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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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別府市公会堂
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別府市公会堂
(中央公民館・市民会館)

建設:昭和3年3月28日
復原:平成28年3月7日(竣工)
設計:吉田鉄郎(旧逓信省技師)

別府市を代表する近代化遺産として平成6年11月26日に別府市指定有形文化財に指定されました。
建物の1階部分を中央公民館、2・3階部分を市民会館として使用しています。

(説明板より)



【大分県別府市】

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建物 | 12:41:19 | Comments(0)
国立歴史博物館(台北)
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国立歴史博物館(台北)

精選所蔵の文物展

国立歴史博物館は1955年12月4日に設立されました。
当時の名称は国立歴史文物美術館で、台湾で最初の国家博物館です。
設立当初は、標本や図で中華文化を展示していました。
1956年、教育部より戦後日本国から返還された文化財の寄贈を受けたり、また戦前、台湾に運ばれて来た元河南省立博物館の文化財などを所蔵品に加え、更に政府や民間の寄付などで、これまで約6万点を超える規模に成長しました。
その中には、文化部から指定された国宝が5点、重要文化財が42点含まれています。

所蔵品のジャンルは多岐に渡り、春秋時代の青銅器、玉器、洛陽の唐三彩や各時代の異なる貨幣など、主に庶民生活と密接したもので構成されています。
この度の展示は所蔵品の中から精選した文化財を中心に、先人たちの知恵や世界観を感じ取っていただくと同時に、皆様に中華文化の美をお伝えできればと思います。

(リーフレットより)

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建物 | 21:59:32 | Comments(0)
元・国立台湾科学館
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「元国立台湾科学館」の役割

設立当初の名称は「国立台湾科学館」でしたが、1962年に「国立台湾科学教育館」に改称されました。
当時、台湾における科学的、社会的教育を推進する教育部(文部省)の重要な附属機関として設置され、「科学観覧会」、「中小学科学展覧」、「台湾国際科学展覧会」、「全国発明・創作展覧会」の開催、全国初となる「4D体感劇場」といった科学関連のアイデアあふれる活動を次々と催し、台湾の科学教育面において成果を収めるという重要な役割を果たしてきました。

國立臺湾工藝研究発展中心

(説明碑・碑文より)


元科学館立面の風格

この建物の立面の風格は次のように大きく3つに分けられます。
1、1~4階は壁材に人造石を採用することで、穏健着実な「土台」のイメージを作り上げた。
2、5~7階は、伝統的な建造物によく使われている赤レンガと木枠にガラス窓・螺旋状のスロープで構造物の「本体」を表現。
3、陶器瓦で幾層にも重なった寄棟造の象徴とも言える「重檐攢尖頂」という屋根を葺き、正面からは大型の階段でそのまま2階に上がれるようにした。
ここは正門の上に建てられた木造の楼閣につながっており皇帝に拝謁するかのような入口の造りになっている。
周りを石望柱と欄干で囲み、全体的に中国北方の「官式建築」の様相を呈している。

国立台湾工藝研究発展中心
臺北當代工藝設計分館

市定古蹟『南海学園科学館』

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(説明板より)

建物 | 20:36:06 | Comments(0)
国立台湾博物館
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国立台湾博物館

沿革と建築

本館は1908年に設置され、台湾では最も歴史ある博物館である。
当時の日本政府は台湾南北縦貫鉄道の開通を記念するために、1908年10月24日に「台湾総督府博物館」を設立し、開館当時の収蔵品は一万点以上あった。
1915年、博物館の新館が台北の新公園に落成し、日本植民政府が台湾で建築した公共建築物の代表傑作の一つになった。

中華民国政府が台湾に来てから、本館は1949年に台湾省教育庁の所属となり、「台湾省立博物館」に改名した。
1961年と1994年の二回の閉館修繕を経て、1999年に中央行政機関の所管に格上げ、「国立台湾博物館」に改名し、今日に至っている。
各年代によって名前が違っても、台湾では日本統治時代から戦争と政権交代を乗り越え、今日まで同所で運営されている博物館である。

本館の建物は1915年に落成され、設計者は建築士の野村一郎で、施工者は高石組などであった。
建築仕様はルネッサンス時期のギリシャドリス(Doric)式の模倣で、中央ドームの高さは三十メートル程で、非凡で迫力に満ちた様は、人々の目を引いた。
建築構造は鉄鋼コンクリートとレンガを組合せ、主要建材は日本の赤坂の黒大理石と水戸の白寒水石で、木材は現地の台湾ヒノキを使用し、外壁には洗い石をあしらった。
博物館が建築された当時としては、構造技術及び資材において他に右に出る建物は無く、その壮観な建築形態と優美な古典彫刻工芸もこの九十年来、台湾近代に於いてとても貴重な建築宝物である。

多くの古典西洋建築要素を組み合わせた博物館は建物本体の平面が「一」の文字になっており、正面北側が館前路、南側が228平和公園に面し、館内からは園内で最も多くの自然な景色が眺められる。
また、台湾の夏の炎熱気候に合わせるため、南北一直線の建物の配置は西側からの日照面積を減らすことができ、これも建築者が都市計画と現地の気候を十分に考えた結果であった。
博物館の主要出入口とロビーは中央にあり、展覧室はロビーを中心として両側にあり、左右対称、シンプルで力強い形になっている。

博物館の外部構造はギリシャ古典形式で、入口の正面はギリシャ神殿式の建築仕様である。
上に続く階段、巨大なドリス式(Doric)柱と華麗な花と葉の模様をあしらったペディメントが主な特徴で、ローマドーム式の天井を合わせて、荘厳で神聖な権威あるムードを漂わせている。

中央ロビーは博物館建築の真髄である。
ロビーの四方は32本の高いコリント式(Corinthian)柱に囲まれ、柱の頭には繊細なアカンサスと螺旋状の模様があしらわれている。
中央ロビーに立ち、頭を上げるとドームの下にステンドグラスの天井が見える。
これは、凝った装飾であるというだけでなく、ステンドグラスには採光の効果もあり、日の光が間接的にステンドグラスを通り、ロビーのフロア全体に眩しい光を投射し、豪華で華麗な雰囲気を醸し出している。

元々はロビーの両側にある床の間に当時の台湾総督児玉源太郎と民政長官後藤新平二人の銅像が置かれており、児玉家と後藤家の家紋を組み合わせた図案が一階の主要階段の柱の土台に装飾として彫刻されていた。
このことから当時この館が建てられた目的を垣間見ることができる。

この20世紀初めから台北駅の正面にあった博物館は、清代の台北城の東西と南北の交差点に位置し、古典的で荘厳な建築、豊富で多様な展示収蔵品と核心的な地理位置で重要な歴史ランドマークの一つとなり、1998年、内政部は博物館を「国家古跡(国の指定文化財)」に指定した。
日本統治時代の「台湾総督府博物館」から、今の「国立台湾博物館」、本館は台湾の歴史歳月を目撃してきたと同時に、この地の自然と人文の出来事も記録してきた。
窓のような博物館を通して、台湾の人文、地質、動物及び植物など発展の軌跡と表情を見ることが出来る。

(リーフレットより)

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建物 | 19:39:42 | Comments(0)
鑰屋(かぎや)
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慶長5年(1600年)創業の鑰屋(かぎや)可児醤油のお話

美濃の藩主(岐阜県)稲葉貞通が臼杵に移封される1年前
臼杵の町を偵察に来た7人の侍がいた
俗に言う7人の先遣隊である。
行商人に変装していた可児孫右衛門は
1年後に藩主の御供をして来た次男と共に
鑰屋可児傳右衛門店(可児醤油)を本町のこの場所で創める
鑰屋可児醤油は以後、醸造(酒、味噌、醤油)、両替商等手広く商い
城下町商人として稲葉藩に献納し繁栄をもたらし
名字、帯刀を許された。
殿様御家督の折には、金、3000疋献納
1794年江戸邸消失の折には、金、壱百両献納などがある。
本社二階の窓には鉄扉があり四百年建物を守っていましたが
戦時中鉄砲の弾にと供出しました。
白壁は米軍のB29戦闘機の目標になると軍から達しがきて
墨で黒く塗った名残です。
右端の店舗には孫右衛門や丁稚が歩いた「三和土(たたき)」があります。
歩くと石がグラグラと揺れます。

(説明板より)

【大分県臼杵市臼杵・本町商店街(八町大路)】

建物 | 10:29:03 | Comments(0)
梅津会館
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登録有形文化財
梅津会館(うめづかいかん)
(平成11年8月23日登録)

梅津会館は、昭和11年に当時の太田町役場として建築された。
外観はタイル貼りで、南東角に角塔を持ち、正面に大アーチの車寄を張出した本格的な庁舎建築である。
この建物は、常陸太田市出身で23歳のときに北海道函館に渡って海産物問屋を営み、その誠実な人柄と持ち前の商才から大成功をした梅津福次郎からの3万5千円の寄付で建てられた。
福次郎は故郷への恩返しを忘れず、大正末期から昭和初期にかけて、この梅津会館をはじめ、久昌寺、太田高等女学校(現県立太田第二高等学校)、西山修養道場(現西山研修所)、若宮八幡宮などに寄付をし、事業の援助を行った。
昭和53年まで常陸太田市役所として利用された後は、梅津福次郎の徳に因んで梅津会館と改称し、内部を改装して郷土資料館として活用している。

常陸太田市教育委員会

(説明板より)

【茨城県常陸太田市】

建物 | 17:22:50 | Comments(0)
澎湖県・第一賓館
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(台湾・澎湖島)

第一賓館

【建築の特色】

第一賓館は和洋折衷の建築様式となっています。
内部の空間は「洋風空間」と「和風邸宅」の二つの部分に分かれています。
洋風空間には「表玄関(正面玄関、広間)」、「応接室(洋風の客間)」、寝室があります。
和風邸宅は「内玄関(側面玄関)」、二組の「座敷(和風の居間)と次の間(座敷の隣の部屋)」からなっています。
入り口の玄関は当時流行していた「入母屋造」の屋根と洋風門扉の構造になっており、家屋の外壁は主に烏石で造られた耐力壁構造になっています。
内壁の間仕切り壁は当時最先端だった洋風の「木摺漆漆喰(板に漆喰を塗って仕上げた壁)」と伝統的な和風の「竹木舞造壁(竹を組んで漆喰を塗った壁)」による工法が用いられています。
座敷と次の間を仕切る引き戸の上の欄間にはヒノキの板に富士山の景色を透かし彫りした特殊な工法が用いられています。
入口玄関の地面と壁面には澎湖特産の「洗砂頭」、「洗石子」、「レンガ造漆喰壁」の工法と材料が使用されています。
屋根は切妻屋根となっており、セメント製の理想瓦(上瓏瓦)が張られています。
1956(民国45)年に澎湖が修築した際、内部の間仕切り壁を一部改築しました。
また板張りだった廊下にじゅうたんを敷き、寝室の畳を外してフローリングに改造しました。

第一賓館はその建築の特色と歴史的な意義により、1998年12月10日に県指定の史跡となりました。
2000年には頼峰偉県知事が軍の協力を得て第一賓館を県の管理に置きました。
県では2002年に調査研究および修復計画をまとめ、2006年に改修工事に着手しました。
そして2008年7月30日、王乾発県知事が上棟式を主催して新たな看板が掲げられました。
2009年に改修工事が完了し、2011年5月18日に開館を迎えました。

(日本語リーフレットより)

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建物 | 14:26:04 | Comments(0)
澎湖開拓館
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澎湖開拓館

本館は日本統治時代の澎湖庁長官舎であり、また太平洋戦争後は澎湖県長の公館として使用されていました。
重厚な構造と優雅な庭園を有する大正昭和時期の典型的な和洋混合式建築であり、1935年(昭和10年)3月10日に竣工されました。
1999年に澎湖県政府はこの歴史的建築物を有効活用するため、澎湖県長公館の風貌を留めながら修復を施し、澎湖開拓館として装いも新たに、2003年7月に澎湖の歴史文化を知るための足がかりとして開館しました。

澎湖県長公館は大正昭和期の典型的な和洋混合式建築であり、門構え、玄関、応接間、茶の間には昭和初期に導入された鉄筋コンクリート様式を使用する一方、屋根、座敷、次の間、寝所、廊下は日本の伝統様式によって設計されています。
まず正門入り口の前庭に入ると澎湖特産の玄武岩(猫公石)を切り出したものが壁として置かれ、内と外が隔てられています。
正門入り口の廊下は洋風様式で造られており、正門はルネッサンス時代のものをかたどった内開きの木製門となっています。
玄関と外壁の台座にも洋風建築をかたどった石材が使用されています。
応接間と茶の間についても洋風の設計と素材が取り入れられており、客間の窓は当時流行していた洋風八角窓となっています。
また来客用スペースとプライベートスペースは壁によって区切られており、これも洋風建築となっております。

(日本語説明板より)

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建物 | 10:08:07 | Comments(0)
岩国徴古館
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岩国徴古館の建物の概説

当館は、物資統制下の戦時中に、旧藩主吉川家が「郷土に博物館を」という目的で建てた建物で、昭和17年(1942)9月27日起工、同20年(1945)3月10日竣工。
設計は佐藤武夫。
施工は株式会社池田組。
佐藤武夫(1899~1972)は名古屋に生れ、岩国中学校を卒業して早稲田大学で建築学を専攻し、同大学の教授となり、建築音響学の分野を開拓した。
又、日本建築学会の会長を勤め、芸術院賞を受賞した。
当館は、佐藤武夫が学究心を燃やして初めて手がけた作品で、当時、建築学界に新しい感覚で受け入れられたヨーロッパの古典主義様式を基本にして、佐藤の建築家としての才気を表したものである。
特に、展示室内部の下部が広がった列柱や、木製の階段の形態などに、物資の乏しい戦時下の建築とは思えない豊かさを感じさせる。

岩国徴古館

(説明板より)


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建物 | 11:47:13 | Comments(0)
吉岡家長屋
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(山口県下関市)

吉岡家長屋(長府宮の内町)
下関市指定有形文化財
指定年月日 昭和52年2月16日

建物の所在位置は 江戸時代中期の長府屋敷割図に大久保五郎左衛門の屋敷地として記録されている
なお 大久保家は長府藩馬廻として藩の要職に就いていた。
間口三間(5.45メートル)奥行六間(10.91メートル)もこの建物一棟は長屋として用いられたものらしく 建築年は不詳であるが 外観や構造は文化・文政期(江戸時代後期)の特徴をよく残している
また大壁を厚く堅固にした造りなどから城下町特有の防衛的性格が窺える

平成8年3月31日
城下町長府まちづくり協議会
長府観光協会

(説明板より)

建物 | 14:30:22 | Comments(0)
北海道庁旧本庁舎
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重要文化財
北海道庁旧本庁舎

四季折々に赤く映え、美しい姿を見せている北海道庁旧本庁舎は、“赤れんが”の愛称で広く道民に親しまれています。
赤れんが庁舎が産声を上げたのは、明治21年(1888)。
この設計は、道庁の技師が担当し、アメリカ風ネオ・バロック様式のれんが造りで、建築資材の多くは、道産品を使用しました。
当時は鹿鳴館と並ぶ国内有数の大建築物でした。
以来、新庁舎完成までの80年にわたり、北海道の拠点、道政の中枢としての役割を果たしてきました。
建物の頂きにそびえる八角塔は、当時、アメリカで独立と進取のシンボルとしてドームを乗せる建築様式が流行していたため設置されたといわれています。
赤れんが庁舎は、明治42年(1909)の火災で内部および屋根を焼失しましたが、幸いなことに、れんがの壁だけはほとんど無傷で残ったため、翌年には復旧工事に取り掛かり、同44年(1911)に再建されました。
その後、昭和43年(1968)に北海道百年を記念して、創建当時の姿に復元し、永久に保存することとなりました。
今日、これほどの優れた明治時代の洋風建築物は国内でも数少なく、翌44年(1969)3月、国の重要文化財に指定されました。

(説明板より)


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建物 | 14:36:37 | Comments(0)
豊平館
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豊平館

明治文化の薫りが漂う豊平館は、明治31年に現在の中央区北1条西1丁目に北海道開拓使直属の洋風ホテルとして、開拓使工業局営繕課の直営工事によって建築されました。
明治14年8月30日から4日間、明治天皇北海道行幸の行在所にあてられ、この日をもって開館日とし、同年11月に民間人に貸付られ、「ホテルと西洋料理店」が営まれることになりました。
明治44年の皇太子殿下(大正天皇)、大正11年の摂政宮殿下(昭和天皇)の行啓の宿泊所ともなった豊平館は、明治43年に宮内省から札幌区が貸下げを受け、公会堂としての公共的機能を持つようになり、大正11年には札幌市の所有になります。
そして、昭和2年には新公会堂が豊平館の後方に接続して完成し、文化活動の拠点となりました。
昭和33年には市民会館建設のため、現在地の中島公園に移築され、市営総合結婚式場として新しい人生の門出を祝う施設となりました。
昭和39年、国の重要文化財に指定され、その後、老朽化と移築などで創建時の姿が損なわれたこともあり、昭和57年から5年計画で、修復事業に着手し、同61年に展示などの館内設備も併せて完成しました。
この修復された豊平館の見どころのひとつは、白い外壁を縁どるウルトラマリン・ブルーで、創建当初の状態に復元したものです。

(リーフレットより)


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建物 | 10:34:55 | Comments(0)
旧北海道庁函館支庁庁舎
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旧北海道庁函館支庁庁舎
(北海道指定有形文化財)

旧北海道庁函館支庁庁舎は、明治42年(1909年)に建てられ、公園造成と合わせて昭和57年(1982年)に修復整備されたものです。
特徴のひとつに柱廊玄関があり、2階に張り出した屋根が柱頭飾り(コリント式)と中央部に膨らみのある(エンタシス風)巨大な4本の柱で支えられています。
明治末期の函館を伝えるこの洋風建築物は、北海道開拓の歴史上価値が高いことから、昭和60年(1985年)北海道有形文化財に指定されています。
現在は、1階を元町観光案内所として利用し、2階は「写真歴史館」として“北海道写真発祥の地 函館”の歴史を伝える貴重な写真機器や資料を展示しています。
また、ここ元町公園は、江戸時代には松前藩の藩所や函館奉行所が、明治維新後は開拓使函館出張所や函館県庁函館区役所等が置かれ、常に行政府の中心となっていたところです。

函館市

(説明板より)

建物 | 14:58:21 | Comments(0)
旧函館区公会堂
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旧函館区公会堂

明治40年(1907年)8月の大火は函館区の約半数、12,000戸余りを焼失した。
この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため「公会堂建設協議会」が組織され、建設資金として区民の浄財を募ったが、大火後のため思うように集まらなかった。
当時、函館の豪商といわれた相馬哲平氏は自分の店舗などの多くを焼失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したため、これをもとに明治43年(1910年)現在の公会堂が完成した。
この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で左右対称形となっており、2階にはベランダを配しているほか屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど特徴的な様式を表わしている。
昭和49年5月、国の重要文化財に指定され、昭和57年約3年を費やして修復された。

函館市

(説明板より)

建物 | 13:42:08 | Comments(0)
旧八戸小学校講堂
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明治記念館(旧八戸小学校講堂)

明治記念館の由来
明治記念館は八戸市堀端に八戸小学講堂として、明治14年(1881)8月に竣工した、県内に現存する最古の洋風建築である。
洋風の下見板張りの外壁が真壁として納まり、柱頂部には飾を載せ、胴蛇腹と軒蛇腹とを備えている。
明治14年の明治天皇東北御巡幸に際し行在所として用いられた。
昭和4年には八戸市図書館となり、御聖蹟として維持される。
昭和37年に櫛引八幡宮境内へ移築し、その際窓回り等に若干の改造が加えられてはいるが、「明治」の雰囲気を色濃く伝えており、「明治記念館」として現在に至る。
(現在は直会所・神前結婚式控室・会議室等に使用している。県重宝平成3年3月13日指定)


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建物 | 15:14:51 | Comments(0)
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