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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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いつの間にか「昭和の日」
今日は「昭和の日」だそうだ。
いつ、そんな名前になったんだろう?
「祝日法」という国民の祝日に関する法律では「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と定義されているという。
え~!いつの間にそんなことを国会で審議したんだ?
いままでの「みどりの日」は今年から5月4日に変更になったという。
なんともいい加減というか・・・
安易というか・・・
節操がないというか・・・
そんなに休みが欲しいのか?



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日記 | 21:15:11 | Trackback(0) | Comments(0)
上野東照宮・唐門
DSC05924.jpg
(東京都台東区)

上野東照宮
(国指定重要文化財)
台東区上野公園9番

藤堂高虎は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。
これが上野東照宮の創建といわれている。
あるいは、寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。
正保3年(1646)、朝廷は家康に「東照宮」の宮号を贈り、それ以後、家康を祭る御宮を東照宮と呼ぶようになったのである。
現在の社殿は、慶安4年(1651)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもの。
その後数回、修理を加え、現在に至る。
社殿の構造は、手前から拝殿(はいでん)・幣殿(へいでん)(石の間ともいう)・本殿からなり、その様式を権現造(ごんげんづく)りという。
社殿は東京都内でも代表的な、江戸時代初期の権現造り。
華麗荘厳を極め、金色堂とも呼ぶ。
本殿・拝殿・幣殿は、唐門(からもん)・透塀(すかしべい)とともに構造・様式がすぐれ、貴重であるので、国の重要文化財に指定されている。
参道入口の石造明神(みょうじん)鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠50基も国指定の重要文化財である。

平成8年7月
台東区教育委員会

(説明板より)


唐門
(唐破風造り四脚門)

日本には一つしかない金箔の唐門である。
扉には梅に亀甲の透彫、門柱には左甚五郎作昇竜(右)降竜の高彫、門の側面左右上部の松竹梅に錦鶏鳥の透彫など非常に精巧を極めたものである。
明治40年に国宝に指定された。

(説明板より)

東照宮・唐門


史跡 | 19:03:37 | Trackback(0) | Comments(0)
広島・長崎の火
DSC05922.jpg
(東京都台東区)

「広島・長崎の火」の由来
1945年8月6日・9日、広島・長崎に人類最初の原子爆弾が米軍によって投下され、一瞬にして十数万人の尊い生命が奪われました。
そして今も多くの被爆者が苦しんでいます。
広島の惨禍を生きぬいた福岡県星野村の山本達雄さんは、叔父の家の廃墟に燃えていた原爆の火を故郷に持ち帰り、はじめは形見の火、恨みの火として密かに灯し続けました。
しかし、長い年月の中で、核兵器をなくし、平和を願う日として灯すようになりました。
1968年8月6日、星野村は、この「広島の火」を「平和の火」として、村人の協力によって今日も灯し続けています。

核兵器の使用は、人類の生存とすべての文明を破壊します。
核兵器を廃絶することは、全人類の死活にかかわる緊急のものとなっています。
第二のヒロシマを
第二のナガサキを
地球上のいずれの地にも出現させてはなりません。

これは「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」(1985年2月)の一節です。
1988年、3千万人のこのアピール署名と共に「広島の火」は長崎の原爆瓦からとった火と合わされて、ニューヨークの第3回国連軍縮特別総会に届けられました。
同年4月、「下町人間のつどい」の人々は、この火を首都東京上野東照宮境内に灯し続けることを提唱しました。
上野東照宮嵯峨敞全宮司は、この提案に心から賛同され、モニュメントの設置と火の維持管理に協力することを約束されました。
広範な人々のよびかけによって、翌89年4月、「上野東照宮境内に<広島・長崎の火>を灯す会」が結成されました。
それから1年余、数万人が参加した草の根の運動と募金により、1990年7月21日、モニュメントが完成しました。
被爆45周年を迎えた8月6日に星野村の「広島の火」が、8月9日に長崎の原爆瓦から採火した「長崎の火」が、このモニュメントに点火されました。
私たちは、この火を灯す運動が、国境をこえて今緊急にもとめられている核兵器廃絶平和の世論を強める全世界の人々の運動の発展に貢献することを確信し、誓いの火を灯し続けます。

1990年8月
上野東照宮境内に「広島・長崎の火」を灯す会

(説明板より)

広島・長崎の火

史跡 | 16:45:25 | Trackback(0) | Comments(0)
銅燈籠
DSC05921.jpg
(東京都台東区)

銅燈籠
台東区上野公園9番

東照宮社殿唐門(からもん)前と参道に、50基の銅燈籠が並んでいる。
燈籠は神事(しんじ)・法会(ほうえ)を執行するときの浄火を目的とするもの。
照明用具ではない。
浄火は神事・仏事に使う清めた火。
燈籠は上部から、宝珠(ほうじゅ)・笠・火袋(ひぶくろ)・中台(ちゅうだい)・竿(さお)・基壇で構成されている。
火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。
火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。
これら銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現(とうしょうだいごんげん)霊前に奉納したもの。
竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。
それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘一基をはじめ、慶安4年(1651)正月17日奉献二基、同年4月17日奉献45基、同5年孟夏(もうか)17日奉献二基となっている。
慶安4年4月17日は東照宮社殿落慶の日。
その日の奉献数が最も多い。
これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して国の重要文化財に指定されている。

平成8年7月
台東区教育委員会

(説明板より)

銅燈籠

史跡 | 14:57:19 | Trackback(0) | Comments(0)
蜀山人の碑
DSC05920.jpg
(東京都台東区)

蜀山人(しょくさんじん)の碑
台東区上野公園4番

一めんの花は基盤の
上野山 黒門前に
かかるしら雲
            蜀山人

碑面には、大書してこの歌を刻む。
ついで、蜀山人についての説明、碑建設のいきさつを、細字で刻んでいる。
歌の文字は蜀山人の自筆であるという。
蜀山人は姓を大田、名を覃、通称を直次郎といった。
蜀山人はその号である。
南畝(なんぽ)、四方赤良(よものあから)など、別号が多く、一般には大田南畝と呼ぶ。
幕臣であったが、狂文・狂歌を良くし、漢学・国学を学んで博識であった。
江戸文人の典型といわれ、狂歌の分野では唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・朱楽管江(あけらかんこう)とともに、三大家と評された。
文政6年(1823)没。
江戸時代、上野は桜の名所であった。
昭和13年、寛永寺総門の黒門跡に、その桜と黒門を詠み込む蜀山人の歌一首を刻み、碑が建てられた。
郷土色豊かな建碑といっていい。

平成4年11月
台東区教育委員会

(説明板より)

蜀山人の碑


史跡 | 14:01:11 | Trackback(0) | Comments(0)
母を連れて柴又に行く
今日は母が4日間の抗癌治療の入院から退院する日。
どうせ拙者も東京にいるのだから、いっそどこかを観光してから一緒に帰宅すればよいではないか?
そうだ!柴又にでも行ってみるか。
いつも映画「男はつらいよ」を母とTVで見ていたが、母は柴又には行ったことがないと言っていたからなぁ~
しかも拙者は我が家の“フーテンの寅”だからねぇ。ちょうどいい。

上野駅で待ち合わせ。時間があるので上野公園を一人で散策して時間を潰すこと約1時間。
母とうまく待ち合わせに成功したが・・・
いつもとは全く様子が違う。
顔色は悪く、ゲッソリしてフラフラ・ヨタヨタ歩きながらやって来た。
大丈夫かね?
入院中、食事が喉を通らないでいたという。
抗癌治療の副作用か、今回は特にひどくてどうしようもないという。
「柴又に行くのをやめようか?」
気分転換のためにも行けるところまで行ってみたいとのことなので多少心配だったが強行することにした。

今まで定期的に入院して知り合った患者さん達が、今回入院したところ全員この世を去っていたという。
「あの人も・・・この人も・・・みんな死んでいた」
かなりのショックを受けてしまったらしい。
「前回会った時はお元気そうだったのに・・・次は自分の番かな」と涙ぐむ。
参ったなぁ~慰める言葉もない。

母は今回の入院治療で足が浮腫んでしまい、歩くのが辛いというので、帝釈天だけを見学して帰る事とする。
「“寅さん記念館”は次回にしようね」
「又来れればいいけどねぇ~」
ズシ~ンと落ち込む。どうフォローすればいいのか・・・・

昼食に蕎麦を食べる。意外にも美味しい。
母も思ったよりかなりの量を食べてくれた。
うん、これならなんとか大丈夫だろう。
DSC05928.jpg
(帝釈天の通り)


土曜日ということもあってか、柴又駅から続々と観光客がやってくる。
我々は彼らに逆行して駅に向かう。
ちょっと帰るには早い時間だが無理は禁物だ。
駅前でコーヒー飲んで一息ついて上野駅に向かう。
上野に着いたらいきなり空が真っ暗になり土砂降り!!
なんというタイミング!
早めに戻ってきてよかったねぇ~
母は、無理して歩いて無理して食べたおかげで少し元気が出たようだ。
よし、なんとかなるか。

日記 | 11:49:49 | Trackback(0) | Comments(0)
良い歯の日発祥記念の碑
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(東京都墨田区)

良い歯の日発祥記念の碑
歯科界の黎明期に 本所歯科医師会は 入江義次 五十嵐庭治君等の提唱で 口腔衛生普及運動を起こした
その始は奥村鶴吉 加藤清治 川上為次郎 岡本清纓 高津弌の諸先生に依頼して 当時の本所高等小学校(現墨田区立両国中学校)で区内学童の口腔診査を実施した
会員の積極的活動とライオン歯磨の後援によってこの運動は 日本歯科界最初の企画として当時の新聞に報道された
この時学童数名を選び 表彰状と「良い歯の日」と記したメダルを贈った
大正14年(1925年)11月7日のことである
本会の唱導は多くの反響をよび 後年「ムシ歯予防デー」として発展するところとなった
本会発足50周年に当り国民保健向上の一齣であるこのことが 永く後世に伝わるように この碑を記念事業として建てるものである

昭和43年(1968年)10月10日建之

(碑文より)

良い歯の日発祥記念の碑

史跡 | 23:35:43 | Trackback(0) | Comments(0)
禊盥
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(東京都墨田区)

禊盥(手水鉢)
所在地 文花2丁目5番8号 香取神社

手水鉢は神仏の前にあって、参拝者が手や口を洗い清めるための器であり、そうすることを手水(ちょうず)を使うともいいます。
このことは古代から行われていた「斎戒沐浴(さいかいもくよく)」のなごりで、身を清める、すなわち「禊(みそぎ)」を行って罪や穢(けがれ)をはらうために、川の水で体を洗い清めることからおこったと考えられます。
この行為が簡略化されて、器で手を洗い、口をすすぐことになり、そのための器が神仏の前に常備されました。
それが「手水桶」であり、「手水鉢」でした。
この諏訪神社前の手水鉢が「禊盥」と刻まれているのもこうした歴史を物語るもので貴重な例といえましょう。
この手水鉢の右側面には「文政11年(1828)戌子六月吉祥日」、左側面には「星塢秦鐘書(せいうしんしょうしょ)、裏面には「氏子中」と能筆で刻まれています。

昭和58年3月
墨田区

(説明板より)
禊盥


史跡 | 23:00:21 | Trackback(0) | Comments(0)
狛犬
DSC05916.jpg
(東京都墨田区)

<墨田区登録文化財>
狛犬
安永2年5月銘
所在 墨田区立花1丁目1番 吾嬬神社

この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人10名と奉納者22名もの名前が刻まれています。
そのほとんどが築地小田原町(中央区築地6・7丁目)や本船町地引河岸(中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者とのつながりをよく表しているといってよいでしょう。
このことは吾嬬神社の由来に起因しています。
日本の神話に、日本武尊(やまとたけるのみこと)が現在の東京湾を舟で渡っている時に海神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという話があります。
この媛の品が流れ着いた所がこの地だったということです。
以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。
また、昔は地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。
現在、鉄柵の奥にあるために近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた人名など、良い状態で保存されています。

平成9年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)

狛犬



史跡 | 22:40:30 | Trackback(0) | Comments(0)
吾嬬森碑
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(東京都墨田区)

吾嬬森碑
所在地 墨田区立花1丁目1番15号 吾嬬神社内

この碑は、明和3年(1766)山県大貮が建てました。
碑文に日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征と、尊の妃・弟橘姫(おとたちばなひめ)が入水して海神を鎮めたことなどを記して、姫の事蹟を顕彰しています。
このあたりは江戸時代から吾嬬の森とか、浮洲の森とも呼ばれて有名でした。
ここは、連理の樟と呼ばれた樟の巨木が茂っていて、広重の江戸名所百景にも描かれたほどです。
今は枯れた樹幹だけが残っています。
また、この地から加曽利BⅡ式と称する縄文式土器が発掘され、この地の発展の古さを示しています。
なお、この碑を建てた山県大貮は、医を業とし、地理・数学・兵法にも通じていました。
尊皇の志篤く、幕政を批判するなどのことがあり、ついに捕らえられて、明和4年死罪に処せられました。

昭和55年3月
墨田区

(説明板より)

吾嬬森碑


史跡 | 22:16:51 | Trackback(0) | Comments(0)
亀戸大根の碑
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(東京都江東区)

江戸・東京の農業 亀戸大根
このあたりで大根づくりが始まったのは、記録によると文久年間(1861~64)の頃とされ、当香取神社周辺が栽培の中心地で、以来、明治時代にかけて盛んに栽培されてきました。
当地は荒川水系によってできた肥沃な粘土質土壌であったため、肉質が緻密(ちみつ)で白く冴えた肌の大根づくりに大変適していました。
亀戸大根は、根が30cm程度の短い大根で、先がクサビ状にとがっているのが特長。
明治の頃は「おかめ大根」とか「お多福大根」といわれましたが、大正初期になって産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。
しかし、宅地化が進んだ大正時代の終り頃から産地は江戸川区小岩や葛飾区高砂などに移っていきました。
秋から冬にかけてタネをまいて早春に収穫となる亀戸大根は、当時は他に大根などの全くない時期で、新鮮な野菜の出始めの頃なので根も葉も共に浅漬けにして美味しいことから、江戸っ子から大いに重宝がられました。

平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行50周年記念事業

(説明板より)

亀戸大根の碑

史跡 | 21:20:54 | Trackback(0) | Comments(0)
東京に行く
またまた上京。
本来の目的は“カジさん”と夜にお食事会をするのだが、どうせ東京に来るのなら・・・とT社の社長が東京本社もコンサルティングしてくれと言うので、午前中に上京することとなった。

昨日のT社茨城工場でも品質管理担当者から「あのぉ~出来れば、うちの社長のコンサルティングもしてもらいたいんですよねぇ~。うちの社長は毎回“不適合”を出すんですよぉ~」と泣きが入っていた。
ちょうどいい機会だ。これは本社に行って社長の“マネージメントレビュー”の指導をしてくるか・・・・ということで本社というより社長をコンサルティング。(笑)
ずいぶん昔に一度だけお邪魔したことがあるが、どう思い出そうにも会社の場所が思い出せない。
約束の時間は午後1時。
少し余裕を持って家を出たので、お昼前には本社のある墨田区に到着。地図を見ながら本社に向かうが・・・途中で「悪い虫」が騒ぎ出し、ついつい道草。
本社近くの“史跡めぐり”をしてしまった。
本来の目的はそっちのけ。(笑)

昼食は蕎麦屋でカツ丼。
結構歩いてカロリーを消費したはずだが、これを食べたので・・・多分、苦労は水の泡。
まぁ、たまにはよかろう。
DSC05917.jpg
(カツ丼)

約束の1時に本社に到着し、“マネージメントレビュー”のやり方についての指導と、数ヶ月放置してあった“レビュー”の作成を手伝う。
午後5時、作業終了。
本日、ようやく拙者のコンサルティング料が決まった。
実は、コンサルティングの時給を決めずに今まで作業を進めていたのだ。
「適当に決めてくださいよ」と言ったら、「そういうわけもいかんだろう・・・」とのこと。
散々悩んだ挙句に「これでいいかい?」と提示された金額を即OK!
拙者にとって金額なんてどうでもいい。
役に立って喜んでもらえれば、いくらでもいい。
こんなことじゃ、コンサルティング業で生計は立たないだろうが・・・
しかも、今回は、私用のついでにお邪魔したので交通費は無料とした。
まぁ、今のところはこんな調子でもいいんじゃないか?(笑)
上野まで車で送ってもらい、駅近くのホテルにチェツクイン。
急いで“カジさん”との待ち合わせ場所に向かう。
例によって例の如く、お食事会はトンカツ屋。
このワンパターンが大好き!
しかし・・・昼にカツ丼食べて夜にトンカツ・・・
昼食のメニューはよく考えておくべきだった。
どう逆立ちしてもカロリーオーバーだよなぁ~
食後はいつものコーヒー店でコーヒーを飲みながら雑談。
これまた楽しい一時なり。

日記 | 20:17:32 | Trackback(0) | Comments(0)
母の声で目が覚める。
拙者の名を呼ぶ母の声で目が覚めた。
しかし・・・
我が母君は4日間の抗癌治療の為、昨日から入院中。
我家にいるわけがない・・・
母の夢を見ていたわけでもない。
どこから声が聞こえてきたのか・・・
ゲゲッ!
こういう目覚めって気持ちの良いものではない。
余計なことを考えてしまうではないか?

今日は例のT社のコンサルティングに行く日。
おかげで寝坊をせずに助かったが・・・
こういうのって、1日中気になるんだよなぁ~

日記 | 06:47:26 | Trackback(0) | Comments(0)
法人会青年部理事会に行く。
今日は法人会青年部理事会に行く。
会場はいつもの隣町のホテル。
いつもは車で行くのだが・・・・
よし!今日も歩いてみるか!
歩いて行ったことがないので、時間がどのくらいかかるかわからない。
とりあえず、理事会集合時間1時間半前に家を出れば間に合うだろう。
家を出て、海岸通りの国道をテクテク歩くが、服装は理事会に出るためスーツ。
なんだかなぁ~すごく目立つような気がするんですけど・・・(笑)
恥ずかしいので、途中で横道に入り、国道と平行に走る道を歩くことにする。
交通量の多い国道沿いを歩いていると車に乗った知り合いに出会うかもしれないからなぁ~
常磐線沿いに歩いていたら貨物列車がゴーッ!
あれ?今でも貨物列車って走っているんだ。
意外な発見。
更に歩くと散歩かジョギングか、スポーツウェアーを着た老人と出会う。
向かう方向は一緒。しかも1本道。
この老人の後ろを付いて歩く形となる。
参ったなぁ~
スーツ着た男が延々と後ろをついていくという姿って・・・やっぱり不審者だよなぁ~
歩き始めて1時間後、会場のホテルに着く。
ロビーでコーヒーを飲んで休憩!
汗ビッショリ・・・・だが、気分は爽快。

総会後はクラブで懇親会。
いつもは運転代行を呼んでもらって帰るが、今日は車はない。
「帰りも歩いて帰るのか?」と言われたが、まさか・・・
酒に酔って1時間も歩くのか?
心臓に悪いだろ?
しかも・・・酔っ払い運転の車に跳ねられでもしたら最悪じゃ。
ここは無理せずタクシーで帰ることとする。
タクシーで帰宅なんて、すごく贅沢なことをしているような気がするが、運転代行を頼むより500円安かった。
おお!500円儲けた!

日記 | 22:47:31 | Trackback(0) | Comments(0)
異常気象か?
レンタル店で借りていたDVDを返しに行こう!
どうせなら散歩がてら歩いていこう!
ただ歩くだけでは嫌だが、目的を持って歩くなら歩けるだろう!
・・・と思って家を出たが・・・
寒い!
加えて風が強い!
吐く息が白く見えるんだから・・・何これ!
まるっきり冬に逆戻りではないか?
ついに異常気象到来か?
寒さに耐えながら1時間ほど歩く。
よし!8,000歩!
まあまあだなぁ。
しかし・・・帰宅してもしばらくの間手がかじかんで指が動かない。
途中で「たい焼き」でも買って手を温めておくべきだったか?
いや、いや、「たい焼き」を食べたら歩いた意味がないじゃん!

日記 | 18:30:44 | Trackback(0) | Comments(0)
選挙の投票に行く
午後2時、ふと、万歩計を確認したら・・・300歩!
そりゃそうだ、家の中にしかいないんだから・・・
しかし・・・・こりゃマズイぞ。
今日は市議会議員選挙投票日。
よし、散歩がてら投票に行くか!
投票所は徒歩で5分程度の直ぐ近く。
これでは運動にならぬ。
投票後、家には戻らずとにかくどこまでも歩く。
休まず1時間歩くことを目標としてスタスタと、とにかく歩く。
途中で市長選挙の掲示板を見る。
あれ?市長・・・投票した覚えがない!
投票用紙をもらってなかったよなぁ~
よ~く考えたら、立候補者は現職の市長だけだから無投票かぁ。
なぁ~んだ、そういうことなら市長にでも立候補すればよかったかなぁ~
もしかして何かの間違いで市長に当選したかも・・・(笑)
国道沿いに歩くばかりじゃ面白くない。
ここは路地にも入らねば・・・
普段、車に乗っていたのでは全く気づかぬ景色を見る。
こういうのもなかいいものだが・・・問題なのは『不審者』に間違えられそうな気がして落ち着かぬこと。
困った時代になったもんだ。

拙者が歩くことに気を遣うようになったのは、“脂肪肝”と診断されたというだけではない。
フィリピンのガイドのドミン氏がいつフィリピンに来るのかとしきりに騒いでいるという。
彼は多分、今年で79歳か80歳になるだろう。
彼が是非今年は「カバリシアン」から「サラクサク峠」まで登ろうと言うのだ。
自分の年齢の事もあって焦っているのだろう。
「カバリシアン」は山を背にして平地を流れる川の側の小さな村。
ここに昭和20年、祖父の部隊が駐屯していて、米軍の攻撃を受けた。
そのため祖父達はここから山道を登って標高約1500mの山々が連なる「サラクサク峠」に向かう。
直線距離で9~10キロ程度だと思うが、米軍の攻撃を阻止つつ2週間もの時間稼ぎをしながら歩いた道。
戦後、この道は崩壊していて消滅しているが、8時間もあれば歩くことは可能だという。
当時は山肌をぬって通っていた細い“けものみち”だったはず。
その道の周辺には祖父の部下たち200名以上が眠っている。
戦後、誰も足を踏み入れていないから、当然、遺骨収集は行われていない。
その道跡を8時間かけて登ろうというのだ。
となると・・・不安なのは拙者の体力。
なにせ運動不足だからねぇ~(笑)
ドミン氏は毎日5キロを歩いて体力保持に努めているという。
彼より若い拙者が脱落する可能性が高い!
しかし、道路がない山の中だから車が迎えに来てくれるわけもない。
どうなろうと自力で下山せねばならない。
こりゃ、過酷な“ハイキング”となるだろう。
しかも、時間との戦い。野宿は御免被りたい。〈笑)
今日、1時間歩いてみたところ、万歩計では4キロ歩いたことになっている。
8時間というと32キロを歩くことになるか?
山の中の、しかも延々と続く登り道。
直線距離で10キロ弱でも実際には3倍くらいにはなるんだろうなぁ~
当時の祖父と同じ年齢の拙者。
是非とも祖父が戦いながら歩いた道を歩いて、祖父の苦労を体感してみたいのだが・・・・
大丈夫だろうか?
なんだか・・・不安だなぁ~(笑)

日記 | 16:31:54 | Trackback(0) | Comments(0)
ネットショップの準備
今日は“フクちゃん”が来てネットショップの準備をする。
以前から“ネットショップ”を立ち上げようという話があったが、ようやくHPの作成に取り掛かる。
拙者は、このショップの管理運営をするのだが・・・・
困ったことに何がなんだかよくわからない。
キーボードをカチャカチャカチャ・・・
「はい、これでいいだろう」って言われても・・・・
CGIがどうのこうのって言われても・・・・
何のことやら・・・(笑)
「じゃ、とりあえず出来たから、あとはよろしく」って言われても・・・
はぁ~・・・????
自分で一からやるわけじゃないから、どうすりゃいいのかさっぱり頭の中で構想が出来上がらない。
参ったなぁ~
「とりあえず・・・」で大丈夫かなぁ~
ネットとはいえ、一応、お店だからなぁ~
わかったような・・・わからないような・・・
頭の中は真っ白。

日記 | 23:27:19 | Trackback(0) | Comments(0)
ビデオやら写真やら・・・
今日は“マツナガさん”から戦車第二師団の会総会のビデオが、“ハナオカさん”からは東大寺大仏殿前で一緒に撮った写真が届く。
わざわざお送り頂き、感謝!感謝!
お礼状を書かねばならぬが・・・・相変わらずなかなか筆が進まぬ。
参ったなぁ~
どうしてこうなんだろう。

日記 | 10:45:02 | Trackback(0) | Comments(0)
海戦
海戦(伏字復元版) 海戦(伏字復元版)
丹羽 文雄 (2000/08)
中央公論新社

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『海戦』(伏字復元版)
この本には、表題の「海戦」の他に「ラバウルの生態」「三つの並木道」「海戦の思い出」と3つの短編が載っている。
「海戦」は昭和17年、大戦中に『中央公論』に掲載された作品。
重巡洋艦「鳥海」に乗った海軍報道部員の筆者が経験した海戦について書かれている。
戦時中のことなので、軍事機密となるところは伏字となっていたもので、この本では、それが復元されている。
しかも、どの文字が伏字だったかもわかるのだが、読んでみると、なるほど確かに伏字にしないと機密上マズイよなぁ~という常識の範囲のものだった。
戦時中は言論統制がかなり厳しいと言われているが、少なくともこの作品に関してはまともな検閲だったと拙者は思う。

「ラバウルの生態」と「三つの並木道」は、筆者がラバウルに滞在していた時に見聞きしたことが書かれている。
どちらの作品も昭和18年に出されたもの。
ラバウルには火山があって噴煙でひどいところだと思っていたが、確かに埃はひどいらしいが美しい町だったらしい。
「ラバウルの中央は、奈良公園ににている」という記述には意外。
え?あの奈良公園に似てるのか?
奈良公園にはこの間行ってきたばかりだが・・・
ラバウルに、あんな公園があったのか?
どうしてもイメージが湧かないが・・・一度確かめに行ってみたい気もするなぁ~

第1次世界大戦当初には日本人がここに123人も住んでいたという。
「5,6年前には」と書かれているから昭和12年頃なのだろうか?
ラバウルがあるニューブリテン島には欧米人888人、中国人1523人、マレー人をはじめとする島民が約1万人いたという。
ラバウルには中国人町もあり、満州事変勃発時には在住日本人を襲ったらしい。
その後、太平洋戦争で日本軍が進駐するが、これら中国人に対し日本軍は何ら危害を加えていないようで、「今の日本軍は過去にすこしもこだわっていないのである」と書いている。
ラバウルに中国人町があること自体驚いたが、過去にこだわらないという軍の対応にも驚かされた。
意外や意外・・・である。
中国人は日本軍が上陸してきたらガラリと態度を変えたようだが、「心と顔がうらはらのようである」「支那人特有の信頼しかねる性格かもしれない」と書かれており、更に「島民には野育ちのようなすなおさがあり、支那人には文化の伝統のわるいあくのようなものをもっている」と書かれている。
今も昔も中国人は変わっていないという証拠だな~
中国と手を組んで商売をしようなんて考えている馬鹿な日本人は一度この部分を読んでおいたほうがいいかも。

更に驚くべきは・・・・
慰安のための映画会の映画。
なんと!
ジェームス・キャグニーの「オクラハマ・キッド」が上映されたそうだ。
あのころは“鬼畜米英”って言ってたと思うのだが・・・
アメリカ映画を見ていたとは驚きである。

読書 | 12:35:01 | Trackback(0) | Comments(0)
HP更新作業
夜、“ウメちゃん”の会社に行き、久しぶりに“ウメちゃん”の会社のホームページ更新作業に取りかかる。
本来ならば最低月に1回は内容を更新したいのだが、相変わらず“ウメちゃん”はPTAなどで大忙し。
やっと時間が取れたので・・・・さぁ!やるか!
と思ったら・・・
さて・・・前回はどこまでやったんだっけ?
あれぇ~何をどうするのか忘れてしまっている!
しばらく経ってようやく思い出し・・・・よし!やるぞ!
ところが・・・
PTAの話しを延々と話しかけられ、さっぱり前に進まぬ。
あのぉ~横から話しかけるのはやめてもらいたいんですけど・・・(笑)
専門書を読みながら素人の拙者がわかりやすく書き上げる作業。
業界のプロには当たり前の表現でも素人の拙者にはわからぬ。
拙者がわからんということはお客さんもわからんということになる。
だから・・・拙者が自分で書く。
この調子で行くと、そのうち拙者はこの業界のことに詳しくなってしまうのではあるまいか?(笑)
拙者は何者?
結局、おしゃべりの方が多かったため、今回の作業は中途で終ってしまった。
やむを得ないよなぁ~

日記 | 20:40:15 | Trackback(0) | Comments(0)
タケノコが届く
曙光会の総会で同室だった“トネガワさん”からタケノコが届く。
拙者が“当番兵”を勤めた、あの“衛生兵殿”である。
大変世話になったので・・・と手紙に書いてある。
いやぁ~嬉しい!
若輩者の拙者にわざわざ自分の山で取ったタケノコを送ってくださったのだ!
さっそくいただく。
食べずにお礼の電話をしたのでは失礼だ。
ちゃんとご馳走になってから御礼を言わねば心がこもらぬ・・・というのが拙者の主義。
おいしい!最高だ!
食後、早速お宅にお電話をしたところ・・・
“おばあちゃん”が電話に出てきた。
電話を取り次いでもらったら・・・遠くで“おばあちゃん”の笑い声が・・・
しばらく後、“おばあちゃん”がケラケラ笑いながら電話に出てきた。
「アハハ・・おじさんは耳が遠いから電話に出たくないって言ってますよぉ~アハハ・・・」
なんと明るい“おばあちゃん”だろうか。
ついついつられて拙者も初対面だというのにゲラゲラ笑ってしまった。
あの“衛生兵殿”が口を尖らせて「俺は耳が聞こえんから電話に出られん!」と言っている姿が目に浮ぶ。
とにかく御礼を述べて電話を切ったが・・・こりゃ、改めて御礼の手紙を書かねばなるまい。

日記 | 22:33:02 | Trackback(0) | Comments(0)
コンサルティングに行く
本日は以前依頼を受けていたT社のISO維持のためのコンサルティングに行く。

実質、今回が2回目のコンサルティングだが、前回指摘した事項の半分程度しか実行されていない。
「いろいろと忙しくて・・・」「何かと難しくて・・・・」の連発。
まぁ~やむを得ないが、拙者が関わったことで良くなってもらわねば困る。
かといって、ギューギューと締めたのでは何にもならぬ。
ここは多少のことは目をつぶらねばなるまい。
問題はISOに特化されているが、多少、方向転換して、実践的な品質管理の基礎から組み立てねばいけないような気がする。
現場作業者と直接話をして、現在の仕事の負担にならないような形で、どう改善していくか・・・ということを主眼に指導する。
まずはISOに対する嫌悪感を取り除かねば・・・・

あれやこれやと指導をしているうち、あっと言う間に夕方!
あれ?
拙者が自分の会社で仕事をしていた時より、やたらと時間が過ぎるのが早くないかい?
久しぶりに真面目に仕事をしたぞ!(笑)

日記 | 20:27:33 | Trackback(0) | Comments(0)
千円札を拾う
旅行中は1日に2万歩も歩いたが、帰宅したら駄目だねぇ~
昨日は1,100歩しか歩いていない。
いつもは車で買い物に行くが、今日はそれをやめて徒歩で買い物に行くことにする。

先日までは汗をかきながら歩くくらい暑かったのだが・・・
今日は打って変わって・・・寒い!
手がかじかむくらい寒い!
銀行、文房具屋、本屋、レンタルビデオ店と回る。
帰り道、某タバコ屋の前を通ると歩道の真ん中に千円札が落ちている。
あれ?
タバコを買った客が落としたもののようだ。
う~ん、どうしようかなぁ~
正直言って、これは迷いますよ~
神様からのプレゼントか?
旅行中にはいくつもの神社をお参りしたからなぁ~
しかも、今日はいろいろとお金を使ったし・・・
ここで臨時収入はありがたい。
しかし・・・
もしかして、これは「ビックリカメラ」か「ドッキリカメラ」の類かも知れぬ。
歩道の真ん中に千円札というのも不自然な気がしないでもない。
誰かがどこかに隠れて見ているかも・・・・
拙者は案外気が小さいのだ。〈笑)
結局、タバコ屋の娘さんに千円札を届けて立ち去ることにした。
正直言って、100円くらいならネコババしたかもしれないが・・・
お札となると、なかなかネコババするには気が引けるものである。


日記 | 15:01:55 | Trackback(0) | Comments(0)
温泉センターに行く
旅から帰ってきたら、自動車修理工場の“トシちゃん”から「温泉に行きませんか?」のお誘いの電話。
グッドタイミング!
旅の疲れを癒すには・・・・温泉!マッサージ!
というわけで、『温泉センター』に行く。

しかし・・・何を焦ってしまったのか・・・・
食後すぐにマッサージを受けたため、背中を押されると食べたものを吐きそうになる。
ウウッ・・・苦しい~
何のためのマッサージだったのか、さっぱりわからなくなったが、やっぱり温泉はいい!
気分最高であった。

日記 | 18:23:03 | Trackback(0) | Comments(0)
堺鉄砲之碑
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(大阪府堺市)

堺鐵砲之碑

古くから日本の中心地への交易拠点であった堺は中世末期には物資の一大集散地として栄えていた
その頃種子島から堺に伝来した火縄銃は古代から金属産業の伝統を持つこの界隈で量産化され堺は我が国最大の生産地となった
火縄銃は国内統一を早め戦乱の世を終らせる要因の一つとなった
堺の金属産業の輝かしい歴史の中でも記念すべき一頁である
このような史実、文化を保存継承する趣旨で発足した堺火縄銃保存会が今世紀末の本年創立20周年に当たり改めて郷土の歴史の栄華を称えここに記念碑を建立する

平成12年10月(2000年)

(碑文より)

堺鉄砲の碑

史跡 | 23:33:32 | Trackback(0) | Comments(0)
堺奉行所跡・旧堺市役所跡
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(大阪府堺市)

堺奉行所跡・旧堺市役所跡

堺奉行は江戸幕府の遠国奉行(おんごくぶぎょう)の一つです。
奉行所の位置は現代の車之町東・櫛屋町東両町の二丁から三丁にまたがる一帯に該当し、江戸時代には奉行屋敷、与力同心屋敷など武家屋敷が立ち並んでいました。
奉行は旗本のなかから選ばれ、堺の町内と港湾を管理し、町民の訴訟を処理することが仕事でした。
その前身は、安土桃山時代から江戸時代のはじめに堺を支配した「堺政所(さかいまんどころ)」に求めることができます。
「堺政所」は貞享年間(1684~1687)頃堺奉行と改称され、与力10騎、同心50人とともに堺の支配にあたったのです。
堺奉行所は元禄9年(1696)幕府の方針によって廃止され、大坂町奉行所が堺を管轄することになりました。
しかし、元禄15年(1702)には再興され、慶応3年(1867)まで堺の支配を行いました。
明治25年(1892)には、奉行所跡に堺市庁舎が建設され、昭和19年(1944)に南瓦町へ移転するまでの52年間はここに庁舎が置かれていました。

(説明板より)

堺町奉行所跡・旧堺市役所跡

史跡 | 22:33:30 | Trackback(0) | Comments(0)
菅原神社 楼門
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(大阪府堺市)

大阪府指定有形文化財
菅原神社 楼門

昭和45年2月20日指定
昭和51年解体修理

この門は正門の柱間が三間、出入口が一ヶ所の三間一戸(さんげんいっこ)の楼門(ろうもん)で、屋根は入母屋造・本瓦葺です。
楼門とは二階建の門で、上層に手すり付の縁が廻らされている門のことをいいます。
この建物の特徴のひとつは軒を支える複雑な組物に、彫物をほどこした絵様肘木(えようひじき)を用い簡略化していることです。
特に上層では、大斗(たいと)絵様肘木の上に尾垂木(おたるき)付きの絵様実肘木(さねひじき)を重ね、伝統的な二手先(にてさき)組物に似た構成としています。
これらは近世建築の様々な表現方法のひとつと考えられ、建築史上の意匠変化を知る上で重要です。
このような特色ある手法や様式などから、建立年代は17世紀後期にさかのぼるとみられます。
大阪府下での数少ない楼門建築として貴重です。

平成4年3月
大阪府教育委員会
堺市教育委員会

(説明板より)

菅原神社楼門

史跡 | 21:30:39 | Trackback(0) | Comments(0)
大阪府立三国丘高等学校発祥之地
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(大阪府堺市)

大阪府立三国丘高等学校発祥之地

明治28年、当神社境内にあった旧堺市庁舎を仮校舎として大阪府第二尋常中学が開校した。
翌年本校舎が完成し、現在地(三国ヶ丘)に移転したが、移転後も約1年寄宿舎は当境内にあった。
その後校名を堺中学校に改め、昭和23年学校改革によって三国丘高等学校となり今日に至った。
創立百十周年にあたり、発祥の地を後世に伝えるべく碑を建立する。

平成17年11月11日
大阪府立三国丘高等学校三丘同窓会

(碑文より)

大阪府立三国丘高等学校発祥之地

史跡 | 21:02:52 | Trackback(0) | Comments(0)
大阪府立泉陽高等学校発祥之地
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(大阪府堺市)

大阪府立泉陽高等学校発祥之地

明治7年(1874年)5月、この地に堺縣により女子教育の場として女紅場が設置され 明治33年(1900年)堺市立堺高等女學校 明治45年(1912年)大阪府立堺高等女學校 昭和23年(1948年)學制改革により共學の大阪府立泉陽高等學校となる。
爾来卒業生数は既に三萬名を越し伝統と榮光は世に冠たるものがある。
茲に創立百周年を迎えるに當り改めてその歴史を讃え一層の飛躍を祈念して發祥の地に記念碑を建立する次第である。

平成12年4月(2000年)
大阪府立泉陽高等學校同窓会 泉陽会
第13代校長 村上 久三郎 文
昭和38年卒 前島 良彦 書

(碑文より)

大阪府立泉陽高等学校発祥の地

史跡 | 20:33:32 | Trackback(0) | Comments(0)
与謝野晶子生家跡
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(大阪府堺市)

与謝野晶子生家跡

歌人・与謝野晶子(よさのあきこ)(1878~1942)は、明治11年(1878)12月7日、当時の堺県甲斐町46番屋敷で菓子商駿河屋(するがや)を営む鳳宗七(ほうそうしち)の三女として生まれました(本名:志(し)よう)。
幼い頃から『源氏物語』などの古典に親しみ、17歳頃から歌を詠み始め、明治34年(1901)、与謝野鉄幹(てっかん)のもとへ上京するまで、青春時代を堺のまちで過ごしました。

~以下、略~

堺市

(説明板より)

与謝野晶子生家跡

史跡 | 19:30:27 | Trackback(0) | Comments(0)
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