましたが、この池は、川崎の発祥とも言うべき河崎氏居館の堀跡と、宿場時代の町民の優雅な暮らしぶりを今に伝えるものです。

(説明板より)

弁天池


史跡 | 10:10:12 | Trackback(0) | Comments(0)
退院後初診察
今日は退院後初めての診察。
それにしても、退院後、あっという間に3日が過ぎてしまったのには驚く。
寝坊するかと思ったら、案外早く起きてしまい、午前中の診察に間に合った。
今日の医者は・・・・女医さん!
ゲゲッ!
女医さんにお尻を見せるのかぁ~
格好悪い~(笑)
術後の経過は順調!
やはり肛門の周辺は“かぶれ”てしまっているので塗り薬を処方してもらう。
「痛み止めも出しておきましょうか?」とのこと。
ん?痛みなんか退院した日から一度も感じてないんだけど・・・
他の人は退院後も痛みを感じるのだろうか?
もしかして、拙者は痛みに鈍感なのだろうか?(笑)
次回診察は来週の前半に来てくれとのこと。
「週の後半じゃ駄目ですか?」
「この1週間が一番大事なんですから駄目です!」とあっさり・・・・
やむを得ぬ・・・・従うしかない・・・・
結構、こう見えても拙者は素直なのである。(笑)

診察は相変わらずスムーズ。
多くの患者さんがいるというのに、診察券を出して55分で会計まで終わってしまった。
病院の向かい側の薬局で薬をもらうほうが思ったより時間がかかった。

さて・・・少し早いが、お昼にするか~
病院のすぐ側の蕎麦屋で好物のカツ丼を食べる。
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今日は午後遅い時間に川崎市にご在住の“カワキタさん”にお会いする予定になっているのだが・・・
まさか、午前中に診察が終わるとは予想もしていなかった。
ちょっと早すぎた・・・・
仕方がないので、時間つぶしのため待ち合わせの川崎駅前を“ぶらり散歩”。

“カワキタさん”は川北大隊のご遺族。
ご主人が大隊長のご子息。
ご主人は若くしてお亡くなりになり奥様が遺族会会員を継承されておられる。
2年前の巡拝慰霊の旅でお会いしたのが最後だから・・・・2年ぶりの再会。
来年1月の巡拝慰霊の旅にもご参加されるので、その打ち合わせと雑談。

散歩にも飽きたので、お電話をして早めにお会いすることにする。
午後1時45分、川崎駅前で待ち合わせ。
突然の時間変更・・・・申し訳なし。
コーヒーを飲みながら、おしゃべりすること4時間。
またまた長話をしてしまった!

小4の姪から「おじちゃん!何時に家に来てくれるの?」と電話が入る。
今晩は妹のところに宿泊する。
なにせ退院後まだ義弟には挨拶してないからねぇ。
6時半、“カワキタさん”とお別れして妹の家に向かう。

日記 | 09:35:34 | Trackback(0) | Comments(2)