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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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義公祠堂の碑
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「義公祠堂」碑

水戸市柵町三丁目のこの地はかつて水戸水戸藩家
老三木仁兵衛之次の邸にして義公と諡されし
水戸藩二代藩主徳川光圀卿の生誕されし処な
りその生母谷氏故あって之次およびその妻武
佐の庇護のもとに三百四十四年の昔なる寛永
五年六月十日太陽暦に換算して七月十一日義
公を生み給ひ卿はその後數年を此所にて過さ
れしなりここに之次の裔啓次郎この霊地に義
公の祠堂を建て徳川家より贈られし卿の尊像
を奉祀して景仰の誠を捧げりいささか由来を
記すものなり

昭和四十七年五月十六日
 伊勢神宮大宮司 徳川宗敬題字
 常磐神社宮司 鹿島則幸撰文

(碑文より)


【茨城県水戸市三の丸2丁目・「義公生誕の地」】


※碑文には「柵町3丁目」と書かれているが建っている場所は何故か「三の丸2丁目」である。

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史跡 | 22:26:09 | Comments(0)
義公生誕の地
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水戸市指定文化財
義公生誕の地

水戸の生んだ不朽の傑人「水戸黄門光圀」(義公)は初代水戸藩主頼房(徳川家康の第11子)の第3子で寛永5年(1628)6月10日家老三木仁兵衛之次の邸に生まれた。
母は谷氏(靖定夫人)といい義公の生誕を前にこの屋敷に一粒の梅の実をまいた。
義公生誕とともに芽生え、成長とともに育ち、寛文7年(1667)義公40歳の春ここに賞花の宴を催し「朽残る老木の梅も此宿のはるにふたたびあうぞ嬉しき」と詠んだ。
歌に生母への思慕の情がうかがわれる。

水戸市教育委員会

(説明板より)


【茨城県水戸市三の丸2-2-29】



史跡 | 22:25:01 | Comments(0)
柵町坂下門
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柵町坂下門

柵町坂下門は、二の丸の南口にあたります。
この門をくぐって坂を上ると、二の丸に入る柵町門がありました。
二つの門の間に下乗(げじょう)札(ふだ)が、坂下門の外に下馬(げば)札(ふだ)が立っていました。
また大下馬という長屋があったともいわれています。
門は「高麗門(こうらいもん)」という様式で、2本の本柱(鏡柱)の後ろにそれぞれの控柱をもち、本柱と控柱の間にも屋根をのせるのが特長です。


下乗札:駕籠や輿から降りて入門することを指示する立札
下馬札:馬から降りて入門することを指示する立札

水戸市案内板


【茨城県水戸市三の丸2丁目】



史跡 | 22:21:44 | Comments(0)
杉山門
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杉山門

杉山門は、二の丸の北口にあたり、坂を下ると杉山通りに出ました。
門の内側には、敵の侵入を遅らせるため、土塁で枡形(ますがた)が形成されていました。
『水戸城実測図』によれば、門の規模は4間1尺といわれています。
この周辺は大きな杉林になっていました。
2代藩主徳川光圀が、紀州産の熊野杉を取り寄せて植えたと伝えられています。

水戸市案内板


【茨城県水戸市三の丸2丁目】



史跡 | 22:19:13 | Comments(0)
水戸城二の丸御殿跡
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水戸城二の丸御殿跡

水戸城二の丸には、藩の政務の中心施設である御殿が置かれた。
初代藩主徳川頼房による寛永の水戸城大整備(1625~1638)にあわせて建設された。
御殿の絵図面をみると、およそ50数間四方の平屋建てで、水戸城最大の建造物であったことがわかる。
平成22(2010)年の発掘調査で、御殿に伴う排水路などが発見され、御殿の遺構が地下に保存されている事が判明した。

水戸市案内板


【茨城県水戸市・県立水戸第三高等学校】



史跡 | 22:13:10 | Comments(0)
水戸城三階櫓跡
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水戸城三階櫓跡

三階櫓は、水戸藩の初代藩主である徳川頼房が、寛永年間に水戸城の大整備(1625~1638)を行った際に、二の丸の南崖近くに建てたもので、水戸城にとっては天守閣に匹敵する建造物である。
明和元(1764)年12月の火災で全焼したが、再建時に屋根を瓦葺きとし、鯱を飾った。
外観は三重だが内部は五階建てというこの美しい建造物を、水戸の人々は「三階櫓(さんがいろ)」と呼んで誇りとしていた。
明和5(1872)年、何者かによる放火で水戸城は火災に見舞われたが、三階櫓は焼失を免れた。
その後も長く水戸のシンボルであったが、昭和20(1945)年8月の水戸空襲で焼失した。

水戸市案内板


【茨城県水戸市・県立水戸第三高等学校】





史跡 | 21:34:43 | Comments(0)
彰考館跡
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彰考館跡

水戸第二代藩主義公 徳川光圀は修史の志をたてて、明暦3年(1657)に大日本史(402巻)の編集をはじめた。
寛文12年(1672)にその編集所を彰考館と名づけた。
彰考とは「歴史をはっきりさせて、これからの人の歩む道を考える。」という意味である。
当初は江戸小石川の藩邸内においたが、元禄11年(1698)に水戸城に移した。
彰考館は、この二中の敷地の一部に当たり、廃藩置県となった明治4年(1871)までの173年間ここにおかれた。
この編集には多くの学者が携わったが、なかでも■泊齋 安積覚、十竹 佐々宗淳、翠軒 立原萬、幽谷 藤田一正、天功 豊田亮、栗里 栗田寛などが有名である。
水戸藩の全精力を傾注したこの大事業は、250年の歳月を費やして、明治39年(1906)にようやく完成した。
由緒あるこの地に、その昔をしのび、これを建てる。

(碑文より)

日本遺産「近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―」構成文化財
旧水戸彰考館跡

彰考館は、水戸藩第二代藩主徳川光圀が、わが国の歴史書である『大日本史』の編さん所として創設した史局である。
全国から学者を集めての『大日本史』編さんは、藩の一大事業となり、学問や教育に力を注ぐ水戸藩の伝統は、この時から始まったといえる。
彰考館は最初江戸に置かれていたが、光圀の隠居後、水戸城二の丸にも置かれ、幕末まで編さん事業が進められた。
明治維新後も『大日本史』の編さんは、徳川家の事業として継続され、偕楽園南隅へ移転した彰考館において、明治39(1906)年に完成した。

水戸市案内板


【茨城県水戸市・水戸市立第二中学校】



史跡 | 20:27:59 | Comments(0)
大石良雄外十六人忠烈の跡
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東京都指定史跡
大石良雄外十六人忠烈の跡
所在地 港区高輪1の4、6~16
標識 大正7年4月
指定 昭和30年3月28日

この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら17人が預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷の一部です。
赤穂事件とは、元禄14年(1701)3月14日におこった殿中刃傷事件とその翌年12月14日夜から15日にかけての吉良邸討ち入り及びその一連の事件のことをいいます。
当時の藩主5代綱利は、老中稲葉丹後守からの御預けの命を受けると、大目付仙谷伯耆守の屋敷に総勢875人の藩士と駕籠を送り引渡しを受けます。
このような大部隊を送ったのは、大藩の威武を示すとともに、上杉家の襲撃を警戒したためといわれています。
細川家は、大藩の威厳と識見をもって優遇し、御預四家の中で即日引見したのは細川家だけでした。
元禄16年(1703)2月4日午後2時、上使の御目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から切腹の申渡しを受け、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べました。
切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を負った位置でした。

平成24年3月建設
東京都教育委員会

(説明板より)


【東京都港区高輪1-16-25】



史跡 | 23:05:27 | Comments(0)
高輪消防署二本榎出張所
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東京都選定歴史的建造物
東京消防庁高輪消防署二本榎出張所
所在地 港区高輪二丁目6番17号
設計 越智 操
建築年 昭和8年(1933)

明治41年7月1日、第二消防署二本榎出張所として発足、昭和8年12月28日に現庁舎が竣工した。
建物は、鉄筋コンクリート造りの地上3階建てで、海抜約25メートルの位置にあり、当時は周囲に高い建物もなく、東京湾を眼下に眺望できた。
1階の腰壁は御影石(花崗岩)の切り出し積みで、ひさしや窓台は左官洗い出し仕上げとなっている。
また外壁はクリーム色の磁器タイルで覆われ、玄関部分はすべて御影石で造られており、扉は木製となっている。
3階の円形講堂は8本の梁(はり)が中心に集まり、10個の窓部アーチと一体になった独特の意匠である。
第一次世界大戦後の近代的なドイツ表現主義という建築様式で、曲線と曲面をモチーフとした力強く流れるような躍動感のあるデザインを特徴としている。
3階から上は円筒形の望楼(ぼうろう)となっており、昭和46年まで火災の見張りに使用されていた。

東京都

(説明銘板より)


【東京都港区高輪2-6-17】



史跡 | 22:36:30 | Comments(0)
高輪神社の力石
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高輪神社の力石

社殿前の左右に1個ずつ置かれた力石です。
力石は、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて「力競べ」、あるいは「曲持ち」を行った際に使用した石で、江戸時代には、神社の祭礼などに奉納のため盛んに行われました。
ひとつは「奉納」「五拾八貫目」「芝伊皿子町 仁右衛門」「麻布□□町 喜三郎」の文字が刻まれた長径80センチメートル、短径46センチメートル、厚さ28センチメートルの安山岩製で、区内にある重量が刻まれた力石の中では最も重いものです。
他のひとつは、前者とほぼ同じ大きさですが、上部が一部剥落しています。
「□拾貫目」「芝入横町 石右衛門」「芝町丁 岩右ヱ門」の文字が刻まれています。

平成9年3月11日 港区文化財綜合目録登録
港区教育委員会

(説明標柱より)


【東京都港区高輪2-14-18・高輪神社】




史跡 | 22:14:18 | Comments(0)
泉岳寺・主税梅
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主税梅

大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅と伝えられています。

(説明板より)


【東京都港区高輪2-11-1・泉岳寺】



史跡 | 22:05:32 | Comments(0)
泉岳寺・義士墓
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義士墓解説

赤穂城主浅野内匠頭長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刃傷に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。
家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に四十七士が結束して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄15年(1702年)12月14日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて官に裁きを求めた。
義士一同は、12月15日夕刻細川家(17名)、松平家(10名)、毛利家(10名)、水野家(9名)の四家に預けられた。
翌元禄16年2月4日、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。
直ちに主君の墓側に各々四家に分けて葬られた。

附記 遂道退身信士(寺坂吉右衛門)、刃道喜釼信士(萱野三平)の墓は供養墓で在る。

(説明板より)


【東京都港区高輪2-11-1・泉岳寺】



史跡 | 21:45:45 | Comments(0)
泉岳寺・義士墓入口の門
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義士墓入口の門

この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。

(説明板より)


【東京都港区高輪2-11-1・泉岳寺】



史跡 | 20:54:05 | Comments(0)
泉岳寺・首洗い井戸
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首洗い井戸

義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。

(説明板より)


【東京都港区高輪2-11-1・泉岳寺】



史跡 | 20:46:52 | Comments(0)
泉岳寺・血染の梅と石
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血染の梅・血染の石

浅野内匠頭が、田村右京大夫邸の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられている梅と石です。

(説明板より)


【東京都港区高輪2-11-1・泉岳寺】



史跡 | 20:37:20 | Comments(0)
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