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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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新選組長倉新八墓
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新選組長倉新八墓
従二位勲三等侯爵蜂須賀正韶書

永倉新八君本姓長倉家世松前藩に事へ禄百五十石を食む父勘次君江戸に在勤す天保十年四月十一日君を下谷松前藩邸に生む幼名榮次君少にして気誼あり撃剣を岡田十松に學ぶ年十九決志脱藩して江戸本所百合本昇の塾に入り益剣法を修む既にして君近藤勇の人と為りを慕ひ親交を訂し又土方歳三と相知る文久三年幕府将軍の入朝に先たち其の護衛の士を募るや君勇歳三等と之に應して入京す新徴組是なり幾くもなく隊首清川八郎の同志の刃に斃るゝや君勇歳三及芹澤鴨新見錦山南敬助沖田総司原田左之助井上源三郎藤堂平助平山五郎野口健司平間重助十三人京都守護職會津侯の指揮に属す世に之を壬生浪士と称す後一隊に編成し新選組と称し君其の隊将の一人たり尓来同隊は八月十八日の變に宮門を警衛し明年六月浮浪の徒池田屋に陰謀を企つるや不意を襲ふて之を斬獲し七月賊徒の禁門を犯すや剿討に與かりて皆功あり而して君の奮勇剣撃も見るべしと云ふ明治戊辰伏見の役に新選組は會津軍と共に奮戦利あらず江戸に還る尋て甲府を攻略せんとして成らず勇は歳三と共に流山に赴き勇は敵に捕へられ板橋に斬らる君は同志と靖兵隊を組織し其の副長と為り野州に至り大鳥圭介軍と共に小山宇都宮に轉戰し遂に會津の将山川大藏の軍に投じて今市に戰ひ大藏か若松に入城するや君偶々雲井龍雄と相知り米澤に抵り尋て東京に入り諸所に潜居す明治二年松前藩に復帰し藩兵に操練を授く是より先君雲井龍雄の擧に與みせんと約したるも龍雄の蹉跌に因りて成らず尓来怏々として樂とす藩醫杉村介菴の女婿と為る八年家を襲き名を義衛と改め居を小樽樺戸千葉千葉東京に移し子弟に撃剣を授け悠々閑日月を送り大正四年一月五日北海道小樽市に歿す享年七十七夫人米子との間に一男一女を生む是より先明治八年君近藤勇の霊を板橋に弔ひ松本順氏の題墓を得て墓石を建て土方歳三の名を併せ刻し且つ新選組士百餘名を其の側面に列記せり昭和三年瀧野川町北谷端睦會は践祚大體及皇弟雍仁親王同妃両殿下慶事を紀念して此の墳墓の改脩を企て寿徳寺及君の男義太郎君の同意を得て是を實行せり而して義太郎君に其の十三回忌辰に父君の事蹟を刊行して知人に配贈し今又君の遺骨を分ちて近藤の墓側に瘞め墓表を建てんと欲し余に文を嘱す余■■君の故國義援の擧を懐ひて快諾し其の行實に據り之を概記すと云ふ

昭和四年二月

従二位勲一等男爵林権助撰
正三位勲三等男爵杉溪言長書
       深川小林松年刻

(碑文より)


【東京都北区滝野川7-8-1 寿徳寺境外墓地(JR板橋駅前)】

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史跡 | 12:52:35 | Comments(0)
近藤勇墓所
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東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
近藤勇と新選組隊士供養塔
北区滝野川7-8-1 寿徳寺境外墓地

慶応4年(1868)4月25日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。
その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
本供養塔は没後の明治9年(1876)5月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。
高さ3.6メートル程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。
正面には、「近藤勇 冝昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。
なお、近藤勇の諱(いみな)である昌宜が冝昌とされていることについては明らかになっておりません。
右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計110名の隊士などの名前が刻まれています。
裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 發起人 旧新選組永倉新八改杦村義衞 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衞門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂(たもと)を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。
本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。

平成16年3月
東京都北区教育委員会

(説明板より)


【東京都北区滝野川7-8-1 寿徳寺境外墓地(JR板橋駅前)】

史跡 | 11:16:44 | Comments(0)
宇佐海軍航空隊の蘇鉄
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蘇鉄は語る

当駅舎の西南方約1キロの地に、かつて、海軍の飛行場がありました。
名づけて宇佐海軍航空隊。
太平洋戦争末期特攻基地となり、153名の特攻が出撃、沖縄の海に散華している歴史的聖地です。
航空隊が開隊したのが昭和14年10月1日、そのとき地元商店会で組織する物品納入業者の団体「糧友会」の人たちが、庁舎の庭に寄贈したのがこの蘇鉄です。
昭和20年4月21日、B29の爆撃で航空隊は壊滅。
そのとき生き残ったこの蘇鉄が、戦後、瓦礫の中におきざりにされていたのを商店会の有志たちが現在地に移植、戦争を伝える唯一の生きている遺産です。

柳ヶ浦アーバンデザイン会議

(説明板より)


【大分県宇佐市・JR柳ケ浦駅前】



史跡 | 14:29:22 | Comments(0)
双葉山生家跡
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双葉山生家跡

昭和の角界に大きな足跡を残した大横綱・双葉山定次(本名:穐吉定次)(あきよしさだじ)は、明治45年2月9日、ここ大分県宇佐市大字下庄(しもしょう)(当時:大分県宇佐郡天津村布津部)で生まれました。
双葉山は生前、故郷の布津部地区に公民館が無いことを気にかけており、建設を考えておられましたが、56歳という若さでの突然の死により実現が叶いませんでした。
そこで双葉山夫人である穐吉澄子(すみこ)氏が、地域の皆様が使って下さるならと、双葉山の生家を改装、寄贈してくださり、昭和44年以来、地区の公民館として使用してまいりました。
その後、平成11年12月、双葉山生誕80周年を記念した顕彰活動として、当時の間取りに基づく生家への復元を行い現在に至っています。

(説明板より)


【大分県宇佐市大字下庄269】



史跡 | 13:52:50 | Comments(0)
城井1号掩体壕
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市指定史跡
城井(じょうい)1号掩体壕(えんたいごう)

所在地 宇佐市大字城井159番地の3
規模 幅21.6m、奥行き14.5m、高さ5.4m

宇佐海軍航空隊は1939(昭和14)年10月1日、練習航空隊としてつくられました。
しかし、米軍の空襲をうけるようになった1945年の太平洋戦争末期には特別攻撃隊の基地となり、多くの若者が南の空に飛び立っていきました。
掩体壕とは軍用機を敵の空襲からまもるための施設です。
柳ヶ浦地区を中心とした飛行場の規模は、東西1.2km、南北1.3kmで約150haもありました。
現在、航空隊のあとは水田や宅地となっており、その面影を残すのは10基の掩体壕などわずかな遺構だけです。
宇佐市では戦後50年の節目を平和元年とし、この負の遺産を平和のシンボルとして21世紀に伝えることにしました。
その第一歩として、平成7年3月28日に城井地区にある掩体壕1基を史跡に指定しました。
そして、平成9年度にはこの掩体壕と周辺用地を買い上げ、自治省の地域文化財保全事業として史跡整備を実施しました。

(説明板より)


【大分県宇佐市大字城井159-3】



史跡 | 13:28:43 | Comments(0)
宇佐海軍航空隊落下傘整備所
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市指定史跡
宇佐海軍航空隊落下傘整備所

通称「レンガ造りの建物」と言われています。
壁面には米軍機による無数の弾痕が残っており、戦争の脅威を今に伝えています。
ほとんどの建物が空襲で壊れた中、わずかに残った建物の一つです。

宇佐市教育委員会

(説明標柱より)


【大分県宇佐市江須賀4030】



史跡 | 13:16:46 | Comments(0)
宇佐神宮
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宇佐神宮

御祭神
一の御殿 八幡大神(応神天皇)
二の御殿 比賣(ひめ)大神
三の御殿 神功皇后(じんぐうこうごう)

宇佐神宮は全国八幡宮の総本宮 勅祭(ちょくさい)の大社であり 歴代天皇は伊勢の神宮につぐ宗廟(そうびょう) 我朝(わがちょう)の太祖 として御崇敬になられています
また私たちの祖先は各地に宇佐の八幡宮をお迎えして 氏神や鎮守のお社としました
神代に三神の比賣大神がご降臨(こうりん)になったこの宇佐の地に 約千四百年前の欽明(きんめい)天皇32年 応神天皇のご神霊(しんれい)がはじめて八幡大神(はちまんおおかみ)としてあらわれになり 各地を巡幸(じゅんこう)後この亀山にお鎮(しず)まりになりました
のち弘仁14年 応神天皇の御母君であられる神功皇后をお祀りし 三殿のご鎮座(ちんざ)となりました

(説明板より)

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下宮(げぐう)

御祭神
一之御殿 八幡大神(応神天皇)
二之御殿 比売(ひめ)大神
三之御殿 神功(じんぐう)皇后

下宮は嵯峨天皇の弘仁年間(810~824)に朝廷より造宮使が遣わされ、上宮の御分神をお鎮祭し創祀されました。
古くは御炊殿(おいどの)ともいわれ、神前にお供えする御饌(食事)を炊く竈殿(現下宮授与所)があり、農業・漁業をはじめとする一般産業の発展充実を御守りになる神様であります。
上宮と同様に歴代の皇室をはじめ、国民の崇敬篤く、特に宇佐地方では「下宮参らにゃ片参り」と称され親しまれております。
また、一之御殿には、八幡大神を顕しになった大神比義(おおがのひぎ)の神霊を祀る、大神祖神社が相殿として奉斎されております。

宇佐神宮庁

(説明板より)


【大分県宇佐市南宇佐2859・宇佐神宮】



史跡 | 11:40:57 | Comments(0)
神武天皇聖蹟莵狭顕彰碑
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神武天皇聖蹟莵狭顕彰碑

(碑文)
神武天皇甲寅年冬舟師を師ヰテ筑紫國莵狭ニ至リ給ヘリ聖蹟ハ此ノ地方ナリト推セラル

昭和十五年十一月 紀元二千六百年奉祝會



(側碑・碑文)
神武天皇聖蹟莵狭顕彰碑

日本書紀によれば、神武天皇は御東征のとき、日向を発たれ、椎根津彦命(しいねつひこのみこと)の水先案内で豊後水道の難所を通り抜け、宇佐に上陸されました。
このとき宇佐国造の祖である莵狭津彦命(うさつひこのみこと)・莵狭津媛命(うさつひめのみこと)が天皇一行をお出迎えになり、一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を建て饗(みやえ)(ご馳走)を奉ったことなどが記されています。
これを記念して昭和15年にこの顕彰碑が建てられました。
一柱騰宮跡は寄藻川に架かる呉橋の南側の高台と伝えられ、この一帯は騰隈(とうのくま)とよばれています。
宇佐上陸の地とされる和気地区には柁鼻(かじはな)神社が、また大尾山の東側台地には椎根津彦命を祀る椎宮が鎮座しています。


【大分県宇佐市・宇佐神宮】



史跡 | 10:49:31 | Comments(0)
宇佐参宮線26号蒸気機関車
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宇佐参宮線26号蒸気機関車

大分県指定文化財

この機関車は、明治24年(1891年)にドイツ・ミュンヘン市のクラウス社が製造、明治27年に九州鉄道(株)(国鉄の前身)が購入し活躍していましたが、昭和23年機関車の大型化に圧され、大分交通(株)に譲渡の後、宇佐参宮線の主役になりました。
宇佐参宮線は、大正5年(1916年)3月開業し、昭和40年8月に廃止されました。
二六号機関車は形式10、製造番号2550号、最大長7.509m、高さ3.546m、幅2.546m、運転装備時重量23.36tで、実に71年間にわたり活躍しました。

(説明板より)


【大分県宇佐市・宇佐神宮】



史跡 | 10:31:54 | Comments(0)
別府港跡と天然砂場跡
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別府港跡と天然砂場跡

明治4年5月、九州の表玄関といわれた別府港が完成。
九州の三大波止場のひとつ。
のちに別府温泉の発展に大きな役割を果たした。
港の北側には北浜天然砂場があり、南側も砂場だった。
多くの湯治客は海から訪れていた。

平成14年3月 あなたの町の郵便局

(碑文より)


【大分県別府市北浜1-14】



史跡 | 13:10:17 | Comments(0)
「地獄めぐり遊覧バス」発祥の地
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「地獄めぐり遊覧バス」発祥の地

亀の井バスの創立者・油屋熊八は、昭和3年、日本初の「女性バスガイド」と「遊覧バス」を発案。
そのコースの沿線で、流川情緒や史蹟名所を美文調で説明した。
若い女性ばかりのバスガイドは、旅行者にすごい人気を博した。

地獄めぐりは 亀の井バスよ
乗ればニッコリ 乙女の車掌
名所解説 節・面白ふ
唄う車内の 和やかさ

平成14年3月 あなたの町の郵便局

(碑文より)


【大分県別府市元町19-10】



史跡 | 12:56:53 | Comments(0)
伊能忠敬測量史蹟
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伊能忠敬測量史蹟

往時この街角に高札場あり徳川幕府禁制を掲ぐ
文化7年(1810年)2月11日伊能忠敬来りて測量をなしこの処に国道元標を建つ
江戸日本橋より263里(1052km)
この元標より西1丁目に庄屋宅ありと

流川通り会
平成9年6月建立

(碑文より)


【大分県別府市・流川4丁目交差点】



史跡 | 11:41:59 | Comments(0)
蛭ヶ小島
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蛭ケ島(ひるがしま)
(源頼朝配流の地跡)

このあたりを、韮山町四日町字蛭ケ島といい、平治の乱で敗れた源義朝(よしとも)の嫡子、兵衛佐(ひょうえのすけ)頼朝配流の地といわれている。
狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河(ふるかわ)・和田島(わだじま)・土手和田(どてわだ)等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ケ島であったことが想像される。
永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34才で旗挙げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではない。
しかし、「吾妻鏡(あづまかがみ)」治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。
このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、ここ蛭ケ島で過ごしたものといえよう。
当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿(ずしゅうしこう)の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財指定されている。
また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った荻原正夫が、明治26年に建立したものである。

伊豆の国市

(説明板より)


【静岡県伊豆の国市四日町17-1】



史跡 | 13:24:12 | Comments(0)
パン祖の碑
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パン祖の碑

江川英龍は、天保13(1842)年、この韮山屋敷において、兵が携行する兵糧(ひょうろう)として乾パンを製造しました。
このことは、パン食の普及していなかった当時の日本においては、画期的なことでした。
昭和27(1952)年、「全国パン協議会」および「静岡県パン協同組合」は、英龍に「パン祖」の称号を贈るとともに、この「パン祖の碑」を建立して功績をたたえました。

パン祖江川担庵先生邸
   蘇峰正敬書

江川担庵先生ハ、維新期ノ先覚者ナリ。
材ハ文武ヲ兼ネ、識ハ東西ニ通ジ、百藝皆該(か)ヌ。
乃(すなは)チ製麺麭(パン)ノ術モ亦(また)、本邦ノ開祖ナリ。

昭和後学蘇峰正敬識

(説明板より)


【静岡県伊豆の国市韮山・江川邸内】



史跡 | 12:07:37 | Comments(0)
江川家住宅
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重要文化財 江川家住宅

江川氏の遠祖宇野氏は大和の国に住む源氏の武士であったが、保元の乱(1156)に参戦して敗れ、従者13人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられる。
現存の家屋の主屋は室町時代(1336~1573)頃に建てられた部分と、江戸時代初期頃(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。
この主屋は昭和33年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた。
同35年より文化庁、静岡県及び韮山町の協力を得て解体修理が行われ、文化14年(1817)に行われた大修理以前の古い形に復元された。
またその際に茅葺だった主屋の屋根は現状の銅板葺きとなった。
江川氏は徳川時代初期より幕末に至るまで代々徳川幕府の世襲代官を勤めた。
その中で幕末の江川英龍は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場築造の計画等をすすめたことで知られている。
昭和42年に財団法人江川文庫が設立され、重要文化財および代官所記録の維持管理にあたっている。
江川家住宅及びそのその周辺の重要文化財は次のとおりである。

江川家住宅宅地 11837平方米
同 主屋 552平方米
同 付属建屋、書院、仏間、土蔵等

(説明板より)


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パン焼き窯と鉄鍋

天保13(1842)年4月12日、江川英龍の命により、邸内に築かれた窯(かま)で、初めてパンが焼かれました。
当時の日本にはパン食は普及しておらず、長崎出島のオランダ商館用にのみ製造されていました。
英龍が焼かせたのは、柔らかいパンではなく、長期保存が可能な乾パンでした。
これは、英龍がパンを平時の食料としてではなく、戦争時に兵が携行する兵糧(ひょうろう)とすることを目指していたからです。
ここにあるのは、パン焼き窯を形作っていた伊豆石(いずいし)の一部です。
本来は上に載せてある鉄鍋が入る、もっと大きなものだったと考えられます。
なお、初めてパンが焼かれた4月12日は、現在「パンの日」として親しまれています。

(説明板より)


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塾の間
この部屋は、全国から砲術を学びにきた若者たちが、宿泊をし、学習をした部屋である。
天保14年(1843)より、多くの塾生が「実用専一」「精神統一」を合い言葉に、漢学、洋式砲術の理論などを学んだ。
また、実地訓練として屋敷の外で、鉄砲や大砲の試射、さらに山猟で疲れた体を癒しながら、日本の将来を語りあったであろう。

(説明板より)


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西蔵
幕末頃の建築で、正面から見ると将棋の駒のような形をしていることから「駒蔵」とも呼ばれています。
また、四方の壁が内側に向かってわずかに傾いた「四方ころび」といわれる技法で建てられています。
軒の屋根が、瓦ではなく伊豆石で葺かれているのが特徴です。

(説明板より)

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裏門
裏門は、文政6年(1823)の建築です。
ただし門扉はずっと古く、豊臣秀吉の軍勢が韮山城を包囲した天正18年(1590)当時のものだといわれています。
門扉に残る多数の穴は、激しい戦闘の様子を物語る、鉄砲玉や鏃(やじり)の跡だとされています。
また寛政4年(1792)に当地を訪れた老中松平定信(白河楽翁)が、この裏門越しに見た富士山の美しさに感歎し、御用絵師として伴っていた谷文晁(たにぶんちょう)に命じて、それを絵に描かせたという逸話も伝えられています。


【静岡県伊豆の国市韮山韮山1番地】



史跡 | 11:51:01 | Comments(0)
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