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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
58歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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日比三偉人の碑
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MONUMENT FOR THREE FILIPINO
AND JAPANESE GREAT LEADERS

リカルテ将軍  葛生能久書
高山右近大夫長房  吉川英治書
キリノ大統領  山下久子書


真理と自由と
人類愛のため
生涯を賭けた三人の偉人
悠久なるかな
あゝ尊き足跡

昭和三十三年五月
寺下辰夫

(碑文より)


【千葉県銚子市高神東町599・賢徳寺】



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史跡 | 13:23:23 | Comments(0)
日比友愛の碑
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日比友愛の碑

日比友愛の碑は、第2次世界大戦中、不幸にして戦火を交えた日本とフィリピン両国の民族と民族が互いの恩讐(おんしゅう)を越えて、永く世界の平和を祈念するために、昭和33年6月に建てられたものです。
この斜塔は友愛の浄火をかたどったもので、炎の先端は遠く洋上3,000kmのフィリピン、マヨン山(マニラ富士と呼ばれています)に向かって建てられています。
また、近くの賢徳寺(北へ約300m)には、日比の3偉人、高山右近大夫、リカルテ将軍、キリノ大統領の碑があります。

(説明板より)


撰文  尾崎士郎
此處に、われ等が恩讐を絶する日比両國の戰友百數十万の霊を慰むるための記念塔を建てる。
悲しき歴史の運命について、われ等は今日言うべき言葉もない。
この儚き民族の夢も影もなく消えていったあとに、祖國の難に殉じて倒れた魂の、聲なき聲を、われ等は心の底に聽く。
希うところは、唯、この微かなる響きを透して、あたらしき民族の生命の芽生えんことのみである。
愛情の最後の一滴を捧げつくして、侘しく滅びていった同胞の御霊よ。
此處に永恒をつらぬく悲しき思いを、世界平和を築く荘厳なる理想と抱負に托して、こころしずかに眠れよかし。

昭和三十三年五月中浣

(碑文より)


【千葉県銚子市天王台1421-1・地球の丸く見える展望館】



史跡 | 13:10:13 | Comments(0)
飛行第51戦隊三十三回忌供養碑
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疾風 四式戦斗機

飛行第51戦隊ハ昭和19年4月山口県小月ニテ編成サレ同年6月防府ニ移駐北九州邀撃作戦参加同年10月比島クラーク基地ニ移動台湾沖及ビ比島沖航空戦参加同月末ネグロス島ヘ前進レイテ沖航空戦参加赫々タル武勲ニヨリ同年11月16日部隊感状ヲ授与サレ畏■モ上聞ニ達ス同年12月戦力回復ノタメ茨城県下館基地ニ集結尓後本土防空及ビ機動部隊攻撃ニ任ジツツ第18第19及ビ第57振武隊ノ特攻掩護ニ従事昭和20年8月15日沖縄特攻作戦参加ノタメ九州ヘ転進中終戦トナリ同年9月1日下館ニ於テ部隊解散ス

飛行第五十一戦隊
三十三回忌供養建之
昭和52年10月9日

(碑文より)


【茨城県筑西市新花町乙657番地】



史跡 | 21:13:25 | Comments(0)
加波山事件志士の碑
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自由民権の魁(さきがけ)
加波山事件志士の碑
筑西市新花町乙657番地

明治17年9月23日下館の民権家、富松正安(とまつまさやす)、保多駒吉(やすだこまきち)、玉水嘉一(たまみずかいち)と、福島、栃木、愛知の「民権家16人の志士」が加波山に決起し、山頂に「自由立憲」の旗をかかげた事件である。
これは、維新後十余年を経過してなお、国会が開かれず、明治政府の圧政に抗し「立憲政府樹立と自由と民主主義」を願った行動であった。
決起は、失敗に終わり、政府の不当な罪状をもって、厳科に処せられる結果に終わった。
事件後、百数十年を経た今日、志士の高邁(こうまい)な行動は、国民の広く認めるところとなり、志士の目指した「平和と民主主義」は、現在、国民生活の中に定着しました。
因(ちな)みに明治22年に大日本憲法が制定されましたが事件のもつ歴史的意義は極めて大きく、高く評価されています。
墓は、妙西寺の門前墓地の入口にあり、4基の角柱が並んでいる。
石碑は、平尾八十吉(ひらおやそきち)、富松正安、保多駒吉、玉水嘉一の墓と刻まれ、裏面に没した年月日がある。
碑の右側には、墓碑建設賛助者の名を刻んだ志表と、左側に「玉水嘉一翁顕彰碑」がある。

撰文 宮本 朔夫
寄贈 下館商工会議所

(説明板より)


【茨城県筑西市新花町乙657番地】



史跡 | 20:35:34 | Comments(0)
筑西・愛宕神社
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往時、西郷谷の総鎮守
愛宕神社
筑西市大町甲37番地

下羽黒神社境内の西側にある。
祭神は伊弉册尊(いざなみのみこと)、火産霊神(ほむすびのみこと)で往時は西郷谷(現在の羽黒神社付近)の鎮守として世人の尊崇が篤かった。
文明10年(1478)水谷氏が下館に進出、同13年(1481)羽黒神社を勧請したときに、羽黒神社西側に移した。
愛宕神社の御神体は、鎌倉時代の作といわれ、木造彩色で翼をもった異形で珍しいものである。
昭和38年7月茨城県文化財(彫刻)に指定。
尚、本殿は昭和46年再建。
拝殿は、元、下羽黒神社拝殿を移設した。

寄贈 下館商工会議所

(説明板より)


【茨城県筑西市大町甲37番地】

史跡 | 20:21:09 | Comments(0)
筑西・羽黒神社
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下館初代城主水谷氏尊崇の神社
下羽黒神社
筑西市大町甲37番地

七羽黒神社の中心の神社。
文明10年(1478)水谷左近将監勝氏(みずのやさこんしょうげんかつうじ)初代が結城家より独立し、下館に築城。
3年後の文明13年(1481)尊崇する出羽国(山形県)羽黒大神を勧請した。
勝氏は、古式により下館城の鬼門の稲野辺村、風門の下岡崎村、病門の外塚村、天文の岡芹村に五つの羽黒神社を創建した。
その後、天文14年(1545)水谷政村(みずのやまさむら)(6代)が久下田に築城、鬼門にあたる大根田村と病門にあたる口戸村に羽黒神社を創建した。
世に七羽黒と呼ばれている。
羽黒神社は境内六千余坪、三十七石を寄進し、水谷家の武運長久、領民の安泰を祈願している。
水谷氏移封後も、松平、増山、黒田、石川等歴代藩主の尊崇篤く、享保13年(1728)黒田直邦(くろだなおくに)が本殿の大改修を行なった。
昭和5年6月郷社に列せられる「下館領内神社寺院附縁起旧跡」には、下羽黒山大権現、別当天台宗、正観院清瀧寺御朱印二十石、水谷伊勢守勝隆(みずのやいせのかみかつたか)、元和四年戊午(つちのえうま)年建立。
水野家之鎮守。
祭礼毎年10月14日より17日まで。
尚、平成14年本殿が茨城県文化財(建造物)に指定。

寄贈 下館商工会議所

(説明板より)


【茨城県筑西市大町甲37番地】



史跡 | 19:56:56 | Comments(0)
板谷波山生家
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波山の生家

波山は明治5年(1872)3月3日に板谷家の三男五女の末子(本名は嘉七)として生まれました。
波山の生家は醤油醸造や雑貨(文房具や西洋小間物など)を扱う御用商人を務めた、町の主導的な商家でした。
父の増太郎は分家して三代目にあたる有能な商人で、文人趣味をもち「半癡(はんち)」と号して文墨に親しんでいます。
記念館には父の作品がいくつか残されていますが、そのなかの「先考遺墨帖(せんこういぼくちょう)」(波山の題箋(だいせん))には、南画風の花鳥画の素描がおさめられており、玄人(くろうと)はだしの見事な筆致をみせています。
また、父は茶道をたしなみ三味線をひき、さらには和歌や狂句もつくり、器用で指物をこしらえ袋物を縫ったりしたといわれています。
おそらく凝り性なところや抜群の器用さなどの波山の性質は、多分に父譲りであったと思われます。
波山もかなりの趣味人で宝生流(ほうしょうりゅう)のお能や尺八に親しみ、着物も縫い料理も得意でした。
彼の芸術家としての資質は父の血筋を受け、粋な町人文化の栄えた下館でそのセンスが磨かれたのです。
一方、母の宇多(うた)は茨城県筑波郡の豪農の娘で、娘時代に讃岐高松藩主松平家に奉公に出るなど武家育ち風で自らに厳しい人でした。
母は波山に対して厳格なしつけをほどこしました。
波山が陶芸界の大家になった後にも、決して奢(おご)らず謙虚で他人への細やかな配慮を忘れない人格は、母から受け継いだものだったと思われます。
ところで、波山はかなりの美男でしたが、その容姿は生前の母の姿にそっくりでおそらく母親似であったと思われます。
記念館内にある波山の生家は、江戸時代中期ごろの商人の住居として歴史的にも貴重であり茨城県指定文化財となっています。

(展示パネルより)


板谷波山生家(昭和40年茨城県指定史跡)

創建は江戸中期、木造平屋建、屋根は瓦葺き。
波山はその誕生(明治5年)から東京美術学校入学(明治22年)まで、この家で過ごす。
板谷家はしょうゆ醸造及び雑貨商を営む。
波山は父増太郎、母宇多の三男六女の末子で「嘉七」と命名された。

(リーフレットより)


【茨城県筑西市田町甲866-1・板谷波山記念館内】



史跡 | 17:09:31 | Comments(0)
鳥取鉄道高架記念之碑
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鳥取鉄道高架記念之碑

 鳥取鉄道の高架が完成し2年数か月、駅を中心とした人の流れもかわり、駅南にビルも林立しだした。
これから駅南が大きく発展するであろう。
駅高架に併せ実施された駅前の区画整理も本年3月完成し、近代的な美しい街に生まれかわった。
その一部として整備されたこの公園もその名を高架記念公園とした。
そこでこの世紀の大事業である鉄道高架を記念し、ここに碑を建立することとした。
 わが鳥取は今から約360年前藩主池田光政により城下町として築造されたが、明治41年に始めて鉄道が敷設され、駅は田圃に囲まれていた。
しかし、北は久松山で市街地は漸次南へと発展した。
特に、昭和27年の大火災後は駅南へ工場の移転を図るなど急速に南へ都市化が進んだ。
しかし、東西に走る鉄道がその大きな障害となった。
 そこで、鉄道を高架にすべきだという考えは識者の間に根強くあったが、それをどう実現するか誰にも具体策はなかった。
しかし、時の知事石破二朗氏は専門家の意見も徴し、大火災に焼け残った駅前の改造と併せ鉄道の高架を実施すべきだとの画期的構想を固めた。
知事は鳥取市へその意向を打診し、前市長高田勇氏も賛同し、昭和42年に知事、市長を正副会長とする鳥取駅高架促進期成同盟会が発足し、県、市あげてその実現に努めた。
その間、前知事石破二朗氏が国の採択を得るため払われた筆舌に尽くしがたい努力については今でも語り草となっている。
勿論この大事業は一個人の力でできるものではない。
多数の市民の協力の賜であるが、石破氏の秀でた指導力によるところが大きかったことは銘記されるべきである。
 鉄道の高架は昭和54年11月完成し、駅前の区画整理は56年3月完成した。
高架になった豪華な駅、緑豊かな広場、近代的ビル街。
素晴らしいの一語に尽きる。
 今後、我々は美しい自然を生かし、調和した近代都市である20万都市を目指し努力しなくてはならない。

昭和56年6月
    鳥取市長 金田裕夫 記

(碑文より)


【鳥取県鳥取市永楽温泉町701・高架記念公園】




史跡 | 20:46:32 | Comments(0)
大手登城路跡
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史跡鳥取城跡附太閤ヶ平(つけたりたいこうがなる)
大手登城路跡(おおてとじょうろあと)

大手登城路とは、城のメインルートのことで、途中には2つの重要な門がありました。
中ノ御門(なかのごもん)は、擬宝珠橋(ぎぼしばし)を渡った正面玄関にあたり、藩主の入城時などに開かれる特別な門で、太鼓御門(たいこごもん)は、中心部であった三ノ丸の入口にあって、時を知らせる太鼓を打った場所でもありました。
享保5年(1720)城内の建物の大半を焼失した石黒大火(いしぐろたいか)で両門とも被災しており、発掘調査では、焼けた石垣や地面が見つかっています。

鳥取市教育委員会

(説明板より)


【鳥取県鳥取市・鳥取城跡】



史跡 | 13:59:10 | Comments(0)
因伯新道紀功碑
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因伯新道紀功碑
(いんぱくしんどうきこうひ)

明治14(1881)年9月12日、鳥取県は再置(5年間島根県に併合)され、新しい県づくりが始まりました。
この頃、県内の道路は未整備で交通の便を図ることが急務でした。
明治16年、大規模な道路整備事業が始まり、後の国道9号線をはじめとする主要道15路線およそ130里(500キロメートル)が整備・改修されました。
この碑は、事業の功績をたたえる人々の寄付によって明治20年11月に建てられました。


碑 功 紀 道 新 伯 因
[碑文の一部を現代語訳にして、( )内に捕捉文を入れています]

因伯の二州は海に沿い、山道はおよそ130里、道路は険悪でわずかに人馬を通すのみである。
昔は人も馬も(往来に)苦労したものであった。
山田県知事は、これをあわれみ、土木課長の須永氏と話し合って道路改修を命じた。
大岩を穿ち山道を開き、高きは削り、低きは埋めて平にした。
水があれば橋を架け、山には道をつけた。
これにより、かつて草茫々の所は平坦になって砥石のようになり、塞がっていた道もまっすぐに通じ、それはまるで矢のようである。
絶え間ない人馬の往来に対して人々は喜んでいる。
そもそも、この事業は明治16年に開始され、19年に竣工した。
事業にはおよそ1万人、35万500円余りを要した。
官家の深い思し召しとはいえ、因伯二州の官民の力を合わせなければ、短期間での完成は見なかったであろう。
記録に残して後世に伝えなければならない。
よって豊碑(功徳をたたえた大きな石碑)を若桜橋の側に建ててその功績を刻むこととする。
        ※若桜橋詰からこの場所に移されたことになります。
銘に曰く
西晋の社征南(社預)は富平津に浮橋を造り、今は多くの人が往来するところとなっている。また、平の清盛は「経が島」をを築いて輪田崎(大輪田泊)を修築し、日宋貿易の拠点にした。一時は苦労しても後の世の利益となることは、世の人が二人をたたえていることからも分かる。お金を費やすこと40万円。因伯の道路を改修すること百里。ああ、輪田崎と冨平津と共に、山河が永遠に続くように因伯新道の功績は永く鼎峙(三つが安定している様)することであろう。
明治二十年丁亥十一月 従四位勲三等山田信道篆 菊池純撰文 寺西養蔵書


鳥取県再置後の初代県令 山田信道(やまだ・のぶみち)
天保4年(1833)年~明治33(1900)年

元熊本藩士で大審院(現在の最高裁判所)詰の判事から鳥取県令(現在の知事)になりました。
明治14年から21年までの在任中、士族授産(生活に苦しむ士族に仕事を与えること)、道路網の整備、産業や教育の振興に力を注ぎました。
後に、福島県や大阪府、京都府の知事、農商務省大臣などを歴任しました。

平成28(2016)年6月 鳥取県立公文書館作成

(説明板より)


【鳥取県鳥取市東町1丁目・城南神社脇】



史跡 | 13:14:23 | Comments(0)
箕浦家武家門
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箕浦家武家門

この武家門は、もとお掘ばたの南隅にあって、2千石の箕浦近江宅の門でした。
昭和11年に大阪の素封家広岡松三郎氏の寄贈によって現位置に移築保存されたものですが、今日では、鳥取が城下町であったことを語る貴重な建物です。

(説明碑・碑文)


【鳥取県鳥取市尚徳町101・県立図書館/県立公文書館】



史跡 | 13:01:49 | Comments(0)
尚徳館記碑
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尚徳館記碑

宝暦7年2月1日(1757)鳥取藩第5代藩主池田重寛公によってこの地に藩校が創設され尚徳館と命名された。
第12代藩主池田慶徳公の時に学制の改革が行われ、万延元年(1860)この尚徳館記碑が校内に建立された。
文武併進を以て尚徳館教育の理念であると記す。
藩校は明治3年(1870)に至るまで113年の間鳥取藩教育の中心であった。

(説明碑・碑文)


【鳥取県鳥取市尚徳町101・県立図書館/県立公文書館】



史跡 | 12:45:28 | Comments(0)
吉田貞先生之碑
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吉田貞先生之碑

吉田貞先生ハ士族ノ家ニ生ヲ享ケ厳格ナル躾ノ下ニ人ト
ナリ遂ニ淑徳高キ婦人トナラレタ  先生ハ明治三十三
年掛出町ノ自宅ニ裁縫女塾ヲ開キ近クノ子女ヲ集メテ教
育サレタガ明治三十八年日露戦役後将来ノ女子教育ハ其
普及ト向上ニアルコトヲ痛感サレ同年県ニ申請シ茲ニ始
メテ女学校トナツタ  先生ノ教育方針ハ単ナル裁縫教
授ニ止マラズ之ヲ通シテ婦徳ノ涵養技能ノ錬磨ニアツタ
先生ノ教化ハ年ト共ニ益々深潤シ理想ノ実現ニ近ヅキツ
ツアツタガ惜ムベシ大正十一年十月十八日逝去サレタ
先生ハ本校教育ノ開祖デアルト共ニ女子教育ノ先覚者デ
アツテ其功績ハ洵ニ顕著デアル  依て茲ニ碑ヲ建テ先生
ノ遺徳ヲ永遠ニ伝エル

昭和四十年鳥取家政高等学校六十周年ニ当リ清香会建之
   撰文 学校長岡本久八
   揮毫      蔵光 工

(碑文より)


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吉田貞先生

 先生は明治33年市内掛出町の自宅に
裁縫塾を開かれ38年には鳥取裁縫女学校
を設立されついで44年鳥取技芸女学校と
改称されました先生はまた初代校長として
「婦徳の涵養人格の完成」を建学の精神に掲げ
単に裁縫の指導にとどまらず徳育を重んじ
有能な日本女性の育成に献身努力され現在の
素晴らしい校風の基礎を築かれました
 先生は大正11年10月18日53才の若さ
で惜しまれつつ逝去されました

本校創立百周年に際し同窓生
一同相はかり先生の御徳をたたえ
頌徳の像を建立したものです
 平成17年10月
鳥取敬愛高等学校清香会

(碑文より)


【鳥取県鳥取市西町1-111・鳥取敬愛高等学校】



史跡 | 11:48:58 | Comments(0)
荒木神社
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神道
黒住教 鳥取大教会所
御祭神 天照大神
      八百萬神
(教祖) 黒住宗忠神

黒住教は、江戸時代の文化11年(1814)の冬至の日、黒住宗忠教祖がお日の出を拝む中に立教なった教派神道で、京都神楽岡宗忠神社は孝明天皇唯一の勅願所となっています。

勝負の神様
荒木神社

日本三大仇討ちの一つに数えられる伊賀上野「鍵屋の辻で有名な荒木又右衛門は、寛永15年、270名余りの護衛に守られて因幡池田藩に迎えられました。
早速藩主より現在の黒住教鳥取大教会を含む若桜橋北詰めに屋敷を与えられました。
しかし鳥取に来てわずか17日後の8月28日に40才という若さで突然亡くなり、又右衛門が伝えたと思われる新陰流の流れは、財団法人尚徳会・尚徳錬部館伝承の鳥取市無形文化財雖井蛙流平法に受け継がれています。

(説明板より)


荒木神社と手水鉢の由来

荒木又右衛門は、伊賀上野の仇討の後この地に屋敷を賜わり、その邸内にお社を造り凝灰岩の手水鉢を置き、手水をつかいうがいをして参拝していました。
又右衛門の死後はこのお社に神として祭られ一族の守護神としてあがめられていましたが、明治の初め屋敷が当黒住教会に寄進されることになり、お社も「荒木神社」として教会でお守りすることになりました。
其後毎年8月28日の又右衛門の命日には、町内あげての賑やかな祭礼が行われてきましたが、昭和18年9月10日の鳥取大地震でお社は倒壊、続いて昭和27年4月17日の鳥取大火で手水鉢も猛火の熱で半分に割れ、一方は行方知れずとなりました。
ここに荒木神社再建に当り残存する部分を納め当時をしのぶよすがと致します。

平成3年8月吉日
荒木神社再建実行委員会
黒住教鳥取大教会所

(説明板より)


【鳥取県鳥取市元町125・黒住教鳥取大教会所】



史跡 | 11:09:36 | Comments(0)
野口雨情の詩碑
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雨情詩碑

春のあけぼの  花なら桜
   武士の鑑ぢや  赤穂義士
                     雨情

この碑文は、昭和11年、民謡行脚の道すがら、4月18日から3日間赤穂に滞在し試作した十節よりなる赤穂民謡の冒頭第1節(雨情自筆写刻)。

野口雨情・明治15年(1882)-昭和20年(1945)。
茨城県生れ。
「十五夜お月さん」「青い目の人形」「船頭小唄」「波浮の港」の作者。

(説明板より)


【兵庫県赤穂市加里屋1992番地・花岳寺】



史跡 | 16:28:21 | Comments(0)
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