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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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名古屋に向かう
今日から名古屋方面に行く・・・
ここ数年、我が戦友会の会長にお会いしていない。
会長が体調不良のためということもあるのだが・・・
お見舞いと言ったら大げさになるので、会の打ち合わせを兼ねてということで、会長に会いに行くことにした。
で・・・そのついでに、神戸、大阪まで足を延ばしてブラブラと旅をすることにした。(笑)
こうなると、何を目的に出かけるのかと言われてしまいそうだが・・・(笑)

朝、家を出て・・・お昼に東京駅から新幹線で名古屋駅へ・・・

まずは、大好きな史跡巡り!(苦笑)
最初に向かったのは、「中村公園」・・・別名「秀吉清正公園」とも言うらしい。

DSCN4386_convert_20170623172319.jpg

桜が満開である!(喜)

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この「中村公園」には、ずいぶん昔に一度だけ訪れたことがある。
ずいぶん昔だと思うから・・・25年ぐらい前ではなかろうかという気がするが・・・
とにかく、社会人になって、出張で名古屋に来たついでに立ち寄った覚えがあるのである。
が・・・公園の前まで来たが・・・全く記憶がない!(大笑)
あれ?・・・・である。(汗)

DSCN4391_convert_20170623173157.jpg (豊国神社)

この公園の中に「豊国神社」というのがある。
御祭神は豊臣秀吉である。
この公園に来て豊国神社をお参りしないはずはないのだが・・・・記憶にない!(大汗)

DSCN4392_convert_20170623173352.jpg (豊公誕生之地碑)

すぐちかくに「豊公誕生之地」碑が建っていた。
当然、これも記憶にはない・・・(苦笑)

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「中村公園」には池もある・・・・が・・・・これも記憶にはない・・・(苦笑)

DSCN4407_convert_20170623173522.jpg (橘中佐碑)

「橘中佐碑」というのを見つけた!
橘中佐とは、日露戦争で戦死した橘周太陸軍中佐のことで、“軍神”である。
が・・・なんで、ここに碑が建っているんだろう?
橘中佐は長崎県の出身である。
また、戦死したときは静岡の歩兵第34連隊の第1大隊長だった。
もしかしたら、明治35年、陸軍少佐の時に「名古屋陸軍地方幼年学校」の校長だったので、それで名古屋に碑を建てたのだろうか?
でも、なんで「中村公園」に建てたんだ?
よくわからん・・・
説明板が設置されていないのが残念である。

DSCN4408_convert_20170623173547.jpg (中村公園文化プラザ)

すぐ近くに「中村公園文化プラザ」という建物が建っていた。
なぜか、この建物だけは記憶にある。
なんでだろう?(苦笑)
この建物の中に資料館があるのだが・・・
もしかしたら、休館日に来てしまい、見学できなかったので、悔しさのあまり、それで記憶に残っているのだろうか?(苦笑)
資料館を見学してみたが・・・当然、記憶にない・・・(苦笑)

DSCN4409_convert_20170623212958.jpg DSCN4410_convert_20170623213022.jpg

DSCN4414_convert_20170623213055.jpg (石田三成自筆密書)

『石田三成自筆密書』(複製)というのが展示されていた。
石田三成の自筆である!(驚)
この密書は石田三成が真田昌幸に徳川家康打倒の構想を伝えたものだとのこと・・・・
「密書」というのは、読んだら燃やしてしまうものだと思っていたが、今の世まで残っていたのか?(唖然)
この密書を受け取った真田昌幸は、このヤバイ代物を大事にとっておいたのか?(汗)
後々、何かに使おうとしていたのだろうか?

他の資料館や博物館では、こういう古文書は、ただそのまま展示されていることが多い。
が・・・ここでは、読み下し文と現代語に訳した文も掲示されているのである。
なんと親切な事か!(喜)
これはすばらしい展示の仕方だと思う。

「中村公園」を出て、すぐ近くにある「妙行寺」に向かう・・・・

DSCN4434_convert_20170623215409.jpg DSCN4431_convert_20170623215325.jpg

この「妙行寺」は加藤清正の誕生の地だそうだ。
ここには初めて来たような気がする・・・
来たことがあるのか、ないのかがわからないなんて、なんと記憶力の悪いことか・・・(涙)

続いて、すぐ近くにある「常泉寺」に向かう・・・・

DSCN4436_convert_20170623215506.jpg DSCN4437_convert_20170623215534.jpg

ここは豊臣秀吉の誕生の地だそうである。
あれ?・・・・「誕生の地」の碑は中村公園にあったのだが・・・
なんでここに碑を建てず、向こうに建てたんだろう?(苦笑)
この「常泉寺」は「中村公園」に隣接するような場所に位置しているので、「この一帯が生誕の地」ということになるのだろうか?
豊臣秀吉が、そんなに広大な屋敷で生まれたとは思えないのだが・・・(苦笑)
この寺の境内に「豊太閤産湯の井戸」というのがある。

DSCN4446_convert_20170623221256.jpg (産湯の井戸)

それにしても、加藤清正と豊臣秀吉ってご近所同士だったのか?(大汗)

時刻は午後4時・・・・
今日は名古屋駅前のホテルに宿泊する。
ここまでは名古屋駅から電車に乗ってやって来たが、帰りも電車では芸がない・・・(笑)
ということで・・・・徒歩で名古屋駅まで向かうことにする。
約1時間歩いてホテルに到着!
う~ん・・・いい運動になった!(笑)

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旅行 | 16:05:12 | Comments(0)
帰国!
軽く仮眠をとるが、結構、グッスリと寝たみたい・・・(大笑)
前回、別のツアーで来たときはホテルに宿泊したため、仮眠なんてもってのほか。
寝坊したら大変である!
というわけで・・・マッサージを呼んでマッサージをしてもらいながら時間を潰したが・・・
今回は、“別荘”である!(笑)
寝坊しても誰かが起こしてくれるだろうと「高を括って」熟睡した。(大笑)

荷物の最終チェックと家の中の掃除・・・
といっても、この“別荘”の最高齢宿泊者の拙者は・・・何もしない・・・(笑)
ほとんど、最年少者の“ナカムラさん”が、やってくれた!(喜)
感謝、感謝である。

靴底が無くなった我がトレッキングシューズは、他のゴミと一緒に棄てることにする。
一緒にフィリピンの山岳地帯を歩いた、長年の“戦友”とも、ここでお別れである。
思い出の多い靴なのだが・・・(涙)
スーツケースには余計なスペースはないので、持ち帰れない。
まぁ~持ち帰っても使い物にならない靴だから無駄と言えば無駄なのだが・・・
思い出がねぇ~・・・あるからねぇ~
こういう思い出に執着してしまうところが拙者の欠点でもある。
だから、なかなか自宅も我が部屋も、物が捨てられず片付かないのである。(大汗)

午前1時過ぎ、現地旅行社の送迎車に乗り空港に向かう。
途中で別のアベック客をピックアップ。
どういうわけか、日本人というのは(特にアベックは)、こういう時に挨拶をしない。
我々がいるのが見えないという、“無視”する態度・・・・(唖然)
後から乗り込んでくるのだから会釈くらいあってもいいと思うのだが・・・
わざわざ気を使って席を移動して空けてあげたんだし・・・
「すみません」とか「ありがとうございます」くらいの一言があってもいいと思うが・・・無視である。
まぁ、最近の若い人は、こういうものなのだろう・・・
こういうことにムカッとくるんだから、拙者も歳を取ったものだ・・・(苦笑)

成田行きの便なので、当然、チェックインカウンターには日本人の行列が・・・(汗)
中には、もめてゴタゴタしている連中もいたが・・・・
拙者はスムーズにチェックインを済ませ、手荷物検査もスムーズに通り搭乗口へ・・・
以前と同様、相変わらずの混雑・・・
拙者は、この搭乗口で待つというのが好きではない。
とにかく他の乗客を見ているとムカムカしてきてしまうのである。(苦笑)
横柄な態度のチンピラ風の連中がいる・・・・
馬鹿丸出しで、はしゃいでいる連中がいる・・・・
あ~なんと品(ひん)のない連中か・・・・
そういうのを見るのが嫌なのである。
というわけで・・・拙者は読書をして過ごす・・・(笑)

午前4時55分発、デルタ航空282便で成田に向かう。

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午前6時30分・・・機内食が出る。
う~ん・・・一応、これが朝食・・・である・・・・(苦笑)

午前9時20分ごろ、成田空港に到着。
荷物を受け取ったら、皆さんにお別れの挨拶をしようと思っていたのだが、みんなの姿が見あたらない。
仕方がない・・・心の中で・・・(大笑)・・・「お疲れさまでした!お世話になりましたぁ~!」と言って・・・(大笑)
空港を出る・・・・

旅行 | 17:34:42 | Comments(0)
靴が“オシャカ”!(驚)
DSCN4310_convert_20170530215907.jpg (我が“別荘”)(大笑)

今日は、パラオ本島の“探索”と“観光”・・・・(笑)
相変わらずお天気はイマイチである。

まずは、第二次編成の戦車隊の戦車が埋没している場所を再訪問して、遺族の“サカイさん”のための「お別れの挨拶」・・・・
続いて、日本人住民がいたという「大和村」の位置の確認の探索をしたが、残念ながら、ここだと明確にはわからなかった。
なにせ、70年以上も前だし・・・今では村は消滅してジャングル化しているし・・・
おおよその位置関係の確認に終わる。

“某所”で珍しいものを偶然見つけた!
今で言うところの「ロードローラー」である!(驚)
こりゃすごい!
・・・・と、大興奮しているのは拙者だけ・・・(大笑)

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これは、ローラーで道路や滑走路を圧し固める機械である。
軍用のものなのか民間のものなのかはわからない。
以前、ラバウルで、このローラーの部分だけを見かけたことはあるが、車体全体を見たのは初めてである。
しかも、ほぼ原型を留めているのであるから驚きである!
う~ん・・・これ、欲しいなぁ~(大笑)

次に向かったのは「パイナップルの缶詰工場跡地」・・・・
当時はパイナップルを栽培していたんだろうか?
今は、どこにもパイナップル畑らしきものは見当たらないのですが・・・・

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次に向かったのは、墜落した零戦があるという“某所”・・・・
車を降り、山道を歩くこと30分以上かかるという。

DSCN4331_convert_20170530223109.jpg

この真っ赤な土は、鉄分が含まれているからなのだろうか?
以前、フィリピンの北部ルソン・サラクサク峠でも見たことがあるし、ソロモン諸島のツラギでも同じ色をした土を見たことがある。

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これは・・・ボーキサイトの山・・・・
ボーキサイトはアルミニウムの原料である。
で・・・日本統治時代は、こういう山を削ってボーキサイトを日本に輸出していたのだろう。

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途中で見かけた花・・・・
何という名前かは知らない。
蘭の一種か?
それとも金魚草(キンギョソウ)の一種か?
拙者は花は好きだが知識がない・・・(大汗)

この地層も珍しい・・・
赤土の間に黄色の土が・・・
う~ん・・・・
カスタードクリームを挟んだチョコレートケーキ?(大笑)

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DSCN4332_convert_20170530223533.jpg (途中で見た景色)

歩き始めて30分以上もかけてようやく“現地”に到着する。
なにせ普段の運動不足が効いた・・・・
なだらかな道でも息が切れる・・・(涙)
いやぁ~これが炎天下だったら完全にダウンしていたかもしれない。

DSCN4340_convert_20170530230744.jpg DSCN4357_convert_20170530230923.jpg

丘のなだらかな斜面に不時着したという感じの零戦の残骸・・・・
現地の人の話によれば、1機の零戦が燃えながら飛んできて、ここに不時着したという。
何時頃の話かはわからない・・・
通常なら激突するであろうが、最後の最後まで不時着することを狙って着地したのであろう。
綺麗に不時着している。
しかし、現存しているのはエンジン部分と両主翼と尾翼だけ・・・・
胴体部分は完全に消滅している。
焼け落ちてしまったのかもしれない。
燃えていたのは操縦席のある胴体部分か?
3枚あるプロペラのうち1枚は、曲がりもなく真直ぐに立っている。
ということは、完全にプロペラが止まった状態で不時着したのか?
プロペラが空転であっても回っていたら、必ず内側に曲がっているはずである。
ということは・・・滑空して不時着したものと思われる。
型式は不明・・・・
翼端の形状からすると零戦21型か、22型、52型あたりだろうが・・・
草に覆われていて主翼の翼端に折り畳み機構があるかないかが、よく見えない。
翼端を折り畳める形ならば21型か22型・・・・
折り畳み機構がなければ52型ということになるのだが・・・・

DSCN4365_convert_20170530231149.jpg (仮埋葬地跡)

草に覆われ、ちょっと見づらいが、ここに穴がある。
機体の残骸から少し離れたところにあるのだが・・・
この零戦が墜落(不時着?)した時、地元の住民が駆け付けたらしいが、既に搭乗員は死んでいたという。
この残骸から想像するに、操縦席は火に包まれていたのではなかろうか?
全身やけどで、焼死に近かったのではなかろうか?
そこで地元の人たちが機体から少し離れた場所に穴を掘り、搭乗員を仮埋葬したという。
たぶん戦後のことだと思うが、その後、掘り返されて遺骨は日本に還ったという。
この搭乗員が誰なのかは知らない・・・・
その穴が今も残る。
ここに埋まっていたんだ・・・・お線香をあげて慰霊する・・・・

と・・・・まもなく、一気に雨が降り出してきた!(驚)
拙者はポンチョを着ていて大丈夫だったが・・・・
さぁ!帰りましょう!・・・ということになる。
ところが、歩き出したら何かが足にまとわりつく・・・・
ペタペタと何かが貼りついているような・・・
足を上げてみて驚いた!
靴底が剥がれてめくれているのである!(唖然)

このトレッキングシューズ・・・・
もう15年以上も前に購入したものである。
寿命と言えば寿命なのかもしれない・・・(涙)
ついに靴底が剥がれ落ち、左足は大丈夫だが、右足は靴底のない靴となってしまった・・・(大汗)
しかし、靴は高価なものを買っていて正解だった。
靴底がないのに、靴底があるのである。(大笑)
二重構造か三重構造になっているのだろう。
かなりしっかりしている靴底がまだ健在だった・・・
剥がれ落ちたのは靴底のギザギザの滑り止めの1枚だけだったようである。
雨の中をしばらく歩いてみたが、靴の中に水が入ってこないんだから大したものだ。(驚)

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土砂降りの雨の中を30分以上もかけて歩いて車のところまで戻る・・・
他の人たちはサッサと歩けるが・・・こっちは靴底が無くなり歩きづらいことこの上ない・・・
滑って転んで、今度は洋服が泥だらけ・・・なんてことになったら最悪である。
慎重に歩けば歩くほど、みんなから置いてけぼりを喰わされ、ほとんど一人で豪雨の山の中をさ迷っている“敗残兵”のようなことになってしまった。(大笑)
そのうち、ジワジワと雨水が靴の中に沁み込んできた!(涙)
もうグズグズ状態である。(大涙)

時刻はお昼・・・・
ここへ来る途中の小さなお店で、各自で昼食を買っておいた。
どこか屋根のある場所で雨宿りをしながら食事をするということで、海岸の方へ出た。
小さな船着き場のある場所で昼食ということになる。

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すごい豪雨である・・・・集中豪雨!(驚)

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拙者がお店で買ったのは、地元の人の手作りの“お弁当”・・・(笑)
こういう手作りの“お弁当”が店の棚に置いてあったので買ってみた。(笑)
平べったい“おにぎり”の上に平べったいソーセージのようなハムのようなものが乗っていて海苔で巻いてある。
生産者の名前が包んであったサランラップに書いてあったような気がしたが・・・・
これが、なかなか美味しい!
それに、誰か地元の人が作った手作りのサンドイッチ・・・(笑)
これも予想外に美味しかった。
日本人に合う味?(笑)
これに他の人が買ったバナナを1本いただき・・・
これで今日の昼食は終了!(大笑)・・・・安上りである。(大笑)


この豪雨で午後の計画は全て“オジャン”である。(笑)
この土砂降りの中、いや、仮に雨がやんだとしてもドロドロにぬかる中、ジャングルの中を歩くのは無理である。
ということで、急きょ、無難な“観光”に予定を変更!(笑)
パラオの国会議事堂を見学することになった。(笑)

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今日の行動は以上!(笑)

“別荘”に戻る途中、町の中のショッピングモールに立ち寄る。
で・・・他の人たちは、店内を見学・・・
拙者は靴探し!(苦笑)
拙者は日本からトレッキングシューズを履いてきていたので、履き替える靴を持ってきていない。
靴一足をスーツケースに入れると、他の物が入り切らなくなるし、スーツケースも大型になってしまう。
というわけで、トレッキングシューズを履いたままだったのだが、こういうことが起こると不便である。
とにかく何でもいいから帰国時に履く靴を探さねば・・・・
とりあえず、靴屋は見つかったが・・・・
置いてあるスポーツシューズの色は、どれもこれも原色で派手な色のものばかり・・・(唖然)
いくらなんでも黄色とか赤とかピンク色の靴を履いて帰国したくない・・・(涙)
さらに値段が高い!
日本円で軽く1万円はする・・・(大涙)
さらに・・・サイズがわからない!(大泣)
全てインチ表示である。
今履いている靴は泥だらけだし足はビショビショである。(泣)
こんな状態で“試し履き”というわけにはいかないだろう。
いやぁ~参ったぁ~(泣)
お店の女子店員に頼んで、足のサイズを測ってもらい、試し履きをせず、適当な靴を買うことにした。
とにかく自宅に帰るまでの“応急処置”である。

続いてお土産屋さんに立ち寄る。
この店には前回、別のツアーで来た時にも立ち寄ったことがある。
ここで皆さんは“お買い物”・・・・
と・・・いきなり停電!(驚)
拙者は洞窟探検用に高輝度のLEDの懐中電灯を持っていたので、これを“ヨコハマさん”に貸し、天井を照らして買い物をするよう指示する。
天井に光を当てると、その反射で結構、周囲が薄明るくなるのである。
拙者は、前回同様、ここでコーヒーを飲むことにして頼んでいたのだが・・・
停電のため、当然、コーヒーメーカーは動かない・・・(苦笑)
回復するまで、しばらくの間、待つこととなる。
この停電は、豪雨のせいなのだろうか?
拙者が子供の頃は、雷雨になると、よく停電をしたものだが、最近は、全くと言っていいほど停電に遭ったことがない。
そういう生活に慣れてしまうと、停電になると不便さを感じるものだが・・・・
なぜか、とても楽しい・・・(大笑)
おお!久々の停電である!真っ暗!(大笑)
こういうこともあるから、この国に来るときは、洞窟探検をしなくとも懐中電灯はカバンの中に入れておいた方がいいかも・・・(大笑)

“別荘”に戻り、シャワーを浴びて、服を着替え、帰国の準備・・・
明日の真夜中に帰国するのである。
少し休んで、夕食に出かける。

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“最後の晩餐”である。(大笑)
新聞記者の“サイトウさん”と遺族の“サカイさん”は、この後、夜10時に空港に向かいグアム島経由で帰国する。
我々“別荘”組は、日付が変わった翌日の午前4時過ぎの飛行機で帰国する。
というわけで・・・この“夕食会”をもって、今回のツアーは解散ということになる。
お疲れさまでした。

食後、“別荘”に戻り、帰国の準備と片付け・・・そして仮眠・・・・

旅行 | 21:56:11 | Comments(0)
戦車隊の調査
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部屋のテラスに出て、朝の一服・・・・(笑)
う~ん・・・今日も天気が悪そうである・・・(涙)

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(プライベート・ビーチ)

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ホテルの目の前の海に、小島が見える。
戦時中、第14師団戦車隊の戦車が、ここから、あの島を標的に射撃の訓練をしたそうだ。
命中率が良く、かなりの腕前だったとか・・・

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朝食を食べ、出発・・・・

“ナカムラさん”は、あの沖に見える小島まで、カヤックか何かで行って釣りをするので同行しないとのこと。
わざわざ、そのために釣竿を持参してきたそうで、おかげで空港で追加料金を取られたそうだ。(笑)
そこまでして釣竿を持ってきたのに、釣りをせずに帰国するわけにはいかないという。(笑)
「あの島に残る戦車の不発砲弾を踏んでドカン!・・・となるんじゃないか?」とか・・・
「途中でカヤックが転覆して鮫に食われて海の藻屑となるんじゃないか?」とか・・・
「干潮になって潮が引いてしまい、カヤックを担いで帰ってくるようになるんじゃないか?」とか、散々からかう。(大笑)
拙者は釣りは全くしないので、わからないが・・・
好きな人は、どうしてもやりたくなるんだろうねぇ~

DSCN4242_convert_20170521114118.jpg DSCN4240_convert_20170521114049.jpg
(拙者が泊まった「ドルフィンベイ・リゾートホテル)

最初に向かったのは・・・相変わらずの・・・・“某所”・・・(笑)
ここに第14師団戦車隊の戦車が埋没している。
戦闘後、米軍により破壊された日本軍戦車が、ここに“遺棄”された。
拙者は7年前にも、ここを訪れていて、今回が2回目である。
今回は“ヨコハマさん”が金属探知機を持ち込んで、それで埋没している戦車の位置を測定することになっている。

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この戦車は日本軍の九五式軽戦車・・・
横倒しになって埋まっている。
7年前に来たときは、地表には車輪しか出ていなかったが、ずいぶん表土が流れたのか、車体の一部も地表に現れていた。
米軍の記録によれば、車内に日本兵の遺体を残したまま“遺棄”したとされている。
掘り出して中を確認すれば、ご遺骨を見つけることが出来るかもしれないが、その許可を得るには日本とパラオの政府間で話し合わないと難しいと思う。

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こちらは、砲塔が無くなって、砲塔の取り付け部だけが地表に現れている九五式軽戦車の車体・・・・

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こちらは、車輪だけが地表に出ている戦車・・・
たぶん、逆さまにひっくり返って埋まっているのではないかと思われる。
これら地表に現れている戦車の位置の測量などを行う。

ペリリューで戦った戦車隊の戦車は九五式軽戦車17両である。
そのうちの1両は、旧飛行場跡の近くに野外展示され、“観光名所”として使用されている。
ということで、残るは16両ということになる。

地表に出ていないものは、金属探知機で探索するが、2両が重なって埋まっている可能性は否定できない。
金属探知機が反応した地点の測定などをして“ヨコハマさん”が記録を取る。

これらの戦車を掘り出したいものだが・・・・
米軍は戦闘後、撃破した日本軍の戦車の写真を撮影して残している。
掘り出した戦車と、当時の写真を比較して、弾が当たった跡等を比較すれば、どの戦車が何という戦車なのかがわかる。
当時、戦車隊の戦車にはペンキ(?)で、それぞれ名前を書いていたのである。
例えば、隊長の戦車には「さくら」と書かれていた・・・
今では消えてしまっているだろうが、戦闘直後の写真には、戦車を特定するこの名前が写っている。
戦車が特定できれば、乗員が誰だったのかも絞れる・・・
その遺族からDNAの提供を頂ければ、ご遺骨が出てくれば、DNA鑑定で、どなたの遺骨かがわかる・・・
そうなれば、ご遺族に直接、ご遺骨を渡すことが出来る・・・ということになるのだが・・・
そう、うまくいくかどうかはわからないが、できるところまでは、やってあげたいものだと思う。

今日も天気はよろしくない・・・(苦笑)
時々チラチラと雨が降る曇り空である。
が・・・
これが、もし晴れていたら、暑くて仕方がない。
雨模様の曇り空は、ある意味、良かったかも。
バテずに済む。

DSCN4280_convert_20170530134858.jpg DSCN4284_convert_20170530134935.jpg

埋没戦車の位置確認作業を終え、次に向かったのは“某所”・・・
ここの草むらの中にコンクリート製の建物がある。
これが、第14師団戦車隊の弾薬庫跡。

続いて、またまた“某所”に移動・・・(笑)

DSCN4290_convert_20170530135815.jpg

ここは、第14師団戦車隊の駐屯地跡。
この道は戦車が通った道だから・・・「戦車道」と呼んでいいかも・・・
周囲は樹木に覆われ、何が何やらさっぱりわからない。

DSCN4289_convert_20170530135748.jpg (この草の向こうに壕がある)

当時の壕などの配置図に従って測量をしながら駐屯地跡を探索する。
「〇〇から25mのところに本部壕があるはず!」といった具合に、巻き尺で測量しながらの探索である。
で・・・その結果に従い、道から外れジャングルをかき分けて内部に入り込む。(苦笑)

DSCN4286_convert_20170530135545.jpg (戦車隊本部壕)

037_convert_20170530140005.jpg 039_convert_20170530140032.jpg

ここで人骨らしきものを見つける。
「これ、骨じゃないですか?どうですか?」と、またまた呼ばれて駆けつける。(苦笑)
形からいうと頭蓋骨の頭頂部のような気もするが・・・拙者は人骨の専門家ではない。(大汗)
“ヨコハマさん”は、拙者が何でもかんでも知っていると思ってか、鑑定を求めるのだが・・・・(大笑)
う~ん・・・どうでしょう?(汗)
人骨であるという確率は半々かなぁ~(汗)
とりあえず、これもまた、同行しているガイドさんに、日本の厚生省の遺骨収集団が来た時に見てもらうよう頼む。
(この頭蓋骨と思われるものの写真は、あえて掲載しないこととする)

周囲は、かなり岩が崩れ落ちている。
ここに頭蓋骨があるとなると、これらの岩を取り除けば、その下に、もっと人骨が埋まっている可能性が高いということになるが・・・
問題は、何で、ここに人骨があるかということ。
ここは本部壕である。
ここから戦車隊の戦車が出撃して飛行場奪還のため突っ込んで行き、全滅したのである。
その時に誰か本部壕に残っていて、のちに戦死したのか?
それとも、戦闘後に退却した生存者が、ここに立て籠もって戦って戦死したのか?
そのあたりの詳しい資料を見たことがないので、何ともわからない。
そういう戦史を知っていれば違和感はないのだが・・・
“この物体”が人骨であるとすれば、なんで、ここに人骨があるんだろう?
ちょっと違和感を感じる。

続いて、すぐ近くにある「整備隊壕」を探索・・・・

DSCN4295_convert_20170530150226.jpg

「変なものを見つけたんですけど・・・これ、なんですか?」の声・・・・
駆けつけてみると・・・工具がポツンと1個だけ置かれていた。
モンキーレンチである。
これ・・・工具ですけど・・・(汗)
ということは・・・やっぱり、ここは整備隊壕で間違いないということか?
それにしても、モンキーレンチねぇ~
当時、日本軍はモンキーレンチなんか使ったのだろうか?
他には工具類は見当たらない・・・
長さといい、形といい、日本の箸と思われる“物体”が、そばに添えられていた。
ちょっと疑問が残るが・・・当時の配置図と見比べても、ここが「整備隊壕」で間違いなさそうである。

とにかく戦後70年以上も経っているのである。
その間に、いろんな人がこの洞窟陣地に来ているだろうし・・・・
戦闘終了直後に、米軍もここに来ているだろうし・・・
本部壕のすぐ近くに赤さびた未使用の鉄条網の束が放置されていた。
鉄条網(有刺鉄線)のトゲの形状からして、明らかに日本軍のものではない。
いつごろここに放置されたのかは、わからないが、かなりの量の未使用の鉄条網の束である。
こうなると、我々の目に触れる“遺品”が果たして、本当に当時(戦時中)のものかどうか、判断するのが非常に難しい。

DSCN4291_convert_20170530135845.jpg (戦車壕跡)

道路わきの「戦車壕」跡は草木に覆われて、ちょっと見たくらいではわからない・・・
ヤブの中に分け入って、地形を足裏で確認して、ようやくわかる。
ここには戦車2台分の「戦車壕」があった。
戦車壕は“コの字”の形に掘られた戦車の“駐車場”である。(笑)

ちょうど、お昼となったので、一旦ホテルに戻り昼食をとる。

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魚釣りに行っていた“ナカムラさん”は、無事に魚が釣れたそうで、大漁!
ホテルに頼んで料理してもらい、我々にも一人一匹づつごちそうしてくれた。
いやぁ~申し訳ないねぇ~・・・・散々からかったのに・・・(大笑)
何という魚なのかは知らないが、美味しかった・・・(喜)

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午後は博物館を見学・・・

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“ヨコハマさん”が、ここに戦車隊に関する各種資料を提供している。
よくやるなぁ~・・・・大したものである・・・脱帽である。

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060_convert_20170530203240.jpg 059_convert_20170530203210.jpg

ホテルをチェックアウトして、ホテルのモーターボートでパラオ本島に戻る。
今回は、同じホテルの宿泊者である初老の外国人御夫妻も一緒・・・・
ドイツ人ぽかったけど、どこの国の人かは知らない・・・(笑)

DSCN4301_convert_20170530205354.jpg (ペリリュー島を離れる)

今日の夕食は、以前に一度だけ行ったことのあるレストラン・・・・
ここの料理・・・・一品の料理の量が馬鹿みたいに多いのである!(大笑)
それで今でもよく覚えている。
今回も同様である・・・(大笑)
いやぁ~懐かしい・・・・この量!(大笑)

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我々が泊まった“別荘”は・・・・ごく普通の一般の家である。(笑)

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DSCN4309_convert_20170530212254.jpg(拙者の部屋・かなりピンボケ!)(笑)

旅行 | 15:27:35 | Comments(0)
久々のペリリュー島!
“ナカムラさん”が用意してくれた朝食をいただき、“別荘”を出発!
今日は、これからモーターボートでペリリュー島へ向かう。

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青い空に白い雲・・・・エメラルドグリーンと群青色のコントラストの海のはずが・・・
天気が悪い!(涙)
前回は低気圧接近の影響で海が大荒れ・・・
今回は荒れはしなかったが、ペリリュー島の方角に、明らかに雨雲とわかる黒い雲が立ち込めている。
あ~あ~・・・・残念だぁ~
晴れていたら最高の景色なのになぁ~(涙)

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パラオ本島を出発して、ちょうど1時間後にペリリュー島に着いたときは・・・雨!(涙)
しかも結構激しい雨である・・・(汗)
拙者は「雨男」ではないはずなのだが・・・
だれか、この中に、“普段の行ないが悪い人”がいるに違いない・・・(大笑)

最初に向かったのはペリリュー州知事のところ・・・
アポを取っておいたらしいが、不在!(苦笑)
まぁ~そんなものでしょう・・・南国では・・・(笑)
仕方がないので、今度はペリリュー島の酋長のところへ挨拶に行く。
酋長とお会いして来島したことを伝え簡単にご挨拶・・・

次に向かったのは、「ペリリュー小学校」・・・

DSCN4215_convert_20170516110653.jpg (ペリリュー小学校)

校長先生にお会いしてご挨拶・・・
リーダーの“ヨコハマさん”が「お土産」の文房具等を用意してきたので、それを贈呈。
校長先生から小学1年生のクラスに寄贈してくれるようにとのお話をいただき、「贈呈式」(?)となる。(笑)

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突然の訪問客に、「お土産」である。
子どもたちは大興奮!(大笑)
このくらいの子供というのは、どこの国の子供でも本当にかわいい・・・
これが大人になると、犯罪を犯したり戦争を起こしたりしてしまうのだから・・・これが不思議だ。(笑)
いっそのこと、人類はすべて子供だけ・・・となったほうが地球は平和かもしれない・・・(大笑)

拙者が初めてこの小学校を訪問したのは2010年のこと。
あの時も小学1年生のクラスを訪問した。
彼らは、もう“中学生”になっているだろう。
あの時に撮った彼らの写真を焼き増しして持ってくれば良かったと、この時になって気づいた・・・(汗)
しくじった・・・(苦笑)

次に向かったのは、“洞窟陣地”・・・
ペリリュー島観光の“定番”である。

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次に向かったのは、「日本人墓地」・・・・
雨の降る中、ここにある慰霊碑の前で「慰霊祭」を執り行う。
拙者は、いつものように三笠宮殿下からいただいた菊花の模様の入った「恩賜のタバコ」を供える。
これは、もうずいぶん前に殿下から頂いたもの。
このところの「禁煙ブーム」(正確には嫌煙ブームか?)のおかげで、宮内庁も「恩賜のタバコ」の生産を中止することとなった。
拙者が戦没者の慰霊をしているのを知って、「これで最後です」ということで、最後の数箱をくださった。
大切に今まで保管していたタバコで、これを持参してお供えしたのだが・・・・
大失敗!
雨の中、迂闊にも、そのままお供えしてしまったのである!!(ゲゲッ!)
あっという間にタバコはびしょぬれ・・・・(涙)
シマッタ!
ビニール袋に入れてお供えすべきだった!
貴重な1箱を一瞬で失うこととなる。(大涙)

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その後、ホテルにチェックイン・・・
コテージ風のホテルで、拙者は宮司の“タガワさん”と同室。

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このホテルで昼食をとり、その後、一休み・・・・

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午後は、日本政府が建てた慰霊碑に向かい、そこで慰霊祭を執り行う。
神主の“タガワさん”は、ここをメインということで、正装して慰霊祭に臨む。
土砂降りに近い雨の中での慰霊祭となり、結構、大変だった・・・・(汗)

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次に向かったのは零戦の残骸のある“某所”・・・・
雨のせいで、沼地と化していた・・・(汗)

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次に向かったのも・・・“某所”・・・・
とにかく“某所”と書くしかない。
あまり正確な位置を教えると“マニア”に荒らされる可能性がある。
この国が課しているルールというのを守らない“マニア”が結構いる。
まぁ・・・拙者を含め・・・・“マニア”だから、こんなところまでやって来るのだろうが・・・(大笑)
「触るな」「位置を変えるな」「持ち去るな」と言われたら、守るべきだ。
理不尽であろうと、何であろうとルールはルールである。
ルールを無視するような輩には情報は与えるわけにはいかない。
ということで・・・“某所”

この“某所”で、ご遺骨を見つけた。
以前に二度ほど、この“某所”には来たことがあるが、その時は遺骨など見当たらなかったのだが・・・
たぶん落ち葉などで覆われていたのだろう。
その後の風雨で表面が飛ばされたか流されたかして地表に現れたものと思われる。
骨の太さから想像すると、腕の骨のようである。
(あえてご遺骨の写真は載せないことにする)

周囲には薬莢が集中して散乱していた。
この薬莢が日本軍の物かどうかは拙者にはわからない。
一か所に集中しているということは、三八式歩兵銃のような単発式の銃のものとは考えられない。
たぶん、軽機関銃のような連発式のものではなかろうか?
だから一か所に集中して十数発の薬莢が落ちているのではなかろうか?
ここの地形、米軍の進撃方向等々から、このあたりの戦闘状況が想像できる。

周辺を探索・・・
石を積んだ場所・・・「石塁」と呼ぶべきだろうか?
明らかに人工的に造られたものである。
日本軍の第一線陣地跡ではなかろうか?
向いている方向からしても、上陸してきた米軍に向かって「抵抗線」を成している。

相変わらず“ヨコハマさん”から「ちょっと来て!これ、日本軍のものですか?」との声が飛ぶ。
で・・・ジャングル内を飛び回るので・・・写真を撮っている暇がない・・・(涙)

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これは、米軍の水陸両用戦車の車輪の一部・・・

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飛行機のエンジンとカウリング・・・・
すぐ近くに翼の一部と思われるものもあった。
なんで、こんなところに?・・・・という気がしないでもないが・・・
米軍のものか日本軍のものかは不明・・・・

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問題は・・・これ・・・
う~ん・・・これ、どこかで見た記憶があるのだが・・・・
どこで見たんだっけかなぁ~
どこかの戦争博物館とか軍事博物館で見たような気がするのだが・・・
何だっけかなぁ~・・・これ・・・
とうとう思い出せなかった・・・(涙)

今日の“行動”は、以上・・・・
ホテルに戻り、夕食・・・
無理のない余裕のある行動計画なので体調を崩さずに済む。
ありがたい・・・(喜)

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033.jpg (ホテルから見た夜景)

旅行 | 10:30:33 | Comments(0)
埋没戦車の調査と慰霊
まもなく“某所”に到着する。

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“ヨコハマさん”の話では、ここに「第二次戦車隊」が駐屯していたのではないかと思うとのこと。
当時撮影した写真を参考に、背景の丘の形を見比べて、「駐屯地跡」を推定すると、ここではないかという。

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特徴のない平坦な背景では、なかなか難しいが・・・
ここが当時の幹線道路であり、平坦な場所ということから戦車の移動には便利であることは地形的に言える。
駐屯地にするには“適所”であるといえる・・・
一応、ここを「駐屯地跡」ということで“認定”することにする。(笑)

このパラオの防衛を担当していたのは栃木県宇都宮で編成された第14師団・・・
この師団には「第14師団戦車隊」という戦車部隊があった。
この部隊は、拙者が関係している戦車第2師団隷下の戦車第6連隊で編成されたという。
各地から兵員をかき集めて戦車第6連隊内で約3ヵ月ほど訓練をして、九五式軽戦車17両で編成され、制式に「第14師団戦車隊」となり転出していった。
そういう意味でも、我が部隊とは縁がある。
で・・・この「第14師団戦車隊」はペリリュー島へ派遣され、現地で米軍と交戦し全滅した。
で・・・パラオには「戦車隊」は無くなってしまった。

パラオは南方各地へ向かう輸送船の中継基地でもあった。
特に、ニューギニア戦線へ向かう輸送船が、ここを利用していたようである。
各種雑多な部隊が一時的にパラオに上陸したが、次の輸送船の手配によっては、そのまま一部の兵員が残ってしまったりしていた。
その中で、「南洋第6支隊」(愛媛県松山で編成)の戦車中隊と「独立自動車第42大隊」の戦車小隊の戦車が残されていた。
本隊はニューギニアに向かったが、戦車は輸送船に載せることができなかったのだろう、パラオに兵員と共に残置されたのである。
そこでこの戦車を集めて新たに「第14師団戦車隊」を編成したのである。
我々は便宜上、「第二次戦車隊」と呼ぶ。
この戦車隊は九五式軽戦車17両で編成されていたとも、13両だったともいわれているが、よくわからない。
この戦車隊はパラオ本島の防衛に付き、そのまま終戦を迎えている。
その「第二次戦車隊」の駐屯地がここではなかろうかということで確認のため訪れたのである。

で・・・周囲を散策してみたら・・・「自動車」の残骸を見つけた!

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日本軍の「小型自動車」の残骸のようである。
となると・・・「九五式小型乗用車」・・・・通称「くろがね四起」と呼ばれる、小さな乗用車ということになる。
が・・・かなりボロボロとなっている残骸である。
よくわからない・・・(涙)
四角い箱のような形の鉄板も見受けられる。
もしかして、これは荷台か?
となると・・・これは乗用車ではなく「九五式小型乗用車」を改造した「九五式小型貨物自動車」となるが・・・
拙者の知識不足ということで、なんとも情けない話なのだが、暫定的に、とりあえず「くろがね自動車」ということにしよう。(苦笑)

さらに“某所”に向かう・・・・(笑)

道路から一歩踏み込んだジャングルの中に戦車の残骸がある。
この戦車は「第二次戦車隊」に所属する戦車で、終戦時に日本軍の手で破壊されたものであることが分かっている。
が・・・どこに埋没しているのかは明確ではなかったが、去年だったか、“ヨコハマさん”と新聞記者の“サイトウさん”が、これを見つけて、“サイトウさん”の手で新聞に記事が掲載された。
で・・・今回、改めて確認のため訪問。

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ジャングルに埋もれている日本軍の九五式軽戦車・・・

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それらの戦車の内部の様子・・・・

DSCN4138_convert_20170509155709.jpg (ジャングルの中を探索中)

生還者の証言では、戦車を一列に並ばせて爆破して廃棄したという話である。
ジャングルの中は木や枝が邪魔をしているが勝手に切り倒すわけには行かない。(笑)
埋まっている戦車も、地面を掘り返して確認することもできない。
パラオでは戦跡や遺品等に勝手に手を触れることは法律で禁止されている。
現状を変えてはいけないのである。
これに違反すると・・・多額の(たしか100万円だったかな?)罰金か懲役1年の罰を受けることになる。
というわけで・・・地表に出ている部分だけを見て埋没戦車の位置を確認する。
で・・・その位置をGPSで測定して記録する。

ここに日本軍の戦車が埋まっているということを州政府は全く知らなかったという。
戦車の台数は果たして17両なのか13両なのか・・・
今回の調査は州政府と州政府を通して地主の許可を得ての調査である。
以前、日本人の“某マニア”が無許可でペリリュー島の戦跡を歩き回り大問題となったことがある。
その“某マニア”が誰なのかは拙者は聞いて知っているが、今更、本人を責めても仕方がない。
が・・・おかげで、そのとばっちりを受け、戦跡の調査に制限を受けてしまっている。
我々も“同類”だと思われるのは甚だ迷惑である。
ここは“他人の土地”であるのだから、必ず正規の手順を通して許可を得てやってもらいたいものだ。

生還者の証言のように“一列に並んで”いるというより、蛇行している感じで何両かの戦車が埋まっていた。
見ようによっては、2列か3列に並んでいるようにも思える。
もし戦車の数が17両だったとしたら、それを一列に並べるというのは、土地の広さからいって無理な話ではあるまいか?
かなりの長さになってしまう。
結局、確実に、これは戦車だ・・・といえるものは数台しか確認できなかった。

ここで、宮司の“タガワさん”が略式の慰霊祭を催行する。

続いて向かったのも・・・“某所”・・・・(笑)

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ここにあったのは朽ち果てたトラックである。
ここまでボロボロの状態で“シャーシ”しか残っていないと、よくわからない。
バラバラに散らばっている部品は草に覆われてしまっているので、手掛かりにならない。
この樹木や草を刈り取りたい衝動に駆られるが・・・・(大笑)
手を触れるわけにはいかないので我慢、我慢・・・(涙)
可能性として高いのは「九七式自動貨車(トラック)」ではなかろうか?

戦車の探索の時もそうだったが・・・(笑)
“ヨコハマさん”から、彼が何か見つけるたびに「これは何ですか?」の質問が飛ぶ。(苦笑)
拙者は、それほど専門知識を有しているわけではないのだが・・・(大汗)

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時刻は午後1時・・・・
移動途中の東屋(?)で、旅行社が用意してくれた弁当を食べる。
これがまたおいしいのである!(大喜)
やっぱり外で食べる食事というのは格別のものがある。

昼食後、続いて向かったのは現地で「KOKUSAI(コクサイ)」と呼ばれている場所・・・
ここに「国際電気通信(株)」(昭和13年設立)の施設があったので、現地人から「コクサイ」と呼ばれているとのこと。

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このコンクリート製の廃墟が、国際電気通信(株)の、たぶん、無線電話施設ではないかと思う。

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すぐ近くに鉄塔が倒れている・・・
無線塔か?

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この廃屋の天井の丸い穴・・・・
爆弾で空いた穴ではないことは明確である。
拙者の想像だが・・・これは鉄塔からこの建物の中へケーブルを引き込む穴ではなかろうか?

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大きな機械が1台残されていた。
これは・・・もしかしたら発電機ではなかろうか?
すぐ隣に同じ大きさの土台が残っていたところをみると、もしかしたら同じ機械を2台並列に置いていたのではなかろうか?
つまり、1台は予備で、万が一、1台が故障もしくは点検・整備などで停止した場合でも不都合が出ないための措置・・・
並列となれば、その可能性は高いだろう。
操作盤(もしかしたら整流器?)の残骸も残っていた。
この建物にあるのは、これだけ・・・・
あとはガランとしている・・・

廃墟の“観光”をして・・・つぎにまた“某所”に向かう・・・

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ジャングルの中に車輛が埋もれていた・・・
写真では見づらいのだが、これは特殊車両である。
皆さんから「これは何ですか?」と質問される。
これは飛行機のエンジンを始動するための「エンジン始動車」もしくは「エンジン起動車」という特殊車両である。
主に陸軍が使っていた車輛だと思うが・・・
パラオには陸軍の飛行機もいたんだっけ?(汗)
肝心な戦史の方を記憶していない・・・(大汗)
「こりゃ、珍しい車輛だ!回収して復元したいなぁ~」と言ったら呆れられた・・・(苦笑)

すぐ近くに、別の車輛・・・・

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「これ、トラックですよね?」の声・・・・
たぶん「九七式四輪自動貨車」か、もしくは「一式四輪自動貨車」か・・・という感じ・・・
この周囲の草を刈り取れば、もっとよくわかるかもしれないのだが・・・残念・・・・
一応、これは「九七式四輪自動貨車」ということにしちゃおう・・・(大笑)

以上で、今日の“調査”は終了・・・・

旅行 | 13:28:38 | Comments(0)
久々のパラオ!
今回のパラオ行きは、旧知の“ヨコハマさん”からのお誘い・・・
現地のジャングルに埋没している日本軍の戦車の調査と戦没者の慰霊が目的。
ということで・・・お誘いを頂いた。
が・・・一体、何人ぐらいで行くのか、結局わからないまま・・・(笑)
「一緒に行きませんか?」・・・「OK!」で決めちゃったから詳細は分からない。(苦笑)

昨晩、成田空港で一緒に行く青森の神社の宮司さんと合流。
初対面だが、こういう時は携帯電話というのは便利である。
電話でやり取りをしながら無事にランデブー(笑)
成田から向かうのは我々2人だけ。
“ヨコハマさん”は先に現地入りしている。
他の人は、どうも福岡の方らしいが・・・別の便でグアム経由で向かったらしい。
ということは・・・全部で何人だ?(大笑)
みんなバラバラに出国して現地集合・・・

20時15分発のデルタ航空でパラオのコロール国際空港へ向かう。
約5時間弱の飛行である。

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で・・・
本日の午前1時過ぎに空港に無事到着。
現地旅行社の送迎ワゴン車で“別荘”に向かう。
時刻は午前2時・・・・日本とパラオには時差はない・・・

今回、パラオではホテルに泊まらず、一戸建ての“別荘”を借りている。
参加者のうち、4名が、ここに宿泊することになっているという。
挨拶もそこそこにシャワーを浴びる。
が・・・どうも10分だか15分だかしかお湯が出ないそうである。(唖然)
それもトータルで・・・ということだから、4で割ると・・・(大汗)
とにかく手早く洗って流さねばならない・・・
こういう不便さが、またいいんだなぁ~(喜)

この“別荘”にはベッドルームが3部屋ある。
“ヨコハマさん”と彼の知人の青年“ナカムラさん”がそれぞれ一部屋・・・
拙者と宮司の“タガワさん”がツインルーム一部屋で同室である。
リーダーの“ヨコハマさん”以外は全員初対面である。
とりあえず急いで仮眠を取る。

朝食は“ナカムラさん”が早起きして用意してくれた。
彼は、以前、船に乗っていて、そこで料理を担当していたとか。
というわけで・・・食事担当は彼ということで、拙者は楽をさせていただいた。(大喜)

朝食後、ホテルに宿泊している別の参加者と合流・・・
遺族の“サカイさん”と新聞記者の“サイトウさん”の2人である。
新聞記者の“サイトウさん”とは、以前、日本軍の戦車についての問い合わせをいただき、メールでやり取りをしたことがあるが、お会いするのは初めてである。
というわけで・・・
結局、参加者は拙者を含めて6名であることが、この時、わかった・・・(大笑)

最初に向かったのは、「パラオ・パシフィック・リゾート」ホテル・・・・
超高級なリゾートホテルである。
一度は泊まってみたいものだが、日本円で1泊4万円~5万円ほどするんじゃなかろうか?(大汗)
無理だな・・・(涙)

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ここは戦時中、日本海軍の水上機基地があった場所である。

このホテルに併設されている旅行会社で、島内“観光”の手続きを行う。

で・・・旅行社のワゴン車に乗り、次に向かったのはガスパン州政府の事務所・・・
州知事を表敬訪問し、今回の調査に関する打ち合わせと許可を頂く。

DSCN4091_convert_20170509130202.jpg (ガスパン州政府)

DSCN4083_convert_20170509130137.jpg (州知事と打ち合わせ)

知事との面談を終え、次に向かったのは・・・・“某所”・・・

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ここに戦時中、小さな港(漁港?)があったのではないかということだが・・・
日本軍の「大発(大発動艇)」の「舟艇基地」の跡のような気がしないでもないが、確証はない。

続いて向かったのは・・・さらに“某所”・・・(笑)

DSCN4095_convert_20170509132336.jpg (途中の景色)

DSCN4094_convert_20170509132308.jpg (途中の高台から見た景色)

旅行 | 10:54:59 | Comments(0)
ホテル周辺を散策して帰国
今日は帰国する日・・・・
余裕をもって、午後の便で帰国することにしている。

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(圓山大飯店のロビー)

ロビーに行って・・・1階のレストランで朝食。
バイキングなのだが、食べるものがほとんどない!(苦笑)
しかも、中国人(大陸から来た観光客か?)のマナーの悪いこと・・・(大汗)
列には割り込むわ・・・その場で立ったまま食うわ飲むわ・・・(唖然)
“超高級ホテル”のイメージ台無しである・・・(涙)

食後、ホテルの周囲を散策することにした。
実は、これも拙者がここに宿泊した目的の一つなのである。(喜)
前回、台湾に来た時、この近くを通ったら“狛犬”を見かけた。
圓山大飯店が建っているこの場所には、戦前には「台湾神宮」という日本の神社があった。
たぶん、当時の“狛犬”ではなかろうかという気がするのである。
というわけで・・・それを確かめる目的もあって、ここに宿泊し、午前中に時間を作って、帰国は午後の便としたのである。

DSCN3988_convert_20170405171709.jpg (圓山大飯店)

この場所に立って、その昔、記念写真を撮ったことがある。
26歳くらいの若い女の子のガイドと二人で・・・(大笑)
ホテルのコーヒーラウンジでコーヒーとケーキを食べたんだよなぁ~
彼女は、どうしてるかなぁ~(笑)
あれから20年以上も経っているから・・・・彼女も“オバチャン”になっているんだろうなぁ~(大笑)
今回の旅行の前に、あの時使った現地旅行社を調べてみたが、どうも“消滅”してしまっているらしい。
倒産したのか、廃業したのか知らないけど・・・
あの社長さんも、面白い人だったんだけどなぁ~
また会いたいなぁ~・・・と思ったときには「時すでに遅し」か・・・・(涙)

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拙者の部屋は・・・7階の角の部屋である・・・(笑)

ホテルの裏手に“遊歩道”があったので、このホテルの建っている丘から降りてみる。
と・・・・公園が・・・

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「剣潭公園」(Jiantan Park)という名の“公園”だが・・・・
公園というより、「緑地帯」みたいな感じ・・・
ここの道路に面したところに“狛犬”がいた!(大喜)
前回、移動する車内からチラリとしか見ていなかったので、どのあたりだったか記憶が曖昧だったが・・・
あっさりと見つけることができた!(喜)
方向音痴の割には、シッカリしたものである。(大笑)

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この狛犬・・・台湾神宮にあったものだろうか?
どうも顔つきが日本的じゃないんだよなぁ~(苦笑)
台湾神宮にあった狛犬であると証明できる証拠は見つからなかった・・・
というわけで・・・「推定・台湾神宮の狛犬」ということにしよう・・・(笑)

この公園の上の方・・・つまり、ホテルの裏山へ行ってみる。

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が・・・急な階段は多いわ、道は狭いわ、我が膝は笑うわ、普段の運動不足で息は切れるわ・・・・最悪である。(苦笑)
“朝の散歩”ということだろうか、地元の人が何人も、この“山道”を歩いてくる。
すれ違うのも大変・・・
一応、皆さんには、その都度ご挨拶・・・・
前回、中国語の「おはよう」を教えてもらったはずなのだが、すっかり忘れてしまった・・・(涙)
仕方がないので「ハロー!」と「ニー・ハオ!」の連発。(笑)
返事をしてくれない人もいるが・・・返事をいただけると、嬉しいものである。

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途中の見晴らしのいいところで市街を眺め、これ以上、登るのはあきらめてホテルに戻ることにする。
時刻は午前9時半・・・・

ホテル内のお土産屋さんが並ぶアーケードに行ってみる。
と・・・・龍の置物がド~ンと置いてあった。

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お店の“オバチャン”が、日本語で声をかけてきて、この龍について説明をしてくれた。
なんでも、台湾神宮にあったもので、戦後も、そのまま残ったものだという。
ここが台湾神宮であるという“証拠”はこれだけしかないとのこと。
へぇ~・・・・である。
近くに中国語・英語・日本語の3か国語で記された「説明板」があった。

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百年金龍簡介

龍山公園の銅竜は戦中に供出の憂き目にあい、台湾神社も空襲で損壊しましたが、剣潭山の銅竜だけは戦火を中を無傷で生き抜きました。
その霊気は百年の間衰えることなく、「龍尾穴」の名は四海にとどろきました。

1952年、蒋介石総統夫人の蒋宋美齢女史が、国賓の接待場所として選んだのがこの地でした。
ここに台湾を代表する国際観光ホテルが誕生することにだったのです。
あの銅竜も生きつづけています。
拝みにくる人もあとを絶たず、1987年には金のメッキを施し、金竜となりました。
いまも圓山の風水を好んで多くの日本人客が訪れます。
そしてその多くのお客様が金竜をお参りくださいます。

(説明板より)


日本語の説明文には、誤字があり、おかしな文章も見受けられるが・・・(苦笑)
それは愛嬌として・・・
中国語の方に大きな間違いが・・・(大汗)
日本語、英語とも「戦時中に」とあるが、中国語では「二次大戦後」となっているのである。
第二次大戦後に日本による金属供出はあり得ないだろう…(笑)
中国語、英語、日本語を読み比べてみると内容が微妙に違う・・・(汗)
たとえば・・・・
中国語では「龍山公園の銅龍は日本軍によって溶かされて大砲になった」と書いてある。
英語では「龍山公園の銅龍は溶かされて大砲になった」と書いてある。
(誰によって・・・ということは書かれていない)
で・・・日本語の方には「大砲」などとは書かれていない。
まぁ、こういう微妙な違いも愛嬌とみていいかな?(苦笑)

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拙者の部屋のベランダ・・・(大笑)
なに?・・・この広さ?・・・である。
ここに一部屋作れるんじゃないか?
ここにキングサイズのダブルベッドが置けるんじゃないか?(大笑)

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ベランダから、ホテルの裏山の方を見る。
う~ん・・・ちょうど目の前、真下辺りに、神社の本殿があったのではなかろうかと思える雰囲気・・・

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ベランダから見た拙者の部屋!(笑)
う~ん・・・・殺風景・・・面白くない・・・(大笑)

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昨晩、夜景を撮った方向を見る。
川の向こうに見えるのは・・・・空港である。

時刻は10時を過ぎたので、そろそろチェックアウトすることにするが・・・
部屋が多いので確認に手間取る。(大笑)
今日はガイドは来ない・・・
自分で全部やらねばならない。
部屋を出る寸前、ガイドから部屋に電話がかかってきた。
「昨晩は大丈夫だったか?」という確認と・・・
「台中の母から電話があって、またぜひ遊びに来てくださいといってました」との伝言であった。
なんとも嬉しい電話である。
こういう気さくなところは、とてもいいのであるが・・・(苦笑)
これがガイドではなく、友人というのなら全く問題なしなんだけどねぇ~(大笑)

自力でチェックアウトして、タクシーで空港に向かう。
が・・・台北には空港が2つあるから、間違われると大変である。
拙者が使うのは、ホテルから見える、目の前の「松山空港」の国際線である。
拙者は中国語が話せないから・・・(笑)
昨日のうちにガイドに中国語でタクシーの運転手に見せる「行先」のメモを書いてもらった。
これを運転手に見せる。
タクシーの運転手は、非常に不愛想な女性ドライバーだった。
空港に到着し、チップも含めて料金を払ったら、やっと笑顔で挨拶してくれた・・・(大笑)

タクシーのドライバーからもらったレシート・・・・これが結構面白い。
「計程車乗車証明」という紙である。
乗った時刻は・・・10時43分
降りた時刻は・・・10時59分
と記載されている。
他に「停等時間」として6分15秒と記載されている。
これは信号待ちや渋滞で車が停止した時間のことだろう。
ホテルから空港まで約15分かかったが、そのうちの6分15秒は信号待ち等で止まっていた・・・ということになる。(笑)
しかも・・・「里程」として5.2kmと記載されていた。
これは・・・実際に走ったホテルから空港までの距離ということだろう。
こりゃ面白い・・・
日本のタクシーのレシートはどうなっていただろう?
いつもよく見ないで捨てちゃっているのでわからないが・・・
ここまで詳しくは印字されていなかったような気がする。
で・・・料金は・・・195ドル(約700円)・・・・
結構な料金である。
拙者の部屋から空港が見えるという距離なのにねぇ~(笑)
これが市内のホテルからだったら、いくらになるのだろう?(汗)

DSCN4021_convert_20170405221829.jpg (台北松山空港)

この空港は前回も使ったので・・・・
喫煙所は外にしかないことは知っている。(笑)
中に入る前に、まずは一服・・・である。(大笑)

チェックインも出国手続きも非常にスムーズ!(大喜)
マニラの空港とは大違いである!
前回にも立ち寄ったコーヒーラウンジで、前回同様、サンドイッチとコーヒーの“昼食”をとり、搭乗まで読書をして時間を潰す。

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13:30発のANAに乗り・・・17:30羽田に無事に到着!

旅行 | 11:48:51 | Comments(0)
憧れの圓山大飯店に泊まる!(大喜)
台中から台北まで新幹線で約1時間・・・
午後6時ごろ、台北駅に到着し、タクシーでホテルに向かう。

今回の最後の“目玉”!!(笑)
以前から、一度は泊まってみたいと思っていた「圓山大飯店」に最後の日の晩には泊まりたいと、旅行社に希望を出しておいたのである!(大喜)
昔は“国賓クラス”の人が宿泊する超高級ホテルだと聞いたことがある。
高嶺の花だったのだが・・・今では誰でも泊まれるんだとか・・・(大汗)
最近は“国賓”は市内の高級ホテルに宿泊し、ここには泊まらないことが多いのだとか・・・
まぁ、市街地から離れた場所に建っているから何かと不便だからだろう。
それにホテルも古いし・・・(苦笑)

で・・・・行って見たら・・・あら、あら、あら・・・・
普段着を着た中国人の“団体さん”でごった返している。(汗)
さらにはTシャツにGパン姿の“中東の人たち”がロビーにたむろしている・・・(唖然)
高級ホテルのはずだったんだけどなぁ~(苦笑)
なんだろ・・・この客層は・・・(唖然)
さすがに西洋白人のお客さんたち(年配のご夫婦とか)は、それなりの服装をしていたが・・・

フロントでチェックイン・・・
しばらくパソコンをいじってモタモタしている・・・・
と・・・フロントの男性が何か言ったが、よく聞き取れなかった・・・
確認をしたら「部屋のグレードをアップさせていただきました」と英語で言われた・・・
「はぁ~そうなんですか・・・アップ・グレード?」
「はい、スイート・ルームです」とのこと・・・
「へっ?スイート・ルーム????」(驚)
「ラッキーですね!スイート・ルームですよ!」とガイドが大喜び。(大笑)
「あれ?おたくの旅行社がアップ・グレードを手配したのか?」
「いえ、私は何もしてませんけど・・・いやぁ~ラッキーですねぇ~」(大笑)とガイド・・・

やはり人間、身なりが大切なのかも・・・(大笑)
この日の拙者の身なりはネクタイを締めてジャケットを着用・・・
TシャツにGパン・・・なんていう客たちの中では、こういう“紳士”は目立つ・・・(大笑)
たぶん、中国人の団体客などのおかげで、シングルルームが埋まってしまったので、この“紳士”にスイート・ルームに移動していただこうということになったのだろう。(大笑)
いやぁ~やっぱり“身なり”は大事である。

部屋に入ってみて驚いた!

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ありゃぁ~広い!!(驚)
ここに一人で泊まるのか?(苦笑)

隣りの部屋はベッドルームである。

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その隣が・・・「化粧室」(?)
大きなクローゼットがあり、中にふわふわのバスローブが入っていた。(笑)

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その奥がバスルーム・・・・
バスタブのお風呂とシャワールームとが分かれている。
う~ん・・・どっちを使おうか・・・(笑)

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ここに今晩、寝るだけのために泊まるのである!
あ~なんと勿体ないことか・・・(涙)

とりあえず荷物を部屋に置いて、食事をしに行くことにする。

フロントで女の子に拙者の部屋のグレードを聞いてみた。(笑)
拙者の部屋は、このホテルの上から2番目のグレードの部屋で、正規料金は「2万6000」だという。
え?・・・2万6千円って、ずいぶん安いなぁ~(苦笑)
と思ったら・・・・
「円じゃないですよ。台湾ドルで2万6000です!」と笑われてしまった。
日本円に換算すると「1泊9万円くらいの部屋です」とのこと。
ゲゲッ・・・そりゃ、すごい・・・(驚)
いやぁ~どうしよう・・・益々落ち着かねぇぞ・・・これ・・・

タクシーで街の中の繁華街に行き、適当に見つけた小さな食堂で夕食を食べる。
その後、ガイドの案内でマッサージに行く!(喜)
やっとマッサージを受けることができる。(笑)
ガイドは、ここで帰宅・・・
マッサージ後、お店の送迎車でホテルまで送ってくれると言われたが断る。
折角、繁華街に来たのに、真直ぐホテルに戻ったのではもったいない・・・(大笑)
“探検”をせねば・・・(大笑)

夜の繁華街を歩くというのは、方向音痴の拙者にとっては、かなりのリスクなのだが・・・
交差点には「〇〇路」とか、“通り”の表示が出ているし・・・
道路は碁盤の目のようだし・・・
たぶん迷うことはなかろうと思ったのだが・・・これが、やっぱり大間違い・・・(大汗)
迷った・・・(苦笑)
どこかで見たことがある景色だと思ったら、同じ道を何度も歩いている・・・(大笑)

客引きから声をかけられることが何度かあったが・・・(笑)
拙者の財布には1500ドル程度しか残っていない。
日本円で約6千円くらいである。
いつも海外に行くときは財布をいくつか用意して行くことにしている。
現地用の財布には現地の通貨しか入れていない。
今回も日本円もクレジットカードも別の財布に入れたままホテルに置いてきている。
というわけで・・・「日本円が使えます」とか「カードが使えます」と言われても無理・・・(笑)
日本円を取りにホテルに戻るには遠いし・・・(大笑)

帰りのタクシー代を考えると・・・手も足も出ない。(笑)
これ・・・何かと“誘惑”に弱い拙者には好都合である。
カネがないんだから、誘われても飲みに行けない・・・(大笑)

道端で若い女の子に中国語で誘われた・・・(唖然)
拙者は中国語は全く話せない・・・(汗)
すると・・・彼女はスマホのアプリを使って“翻訳”をして拙者に見せた。
「可愛い女の子がいます」とか「安いです」とか・・・(大笑)
おお~なんと便利な事か・・・
しかし、答える拙者のほうの携帯は“ガラ系”である。(大笑)
そんな便利なアプリなんて見たことねぇぞ・・・(大汗)
彼女がスマホを突き出してきたが・・・使い方・・・知らねぇし・・・(苦笑)
結局、身振り手振りに加えて日本語で、「カネがない!」と伝えて断る。(大笑)

交差点で信号待ちをしていたら日本語ペラペラの客引きの“おばさん”に声をかけられた。
面白いことに、このあたりの客引きは名刺を渡す時に「名刺を渡してもよろしいですか?」と誰もが丁寧に尋ねてくる。(笑)
なんでだろう?
この”おばさん”も丁寧だった。
正直に「1500ドルしかもっていないから無理!」と断ったが、よく考えたら帰りのタクシー代も必要である。(笑)
そうなると、使えるのは・・・1000ドル程度か?
所持金が1000ドル程度では危ない、危ない・・・支払いの時にトラブルことは間違いない。(大笑)
多少、ボッタクリに遭うことは想定して多めに持っていなければ安心して酒も飲めぬ。(笑)
ということで、お断りしたが、その代わり、しばらく交差点で、この“おばさん”と世間話をして過ごす。(大笑)

「それじゃね!」と“おばさん”と別れ、また歩き出す・・・・
右に曲がり左に曲がりと適当に歩いていたら、大きな交差点にぶつかった。
「あらぁ~!何してんのぉ~?」と声をかけられる。
ん?・・・・さっきの“おばさん”である!(驚)
あれ?・・・いつの間にか、さっきの交差点に戻っていた・・・(大汗)
なんとも格好悪いな・・・これ・・・(苦笑)

これ以上、歩き回っても意味はない・・・(笑)
この繁華街がどんな感じの場所かは、よくわかったので・・・(苦笑)
タクシーを拾ってホテルに戻る。

ホテルは全室禁煙である。(涙)
フロントの女の子に喫煙所を尋ねたら2階に1箇所だけあるという。
「あ!、ベランダではタバコを吸っちゃダメですからね!」と笑いながら釘を刺された・・・(苦笑)
う~ん・・・先を読まれたか・・・(大笑)

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突き当りの部屋が「喫煙所」・・・目立たないから探すのに苦労した。(翌朝撮影)

一服して部屋に戻る。
カーテンを引こうと思ったら・・・やたらと重い。
で・・・部屋にやたらとスイッチがあるので、適当に押していたら、カーテンが動いた!(驚)
あら・・・電動カーテンだったの?(大笑)
こういう高級な部屋に泊まった事がないからねぇ~・・・知らなかった・・・(大汗)

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部屋から見た夜景!

テレビを見ようと思ったら、チャンネル数が極端に少ない!(唖然)
市内のホテルならば、かなりのチャンネルが映るのだが・・・
気のせいかもしれないが・・・政府に逆らうような局は見ることができないという感じ・・・
台湾独立派に傾いているようなテレビ局の映像は流れない・・・
ニュースを流す局も数局・・・・しかも同じニュースしか流していない。
いやぁ~面白くない!(怒)
例えて言えば・・・NHKしか流していないという感じ・・・
他のホテルと違うところは、日本の「NHK第1」、「NHK第2」、「NHKワールド」が映るくらいだろうか?
あ~あ~面白くない・・・・
で・・・映画を見てみたら、なんと!
映像と音声が、かなりズレているのである。
なにこれ?・・・・である。
口がパクパク動いてから、しばらくして音声が流れてくる。
見ていて鬱陶しい・・・・
おとなしく寝るしかないな・・・(涙)

が・・この部屋・・・広くて落ち着かぬ・・・(大汗)
参ったぁ~(涙)
あっという間に午前1時半である!(苦笑)
寝るときには、各部屋の空調を止め、電気を消して・・・と歩き回る羽目に・・・
う~ん・・・広いと不便だなぁ~(笑)
スイッチが多すぎる・・・どれがどれのスイッチだ?(苦笑)

旅行 | 14:44:18 | Comments(0)
「地震教育園」に行く
時刻はお昼を過ぎた・・・・
腹ペコである。(苦笑)

確か、台中には「国会議事堂」があったと思うのだが・・・・
学生時代、海外研修団で訪問したような記憶がある。
が・・・建物は全く覚えていない・・・(苦笑)
椰子の木の並木のようなものがあり、そこを歩いたかバスの窓から見たか・・・
その景色しか記憶にないのである。
たぶん、歩いたような気がするのだが・・・
もう30年以上も前のことだからなぁ~
それでなくとも記憶力が悪いのであるから、思い出したくても思い出せない・・・(笑)
で・・・時間があったら、そこに立ち寄ってみてくれとガイドに頼んだ。

それは、それとして・・・
何時まで経っても昼食にありつけない・・・(汗)
車は延々と走る・・・
もう1時間も走っているんですけど・・・・(汗)
腹ペコなんですけど・・・

ようやく到着したのが・・・「旧・台湾省議会議事堂」!
「ここですよね?来たかった場所は・・・」とガイド・・・
それはそうなんだけど・・・その前に昼食だろ?(唖然)
もう午後1時を過ぎてるんですけど・・・(汗)
議事堂は、現在は議事堂としては使われていないとか・・・
ちょうど建物の前で何かのイベントの準備中でごった返していた。
「写真、撮らないんですか?」とガイド・・・
そんな気は起らない・・・(苦笑)
イベントのテントや機材が山積みになっているところを撮っても仕方がなかろう?
それより早く飯を食わせてくれ・・・(苦笑)

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「台湾省議会議事堂」の周囲には住宅街が広がっていた。
かなりの広さの住宅街である。
どうも職員住宅のようである。
が・・・現在、議会としての機能を失っているため職員数も減ったのだろう。
空き家が目立つ・・・
その一角に“市場”があった。

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「政府員工」という文字が見えるから・・・たぶん、これは「政府職員」という意味ではなかろうか?
「第三供應市」という文字も見える・・・
「供應」は「供給」と同じ意味かな?
拙者が幼い頃、近所に「きょうきゅう」と呼んでいた市場があった。
大人になってから分かったのだが、近くの大企業の工場に勤める人たち向けの「販売所」で、今で言えば、「スーパーマーケット」のようなもので、「きょうきゅう」は正しくは「供給所」ということだったらしい。
ここは、それと同じようなものなのだろう。
政府職員用の「供給所」・・・「スーパーマーケット」というわけなのだろう。
ガイドが、ここで昼食を食べようと言う。
拙者に異論があるわけがない・・・腹ペコである。(苦笑)

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“市場”の内部は、ガランとして客らしき人はチラホラ・・・閑散としている。
食堂は、まだ午後1時半だというのに、もう店仕舞いの準備をしている店が何軒もある。(汗)
昔は賑わったのだろうが・・・今では、ここを利用する人もいないんだろうねぇ~

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ここで、ようやく昼飯にありつく。(喜)

今日は、夕方の新幹線で台北に戻るのだが・・・今は午後2時・・・
さて・・・どうする?
「今から地震教育園にご案内します」とガイド・・・
拙者としては、全く興味がないのだが・・・(汗)
そういう施設に行くくらいなら博物館に行きたいんですけど・・・(汗)
今回の旅の目的は「霧社事件」ということでガイドには話してある。
じっくりと見て歩き、調べたり勉強したいと話してあるんだけどなぁ~
絶対行きたい関連史跡などの場所は指定しておいたが、細かいところはわからないのでガイドに任せたのが間違いだったかも・・・
早々と午前中に「川中島」が終わってしまい、午後が丸々空いてしまった!(涙)

「地震教育園」などには興味はないと何度言ってもダメ・・・
どうしても拙者を連れていきたいらしい・・・(涙)
というわけで・・・根負けして行くこととなる。

約1時間後、「九二一地震教育園区」に到着・・・
ここは、1999年9月21日に、台湾中部で起こった大地震で被害を受けた学校を、そのままの状態で保存して「地震教育」としている施設のようである。
ちょうど、この学校がある場所に断層が走っていたらしい。

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地震に関する展示館(?)
学生たちのグループがいくつもやって来ていた。
拙者としては、たいして興味がないので、ササッ~と軽く流して見る。
拙者の欠点の一つは「気を取り直して・・・」ということができないところ・・・(大笑)
来たくて来たわけでもなく、ほとんど無理やり連れて来られ、貴重な半日を、ここで潰すのかと思っただけで腹が立つ。
折角だから、気を取り直してじっくり見て勉強しよう・・・・なんていう気にはなれないのである。(大笑)
それじゃ勿体ない・・・これもいい経験と気分を切り替えられないところが我が欠点の一つである。
というわけで・・・「面白くない!」と思いながら見てるんだから・・・テンションが上がるわけがない。(大笑)
ササッ~と適当に流して、何が書いてあるのかなんて・・・読まない・・・(大笑)

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これを見たとき、しばらくの間、これが何なのかがわからなかった。(大汗)
ようやく、これが学校の運動場の“トラック”で、地震のせいで隆起してしまったものだということがわかった。
それにしても、この中途半端な屋根は何だろう?
しかも固定するワイヤーが何本も地面に打ち込まれていて、見づらいことこの上ない・・・
これじゃ、この運動場の隆起のスケールがさっぱりわからないのではないか?(怒)
誰がこんな屋根の設計をしたんだろう?

崩壊した学校の校舎も見学することができる。

DSCN3934_convert_20170326201615.jpg (教室)

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この中途半端な屋根・・・・
太い柱とワイヤーが邪魔!
あ~あ~!!(怒)・・・どうしてこういう展示の仕方をするかねぇ~
ガイドが「すごいでしょう?」と、しきりに尋ねるのだが、ご機嫌斜めの拙者の頭の中は“文句”しかない・・・・(大笑)
「どこの馬鹿がこんな中途半端な屋根と柱を設計したんだ?これじゃ、崩壊の凄さが半減だよ!柱が邪魔!」(怒)
もっと大きなドームで覆ってやれば、崩壊した校舎と隆起したグラウンドが、そのままの状態で見ることができるだろうに・・・
勿体ない展示の仕方をしている・・・としか思えない。
見ていると、そっちの方が気になって腹が立つばかり・・・である。(苦笑)
困った性格だと自分でも思う・・・(大笑)

30分程度見学して施設を出る。
じっくりと本気で見学したら1時間以上は必要だろうが・・・(苦笑)
興味がないから・・・あれも、これも・・・パス!(大笑)

ここに来る途中、「亜州大学」という看板を見た。
この大学・・・英語に訳すと、「アジア・ユニバーシティ」となる。
つまり、拙者の母校と同じ名前!(大喜)
というわけで・・・ここに立ち寄ってもらい、校門あたりで記念写真を撮ろうと思う。
う~ん・・・こりゃ、我が同窓会の支部長への土産話になるぞ。(笑)

行って見たら・・・・ありゃ!
校門なんてものがない!(汗)
いきなり、この建物である!(驚)

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どこかの国の国会議事堂か?・・・・と思わせる建物である。(笑)
あららぁ~・・・・である。
ここには図書館と管理部門、それに「国際学院」(インターナショナル・カレッジ)と「創意設計学院」(カレッジ・オブ・クリエーティブ・デザイン)が入っているらしい。

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で・・・ちょっと敷地内を散策・・・(笑)

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ガイドが「安藤忠雄が設計した建物があるという話を聞いたことがあるので、ぜひ見てみたい」と言う。
へぇ~日本人建築家の安藤忠雄が設計したの?
じゃ・・・あれかな?(苦笑)

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この大学には「現代美術館」という建物がある。
それが安藤忠雄氏が設計した建物・・・・
「知ってたんですか?」とガイド・・・
「いや、この人の設計は、いつもコンクリートの打ちっぱなしみたいな建物だから、すぐわかる」(大笑)と拙者・・・
ガイドは「すごい!すごい!」と大興奮だが、拙者は全く興味はない・・・(苦笑)
実は、拙者はこの人が設計した建物が好きではないのである!(笑)
これは“好み”の問題だから、どうしようもない・・・
例え日本で有名な建築家が設計したと言われても嫌いなものは嫌いなのである。(大笑)

大学の看板があったので、看板をバックに記念撮影!
はい、これで目的は達成!(大笑)
さっさと台中駅に向かう。

DSCN3965_convert_20170329143050.jpg (台中駅)

駅の喫煙コーナーで、まずは一服・・・(大笑)

時刻は午後4時・・・・
我々は午後5時の新幹線で台北に帰る。
それまで時間があるので・・・
駅構内のファミリーレストランでコーヒーとケーキを食べて時間を潰す。

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旅行 | 12:58:52 | Comments(0)
川中島(清流)へ行く
昨晩、あまりにも早く寝てしまったせいか、午前4時半に目が覚めた!(大汗)
というわけで・・・“二度寝”する・・・(大笑)

朝食の前にタバコを一服・・・(笑)
ホテルは全面禁煙なので、ホテルの入り口の脇にある喫煙場所まで行かねばならない。
で・・・外に出たついでである・・・ホテル周辺を散策する。

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(宿泊した「鎮宝大飯店」)

このホテル・・・名前の発音が・・・ちょっと問題なのである。(苦笑)
「鎮宝」・・・「ちんぽう」と言う・・・最後の音を伸ばさなかったら、ちょっとマズイ・・・(大笑)
この町では、かなり大きなホテルだと思うのだが、昨日の朝、レストランにいたのは拙者一人だけ・・・
ロビーでも誰も見かけなかった・・・(汗)
今朝は駐車場に大型観光バスが2台入っていたけど・・・
これで採算合うのかね?
潰れちゃうんじゃないの?・・・と余計な心配・・・(笑)

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(ホテルの前の様子)

昨晩、このホテルに中国人のツアー客が泊まったため、今朝は昨日とは打って変わってレストランは賑わっていた。

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今日は、これから、日本統治時代に「川中島」と呼ばれた集落へ行く。
現在は「清流」という名前らしい。
午前8時40分、ホテルをチェックアウト・・・
途中、埔里の町の中にある税務署に立ち寄ってもらい建物の写真撮影をする。
拙者は地元の「法人会」の広報委員でもある。
いつも原稿を書くのは拙者の役目・・・(苦笑)
最近、「全国税務署めぐり」のコラム記事を書き始めたが、国内ばかりというのも面白くない。(笑)
海外の「税務署」を紹介するっていうのも面白いのではないかということで、急遽、予定外ではあるが立ち寄ってもらうことにした。
よし!これで原稿1本書けるぞ!(大喜)

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(財政部中區國税局埔里稽徴所および南投縣政府税務局埔里分局の入っている建物)

埔里から車で1時間ほど走り、「川中島」に到着する。
早速、最初の目的地「餘生記念館」に向かう。

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「霧社事件」を起こした原住民を「反抗蕃」と呼び、この事件に参加しなかった原住民を「味方蕃」と呼ぶ。
「反抗蕃」の討伐に、日本の武装警官隊や日本陸軍の兵士たちが参加したが、日本は「味方蕃」にも討伐への参加を求め「蕃人掃蕩隊」を編成した。
彼らに対して日本は反抗蕃を馘首(首狩り)をしたら報奨金を与え、万が一、返り討ちにあって死んだ場合の補償も手厚くすると約束して参加させたらしい。
「蕃人に対しては蕃人をもって」という考え方であろう。
よって、特にタウツア蕃やトロツク蕃は積極的にこれに参加したらしい。
で・・・最終的に婦女30人、子供36人を含む87人の反抗蕃の首を刈ったらしい。
反抗蕃は総数で644人が、この討伐等で死亡した。
その中には、同じ「蕃人」に馘首された者の他に、事件に直接は参加していない、いわゆる一般人の反抗蕃(たぶん、女・子供・年寄りたちだろう)で縊死(首吊り自殺)した296人が含まれている。
山に逃げ込んだはいいが、食べるものもなく餓死寸前に投降してきた者は捕虜も含めて561人。
彼らのうち514人が収容所に収容され「保護蕃」と呼ばれた。

「霧社事件」の討伐はは昭和5年12月中には完了して一件落着となったが・・・・
「蕃人掃蕩隊」のトロツク藩はこの討伐で特に多くの損害を出している。
つまり反抗蕃に返り討ちに遭って馘首されたものが多かったわけである。
馘首されるということは、彼らにとっては“恥”であり、“恨み骨髄”ということになったのだろう。
投降して「保護蕃」となった連中に対する加害が随所で起こったという。
対して、「保護蕃」のほうも、彼らには恨みがある。
日本に歯向かって日本人に討伐されるのは覚悟の上、やむを得ないと思うが、何で同じ原住民に討伐されて首を刈られなければならないのかということである。
こっちには、こっちで味方蕃に対しての恨みがある。
この恨みを、いつか晴らしてやる・・・というところだろう。
このことは、当然、同じ思考回路の原住民同士だから、味方蕃のほうもわかっている。
やられる前にやっちまおう!・・・となる。
が・・・計画を立てるたびに日本側にバレて何度も阻止されていたので、彼らには鬱憤が溜まっていたらしい。
その時に、宝蔵寺という名の警察課長が部下に命じて、味方蕃に保護蕃を襲撃させて鬱憤を晴らしてやろうと“けしかけた”らしい。

そこで味方蕃の蕃丁208人が数か所に分かれて収容されていた保護蕃を襲撃したのである。
これが昭和6年4月25日に起こった「第二次霧社事件」である。
514人の保護蕃のうち195人が殺害され、19人が縊死、10人が行方不明となり、生存者は298人である。
日本は、この生き残った298人を別の場所に強制移住させることにし、その場所を「川中島」と名付けたのである。

というわけで・・・・この「川中島」に来てみた。
戦後、国民党によって改名させられ、現在は「清流」と名付けられている地である。

餘生記念館の「餘生」は、「生き残って余生を過ごす・・・」という意味ではなかろうかと思う。
この霧社事件、第二次霧社事件、そして強制移住に関する資料の展示がされている。

DSCN3776_convert_20170220172131.jpg (敷地内にある「霧社事件餘生紀念碑」)

DSCN3780_convert_20170220172249.jpg DSCN3825_convert_20170220172344.jpg

資料の展示と言っても、パネル展示だけである。
説明文は全部中国語・・・(汗)
ローマ字も併記されていたので英語かなと思って読んでみたら、全く知らない言葉である。
もしかしたら、原住民の賽徳克(セデック)族の言葉かもしれない・・・・

昨日、課長が、この村を案内してくれると話をしていたが、やっぱり仕事で時間が取れないとのこと。
そりゃそうだ・・・平日だもん・・・(苦笑)
そこで、この村に住む課長の叔父さんに連絡をしてくれて、キュウさんという叔父さんに案内を頼んだという。
ガイドが、このキュウさんを迎えに行っている間、拙者は一人で、ここを見学する。
ここは無人で、無料の資料館である。(笑)
勝手に入り込んで電灯をつけて見学・・・・
相変わらず“翻訳者”なしで自力で中国語を読まねばならぬ。(涙)
漢字で書かれているので、ごく一部については、おおよそ意味は分かるが、意味不明の漢字や日本にはない漢字が並んでしまうとお手上げである。(涙)

間もなくキュウさんがやって来た。
挨拶もそこそこに、早速、展示パネルの説明をしてくださった。
日本語がペラペラなのには驚いた。
75歳だというから大戦末期に生まれて戦後育ちだと思うのだが、流ちょうな日本語を話すオジサンである。
が・・・ガイドが話の途中でやたらと口をはさんでしまうので、話の腰を折ってしまう。
そのうち、ガイドが「さぁ!ちょっと外に出ましょう!」などと言い出したのでカチンと来た。(怒)
「いま、説明を聞いているところなんだから邪魔をしないでくれ!」(怒)

DSCN3783_convert_20170221104843.jpg (霧社)

昔の霧社の町の写真・・・・
メイン通りの突き当りが警察署・・・現在、消防署がある場所である。
右斜め奥、山の中腹辺りに霧社神社が見える。
現在、「徳龍宮」がある辺りである。

DSCN3786_convert_20170221103917.jpg (人止関)

「人止関」の古写真・・・・
結構、良く見かける有名な写真の一つである。
霧社に来る前に、ここに立ち寄ったが、ずいぶん景色が違う。
この写真を見ると、「人を止める関所」っていう感じがよくわかる。

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DSCN3803_convert_20170221104237.jpg (昔の雲龍橋)

廬山温泉に行く前に立ち寄った「雲龍橋」の古写真・・・・
吊り橋である!(汗)
とんでもなく長い吊り橋である!(大汗)
拙者は、絶対、こんな橋は渡れない!(大笑)
現在は車が走れる橋に架け替えられている。
いやぁ~歩いて渡る羽目にならず本当に良かった・・・・(大笑)

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霧社事件の1年前の運動会の様子の写真・・・

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事件後の霧社公学校の運動会場の現場写真。
校庭に何かが“集められている”ような黒く盛り上がっているものが見える。
写真が不鮮明なので、よくわからないのだが、もしかしたら一か所に集められた犠牲者の遺体なのかもしれない・・・

DSCN3827_convert_20170221110737.jpg DSCN3828_convert_20170221110810.jpg

事件の首謀者モーナ・ルーダオに関する資料パネル

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日本の武装警官隊と、「反抗蕃」を討伐した「味方蕃」の記念写真・・・
「味方蕃」の足元には4つの生首が置かれている。
そのうち、一番左端の首は、どう見ても子供の首にしか見えない・・・(大汗)

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「保護蕃」に関する展示パネル。
2人の女性が写っている写真は、結構、有名な写真だと思う。
この左側の女性はキュウさんのお母さんだそうで、右側の女性はお母さんの妹、つまり、キュウさんの叔母さんだそうである。
キュウさんのお母さんは、非常に優秀な人で、日本語もペラペラ、分数の計算もできたらしい。
で・・・教育熱心・・・
キュウさんは、お母さんから「あなたの日本語は下手だ。勉強が足りない。もっと勉強しなさい」とよく叱られたという。(笑)

戦後、中国大陸から蒋介石率いる国民党が台湾にやって来た。
で・・・校長や学校の先生として、彼らが着任したらしいが・・・・
「分数の計算もできないような人間が校長なんだからねぇ~」と怒っていた。
計算ができるかどうかは彼らの優秀さを計るバロメーターだったようである。
分数の計算ができる母親を持つ身としては許せないのだろう・・・文句タラタラ・・・である。(苦笑)

キュウさんからは、事件の遠因の一つとなったエピソードを聞かせてもらった。
ある時、駐在所の前を原住民の青年が通りかかったところ、日本人警察官に呼び止められ、酒を勧められたそうである。
当時は道も悪く、足元も危ない崖に沿った道を帰らねばならない。
で・・・酔っぱらうと危ないので、ほどほどのところで帰りたかったそうである。
そこで彼が、うっかり現地語で「バーカ」という言葉を口に出してしまったらしい。
この「バーカ」は、現地語で「もうお腹が一杯です」「もう十分いただきました」という意味だそうである。
ところが、この言葉を聞いた警官が怒り出した。
「馬鹿とは何事だ!」ということで、3人の警官が寄ってたかって、この青年に暴行を加えたらしい。
この青年は命からがら逃げだして村に帰ったが、そのまま寝込んでしまい、まもなく息を引き取ったそうである。
たぶん、内臓を損傷したのだろう。
「これは事件の直接の原因ではないが、こういうことの積み重ねが事件を起こしたんだよなぁ~」とキュウさんは言う。

「だいたいあの連中(日本人警察官)は尋常小学校しか出てないような連中で、質が悪かったんだよなぁ~」と言う。
遠慮会釈なくズバリと言われたのには驚いた。(大汗)

当時は“外地”に赴任するというのは人気がなかったようである。
出来れば国内で働きたいというのが人情だろう。
が・・・国内では、明らかに出世できないと分かっているような人もいただろうから・・・
外地赴任の手当てを目当てにするような人とか、一旗揚げようという「一旗組」のような連中が台湾に赴任した可能性は大である。
山地の駐在所に勤務となれば、警察業務だけではなく、行政に関しても指導的な立場となる。
まるで村長さんにでもなった気分と言っていいかも・・・
王侯貴族とまでは行かないにせよ、やりたい放題のことができるということになる。

キュウさんは「あれ(日本人警察官)は、やり過ぎたんだよ!やり過ぎ!」と言う。
「尋常小学校しか出ていねぇからなぁ~」と再び・・・(苦笑)
たしかに、おっしゃる通りだと拙者も思う。
事件後の昭和6年の1月に、台湾総督府から事件の報告を受けた昭和天皇は、「我が国の台湾統治の仕方に非があるのではないか?台湾の人たちを見下したような態度をとったことが原因なのではないか?」というようなことを口にしたといわれている。
台湾総督府や日本官憲の報告は、われわれ日本人には理解しがたい首狩りの風習がもたらした突発的な事件というような、あいまいな報告だったようであるが、昭和天皇はズバリと核心を突く見解を出していたのである。
天皇陛下はすごい・・・
それに比べて役人は・・・・身内を庇い、誤魔化す・・・・(大汗)
今も昔も変わっていないようである。(苦笑)

そんなこんな話をしている間にも、ガイドはチョコチョコと余計な口を挟んでキュウさんの話の腰を折る。(汗)
空気が読めないというか・・・自己中なのか・・・・(笑)
あまりにもうるさいので、ついに我々二人は彼を追いやった・・・(大笑)
彼が立ち去ったところでキュウさんが「なんだ、あいつは!ひとが話をしているのに邪魔しやがって!」と怒り出した。
いやぁ~その恐いこと・・・(大汗)
セデック族って・・・怒りっぽい人種なのかな?(苦笑)
昔のセデック族も、こんな感じだとすると・・・う~ん・・・事件を起こしてもおかしくはないかも・・・(大汗)

キュウさんが、お茶をごちそうするから家に来ないかと誘ってくれたので、ご自宅にお邪魔して、更におしゃべり・・・
もっと、おしゃべりをしたかったが、まもなくお昼になる。
昼食時にお邪魔しては失礼だろう。
名残惜しいが、自宅前で記念写真を撮ってお別れする・・・・

このまま車に乗って移動するのも面白くない・・・
ということで、拙者は徒歩で村の入り口まで戻ることにした。
車の方は先に行って待っててもらうことにした。
「どうぞ、ゆっくり見て歩いてください!」とガイド・・・・

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何の看板かなと思ったら、どうも健康増進のためのウォーキングマップらしい。
モデルコースを歩くと所要時間は15分で、消費カロリーはどのくらいになるかというようなことが書かれている。

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こちらの看板は「清流公約」と書かれているので、この集落のルールが書かれているようである。
で・・・住民だけではなく、この集落に外から訪問した人も守るようにということが書かれている。
「環境公約」は・・・・
酒瓶を捨てるなとか、家畜等を野放しにするなとか・・・そういうようなことが書かれているようである。
“稲草”や“廃棄物”を勝手に燃やしてはいけないというようなことも書いてある。
「生活公約」には・・・
18歳以下の青少年や児童に酒を売ったり与えたりしてはいけない・・・というようなことが書かれている。
どうも、原住民は酒が好きなようで・・・酒についての警告が書かれているのは面白い。(苦笑)
また、夜の11時以降に“遊蕩”している青少年は、“隣長”を通じて“家長”に通告し・・・なんだかんだと書いてあり・・・最後に、“帯”とあるから、親と一緒にということだろう・・・派出所へ行って情況を明らかにしなければならないというような厳しいお達し・・・(大笑)
こりゃ、いい!(大笑)
中国語なので、果たして拙者の解釈が正しいかどうか、ちょっと自信がないが・・・
こういうのを訳してもらいたいこともあってガイドを雇ったのに、肝心のガイドは車に乗ったまま行ってしまった・・・(唖然)
相変わらず肝心な時にいない・・・(涙)
しかし、こういう「公約」っていいなぁ~
我が町内会にも、こういう「公約」を掲示してもいいんじゃないか?(大笑)

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清流部落の水田・・・・
第二次霧社事件の生存者は、この地に強制移住をさせられたが、もともと彼らは山岳民族で狩猟で生計を立てていた民族である。
それが低地に移住させられ、狩猟したくとも狩りをする動物もおらず、狩猟民族から農耕民族に変わるよう強制されたのだから、その苦労は相当なものだったろう。
水田の稲穂を見ていて、よくぞ農業を身に着けたものだと感心・・・

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たぶん、昔、吊り橋があった場所だと思われるところに看板が立てかけてあった。

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この「川中島社」について書かれているようだが、解読不明・・・(涙)

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当時の「川中島社」の古写真・・・・

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「川中島」(現:清流)の集落の入り口に到着!
ここに史跡の説明板があった。

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日本人警察官が訓示をしているところ・・・・
整列しているのは、ここに収容された原住民たちではないかと思うが、後姿は日本人のようにしか見えない・・・
当時の服装がよくわかる写真でもある。

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さっきの看板の写真より、ちょっと見やすい当時の「川中島社」の写真・・・

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これは「霧社事件相関地点位置図」と書かれていた霧社事件関連の史跡の地図と写真・・・・
「斯固部落(雲龍鐵橋左上方)」と書かれているが、斯固は、もしかしたら斯克(スーク)社のことではなかろうか?
「馬赫坡(マヘボ)部落」は現在の廬山温泉ということで、間違いはないが・・・
現在廬山部落となっている場所、昔の坡阿崙(または波亞倫)(ボアルン)社のことだろうが、この地図では、廬山温泉から更に奥地のかなり離れた場所に位置している。
ということは・・・廬山温泉に行ったときに見た集落は、あれはボアルン社ではなく、マヘボ社の一部か、もしくは戦後に開拓された集落なのかもしれない。
こういう史跡の案内板があるのに有効に利用できず残念・・・・

この説明板によれば、1931年(昭和6年)5月6日に、生存者298名が、ここに強制移住させられたらしい。
それから6年後には住人は230人となったと書いてある。
キュウさんの話では、現在の人口も約230名とのこと。
人口が増えないのではなく、若い人たちはみんな都会に出て行ってしまい、残っているのが230人とのことだそうである。
で・・・村の祭りのようなときには、戻ってくるので、非常に賑やかになるとか・・・
う~ん・・・どこでも同じだね・・・(苦笑)

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集落の前には川が流れており、そこに「清流橋」という橋が架かっている。
で・・・橋を渡った先に車が待っているはずなのだが・・・・いない!(唖然)
どこにも車がいないのである!(大汗)
いったい、何をしていやがるんだ!・・・・とキュウさんじゃないけど、ガイドに文句を言いたくなる。(怒)
仕方がないので、周囲をブラブラするが、いつまで経っても現れない・・・

DSCN3913_convert_20170317162558.jpg(「清流」(旧:川中島)部落の入り口)

待つこと20分・・・・ようやく車が現れた。
どこに行っていたのやら・・・であるが・・・
“お客さん”を20分も放置しておくって、どういうこと?(怒)
ガイドは「さぁ、じゃぁ、行きますか!」とケロケロとしている。

で・・・車内に乗り込んで気が付いた・・・
拙者はカバンを車内に置いたままだったのだが、そのカバンの位置が変わっている・・・(大汗)
たぶん、彼のことだから拙者のカバンの中身を見たに違いない。
カバンの中には日本から持参した資料や、ノート類等々が詰まっている。
わざと、カバンの各ポケットを確認して、試しに首をかしげて見せたら、ガイドがソワソワして明らかに焦っている・・・(大笑)
やっぱり・・・・カバンの中身をいじったな・・・
迂闊にも車内にカバンを置いたままにしたのがいけなかったのだが・・・
こういうことをしては信頼関係を壊してしまうということがわからないのだろうか?
彼は漢人(中国人)だから仕方がないか?

とくべつ何かを盗まれたわけではないが、断りもなくノートや資料を勝手に見られたのでは気分が悪い。
彼は人は悪くないのだが、思慮浅い・・・調子はいいんだけどねぇ~(大笑)
キュウさんが説明しているのに口を挟んで話の腰を折るし、客を20分も路上に置き去りにするし・・・(苦笑)
困ったガイドである・・・(涙)
高いカネを出して雇ったのに・・・これではねぇ~(苦笑)
参った・・・・

旅行 | 10:06:51 | Comments(0)
モーナ・ルーダオの生家跡に行く
霧社から更に奥地に向かう・・・・
向かう場所は「廬山温泉」・・・・
そこに、事件の首謀者とされるモーナ・ルーダオの生家跡があるらしいので今回の予定に入れておいた。

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途中、「雲龍橋」という橋のところで下車して見学する。
この橋は史跡らしい。
が・・・ガイドの話が要領を得ない・・・・(苦笑)
史跡の説明板があったので読んでみるが中国語である・・・(涙)
この文章を、そのまま日本語に翻訳して欲しいのだが、ガイドは自分の知識だけで説明するので、よくわからない・・・(涙)
マイペースなんだよなぁ~(苦笑)

しかたがない・・・想像力を駆使しながら自力で読むしかないか…(苦笑)

説明板によれば・・・・
日本統治時代に斯庫部落(スーク社)の下にある濁水渓という川の畔に架けられた橋が前身のようである。
当時は、「斯車鐵線橋」と呼ばれていたらしい。
「鉄線橋」という言葉は聞いたことがあるが、どうも日本でいう「吊り橋」を指すのではないかと思われる。
で・・・このスーク社(斯庫部落)は「廃社」と書かれているから、現在は消滅しているという意味だろう。
この橋の西には賽徳克族(セデック族)のSUKU部落(スーク社)とGUNGU部落があるという。
わからないのは、このGUNGUの発音・・・(苦笑)
霧社の11社の部落に、このGUNGUに当てはまる発音の部落(社)がないのである。(涙)
このGUNGU部落は、現在は春陽部落と呼ばれているらしいのだが・・・・
東にはBOWARUNG部落と、MEHEBU部落がある。
BOWARUNG部落は「ボアルン社」のことで、MEHEBUは「マヘボ社」のことだろう。
ボアルン社は現在は廬山温泉部落と呼ばれているらしく、マヘボ社は現在の廬山温泉だと書いてある。
が・・・う~ん・・・「廬山温泉部落」と「廬山温泉」とは、どこがどう違うんだろう?(苦笑)
1930年10月、霧社事件が「爆發」したとき、「抗日領袖」だったMONA-RUDAW(莫那魯道=モーナ・ルーダオ)は、日本軍に追われて「敗退」するときに、この橋を「吹断」して(吊り橋を切り落としたという意味か?)日本軍が川を越せないようにしたと書いてある。
1949年、「台湾光復後」に、「龍雲将軍」という人が、橋を再建したらしく、「龍雲橋」と名付けられたと書いてある。
その後、再び名前が変わり、「雲龍橋」となったらしいが、その理由は・・・読んでも意味が分からなかった。(苦笑)

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当時の吊り橋の“主塔”部分が残されていて、そこに「雲龍橋」と刻まれている。
この橋の主塔が、どうも「史跡」らしい・・・
霧社事件当時の橋は、どのあたりにあったのかは全く分からない・・・
この橋は戦後に建てられた2番目の橋ということになるか?
説明文では、1972年に南投縣政府が、山地人(原住民)の交通の便を良くするために吊り橋を建設したというようなことが書いてある。
ん?・・・ということは、その時の橋がこれなのか?
よくわからん・・・
そうなると、この「雲龍橋」は3番目ということになるのか?
説明板によれば、「但」し・・・「小車」しか通行できないので、「大型車」に乗っている「遊客」は、ここで下車したという。
このため、「人車分離方式」の「座橋」を建てたらしい。
これが現在の「道路橋」ではないかと思うが、「人車分離」の「歩道」のほうは、どこにあるのか・・・見当たらなかった。(苦笑)
どうも、拙者の和訳も、最後の方になると怪しいものである。(大笑)

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橋のところに銅像が・・・(大喜)
男女の像であるが、服装から想像すると賽徳克族(セデッック族)ではないかと思うが・・・・
セデック族は、泰雅族(タイヤル族)の中の一つで、タイヤル族の亜流である。
以前は「タイヤル族」とされていたが、2008年に原住民の「セデック族」として台湾政府に認められた。
で・・・特徴は、顔に刺青(いれずみ)を入れているのだが・・・
この銅像の顔には刺青らしきものが見当たらない。
なんでだろう?
日本統治時代に、この刺青については厳しく禁止されたという。
そういうわけで、この顔に刺青を入れるという風習は現在では無くなったので・・・・それで銅像にも刺青を描かなかったのかも。

橋を渡り、トンネルを抜け・・・さらに山奥に向かう・・・

ガイドの話によれば、廬山温泉は、2009年に集中豪雨に遭い、壊滅的な被害を受けたという。
で・・・今では、廃墟と化しているというのだが・・・・
行って見たら、そんな風には見えない・・・(苦笑)
ごく普通に営業しているように見えるんですけど・・・(汗)

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吊り橋を渡って、向こう岸に向かう・・・

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結構、この吊り橋・・・怖いのである・・・(大笑)
拙者は高所恐怖症なのである!(大涙)
先を行くのはガイド・・・
揺らすなって!(怒)
あんたがドッシンドッシンと歩くと揺れるんだって!(怒)
向こう岸から中国人観光客の団体がやってきた!(大汗)
渡るなよ!来るなよ!・・・と言いたいが・・・中国語が話せない・・・(大汗)
橋の真中を歩くのもやっとだというのに・・・橋の上ですれ違うのかよぉ~(涙)
ゲゲッ・・・顔面蒼白である。(大笑)
キャーキャー騒ぎながら渡ってきた中国人観光客たちと橋の上ですれ違う・・・
お互いに橋の端を歩かねばならない・・・
言葉が通じないので、お互いに表情で“会話”・・・・
「怖いよねぇ~」(大笑)

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橋を渡った先の温泉街・・・・
どことなく昔の日本のような・・・そんな感じのする温泉街である。
ん?ちゃんと営業してるじゃないか?壊滅なんかしてないじゃないか?
閑散としていてお客さんの姿は見当たらないが・・・(笑)
だいたい、どこでも温泉街って昼間は閑散としてるんだよねぇ~
賑わうのは夜でしょ?(笑)

旅館と旅館の間の狭い路地から奥の山に向かって歩く・・・
ダラダラのなだらかな坂なのだが、こういう坂が実は歩いていて、運動不足の拙者には非常にキツイのである。(涙)
その景色を撮影したいが、先を歩くガイドが邪魔で写真が撮れない・・・(涙)

山奥に入り込んで約10分・・・道に迷った・・・(笑)
どこにもモーナ・ルーダオの生家跡らしきものは見当たらない。
「帰りましょう!」とガイドが言う。
いや、いや、ちょっと待て・・・ヘトヘトになりながら登ってきたのである。
ここで諦めて帰るわけには行かない・・・
が・・・ガイドは勝手に山を下りようと先に歩き出した・・・(唖然)
と・・・・見っけ!(喜)

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道標を見つけた!
ガイドはどこを見て歩いてるんだよ!(怒)
これに気が付かないとは・・・(汗)
「往莫那魯道紀念碑」と書いてあるじゃねぇか!
「こっち!こっち!」とガイドを呼び戻す。

更に山道を登ること約5分でモーナ・ルーダオの生家跡に到着する。

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ここがどうも生家跡らしい・・・

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紀念碑には・・・
「抗日英雄 
莫那魯道 紀念碑 
仁愛郷長 沈明徳 題
中華民國八十二年九月五日立」
・・・とある。
「中華民国八十二年」は、1993年、日本では平成5年である。

後ろにある建物は、復元された生家というわけではなさそうである。
「莫那魯道紀念館」という看板が取り付けられていたが・・・
どうも日本でいうところの「神社」「社」という感じである。
内部を見たら・・・・こんな感じ・・・・

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「紀念館」だけど・・・資料のようなものの展示は何もない・・・(苦笑)
祭壇らしきものがあるだけ・・・・
神様として祀っているということだろうか?

「往馬赫坡古戦場」という道標を見かけたが、「古戦場」って何だろう?
どうも、この生家跡の脇の道を通って更に奥地に向かうらしいが・・・
ガイドに尋ねたら「知りません」とのこと・・・(唖然)

今日はやけに暑い・・・
山地なので、少し肌寒いかと思っていたが、山道を登ったせいか暑くてたまらん。
拙者の出で立ちは、ジャケットにスラックスに革靴である。(笑)
ジャケットなんか着ていられない・・・まるで初夏の暑さか残暑なみの暑さである。
ガイドはTシャツを脱いで上半身裸で、拙者の前を歩く・・・
やめろって・・・その格好・・・(涙)
上半身裸の男が写真に写りこんじゃうじゃねぇか・・・そんな写真、使い物にならなくなるんだけど・・・(涙)

DSCN3723_convert_20170209120605.jpg (来た道を振り返って写す)

DSCN3724_convert_20170209120655.jpg (遠くに見えるのが廬山温泉)

ガイドが「別のルートを通って帰りましょう!」と言って歩き出した・・・
途中で人の顔を彫った石を見つけた。

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石像の前にある看板を見たら「馬赫坡原址」と書かれていた。
おお!・・・ここが馬赫坡(マヘボ)社跡なのか!(驚)
事件当時のマヘボ社の家の数は54戸、人口は231名(男113名、女118名)だったという。
ごく平均的な規模の集落である。
で・・・モーナ・ルーダオは、そのマヘボ社の頭目であり、事件の首謀者である。
その生家がある場所なんだから・・・この周辺がマヘボ社だというのは当然か・・・(笑)

DSCN3731_convert_20170209135959.jpg (マヘボ社跡周辺)

今は、集落らしきものは何もない・・・・完全に消滅している。
まぁ、“抗日集落”だから仕方がないか?
54戸の家はどのあたりに建っていたのだろう?

来た時とは別のルートで、更に山を下る・・・・

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山を下ること10分程度で麓の集落に出た・・・
「地熱井(廬山温泉)」という看板のある場所を見つけた。

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「地熱井」って・・・温泉の源泉のことだろうか?
ここが「廬山温泉集落」ということであれば、事件当時、ここには「ボアルン社」があったということになる。
事件当時のボアルン社は48戸、人口は192名(男97名、女95名)だったという。
この上の方にあったマヘボ社より、ほんのちょっとだけ小さい集落だったということになるが・・・・

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DSCN3742_convert_20170209154746.jpg DSCN3743_convert_20170209171546.jpg

この集落のメイン通りのところに、今度は女性の顔の石像があった。
説明板には「女紋面石像」としか書かれていない。
「ボアルン社跡」というようなことが書かれていない・・・
どこかに「址碑」でもないかと見渡したが見当たらなかった・・・
でも、ここはボアルン社跡のような気がするんだよなぁ~・・・・単なる勘だけど・・・(苦笑)

この人面の石像の顔には刺青(イレズミ)が彫られていた。
この刺青は、男性の場合は勇敢を表わし、女性の場合は機織の技術を持っていることを表わしている。
ということで・・・この人の場合は、機織の技術を持っている・・・ということになるな。(笑)

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どう見ても、日本家屋にしか見えない建物があった。
これは何に使われているんだろう?
一般住宅というより、集会所のような気がしないでもないが・・・・

この家の前に近代的な設備が・・・(笑)

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説明板によると「経済部中央地質調査所衛星連讀追蹤站―警光山荘站」と書いてある。
さて、これを訳してもらおうと思ったのだが・・・ガイドがいない!(驚)
彼は山歩きが趣味だと言っていたが・・・・
わき目もふらず、スッタ、スッタと先に歩いて行ってしまったのである!
役に立たねぇなぁ~(怒)
こっちはウォーキングに来ているわけじゃないんだけどなぁ~
自分の趣味を優先するとは困った男である。(怒)
しかたがない・・・またもや自力で訳すしかないか・・・
どうやら、この設備はGPSらしい・・・(笑)
ここ十数年、この廬山温泉周辺では、台風や豪雨などで地盤に問題が発生していたようである。
「大規模岩體滑動」とか「滑動」という文字が何度も出てくる。
滑る?動く?・・・・地盤がずれるとか崖崩れを起こすとか・・・そういう意味かもしれない。
で・・・ここ廬山温泉の旅館と住民の安全のため、この機器を設置して、地盤のずれを観測し、「防災」と「預警的資訊」のために情報を提供する・・・とかって書いてあるようである。(汗)
ここのほかに、かなり離れた山の中に2ヵ所、同じ観測機器を設置しており、その配置図が描かれていた。
なんと丁寧な・・・(笑)
3点でGPS測定をして、地盤の変動を調べて警告を出すということだろう。
へぇ~・・・大したものだ・・・と感心・・・

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さらに道路わきに葉っぱの形をしたものを見っけ!
何だろうと思ったら、字が彫られている・・・・説明板である。(笑)
これもまた自力で翻訳せねばならない・・・(涙)
「仁愛郷廬山」についての説明文のようだ・・・
それによると、「廬山温泉」というのは、昔は「富士温泉」と呼ばれていたそうだ。
廬山温泉は霧社から東北へ「9公里」の場所に位置するという。
「9公里」って何キロメートルなんだ?・・・・9キロメートルでいいのかな?
尋ねたくともガイドがいない!(怒)
日本統治時代は日本軍人傷病兵の療養場所として使われていたらしい。
その後に、この場所が自然に恵まれた非常にいい場所だとか、温泉の効用について書かれていた。

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再び吊り橋を渡って対岸に戻る。
モーナ・ルーダオの生家跡から、ここまでゆっくり歩いて約20分である。

橋を渡ったところで、ふと目についた・・・・
地図である!

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ここに地図があったじゃないか!
スタスタと歩いて行っちゃうから見落とすんだよな!(怒)
この地図に「古戦場」が描かれていた。
そこにはモーナ・ルーダオの銅像が建っているらしい・・・
あ~あ~・・・・何が「知りません」だよぉ~(涙)
あの奥に、もう少し歩いていけば良かったんだよなぁ~
今更、もう戻る気は起らないし・・・(涙)
大失敗である!!(大涙)

「古戦場」と呼ばれるのは、モーナ・ルーダオ一族が最後にいた場所ではなかろうか?
事件後、日本の武装警察官隊と応援に駆け付けた日本陸軍により彼らは追い詰められていく。
どこかの洞窟にいたらしいが、その入り口に日本軍の砲弾が降ってきて死傷者が出た。
確か、弟か誰かが死んだと思う。
そこで、洞窟を出て向かった先がこの「古戦場址」と呼ばれる場所ではなかろうか?
そうだとすると・・・ここには小屋があり、そこでモーナ・ルーダオは一族の者たちに自殺を命じる。
次々と自殺をする中、モーナ・ルーダオの妻と子供が自殺をためらったので、彼が自分の手で殺害したという。
死体の首を刈られるのを避けるため、ここにあった小屋に火をつけて遺体を焼き払い、自身は山の中に入って自殺したという。
これが通説だが・・・・
その小屋があった場所、つまり一族が自殺した場所が「古戦場址」なのではあるまいか?
現地に行けば、説明板か何かがあるだろう・・・
あ~失敗した!(涙)
再訪問するしかないかぁ?
この廬山温泉にでも宿泊して、ここを拠点に歩くしかないか?

それにしても、この一族の最後の「説」には、拙者は個人的に疑問がある。
当時の彼らの「自殺」は「縊死」・・・つまり「首吊り」が一般的である。
その昔、日本でも「割腹」「切腹」が自殺・自決の一般的な方法であったのと同じようなもので・・・
彼らは、大木の枝で首を吊って自殺するという方法が一般的であったという。
これは私論であるが、山の中の檜(ひのき)は先祖の精霊が宿っている神聖な木という彼らの「信仰」に関係しているのではなかろうか?
そこで木の枝に縄をかけて首を吊るのではあるまいか?
実際、この事件で追い詰められた原住民たちの多くは首を吊って自殺をしている。
表現が不適切だとは思うが、まるでクリスマスツリーの飾りつけのように、一本の木のいくつもの枝に何人もの遺体がぶら下がっているのが発見されている。(当時、日本軍もしくは日本人が撮影したと思われる、その写真も残っている)
にもかかわらず・・・なんで小屋の中で自殺するんだろう?
周囲は山である・・・いくらでも木があるんだけど・・・
そして、首謀者も、同行していた一族も全員自殺したというのに、一体だれが、これを見て後世に最後の様子を伝えたのだろう?
不思議である・・・・

もう喉がカラカラである・・・
そのへんのお店に入ってコーヒーでも飲もうか?
ガイドが「おいしいコーヒーのお店がありますから、そこへ行きましょう」と言う。
そんなお店が、こんな山奥にあるのか?(苦笑)
とにかく車に乗り込み走り出す。
霧社のすぐ近くまで戻り、町には入らずそこから別の道を通り山を登っていく。
「すごく景色のいい場所があるので、案内します」とガイド・・・・
「いや、それより喉が渇いてるんだけど・・・何か飲みたいんですけど・・・」
「はい、コーヒーですよね?おいしい店に案内します」
しかし・・・彼の様子を見ていると、どうもお店を知っているようには見えない・・・(汗)
キョロキョロして、適当な店の前に車を止める・・・・
山の中腹にレストランが・・・
行って見たら休業だった!(唖然)
2軒目の店も休業!(怒)
さすがに腹が立ってきた!
「どこでもいいから入れ!喉が渇いてるんだって言ってるだろ!」(怒)
ようやく開店しているレストランを見つけ入る・・・

DSCN3762_convert_20170210134933.jpg (レストラン)

このレストラン・・・標高2044メートルにある。(そう看板に書いてあった)
で・・・・コーヒーは?
ガイドに尋ねてもらったら・・・「ありません」と言う。(唖然)
どこが「おいしいコーヒーが飲めるところに行きましょう」だ?(怒)
缶ジュースならあるというので、コカ・コーラを飲むことにした。
廬山温泉を出て約1時間後に、ようやく水分補給ができた。
結局、コーラを飲む羽目になるなら温泉街の店で良かったんじゃないか?

このレストランには展望台が併設されていた。

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目の前に広がる山々は3000メートル級の山々である。

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「すごいでしょ~!この景色!」とガイドは大喜びなのだが・・・・
彼はトレッキング、山歩きが趣味だそうだが、拙者は正直言って、「景色」には、それほど興味はない。(苦笑)
彼は決して悪い人間ではない。
気さくではあるが・・・軽いのである・・・・「無神経」に近い・・・(大笑)
自分がガイドであることを完璧に忘れている。
これじゃ、ガイドを付けて旅行をしているのではなく、台湾人の友人と二人で旅をしている感じ・・・
おい、おい、勘弁しろよ・・・・である。(苦笑)

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ここで、しばらくボ~ッと山を眺めることとなったが・・・・
時刻は午後3時・・・
「もう、山を下りましょう!」と声をかけ、無理やり移動することにした。(笑)

帰る途中、横道にそれた・・・
どこへ行くのかと尋ねたら、「原住民の村があるので、そこへ行く」と言う。
車1台がやっと通れるような狭い山道を延々と走るが、そのうちデコボコ道となり、とても乗用車じゃ走れない道となった。
ちょうど工事車両が来たので尋ねたら、この先は乗用車じゃ無理とのこと。
そうだろう?・・・・どう見てもそうだろう・・・(苦笑)
延々と走ってきたが、結局Uターンする羽目となる。
本当に、この先に原住民の村なんてあるのかね?
このガイド・・・調子がいいだけに信用できない・・・(大笑)
部落名を尋ねても、要領を得ない答えなので、なおさら怪しい・・・・(苦笑)
それにしても、大きく時間を無駄にしてしまった・・・(泣)
陽が沈み始め、まもなく山に沈む・・・・
今日は、ここまでだな・・・・(汗)

霧社に戻り、課長に会ってご挨拶・・・・
廬山温泉に行ってモーナ・ルーダオの生家跡に行った話をしたしたが「ふ~ん」の一言で終わり・・・(苦笑)
自分の“影響力”の及ばないところに行かれたのが面白くないという感じ・・・・
山の展望台へ行った話をしたら・・・・「あ~“見晴らし”に行ったのか」と言う。
「え!あそこが“見晴らし台”?・・・・そんな話、俺は聞いてねぇぞ!」とガイドに言ったら、焦っていた。
どうも彼は何も知らずに拙者を連れて行ったらしいことが、これでバレた。(苦笑)
“見晴”もしくは“見晴台”は、日本統治時代に名付けられた地名である。
確かに見晴らしがいい場所である。(笑)
「あの場所にたくさん建物が建っていただろ?レストランとか・・・あれは、全部、無許可で建てた不法建築なんだ」と課長。
中国人がやって来て勝手に家を建てて住み着いたというのである。
ちなみに、課長は建設課の課長である・・・(大笑)
「なんで取り締まらないんですか?」と尋ねたら、「政治的にいろいろあるんだよなぁ~」と言葉を濁す。
彼らが本省人(第二次世界大戦前から台湾に住み着いている中国人)なのか、外省人(第二次世界大戦後に大陸から来た中国人)なのか、どっちだったかは忘れたが・・・・
課長は、かなり苦々しく思っているようで・・・「あいつら・・・」を連発する。
もともとの原住民からすれば、そう言いたくなるのもわかる気がする。
山は原住民のものである・・・・ということだろう。
「霧社を仁愛郷なんて、変な名前に変えることが気に入らん!」としきりと言っていたくらいだから・・・(苦笑)
話し出したら、とにかく鼻息が荒くなる・・・(汗)
これは原住民の性格なのだろうか?
ちなみに課長はセデック族である。(笑)

明日は「川中島」という場所に行く予定。
課長が川中島も案内してやりたいが、仕事の都合でどうなるかわからないという。
明日は、明日になってから決めましょうということで別れる。

霧社を出て埔里に向かい、途中で見つけた喫茶店に入り、ようやくコーヒーが飲めた。(苦笑)

午後5時、ホテルに戻り一休み・・・
午後6時、ホテルから徒歩で町の中をウロウロ歩きながら、夕食場所を探す。
歩いてみると、結構、大きな町だということに気が付く。(笑)

最終的に、ちょっと洒落た店構えの店に入ることにした。
どうも“丼ぶり”の専門店らしい。(笑)

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店内は若いアベックばかり・・・(唖然)
男二人なんていうのは我々だけである。(大汗)
ん?台湾では「丼ぶり飯」がデートのディナーなのか?(笑)

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で・・・拙者が頼んだのが、これ・・・(汗)
丼ぶりではない・・・(大笑)
アベックたちが食べているのと同じものを頼みたかったのだが・・・何を頼んじゃったのかなぁ~
全くガイドが役に立たぬ・・・・(涙)
「これがいいんんじゃないですか?」とガイド・・・
「あの人たちが食べている丼ぶりがたべてみたいんだけどね」
「これ、いいですよ。これ、美味しそうですよ」
「これ?じゃぁ、これにするか」・・・と言ったのが、そもそもの間違い。
丼ぶりかどうか確認しなかった・・・(涙)

今日は山を歩いたし、クタクタである。(笑)
マッサージでも頼もうかと思ったら、「無い」と言う・・・(涙)
しかたがない・・・午後10時半に就寝となる。(大笑)

旅行 | 20:24:04 | Comments(0)
事件現場に行く
町のメインストリートから脇道に入り、少し坂を下ったところに「自然史教育館」がある。
ここを訪ねてみたいと、当初から予定していたので・・・・ここに向かう。

DSCN3622_convert_20170120164651.jpg (自然史教育館)

ここは「自然史」と名付けられているが、「霧社事件」に関する展示や先住民族に関する展示もあるので、どちらかというと「郷土史資料館」ということになるのではなかろうか?
名前だけで判断して見学しないと損をすることになる。(笑)

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「霧社事件」の首謀者とされる莫那魯道(モーナ・ルーダオ)の写真・・・・(中央の人物)

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蜂起した先住民族を討伐するため出動し、霧社に向かう途中の日本の部隊・・・・
写真には「日人部隊」と書かれていたが、服装からみて「武装警官」だと思う。

「霧社事件」に関しては、中国語と英語併記のパネル展示のみだった。
隣りの部屋には、かなりのスペースを割いて、先住民族に関する展示があった。

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各部族の民族衣装や生活品、祭祀品等々・・・・
なかなか貴重なものも展示されていた。
う~ん・・・台北にある先住民族博物館に展示されているものと肩を並べられるようなものも展示されていた。
こりゃ、すごい・・・・
嬉しいことに、この「自然史教育館」は入場無料!(喜)
他にお客さんがいなかったので貸し切り状態!(大喜)
受付には若い可愛い女の子が一人いて、拙者がじっくりと時間をかけて先住民族の展示品を見ているのが珍しかったようで・・・・(大笑)
ちょこちょこ、展示室を覗きに来てはニコニコしていた。(笑)
言葉が通じないので、身振り手振りでしか意思の疎通ができないが・・・
「これ、すごい!」「はい!そうです!」ってな調子である。(笑)

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ここにも「機織機」が展示されていた。
フィリピン、インドネシア、台湾等々、アジア各国の「郷土資料館」的な博物館に行くと必ずと言っていいほど「機織機」が展示されている。
各国とも、多少の違いはあるが、基本的な原理は同じである。
一体、どこの誰が最初に「機織機」を考え付いたのだろう?
毎回、「機織機」を見かけるたびに思うのである・・・・

「自然史教育館」の見学を終え、可愛い受付の女の子に笑顔で見送られ・・・(笑)
目の前の「愛国小学校」のグラウンドを横切って、「抗日紀念碑」に向かうことにする。
で・・・小学校の校舎の正面で見かけたのが、この銅像・・・・

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顔に先住民族のイレズミが描かれていたので、先住民の偉い人かなと思ったのだが・・・・
あとで課長に尋ねたら、蒋介石の銅像に誰かが落書きしたのだという。(唖然)
それ・・・マズイんじゃないの?(苦笑)
台湾で蒋介石の銅像に落書きしたのでは・・・(大汗)
ここは先住民族の土地だ!・・・という先住民族によるアピールなのかな?

この学校と道路を挟んだ反対側に「莫那魯道(モーナ・ルーダオ)公園」がある。
ここには23年ほど前に来たことがあるが・・・・
あれぇ~・・・ずいぶんと変わったなぁ~(苦笑)

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現在は、公園の前の道は舗装され、幹線道路のようになっていて交通量もあるが、当時は“裏道”のような場所で、滅多に車が通ることはなかった。
ちょうどカーブのところに車を止めて見学したことを覚えている。
あの時は、台北から一人で飛行機に乗って台中空港まで行った。
今になって思えば、中国語しか通じない国内線によく一人で乗ったものだと思う。(大笑)
台中空港(といっても、ただの原っぱみたいな飛行場だったが・・・)からガイド兼運転手の車に乗ってここまで来た。

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右の写真が、「自然史教育館」に展示されていた古写真。
この公園が出来たばかりの頃の写真である。

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公園の中には、「抗日原住民」の像が建っていた。
23年前にはなかったが・・・・
ただ、ちょっと違うかなぁ~という気がする。
まず、蜂起したのは各原住民中でも普段からの戦闘要員でもある成年男子の「壮丁」たちだったはず。
その壮丁の人数は各社の戸数とほぼ同じ・・・1軒に一人・・・という感じである。
というわけで・・・例えば、マヘボ社の場合は、戸数が54軒で、壮丁の数は53名となっている。
この銅像には女性や子供も入っているのだが、事件に女性や子供が加わっていたという話は聞いた覚えがない。
日本人に石を投げつけようとする少年と、片手に短剣を握った母親らしき女性の像が加わっているのだが・・・
これはあり得ないだろう。
“中国人(漢人)”特有の歴史の改竄か?(苦笑)
女子供も日本人に抵抗したのである・・・ということにしたいのだろう。

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ここに事件の首謀者とされるモーナ・ルーダオの像も建っていた。
民国86年に建てられたようなので、拙者がここに来た4年後に建てられたようである。
「抗日英雄」と刻まれている。
これは立場の違い・・・・日本にとっては犯罪者だが・・・・異論はない。
彼らにとっては「英雄」だろう。

役所で一仕事を終えた課長が公園にやってきて再び案内をしてくれた。

DSCN3648_convert_20170128170213.jpg (「霧社山胞抗日起義紀念碑」)

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モーナ・ルーダオの墓・・・・
左の古写真は「自然史教育館」に展示されていた写真で、台北で骨格標本とされていたモーナ・ルーダオの遺骸を持ち帰り、ここに納めるところを写したものである。

続いて向かったのは、事件現場である「霧社公学校」跡である。
事件当日、ここで運動会が開催されていた。
日本人の子供たちが通う尋常小学校と、原住民の子供たちが通う公学校、それに各地にある「蕃童教育所」の子供たちの合同運動会である。
ちなみに、「蕃童教育所」は、いわば分校のようなもので、教師は各駐在所の日本人警察官が行っていたという。
当時、ここにいた子供たちは日本人、台湾人、原住民(先住民族)あわせて289人だったという。
これに日本人の父兄が約100人、台湾人約50人、原住民約100人が見物に集まっていたようである。
そこへ各地の駐在所を襲った後、各社の壮丁が会場になだれ込み、片っ端から日本人だけを殺害していったのである。
この決起に参加した壮丁は約300人と言われている。
当時の霧社地区の各社の総計は、597戸、男女合わせて2178人だったので、抗日の社(反抗蕃と称する)の壮丁だけで300人程度になるから、壮丁による決起ということになる。
各社の住民、女子供全員が参加したわけではない。
というわけで・・・紀念公園に建っていた、あの銅像はおかしいのである。

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ここが「霧社公学校」の跡・・・
現在は「台湾電力公司 萬大發電廠第二辨公室」となっている。
ここが「霧社事件」の現場である。

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敷地内に入ってみる。
思ったより狭い・・・・
本当にここで運動会などが開催されたのだろうかと思ってしまうほど狭いのだが・・・
うちの近所の幼稚園・・・
拙者が通った幼稚園だが、園庭はかなり狭い。(笑)
でも、そこで運動会をやったことは間違いなく記憶にある。
大人になったら、やたらと狭く感じるが、当時、幼稚園児の拙者は狭いとは思っていなかった。
ということで・・・ここも同じだろう。
拙者が大人だから狭く感じるだけで、子供たちが運動会を開くには十分な広さだったのだろう。

実は、ここには23年前に一人で来たことがある。
運転手兼ガイドに「事件現場」として案内されたのだが、あまりにも敷地が狭いので、こんな場所が学校だったわけがないと信用しなかった。(大笑)
当時も「台湾電力公司」の事務所として使われていたので、なおさらである。
昔、学校だった場所は、今も学校のはずだと勝手に思い込んでいたのである。(苦笑)

今回、再び訪れて、やっぱりここが事件現場だということを知った・・・(汗)
あの時、素直に信じればよかった・・・(大笑)

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敷地内のコンクリートの地面に一本の溝が入っている。
課長が「この溝の左側が昔は道路だった場所で、溝から右側が昔の学校の敷地だった」と説明してくれた。
やっぱり・・・(苦笑)
23年前の記憶より、少し敷地が広くなっているような気がしていたのである。

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敷地内の、この建物・・・・
課長の話では「校長先生の家だった」と言う。
確かに、言われてみれば日本風の建物のような気がするが・・・・
でも、なんか違うような・・・(苦笑)
右側の建物が校長の宿舎だというのだが・・・そうなると左側の建物は何だ?(苦笑)

ここを襲ったのは、約100名の先住民壮丁たちだった。
この校長の家に日本人婦女子が逃げ込み、宿舎の入り口に立った新原校長が一人で日本刀で防戦したという。
が・・・多勢に無勢で、あえなく殺され、暴徒は宿舎内に入り込み、次々と婦女子の首を斬り落としていったという。
大人の中には死んだふりをして助かった女性もいたようだが、子供たち、特に幼児は死んだふりなどできない。
泣き声を上げるので、すぐに殺されたそうだ。
この校長宿舎内とその周辺で約50人が殺され、そのうちの39人が児童と幼児だったという。

なんとも残酷な話だが、それは現在の我々が思う感情であって、彼ら先住民族にとっては、首狩りは普通のことで、一種の文化だったようである。
それが日本の統治により、残酷だからと首狩りを禁止されていたわけで、ストレスは溜まっていただろうねぇ~
嬉々として首を刈ったに違いない。
彼らには、子供だから、幼児だから可哀想という感情はなかったのだろう。
日本でも戦国時代に敵将の首を斬り落としたりしたのだから、あまり台湾の原住民を非難はできまい。
首狩りの風習はインドネシアにもフィリピンにもあった。
もしかして首狩りは古代文明の遺産かも・・・・(汗)

でも、一体、誰が最初に始めたんだろう?

学校の運動会会場では、幼児を含めて17人が殺害されている。
ということは・・・ここで70名ほどが殺されたことになる。

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現地の説明板に掲載されていた写真。
当時の公学校の校庭・・・運動会会場の写真である。

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左の写真も、現地説明板に載っていた写真・・・
運動会会場の入り口の写真である。

事件当日、この会場入り口のところで最初の犠牲者が出た。
菅野政衛という映写技師だそうで、台中州から嘱託をされて前夜の映写会のために霧社に来ていた。
入り口のところに立って運動会が始まるのを見ていたのだろう。
真っ先に首を斬り落とされ、殺害された。
やったのは、スーク社のウカン・パワンという人物だという。
居合わせた日本人警察官が追いかけたところ、途中で首を落として逃げ去ったという。

次に向かったのは、すぐ近くの小高い丘・・・
ここに以前、「霧社事件日本殉難殉職者之墓」という碑が建っていたという。
今は何もない・・・・

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ここが、その碑が建っていた場所らしい。
今は荒れ果てた公園・・・という感じ・・・・

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現地の説明板に載っていた写真・・・・
当時は、こういう碑が建っていた。
「墓」と書かれているのだが、「墓」なのかどうかは知らない。
うっかり課長に尋ねるのを忘れた・・・(大汗)
たぶん、慰霊碑のことだと思うのだが・・・どうだろ?
蒋介石たち国民党が大陸を追われ台湾に来て、彼らの手で撤去されたようである。
まぁ~中国人のやることは、そういうことばかりである。(汗)
困った民族である・・・(苦笑)

ここでUターンして役所に戻ることとなる。
途中、バーラン社の案内板を見つけた!

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このバーラン社は、今はどうなっているんだろう?
行って見たいのだが・・・・
課長に尋ねたら「ない!」という一言で終わり・・・(唖然)
その後は・・・拙者を置いてガイドと一緒にサッサと立ち去ってしまった・・・・(唖然)
どうも課長の“案内”は雑なんだよなぁ~(苦笑)

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現地説明板に載っていた写真・・・・
「霧社最大の部落」であると書いてあるんだけど・・・
それが消滅するかねぇ~
どうも信じられないんだけど・・・・

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たぶん、この道を登っていくと昔のバーラン社に辿り着くんじゃないかと思うんだけど・・・・(汗)

サッサと先を歩く課長とガイドの姿が見えなくなった・・・(汗)
が・・・向かう方向は分かっているから、気にすることはない・・・(大笑)
写真を撮りながらマイペースで後を追うことにする。

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まもなく、記憶にある場所に来た・・・・
二股に分かれている、この地点・・・・23年前に来たことがある!(笑)

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右側の舗装された道は、現在は幹線道路となっているが、23年前に、この道があったかどうか、記憶にない。
もしかしたら、細い道があったかも・・・
この二股に分かれているあたりに当時は料金所があった。
ここで有料道路の料金を払ったことは鮮明に覚えている。
で・・・左側の坂道を登って行ったのである。
昔のメイン通りは、左側の坂道である。
変われば変わったものだ・・・・
新たな道を付け替えて、昔の道の上には建物がせり出して、昔の道は消滅してしまっている。

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(坂道を登って振り返ってみる)

この道を走るのに、当時は、お金を払ったのか?(苦笑)
なんで、この道が有料道路だったんだろう?
あれは、霧社の村に入るための「入村料」だったのかな?(大笑)

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道の両側に住宅が立ち並んでいる。
23年前は、どういう風景だったのか全く思い出せない。
先ほどの台湾電力の事務所が事件現場だと教えられたが、信じられないまま、この道を車で登った・・・
その時に、ふと、思い出した・・・
たしか、何かの本に「暴徒は坂道を一気に駆け下りて会場になだれこんだ」という一文があった。
たしかに、ここは坂道である。
じゃぁ、さっきの場所は、やっぱり事件現場だったのだろうか・・・と思ったことを覚えている。
この道を、100名ほどの暴徒たちが、向こうからこっちに向かって走ってきたのだろう・・・
ちなみに、先を行く人物が、課長!(苦笑)
サッサと一人で歩いて行ってしまうので、会話ができない・・・(苦笑)

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この坂道をまっすぐ登って、突き当たったのは、役所の駐車場!(唖然)
ここで行き止まりである!
あれぇ~???
23年前は、どうなっていたんだっけ?(苦笑)

時刻は12時を過ぎている。
お昼ごはんを食べよう!(笑)
一度、役所に戻った課長を誘って、役所の目の前にある食堂で昼食を食べることにした。

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課長が、1冊の書類を持ってやってきた。
先ほど見に行った「霧社事件殉難殉職者之墓」の復元計画書である。
土地の測量図、復元する碑の設計図、見積書等の詳細な計画書である。
すでに復元の許可は貰っているのだそうだ。
で・・・問題は、その資金・・・・
日本円にして、約1000万円かかるという。
どうも日本側からの援助が欲しい口ぶりである。(苦笑)
拙者を案内するより、こっちの説明の方が熱心である。(苦笑)

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昭和54年(1979年)に靖国神社で霧社事件50周年の慰霊祭が行われたと聞いている。
翌年には、ここ霧社でも50周年の式典が開催されたと聞いている。
この時に、犠牲者の子孫も参列していたはずだが・・・・その方々との交流はどうなっているのだろう?
その方々に先に話を持っていくのが筋だと思うが・・・・
課長に尋ねてみたが、要領を得ない・・・歯切れの悪い回答だった。

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食後、課長は一旦、役所に戻るので「少し待っていろ」と言う。
いや、いや、もう充分である。(苦笑)
待っている時間がもったいないし・・・・次の予定もある。
申し訳ないが、霧社の案内は、これで十分ということでお別れする。

旅行 | 16:43:35 | Comments(0)
霧社の役所巡り?(苦笑)
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(部屋から見た景色)

午前6時30分起床。
7時30分にホテル内のレストランに行ったら誰もいない!(大汗)
レストランは休みなのかなと思ったら、フロントの女の子が吹っ飛んできて中国語で何か言ってる。(苦笑)
拙者は中国語がわからないんですけど・・・(大汗)
どうやら「レストランはオープンしていますから、どうぞ」と言っているような・・・(勝手な想像だが・・・)
しかし、食べるものが、ほとんどない!(苦笑)
コーヒーは昨日作ったものかと言いたくなるくらい〝ぬるい”・・・(涙)
ほとんど水と同じ温度には参った・・・(大泣)
食べられそうなものは・・・キャベツを茹でたもの・・・
これは、なかなか美味しかったので〝おかわり”する。
薄い食パンと茹でたキャベツと〝ぬるい”コーヒーが今日の朝食である!(大笑)

午前9時、ホテルを出発!
「埔里」の町を抜けて山に向かい30分ほど経ったころ、「人止関」に到着した。
山の中の、ちょうど道路がカーブしている場所に「記念碑」が建っていた。
他の車には大いに迷惑をかけてしまうが、カーブの先に車を止めて記念碑のところに向かう。

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この「人止関」は、文字通り「人を止める関」なのである。
ここが「平地民」と「山地民」の居住地の境界線・・・・
平地から勝手に山地に入ってくると、このあたりで首を刈られて殺されてしまったらしい。
ということで・・・昔から、このあたりでは“戦闘”が行われている。
「霧社事件」が起こった時にも平地の「埔里」からこの道を通って「霧社」に日本の武装警官隊や日本陸軍の将兵が向かった、平地から「霧社」へ向かう唯一の“道路”・・・・
が・・・あれ?・・・なんか雰囲気が違う。
古写真を見たことがあるが、山の中の“切通し”のような感じの場所と思っていたのだが・・・・
「人止関」の碑が建っているのだから、このあたりで間違いはないとは思うが、どちらかというと、この先のカーブのあたりが、当時の雰囲気が残っているような気がしないでもない。

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ここにある「人止関」の碑には、「霧社事件」に関しては全く何も記載はされていなかった。
(雑草に覆われていて、碑の下のほうが見えなかったから断言はできないけど・・・)
ここには、「人止関」の史跡としての説明看板か何かが欲しいところである。

ここから車で10分ほど走ったら、「霧社」の町に到着。
早速、課長に会いに役場に行く。

DSCN3552_convert_20170113175156.jpg (仁愛郷公所=仁愛郷の役所)

開口一番、課長が言う・・・・「昨日は飲みすぎた!」(苦笑)
なんでも、夕方に職員同士で酒を飲み、その足で拙者に会いに来たという。
夕方から飲みっぱなしだったとか・・・(唖然)
シラフでは拙者に会えなかったということかな?(大笑)

「霧社」の町は小さい・・・
メインストリートが1本走っていて、その周囲が繁華街。
丘の上の狭い範囲にある小さな町・・・という感じである。

「霧社事件」は昭和5年(1930年)10月27日に発生した事件。
今から86年前のことである。
この一帯に住む先住民族(蛮族、蕃族、もしくは高砂族)が木材運搬の賦役の過酷さと、日ごろからの日本人警察官の横暴対する不満から一斉に蜂起して現地在住の日本人を襲撃した。
簡単に言うと、それが「霧社事件」である。

DSCN3556_convert_20170117103403.jpg (郵便局)

日本統治時代も、ここに「郵便局」があったという。
事件当時、ここも襲われ、日本人の郵便局長と、その家族が虐殺された。

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正面に見えるのが、消防署・・・
以前は、ここに警察署があった。
拙者が以前、ここに来たとき(たぶん1993年だと思う)は、ここに警察署があった。
現在は、斜め前の場所に移転している。

当時の「霧社」における日本側の統治の仕方は、どうも警察官にあらゆる権限が集中していたようである。
ここの警察署は「霧社分署」で、その下に「駐在所」が各地に置かれていた。
「霧社」地区には11の「社(村もしくは集落、部落)」があり、それぞれに駐在所が置かれていた。
昭和5年当時、ここ「霧社」では、建物の建設が目白押しだったようで、駐在所の建て替えや学校の寄宿舎の建設や何だかんだ・・・
それに使われる木材を山から切り出して運ぶという“使役”が原住民たちに強制的に課せられた。
警察官からの命令である。
ところが、この木材は引きずってはならず、傷をつけないように必ず肩に担いで運べという。
これが過酷な労働で、何十キロも肩に担いで運ばねばならないので、あっという間に肩が腫れ上がる。
「もう勘弁してくれ」と訴えても警察は聞き入れない。
それどころか、日本人警察官は、いちゃもんを付けて労賃すら支払わないこともあったらしい。
たぶん、着服、横領をしたのだろう。
加えて“女性関係”も事件の遠因となっているという。
各社の頭目(村のリーダー)の娘とか妹とかと結婚すれば、日本人警察官は彼らの親戚となるので、統治がしやすくなると考えるのは無理もないと思うが・・・
日本に妻子がありながら原住民の娘と結婚するとか・・・(佐塚愛佑という警部だそうだ)
または、結婚はしたが、最終的には捨てたり・・・(近藤儀三郎という巡査部長だそうだ)
駐在所の前を通りかかった原住民の娘を山に引きずり込んでレイプする警察官がいたり・・・(尾花長太郎という巡査だそうだ)
これで、「反乱」が起こらないほうが不思議というものである。

彼らが蜂起したときに、一番最初に襲ったのが、製材所・・・・
その次が、各地の駐在所と警察署・・・
最後は小学校・・・
この順番からいっても、彼らが何に恨みを持っていたかがわかろうというものである。
この「霧社」の警察署も襲われ、警察官が虐殺されている。

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旧警察署(現:消防署)の脇の坂道を登っていくと、日本統治時代の「霧社神社」にたどり着く。

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ちょうど消防署の真後ろに廃屋が見えた・・・
もしかして日本統治時代の日本家屋だろうか?
形からいって、なんとなく、それっぽいのだが・・・・
課長とガイドは、どんどん先に行ってしまい、質問することができなかった・・・(涙)
当時の建物ということになると、警察署の真裏にあるから、警察官官舎というこではなかろうか?
ここもたぶん、襲われているだろう・・・・

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まもなく神社の入り口に到着・・・
ここは現在は「徳龍宮」という現地の神社になっている。

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神社の石段の脇に灯篭が・・・
課長が言うには「日本の灯篭だ」というのだが、どうも形がシックリいかぬ。
とても日本人の手で建てられたようには見えないんですけど・・・(汗)

DSCN3569_convert_20170117114537.jpg (徳龍宮)

日本統治時代の神社の痕跡のようなものは何もなかった・・・

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ここから見た景色・・・・
ここが周囲を展望するには、一番高い位置になるのかな?

DSCN3573_convert_20170117131136.jpg (衛生所)

神社の脇の一段下がったところに「南投縣仁愛郷衛生所」の建物がある。
日本でいえば・・・「保健所」かな?
課長が、ここに用事があるので付き合えという。(唖然)

「衛生所」に入るなり「おはようございまぁ~す!」と課長が職員たちに日本語であいさつした。(唖然)
なんで日本語?
「この人、日本人、ということで、おはようございまぁ~す!」と拙者を指さし職員に挨拶・・・
あらら・・・である。
課長の用事というのは、所長に封書を1通、手渡しするだけのことだった・・・(汗)
で・・・ここのベランダに出て、再び周囲を展望する。

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「霧社」には11の「社」があった。
「ボアルン社」「スーク社」「マヘボ社」「タロワン社」「ホーゴー社」「ロードフ社」「カツツク社」「バーラン社」「タカナン社」「トーガン社」「シーパウ社」の11社である。
で・・・それは、どのあたりにあったのかなと課長に尋ねたら・・・
「あっち!」とか「こっち!」とか・・・指し示す方向が適当なのである。(涙)
今はどうなっているのか、できれば見に行きたいと話したのだが、「今は何もない」という。
本当だろうか?
すべての集落が消え去るなんてことはあり得ないと思うのだが・・・・(汗)

課長の話では、11社はみんな仲良しだったという。
特に各社の頭目(リーダー)は、日本に対して蜂起することに全員が反対していたが、若い連中が勝手に事を起こしたため、引きずられることになったという。
この話は、拙者が事前に調べた話とはかなり違っている。
11社のうち、6社が積極的に蜂起に参加し、5社だけが頭目の反対で蜂起には参加しなかったと聞いている。
この5社を日本では「味方蕃」と称した。
この11社がみんな仲良しだったという話も聞いたことはない。
逆に、お互いに相手の首を刈ったり刈られたりということがあって、内心、敵対関係にあった社もあったと聞いている。
だから11社が“共同戦線”を張れなかったと聞いているのだが・・・
課長の話が果たして正しいのかどうか・・・検証のしようがないのでどうしようもないが・・・・

木材を切り出したのは、向こうの山々の奥に見える山あたりからだと課長が言う。
へぇ~・・・・あんな奥地から切り出して、肩に担いで運んだのか?
そんな過酷な労働をさせられたら、そりゃ、逆らいたくもなるよなぁ~

DSCN3579_convert_20170117131538.jpg (霧社の町)

次に向かったのは・・・・
消防署の隣に建つ「戸籍事務所」という役所である。
なんで、ここに行くことになったのか、理由がわからない。(苦笑)

DSCN3583_convert_20170119192943.jpg (戸籍事務所)

相変わらず課長は日本語で「おはようございまぁ~す!」と叫ぶ・・・
職員たちが驚いた顔で、こちらを見るので、ちょっと恥ずかしい・・・(大汗)
ここの職員・・・10名が先住民族(蕃族・高砂族)で、中国人(中華?)は1人だけだと課長が言う。
で・・・コーヒーでもどうぞ、と職員からコーヒーをごちそうになる。
所長室でコーヒーをいただいたが・・・拙者はここに特に用事はないんですけど・・・(苦笑)
まもなく、「さぁ!行くぞ!」と課長・・・
う~ん・・・何しに来たのやら・・・である。(苦笑)
ちょうど、この戸籍事務所にやってきた現地のおばあちゃんたちがいた。
「この人、日本人だから・・・」と課長が言ったので、このおばあちゃんたちに「ニーハオ!」と挨拶したら、「日本語でいいんだよ。日本語が通じるんだから・・・」と課長。
おばあちゃんから流ちょうな日本語で「どこから来なさった?」と尋ねられた。(驚)
「茨城県です」
「へぇ~茨城県?で・・・何しに来たの?」
「歴史の勉強です」
「へぇ~歴史?こんなところにわざわざ?へぇ~」と半ば呆れて役所から出て行った・・・
このおばあちゃんも先住民族なのだと課長が言う。
それにしても、日本人のおばあちゃんと全く区別がつかない日本語を話すのには驚いた。

その昔、先住民族は、各部族ごとに言葉が違っていたという。
で・・・日本統治時代に、その部族間の共通語として日本語が使われたらしい。
今でも、昔と同じように部族間で使われているのだろうか?
尋ねるのを忘れてしまったが・・・
幼い時に日本語を勉強しただけでは、こうもいきなり流ちょうに話すことは難しいと思うのだが・・・
普段から使っていないとねぇ~・・・・忘れちゃうと思うんだよねぇ~(笑)

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ここには事件当時、日本人の旅館があったと課長が言う。
旅館というと・・・・「桜旅館」というのがあったという話を聞いたことがあるが・・・
課長がサッサと歩いて行ってしまったので、確認する暇がなかった。(大汗)
とにかく、拙者は写真も撮りたいので、立ち止まってしまうのだが、その間に、課長もガイドも行ってしまうのである!(苦笑)
いやはや後を追いかけるのが大変である。(大汗)

今度は・・・図書館!
といっても、小さな目立たない建物・・・
主に雑誌と児童図書ばかりが目立つ・・・
これといって見るものは無し・・・(汗)

これで「町」の中は一応見たことになる。
課長が、役所に一旦戻るので、ちょっと役所で待ってろ・・・と言う。
役所の外で待っていたが、いくら経っても戻ってこない。
これでは時間がもったいない。
ということで・・・ガイドの“キョさん”に課長への伝言を頼み、単独行動を取ることにする。

旅行 | 11:19:40 | Comments(1)
「それでも日本人か?」と言われてもねぇ~(汗)
発電所から約20分程度で「日月潭」に到着した。

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ここは「朝霧埠頭」もしくは「朝霧波止場」と呼ばれる場所らしい。
日月潭には、過去に2度ほど訪れているが、ここには来たことはない。
ここのボート乗り場(?)から、日月潭周遊の遊覧船が出ているとのこと。
ガイドの“キョさん”の話では、こういう遊覧船に乗るのは中国人や韓国人のツアー客ばかりで、日本人のツアー客は乗らないのだそうだ。
まぁ、遊覧船で湖をグルグル巡るのは時間の無駄とばかりに、次の観光地に行きたがるせいなのかもしれない。(大笑)

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ここの駐車場に続々と観光バスが入ってきたが、全員、大陸から来た中国人観光客だった。
彼らの会話をちょっと聞いただけで、大陸からの来た中国人の中国語か、台湾人の中国語か、すぐにわかると“キョさん”・・・・
拙者には全く区別がつきませんが・・・(苦笑)

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現地の案内板は中国語、日本語、英語、韓国語の4か国語で表記されていた。(驚)


水社朝霧―朝霧碼頭

水社朝霧は台21省道上の朝霧埠頭に位置し、日月潭4大埠頭の一つです。
東に面しているので日の出鑑賞には絶好の場所となっています。
気候や地形、湖水などの影響により、明け方になると湖面に霧が立ち上り、そこに朝日が差し込んで大変魅力的な光景が満喫できます。
「水社朝霧」という美しい名前で呼ばれる通り、日月潭八景にも選ばれています。
この埠頭は、日月潭周遊の観光船乗り場であるほか、毎年万人が参加する日月潭横断遠泳大会のスタート地点でもあり、選手たちはここから対岸の伊達邵埠頭を目指して全長約3.3kmを泳ぎ切ります。

(説明板より)


今日は朝食時にコーヒーを飲んだだけで、その後は飲んでいない。
拙者は普段、1日に3回はコーヒーを飲む。
どうもコーヒーを飲まないと調子が出ない・・・(苦笑)
というわけで、近くのレストランでコーヒーを飲んで休憩をとることにした。

DSCN3492_convert_20170105154525.jpg (朝霧埠頭のレストラン)

時刻は午後3時・・・・
一か所行ってみたい場所を思い出した!(笑)
「水社」という町にある「教師会館」・・・・
1983年の2月に、大学の海外研修団の一員として2週間ほどかけて台湾を縦断した。
生まれて初めての台湾訪問だった。
この時に、ここの「教師会館」に宿泊したことがあるのである。
今から33年も前のことである。(唖然)
ふと、思い出したので・・・
今は、どうなっているのだろう・・・ということで連れて行ってもらった。

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行ってみて驚いた!(唖然)
綺麗になってる!!
それもそうか・・・33年も経っているんだから・・・(大笑)
「教師会館」は、たぶん教職員のための宿泊研修施設だと思うが・・・・
あの時は、日が暮れるころに到着して建物の様子はよくわからなかった。
とにかくボロい建物で、「こんなところに泊まるのかよ!」(怒)と文句を言ったことを覚えている。(苦笑)
なにせ、うちの大学の合宿所(研修所)より古臭くてボロかったのである!(大笑)
廊下が薄暗くて気味の悪い建物だったことだけはよく覚えている。(苦笑)
それがねぇ~・・・・いやぁ~綺麗になっちゃって・・・・唖然である。

ここで愛想のない不親切なガードマンに断わって記念写真を撮る。(大笑)
「教職員以外は立ち入り禁止!」と言わんばかりの態度だが・・・それはわかるが、33年ぶりに来たんだぞ!記念写真くらいいいじゃないか!・・・と写真を撮る。(大笑)
あの時の研修団の仲間たちに、この写真を見せたいなぁ~(笑)
みんなは、今、どこでどうしているんだろう?

もう一つ、思い出の場所がある。
たしか、1991年か1992年の5月だったと思う・・・
25年ほど前のことである・・・(唖然)
一人で祖父の足跡を訪ねるため台湾に行くとき、一緒に連れて行ってくれと後輩の“サイトウくん”が言うので、急遽二人旅となった。
この時に、日月潭にも来たのだが・・・・
その時に泊まったホテルがどうなっているのか・・・(笑)
ホテル名も場所も覚えていない・・・
ただ、蒋介石の奥さんの宋美齢の別荘だったとかという話を聞いたような記憶がある。
で・・・食堂(レストランなんていう高級なものではない)の壁に、当時、ここに宿泊した時の蒋介石や宋美齢の写真が何枚も飾られていたことだけは覚えている・・・
で・・・そこって・・・どこだろう?(笑)
ガイドの“キョさん”に尋ねたら、すぐ近くのホテルがそうだと言う。
なんと「教師会館」の目と鼻の先にある!(唖然)

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あれ?・・・・ここがそう?(大汗)
当時は、イマイチ、パッとしないホテルだったが・・・・
超高級ホテルになっていた!(唖然)
まぁ、25年も経てば変わるか・・・・
もう、拙者は“浦島太郎”状態である・・・・(大笑)
で・・・ちょっとロビーに入り込み・・・(笑)
内部を勝手に見学する。

DSCN3498_convert_20170106135440.jpg (ロビーから見た景色)

当時も、拙者の部屋から日月潭がよく見えた・・・・
う~ん・・・こんな景色だったかなぁ~
景色までは覚えていない・・・(苦笑)
ここに宿泊した当時、日月潭に面した部屋の目の前のところが工事中・・・・
かなり大掛かりなコンクリートでの基礎工事だった。
ホテルに尋ねたら、改装工事をするとかって言っていたのを覚えている。
で・・・・こうなったのかな?(汗)
かなりの高級ホテルだそうで・・・・もう、ここに泊まるのは無理だろうなぁ~・・・カネがない・・・(大笑)

昔の思い出を辿りながら大いに楽しむ。
で・・・・この後は、平地にある「埔里(プーリー)」という町に向かう。
今晩から2泊、この町のホテルに宿泊するのである。
この町を拠点に「霧社(むしゃ)」方面の観光をするのである。

途中で、気が付いた・・・・
そういえば、「埔里」の町の近くに「台湾中心の地」っていうのがあったはず・・・
急遽、予定外の行動で・・・この「台湾中心の地」に立ち寄ることにした。

「台湾中心の地」を初めて訪れたのは1983年の研修団で来た時・・・・
その次に“サイトウくん”と一緒に来た時が2回目の訪問・・・・
当時、台北から運転手付きの乗用車で、この地までやって来た。
ガイドは26歳の女の子。
「台北に到着して、そのまま日月潭へ行くというお客さんってどんな人なのかと思っていました」と開口一番、空港で言われた。(笑)
日本人は台北を観光するのが普通なのに…・と言うのである。
で・・・・この地に来た時、彼女に「台湾中心の地」の碑が建っている場所を知っているかと尋ねたら、初耳だと言われた。(大笑)
ならば、拙者がご案内しましょう!・・・・と言って案内した。
方向音痴なのにねぇ~(大笑)
不思議なことに、8年ぐらい前にツアーバスで来た時の記憶が鮮明に残っていた。
で・・・「そこを右に曲がって!そこを左に曲がって!」とドライバーに指示して、驚くべきことに無事に迷わず到着したのである!(大笑)
当時の記憶では、何もない“広場”・・・・
道路がいくつか交差していたが、周囲には何もない・・・
“広場”の中に石碑がいくつか建っていた。
その碑文を読んだが、「民国〇〇年」が西暦何年なのかがわからず、ガイドに尋ねたことを覚えている。
彼女からは「あなたは歴史が好きなんですねぇ~“サイトウさん”は目的が違うみたいだけど・・・」と言われ大笑いした。
さぁ~その思い出の「台湾中心の地」に25年ぶりに訪問!

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あれれ!・・・・またもや“浦島太郎”状態である・・・(愕然)
森?・・・森になってる!・・・・あの何もなかった広場が????
もしかして・・・ここじゃないんじゃないの?(苦笑)
他にも「台湾中心の地」っていうのがあるんじゃないの?
いくらなんでも25年ぐらいで、こんなに変わるか?(唖然)
拙者の記憶にある景色と全く違うのである!

DSCN3517_convert_20170106151643.jpg (中心の地の前の道路)

こんなところに建物なんかなかったんですけど・・・・(汗)
道路が2本、接するところに「公園(広場)」があったのは覚えている・・・
道路から判断すると、この“地形”なのだが・・・
う~ん・・・・納得できないなぁ~
本当に、ここが拙者の記憶にある、あの「台湾中心の地」なのか?

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(「台灣地理中心」の碑)

2つの「台灣地理中心」の碑が建っていたが、25年前に拙者が読んだ碑文が刻まれていた碑が見当たらない・・・
白い碑だったような記憶があるのだが・・・・
おかしいなぁ~(大汗)

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記念のモニュメントだと思うのだが・・・・
全く記憶にない!(唖然)
参ったなぁ~・・・この記憶力の悪さ・・・(涙)

音楽を鳴らしながらゴミ収集車がやって来た。

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音楽を聴いていると、一瞬、アイスクリームの販売車でもやって来たのかと勘違いを起こしそうになるが・・・(笑)
この音楽を聴いて市民たちがゴミ袋を手に外に出てきて、自分で収集車に投げ入れるのである。
以前、澎湖島に行った時に見た光景と同じである。
日本では「集積所」に置きっぱなしだが、台湾では、このやり方なのだそうだ。
これなら収集日以外の日にゴミを出す不届き者がいるとか、カラスに荒らされるとか、そういうことはないから良さそうに思うが・・・
日本もゴミ収集のやり方を見直してみるのもいいのではなかろうか?
議員さんや役人さんには、こういうところを視察していただきたいものだ。

午後5時・・・市内のホテルにチェックイン

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思っていたよりシンプルな部屋である・・・(笑)
部屋でちょっと一休みし・・・午後5時半に夕食に出かける。
今晩は先住民族料理のお店!
これは最初からお願いしておいた。
折角だからねぇ~中国料理じゃなくて、先住民族・・・つまりは高砂族の料理を食べたい!(笑)

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開店早々のお店には、お客さんは誰もいなかった・・・
店内には原住民の方々が作った民芸品などが置かれていた。
で・・・店主の“コウさん”に「これ、タイヤル族が織った布でしょ?」と言ったら・・・(当然、ガイドに通訳してもらいましたが・・・)
「よくわかりましたねぇ~」と店主が驚く。
「この赤色と、この模様で、タイヤル族だとわかります」と言ったら“キョさん”が「へぇ~そうなんですか?」とキョトンとして言う。
いや、いや、あんたに話したんじゃない・・・・通訳して!通訳!
「これは・・・パイワン族が使う酒器でしょ?」
「おお!わかりますか!」(喜)と店主
で・・・奥から先住民族に関して書かれた本やら資料を持ち出して来て、あれやこれやと丁寧に説明してくれた。
今年の春に台北で先住民族の博物館に行ったりして、いろいろ見た記憶はまだ残っていたから助かった。(笑)
予備知識が無かったらチンプンカンプンだし、会話が成り立たなかっただろう。
店主の“コウさん”は中国系の方だが、先住民族の研究者でもあるという。
ついに、話が盛り上がり、興奮して話す店主の言葉を“キョさん”が通訳しなくなってしまった。(唖然)
話が難しくて日本語に訳せないのか、店主の興奮ぶりに驚いたのか・・・・(苦笑)
それとも、通訳するのに飽きたのか?・・・(大笑)
拙者は中国語が全く分からないのだが、不思議なことに店主が言っていることがなんとなくわかるのである。(大笑)
こちらの話は“キョさん”に中国語に訳して伝えてもらう。
と・・・「そのとおり!あなたの言う通りです!」とばかり身振り手振りで店主が応えてくれる。
いやぁ~楽しい夕食だった。

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食事は、ごくごく素朴なもので、味は薄目、癖のない味・・・・
量的には女性向きかもしれない。
こりゃ、日本人の女性観光客なんかにはお薦めだなぁ~と思った。

結局、我々が店を出るまで、他にお客さんは来ず、貸し切り状態で店主とおしゃべりできたのは本当に良かった。(大喜)

ホテルに戻る・・・
明日は別のドライバーに変わるという。
彼は、昼食や夕食、コーヒーも遠慮していたので、ならばチップを渡そうとしたが断られた。
彼が言うには「自分は会社から、それ相応の給料をもらっているので、それ以上いただく理由はない」と言うのである。
これには驚いた・・・・なんと真面目な人だろう。
他の国では、隙あらばガイドの目を盗んで個人的にチップを要求してくるドライバーが多いのに・・・
いやぁ~感心した!

これから霧社の役所の“タク課長”がホテルに会いに来てくれるというのでロビーで待つ。

DSCN3531_convert_20170108203524.jpg (ホテルのロビー)

“タク課長”は102歳の“戦友”が紹介してくれた方。
この方が、台中の“キヨコさん”の転居場所を調べてくれたので、昨晩、会えたわけである。
で・・・課長とのアポは現地旅行社がやっておいてくれた。
いやぁ~大助かりである。(喜)

課長は「霧社事件」の時、日本人を殺害した原住民の子孫である。
事件について、いろいろとお話を伺おうと、ホテルのコーヒーラウンジに席を設けて待ち受けていたら・・・
やって来るなり・・・「おい!酒を呑みに行こう!行くぞ!」と日本語で言う。(唖然)
あのぉ~初対面なんですけど・・・・(大汗)
挨拶もそこそこ・・・である。

課長は息子さんの運転する車で来たので、息子さんも一緒に4人でホテルのすぐ近くの大衆食堂に入る。
102歳からの紹介状を渡して改めてご挨拶・・・
で・・・・肝心の“事件”の話だが・・・・
酒が入ったせいか、話は断片的、それより世間話のほうが長い・・・・(苦笑)
ついには、「乾杯!乾杯!」の連発である。
拙者が、これ以上は無理だと断ったら、「あんたは日本人ですか?」と言う。
「もちろん日本人です」と答えたら・・・・
「日本人とロシア人は酒が強いんだ!日本人なら酒が飲めるはずだ!さぁ、飲め!」と言う・・・・(唖然)

こうなると、もう滅茶苦茶である。(涙)
ただの“飲み会”である。
いやぁ~・・・・初対面の人に酒を強要するかねぇ~(唖然)
ふと、この「霧社事件」に関する本を読んだ中で、思い当たる節を思い出した。
とにかく原住民は酒が好きだということである。
で・・・この事件を起こす計画も、酒の席で盛り上がった末、「日本人たちをやっちまおうぜ!」となったという。
課長の強引さや、酔って話しているうちに激昂するところなどは、先住民族のDNAのなせる業なのだろうか?(大汗)

酒を無理強いされて付き合うのにも限度というものがある。
「明日がありますから、この辺でお開きにしましょう」と、持参して来た土産を渡して強引に解散することにした。(大笑)
「明日、役所に顔を出せ!案内してやるから」と言う。
良い人なのか悪い人なのか、さっぱりわからん・・・(大笑)
いずれにせよ、こう酔われてしまっては真面目な話は出来ない・・・(苦笑)
同行していた息子さんは、大人しい・・・・
「おい、親父をよろしく頼むぞ」と身振り手振りで話したら、理解したようでニコニコしながら頷いた。(笑)

二人をホテルの前で見送り、部屋に戻る。
いやぁ~疲れた!!(苦笑)

旅行 | 22:38:10 | Comments(1)
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