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■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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黒羽城
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黒羽城の由来

黒羽城は天正4年 大関高増 新に築いて余瀬の白旗城より移った
北(玄武)に高山の丘陵連り東(青竜)(せいりょう)に流水の前田川走り南(朱雀)に汙地(くぼち)の阿久津村あり(田町と称す)
西(白虎)に那珂川を隔てて大道の石井沢村通じて(向町と称す)四神相応の地相を占めた城造りで本高1万8千石であった
其の後慶長5年 嗣子資増の代 會津の上杉景勝が徳川家康に叛いたので 家康はそれに備える為臣下を黒羽城に遣し資増に命じて更に修築させ且つ鉄砲を給与した
築城と共に余瀬から寺院大雄寺 帰一寺 新善光寺が移転した
明治4年 廃藩置県となるまで295年間大関氏累代の居城であった
幕末に当り肥後守増裕は出仕して陸海軍奉行の重職を奉じ勝海舟と並びて偉名を天下にとどろかせた
且つ ひそかに開国勤皇の志を抱いて深く謀る所があったが不幸慶応3年卆去した
行年31
大正7年 朝廷 増裕生前の功を賞して正四位を贈られた

昭和40年10月
黒羽町観光協会

(説明板より)

黒羽城

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史跡 | 17:58:27 | Trackback(0) | Comments(0)
那須神社・金丸塚
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金丸塚

人皇第16代仁徳天皇の御宇下野国造奈良別命国家鎮護の為め金瓊(けい)(黄金の玉)を埋め塚を築き祠を建て天照皇大神、日本武尊、春日大神を祀ったと伝えられている
又、金丸という地名もここから出たといわれています

那須神社保存会

(説明板より)

史跡 | 16:45:56 | Trackback(0) | Comments(0)
那須神社手水舟
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手水舟 1基
有形文化財(建造物)
昭和48年12月18日 指定

那須神社会館前の水屋の手水舟は、野石を加工したものと思われ、横157センチメートル、縦90センチメートル、高さ77センチメートルの大きさで、寛永19年(1642)黒羽城主大関土佐守高増が、氏神である那須神社に祈願成就処として奉納したもので、前面に次のような銘文が刻されている。

奉造立 手水舟一所願成就処
千時寛永十九年壬午五月吉祥辰日欽日
施主 大関土佐守高増

(説明板より)

史跡 | 16:21:36 | Trackback(0) | Comments(0)
那須神社本殿と石灯籠
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栃木県指定有形文化財(建造物)
那須神社本殿
附 寛永大修理銘銅板1棟・1枚
三間社流造 銅板瓦葺

現在の社殿は天正5年(1577)の建造と称され、その後寛永18年(1641)に大修繕が行われた。
本殿の基壇は土台の下に縁下布石を廻らし、向拝には浜縁をつけている。
向柱は和様の三斗組で丸桁をうけ、身舎正面は三間共幣軸立ての板唐戸である。
内部は内、外陣に分かれ間仕切は板唐戸である。
屋根は元茅葺か杮葺であったが現在は銅板瓦棒葺である。
本殿は総体に彩色が施され、向拝柱には金襴巻の跡が残っており、長押、頭貫、斗郷栱、身舎丸柱に至るまで各種の彩色が施され、特に、丸柱には牡丹唐草で彩色し、幣軸に金箔押し、鴨居、方立、下長押しは黒漆塗、板唐戸は春慶塗の上に彩色が施されている。
寛永大修理銘銅板には、施主、大関土佐守丹氏高増 千時寛永18年辛巳 孟夏吉祥辰日欽日 奉行、大沼助左右門貞清 小滝喜右衛門 真坂与五右衛 大工、高宮次右衛門 同市兵衛 鍛冶、且右衛門包秀と記されている。
(昭和32年8月30日 指定)

(説明板より)



石燈籠 一対
有形文化財(建造物)
昭和48年12月18日 指定

那須神社拝殿前に配置されている石燈籠は、寛永19年(1642)3月、黒羽城主大関土佐守高増が祈願成就処として奉納したmおのである。
石質は芦野石と思われ、基礎から宝珠までの全高は約2.9メートル。
基礎・中台・火袋・笠・請花は共に六角形で、笠の蕨手は大きく渦巻き模様であり、竿は円筒形で直径約45センチメートル、中間に節がある。
この部分に大関土佐守高増奉納の銘文が刻されている。

(説明板より)

史跡 | 15:09:06 | Trackback(0) | Comments(0)
那須神社楼門
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栃木県指定文化財(建造物)
那須神社楼門 1棟
三間一戸入母屋造 重層銅本瓦葺

本殿の和洋に対して、楼門は唐様の建築である。
下層は三間二面で、中央間通路は四半石敷としている。
丸柱下には礎盤を据え腰貫を通して金剛柵をたて、正面左右に随神を床上に安置しているが、創建時は仁王像があり、随神は背面に置かれていたもので、現在は背面には飾りはない。
上層は三間二面で、正面のみは本殿の正面と同様縁板より一段高く長押をつけ、中央に幣軸建ての板唐戸を建てている。
この上層の軸部全面に黒竜と波や雲が描かれ、正面及び背面の三間を通して竜の図で装飾されている。
屋根はもと茅葺か杮葺であったが、現在では銅板葺である。
楼門の左右に袖塀が二間宛菱格子を嵌めて作られており、それに接続して長床二棟左右に建っている。
この長床は、城主・貴賓の参拝の折の供待ちの建物で県内ではここのみである。
(昭和32年8月30日 指定)

(説明版より)

那須神社楼門

史跡 | 14:45:41 | Trackback(0) | Comments(0)
那須国造碑
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(笠石神社)

那須国造碑
(なすのくにのみやつこのひ)

国宝 昭和27年11月22日
総高 148センチメートル
石材 花崗岩

この碑は、今から1300年前(西暦700年)、那須国造(なすのくにのみやつこ)であった那須直移韋堤(なすのあたいいで)の遺徳をたたえるため、その息子意斯麻呂(おしまろ)らによって建立された碑です。
文字の刻まれた碑の上に笠状の石を載せた特異な形をしていることから、この地域では「笠石(かさいし)さま」とも呼ばれています。
碑には、8行に各19字ずつの計152字が刻まれており、その書体には中国の六朝(りくちょう)時代の書風が感じられます。
また、碑文冒頭には「永昌(えいしょう)」という唐(とう)の則天武后(そくてんぶこう)の時代に使用された年号が用いられているなど、その当時に朝鮮半島の新羅(しらぎ)から渡来してきた人々の影響が色濃く残されています。
この碑の保存には、江戸時代の水戸藩主、徳川光圀も関わっています。
長い間倒れ埋もれていたこの碑を、旅の僧が発見し、馬頭(ばとう)村小口(こぐち)郷(現馬頭町)の里正(さとまさ)、大金重貞(おおがねしげさだ)に話したところ、やがてその地域を領地としていた徳川光圀のもとへこの碑の話が伝えられました。
そして、この碑が貴重なものであることがわかったことから、元禄(げんろく)4年(1691)碑堂を建立して、碑を安置しました。
これが、現在の笠石神社となっています。
なお、多賀城碑(宮城県)・多胡碑(たこひ)(群馬県)とともに日本三古碑として知られています。

(説明版より)

那須国造碑

史跡 | 13:50:07 | Trackback(0) | Comments(0)
武茂氏墓碑
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馬頭町指定文化財(昭和43年3月13日指定)
武茂(むも)氏墓碑

武茂氏は、下野国中央部に勢力を誇った宇都宮氏の支族で、鎌倉幕府高位官僚の評定衆として、執権の補佐にあたった宇都宮7代城主景綱の三男、泰宗を始祖とする一族です。
泰宗が武茂氏を起こしたのは鎌倉時代末期の正応・永仁年間(1288~98)の頃とされ、15世紀中頃から16世紀初頭にかけて一時断絶期間がありますが、戦国時代末期の文禄4年(1595)までの約300年間、馬頭町域一帯を支配しました。
乾徳寺は武茂一族の菩提寺で、この石塔類は一族に関係するものと考えられ、古文書により、江戸時代の享保16年(1731)に散逸していたものをここに整理したことが知られています。
現在10基ほどの宝篋印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔がありますが、完全なものは3基で、他は石組みが乱れています。
一部鎌倉時代から南北朝時代にかけて造られたものもみられますが、宝篋印塔の相輪部・笠の突起部・基壇の簡略な石刻みの手法からみて、戦国時代末期のものが大半を占めています。
このほか境内には、完全な形ではありませんが、40基近い宝篋印塔・五輪塔が散在しており、これらも武茂一族に係わるものと推定されます。

那珂川町教育委員会

(説明版より)

武茂氏墓碑



史跡 | 13:23:33 | Trackback(0) | Comments(0)
静神社と武茂城跡
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(静神社)

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(武茂城跡)

静神社と武茂城跡のご案内
静神社は、大同年間(806~809)誉田別命を祭神として、字若宮に祀られていました。
元禄年中(1688~1703)に徳川光圀公の命によって、上郷地の山腹に遷座、手力男命を併祀して静神社と称しました。
明治6年に村社となり、同33年に武茂城跡のこの地に奉遷されました。
本殿は、間口1間(1.8M)奥行1.5間(2.7M)周囲に玉垣をめぐらしてあります。
境内からは、市街地が一望でき憩いの場となっております。

武茂城跡は、宇都宮城主景綱の三男泰宗が正応永仁(1288~293)の頃、武茂庄十余郷の領主となって武茂氏を名乗り子孫に伝いましたが、応永14年(1407)宇都宮に世子がなかったので、持綱(6代)本宗を綱ぎ武茂氏は一時途絶えました。
その後持綱の曽孫正綱が武茂氏を再興しましたが、正綱も本宗が継ぐことになり三男兼綱が相続して一万石の領主となりました。
戦国抗争の世に入って、武茂氏は佐竹、那須両氏の抗争に係わり豊綱の代慶長4年(1599)遂には佐竹に降り常陸大賀村に移され、武茂城は佐竹の臣太田五郎左衛門の居城となりました。
慶長7年(1602)佐竹氏も秋田に移封され廃城となりました。
武茂城、天剣を利用した鎌倉時代中期の築城によるもので、山城初期の城郭の様子が良く保存されており、馬頭町指定文化財となっております。

(説明版より)

静神社と武茂城跡

史跡 | 12:46:28 | Trackback(0) | Comments(0)
栃木にドライブ!
水戸藩士の“シミズくん”からドライブのお誘い。
「馬頭の郷土博物館へ行きませんか?」
ここで、現在『郷土の天狗党・諸生派の事蹟』という企画展が開催されているという。
行かねばなるまい!(笑)

こうなると不思議なもので、今までの胃の痛みが消えている。
「病は気から」とは言うが・・・・
好きなことになると痛みを忘れてしまうというのだから、まぁ、今回の胃痛なんて大したものではあるまい。

午前9時、拙者の「愛馬」・・・三菱ディアマンテで馬頭町に向かう。
我が「愛馬」にはカーナビが付いておるのだが・・・
純正のカーナビというのは駄目だねぇ~
地図が更新されないから新しい道路の表示がないのである!
ナビの指示通りなどでは、旧道ばかりを走ることになるので、ナビを無視して走る。

市町村合併も良し悪し。
昔は栃木県那須郡馬頭町と言っていたが、今は、栃木県那須郡那珂川町馬頭となっている。
馬頭町が那珂川町になっているから、わけがわからん。

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(那珂川町馬頭郷土資料館)

展示は主にパネル展示が多いが、それでも勉強にはなった。
「天狗党」については漠然としか知らないが、「諸生党」の動きについては全く知らない。

天狗党と諸生党の争いは、いわば我が水戸藩の政争である。
馬頭町史によれば・・・・
天狗の名は、斉昭の天保の改革の際に登用された藤田東湖・会沢正志斎らの学者で、軽格武士の改革派に対して、保守門閥派が学問を鼻にかける成り上がり者として軽蔑して『天狗』と呼んだことに始まる。
他方、斉昭は『天狗』とは義勇の変え名で、『天狗』こそ正義を意味するものと自認し、改革に反対する保守門閥派を『姦物』『俗論派』などと非難した。
『諸生』とは、弘道館の学生=書生(諸生)の意で、一般に反天狗派を指す。
その構成は複雑で、藩内で門閥派ではないが天狗党に属さない者、尊攘派ながら激派に対立した鎮派(柳派)の者が、保守派と同調して『反天狗派』となったのである。
これらを『諸生党』と呼ぶのは天狗党討伐には弘道館の諸生が中心勢力となったからである。
それがのちになって、保守門閥派の別名になったり、反天狗派の総称に用いられるようになった。
・・・と書かれている。

まぁ~水戸藩は、このように内部で殺し合いをしちゃったから、優秀な人材を失っちゃったんだよねぇ~
県民性といえば県民性かな?
水戸藩の人間で活躍したのは脱藩した浪士!(笑)
やはり「浪士」でなければ・・・ねぇ~

資料館の裏山・・・武茂城跡に行く。
長く急な石段をゼーゼー言いながら登り山の中へ・・・
運動不足を痛感する。
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(武茂城本丸跡)

直ぐ近くの乾徳寺の前で、武茂泰宗の銅像を発見!
よし!ホームページのネタをゲットしたぞ!(笑)
乾徳寺は武茂氏の菩提寺。
境内を散策。

昼食は郷土資料館脇にある馬頭広重美術館に併設されている喫茶で食べる。
歌川広重には興味がないので、ここは見学せず大田原市方面へ向かう。

途中、車中で“シミズくん”が笠石神社の『那須国造碑』について話をしてくれていたとき・・・
あれ?笠石神社の案内板が・・・目に入った。
何たる偶然・・・寄ってみよう!
神社で神主さんから説明を頂き、国宝の『那須国造碑』を見せてもらう。
『那須国造碑』は日本三古碑の一つだという。
群馬県の『多胡郡碑』、宮城県の『多賀城碑』と、ここの『那須国造碑』が日本三古碑。
拙者は『多賀城碑』を見たことががるので、三古碑のうちの2つの碑を見たことになる。
こんな目立たぬ田舎の小さな神社に国宝の古碑があるとは驚いた。
“シミズくん”は神主さんの許可を得てこの古碑を撫でている。
ゲゲッ!国宝だぞ!
恐るべし水戸藩士・・・素手で国宝を撫でている~(唖然・・・)

次に向かったのは、車で15分ほど離れたところにある那須神社。
ここの楼門が素晴らしいと水戸藩士が言うので行ってみたが・・・
確かに楼門は素晴らしい。
しかし・・・神社自体は何とも哀れな感じがするほど寂れている。
栃木県文化財に指定されているほどの由緒ある神社なのに・・・
十分に観光資源となるだろうに・・・管理不十分!(笑)

隣の『道の駅・那須与一の郷』で那須与一の銅像を発見!
ニヤリ・・・・(笑)
この敷地内に「大田原市那須与一伝承館」が今月開館したと笠石神社の神主さんから聞いていたので、早速見学する。
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(那須与一伝承館)
展示室を見学し、ついでに、からくり人形風ロボットが演じる「平家物語」の「扇の的」の物語の劇を見学。
まぁまぁの出来かな?(笑)
那須与一・・・・名前は知っているけど、どういう人だっけ?
残念ながら那須与一に関する書籍の販売はなかった。
なんとも残念だ~
そんなことやらを係りの小母さんとしばし雑談して、今度は黒羽城へ向かう。

DSC06695.jpg
(黒羽城跡)
想像以上に大きな城跡。
堀などがしっかりと残っている。
この城跡内に『黒羽芭蕉の館』という資料館がある。
ここで松尾芭蕉と曽良の銅像を発見!
またまた・・・ニヤリ・・・(笑)

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(黒羽芭蕉の館)
主として黒羽に来た時の松尾芭蕉に関する展示と黒羽城主・大関氏に関する資料展示、甲冑・刀剣の展示だが・・・・
まぁ・・・予想通り内容はお粗末。
お金をかけて作ったのだろうが・・・・内容は薄い。(笑)
過去に松尾芭蕉に関するいくつもの資料館に訪れたが、どこも似たり寄ったり・・・・
芭蕉の詠んだ句の展示と足跡を現す地図や年表のパネル展示。
面白くも何ともないので、あっという間に見学終了!(笑)

日も暮れてきたので、ここで史跡巡りの旅を終了し家路につく。
途中で鮎の塩焼きを購入。
今晩のおかずにしようと思ったのだが・・・
帰宅が遅くなり、親父は既に夕食を食べ終わっていた!(残念!)
親父の分を冷蔵庫に入れて、拙者のみ鮎の塩焼きで夕食を食べる。
腹は卵で一杯!
まるで子持ちシシャモを巨大にした感じ。
卵以外は食べるところがないくらい。
これで500円・・・・安かったかな?(笑)
とりあえず、いつもとは違うおかずだから・・・満足、満足。

今日は期せずして有意義なドライブが出来た。
水戸藩士殿に感謝!感謝!

日記 | 09:19:03 | Trackback(0) | Comments(0)