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■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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青野ヶ原 戦車隊之碑
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(碑文)

昭和十五年四月
    この地に戦車隊が誕生した
 多くの若人が
    この庭で心身を鍛え
その多くは
 櫻花と共に國に殉じた
         われら生存者
永遠の平和を願って
    ここに碑を建つ

昭和四十九年十一月三日 文化の日

関係部隊
戦車第六聯隊
同  補充隊
戦車第十九聯隊
同  補充隊
戦車第四十二聯隊
戦車第十三聯隊
南海第四守備隊第一戦車中隊
 同        第二戦車中隊
 同        第三戦車中隊
獨立戦車第八中隊
 同   第十中隊


【兵庫県小野市桜台・陸上自衛隊青野原駐屯地】



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史跡 | 23:01:55 | Comments(0)
常磐橋の広告塔
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常磐橋の「広告塔」について

広告塔は、明治23年頃、長崎街道の東の起点である常磐橋の袂(たもと)に建てられました。
森鴎外の小説『獨身』において広告塔は、西洋から直接小倉に伝わった「東京にないもの」のひとつとして挙げられ、「常磐橋の袂に圓(まる)い柱が建ってゐる。これに廣告を貼り付けるのである。」と書かれています。
当時の小倉は、隣接する門司の西洋化に触発され、近代化への歩みを始めたころでした。
このような時代背景において建設された広告塔は、ヨーロッパの街にアクセントを与えていた塔をモデルにした斬新なデザインであり、商業地小倉らしいアイディアで親しまれていました。
その後、明治時代の末期には、塔の下方が便所として改築され、昭和20年代後半まで多くの人に利用されていました。
このモニュメントは、紫川周辺の景観整備の一環として、小倉文化の象徴であった「広告塔」を当時の面影を残しつつ、新たに証明機能を備え、約三分の一の大きさで復元したものです。

平成15年 北九州市

(説明銘板より)


【福岡県北九州市小倉北区・常磐橋の京町側】



史跡 | 17:47:06 | Comments(0)
常磐橋
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常磐橋の由来
                北九州市

常磐(ときわ)橋は江戸時代の初め頃、小倉の城下町の東曲輪(くるわ)(主として町人が生活していた地域)と西曲輪(主として武士が生活していた地域)を結ぶ、重要な橋として架けられ、当初は大橋と呼ばれていました。
この橋の西勢溜(せだまり)(橋詰)が長崎街道の起点となっていたため橋の周辺は幕府役人や旅人の宿などが立ち並んでにぎわっていました。
参勤交代の大名や長崎奉行をはじめ、多くの人々がこの橋を渡っています。
中でも有名なのがドイツ人医師シーボルトで、この橋を銅版画で紹介しています。
このように海と陸の玄関口として、九州の各街道すべてがこの大橋に連なり、九州における日本橋となっていました。
治水対策として川幅を広げるため橋の架け替えが必要になったのを機会に、コンクリートと同じ強さを持つ木材を使い、江戸時代の姿「木の橋」としてよみがえることとなりました。
(平成7年3月完成)

(説明板より)


【福岡県北九州市小倉北区室町2丁目】



史跡 | 13:44:17 | Comments(0)
伊能忠敬 測量200年記念碑
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伊能忠敬 測量200年記念碑

江戸時代の測量家伊能忠敬は、50歳で商家の家業を長男に譲り第二の人生を志し、天文・暦学を学ぶ。
寛政12(1800)年、55歳の時江戸より蝦夷地に向け測量の第一歩を踏み出した。
以後17年の長きにわたり日本全国の測量を行い、我国初めての実測による当時世界最高水準の日本地図を完成した。
この間の歩み四千万歩、世界一周分の距離に及ぶ。
九州には、忠敬64歳の時から高齢にも拘わらず前後二回に及ぶ困難な測量作業を行った。
この小倉城下・常磐橋は、九州伊能測量の始発点であり、小倉の五街道(長崎街道・唐津街道・中津街道・秋月街道・門司往還)の起点として意義深い地点である。
ここに、伊能測量開始200年を記念しその偉大な業績を讃え、顕彰碑を建立する。

平成13年9月建立 寄贈 伊能忠敬記念碑建設実行委員会

(説明銘板より)


【福岡県北九州市小倉北区京町1-1】



史跡 | 11:17:49 | Comments(0)
小倉城外堀跡
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小倉城外堀跡

近世小倉城の形成は、江戸時代のはじめ小倉藩主となった細川忠興(ほそかわただおき)により開始されました。
忠興は慶長7年(1602)から大規模な普請を施して東西2km、周囲8kmに及ぶ城郭を完成させました。
足立山を水源とする寒竹川の水を分流し、北流させる人工の川(現砂津川)を造り、その掘を外堀として城郭西端となる板櫃川(いたびつがわ)と結びつけました。
城は本丸、北ノ丸、松ノ丸などの中心部の周囲に上級武士の屋敷地の二ノ丸、三ノ丸を配し、同時に紫側両側に広がる城下町を加え、城と城下町の周囲には四重の堀を巡らせ、全体を堀、石垣、土塁(どるい)、河川で防衛する総構(そうがま)えと呼ばれる城郭を完成させました。

本地域は城郭南端の外堀と土塁の場所にあたります。
東側の調査区は幕末の絵図「小倉藩士屋敷絵図」では小倉藩の支藩新田藩(しんでんはん)藩主の屋敷の備後守(びんごのかみ)屋敷となっています。
ここでは東西方向に上幅20m、深さ8mの石垣を築かない素掘(すぼ)りの堀が発見されました。
その内側の屋敷地には幅30m、屋敷地からの高さ8mの土塁が築かれていました。

西側の調査区でも東西方向の障子堀(しょうじぼり)といわれる堀が見つかりました。
この堀は上幅16~20m、深さ7~8mの素掘りの堀の底部に堀障子(ほりしょうじ)と呼ばれる仕切りを設けています。
障子堀は16世紀の関東の戦国大名北条氏の築城技術といわれ、九州で初めて発見されたものです。
これらの堀は連続して城郭南端の外堀を形成するもので、軍略家として知られる忠興が築いた小倉城郭の構造と優れた土木技術を示すものです。

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北九州市教育委員会

(説明板より)


【福岡県北九州市小倉北区大手町12】



史跡 | 11:00:40 | Comments(0)
旧小倉陸軍造兵廠「給水塔」
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旧小倉陸軍造兵廠「給水塔」
昭和8(1933)年11月に開庁した小倉陸軍造兵廠は、太平洋戦争末期には、女子挺身隊、学徒動員を含む約4万人の従業員が働く西日本最大の軍需工場でした。
「給水塔」は、ここから西側に隣接する高台にあり、この造兵廠内へ上水、作業水を給水していたもので、戦後は米軍に接収され、その後本市の管理を経て平成7(1995)年11月に解体されました。
かつてこの地に小倉陸軍造兵廠が存在したことを後世に語り継ぐモニュメントとして、「給水塔」の6分の1のレプリカを設置するものです。

(説明銘板より)


【福岡県北九州市小倉北区大手町・大手町公園】



史跡 | 10:47:14 | Comments(0)
小倉陸軍造兵廠跡碑
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(碑文)
陸軍造兵廠東京工廠が関東大震災で壊滅的な打撃を受けて、東京移転を決定した。
全国各地から工場誘致の猛運動が展開されたが、昭和2年小倉に国防、軍事上の見地から決定、在来の小倉兵器製造所を合併、昭和8年開庁した。
以後、わが国旧陸軍の近代兵器製造工場の拠点として、昭和20年の大戦終了まで製造を続けた。
地積は約60万㎡、最盛期には約4万人が従事した。
往時をしのび、その一角に記念碑を建てる。

平成2年10月吉日
旧小倉陸軍造兵廠従業員有志

小倉陸軍造兵廠跡
大正12年(1923)の関東大震災により、わが国の兵器生産機能を大阪と二分していた陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)東京工廠は壊滅しました。
震災復興より新設したほうが経済的なことから、当時の大陸政策も考慮し、関門が大陸の進出基地としての地政学的意義を負うことにより、昭和2年(1927)10月24日、小倉に工廠設置が決定し、同8年(1933)10月正式に発足しました。
設置場所は、旧城内ならびに隣接の民有地2万300坪を買収し、敷地面積17万6581坪でした。
小倉工廠は当時の最新機械で装備され、就業者は普通工、臨時工を合せて約4万人を数えたといわれています。
昭和10年(1935)には、東京工廠からの移転が完了し、間もなく日中戦争に突入したことにより、操業は増大していきました。
兵器生産の大工場が都心部を占めることによって、小倉は軍隊の駐屯地を兼ねる軍需(ぐんじゅ)都市となり、大陸へ向けての補給基地としての機能を拡充していきました。
昭和15年(1940)4月、陸軍造兵廠が陸軍兵器本部に改組させ、小倉工廠は小倉造兵廠に改称し、兵器本部の直属となりました。
(北九州市史より)

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北九州市教育委員会

(説明板より)


【福岡県北九州市小倉北区大手町・大手町公園】



史跡 | 09:52:45 | Comments(0)
旧小倉陸軍造兵廠「防空監視哨」
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旧小倉陸軍造兵廠「防空監視哨」

この監視哨は、戦時中、空襲に備えるために、旧小倉陸軍造兵廠内の各所に設置されていたものの一つで、第一施工場の屋上にあったものです。
(この場所から北側約400mの北九州市消防局庁舎附近)
高さ約2.3メートル、直径約2.4メートル、コンクリート製の壁の厚さは、33センチの六角形の塔で、側面には、監視用の小窓が5ヶ所あり、機関砲を備えていました。
民間の倉庫として使われていた旧第一施工場が、平成8年(1996年)2月に解体される際、当時を物語る施設の一部として残されたものです。

北九州市

(説明板より)


【福岡県北九州市小倉北区大手町・大手町公園】



史跡 | 09:32:19 | Comments(0)
桜神宮
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古式神道本宮
桜神宮

創建
勤皇の志士として梁川星巌、西郷隆盛、伊藤博文らと深く親交のあった大中臣(おおなかとみ)65代の後裔(こうえい)で伊勢皇大神宮(いせこうたいじんぐう)筆頭禰宜(ねぎ)・神宮支庁東京出張所(現在の東京大神宮)所長であった芳村正秉(よしむらまさもち)が神代より脈々と受け継がれる古式神道を蘇らせるため明治15年5月15日、明治天皇の勅許(ちょっきょ)により教派神道(きょうはしんとう)十三派の一派特立(とくりつ)を果たす。
名称も神宮奉職中に荒祭宮(あらまつりのみや)で神託によって授かった「神習いの教」とした。
以来、当宮は古式神道を受け継ぐ大神の宮として、また教えの本山として親しまれる。

明治16年
東京市神田に創建、「病気治し」「火伏せ」の神徳があると多数の人が参詣する。
また外務省の紹介により多くの外国人が訪れ、鎮火式(ちんかしき)(火渡り)探湯式(たんとうしき)(湯立て)の神事に参加する。

大正8年
神託により、現在地に移転する。
この移転により関東大地震の震災から免れる。
また、大東亜戦争の戦災から免れ「災難よけ」でも崇敬を受ける。

(注)
大中臣は天孫降臨(てんそんこうりん)の際の随神(ずいしん)である天兒屋命(あまのこやねのみこと)を祖神とする神代より宮中祭祀を司る氏族

依り代(ご神体)
御鏡(菊花十六弁)

依り代の由来
霊岸島(現在の日本橋)の慶光院(けいこういん)邸で神宮の遥拝所として祀られていた御鏡が明治維新と共に神宮に返還されたが、神宮祭主(さいしゅ)であった久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)がその御鏡に内宮御祭神を御親(おんみずか)ら分霊し信任を寄せる芳村正秉に授けた。

ご祭神
~以下略~

(説明板より)


【東京都世田谷区新町3-21-3】



史跡 | 22:58:34 | Comments(0)
旧公衆衛生院
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ゆかしの杜(旧公衆衛生院)建物について

・旧公衆衛生院について
この建物は、昭和13(1938)年、米国ロックフェラー財団の支援・寄附のもと、国民の保険衛生に関する調査研究及び公衆衛生の普及活動を目的に国が設立した機関、「公衆衛生院」のために建設されたものです。
平成14(2002)年に、国立保健医療科学院として統廃合され、埼玉県和光市へ移転するまでこの建物は使用されていました。

・建物の改修について
平成21(2009)年、港区がこの建物と敷地を取得し、郷土歴史館を中心とした複合施設として改修を実施します。
歴史的建造物であるこの建物の意匠等を保存しながら、耐震補強やバリアフリー化等の改修工事を行い、平成30年に工事が完了し、開館となりました。

・設計者 内田祥三(よしかず)について
設計者内田祥三は、旧公衆衛生院の他に、隣接の東京大学医科学研究所(旧伝染病研究所)や東京大学本郷キャンパス内の安田講堂等を設計した東京大学建築学科教授です。
連続アーチ等の特徴的な外観は内田ゴシックと呼ばれ、内田が晩年を過ごした西麻布の自宅からもこの建物が良く見えその眺望が気に入っていたという話も残されています。

・建物概要
所在 東京都港区白金台4丁目6番2号
構造 鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階地上6階塔屋4階
竣工 昭和13(1938)年
設計 内田祥三
施工 大倉土木株式会社(現・大成建設)

(リーフレットより)


【東京都港区白金台4ー6ー2】



史跡 | 18:02:23 | Comments(0)
両国橋と百本杭
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両国橋と百本杭
所在地 墨田区両国1丁目~横綱1丁目

両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。
昭和5年(1930)に荒川放水路が完成するまで、墨田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。
そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。
両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。
水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。
夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。
江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。
「十六夜清心(いざよいせいしん)」でも、冒頭に「稲瀬川(いなせがわ)百本杭の場」がおかれています。
稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。
観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は墨田川を舞台としていることに気づくのです。
百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。
また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。
明治35年(1902)に香田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特(こと)に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。
このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。
しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と墨田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。

平成23年3月
墨田区教育委員会

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(説明板より)


【東京都墨田区両国1-11-2】



史跡 | 20:16:22 | Comments(0)
石尊垢離場跡
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江戸の町
石尊垢離場跡(せきそんこりばあと)

石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。
山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。
出発前に水垢離を取り、体を清めました。
その垢離場が旧両国橋の南際にありました。
川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。
その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国1-2-11】



史跡 | 20:03:30 | Comments(0)
赤穂浪士休息の地
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忠臣蔵
赤穂浪士休息の地

元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。
これが世に言う赤穂事件で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。
赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。
吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。
休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国1-2-11】



史跡 | 20:03:13 | Comments(0)
旧両国橋・広小路跡
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江戸の町
旧両国橋・広小路跡

旧両国橋は現在の両国橋の下流約50メートルの辺りに架かっていました。
完成は万治2年(1659)12月。
明暦3年(1657)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。
橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。
橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。
西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。
寛保2年(1742)の調査では1日に2万人以上が往来したとされています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国1-2-11】



史跡 | 19:43:01 | Comments(0)
葛飾北斎生誕地
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絵画と文学
葛飾北斎生誕地(墨田区亀沢付近)

宝暦10(1760)年9月23日、本所南割下水(墨田区亀沢)付近に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立させて、多くの名作を遺しました。
代表作『富嶽三十六景』は、天保2(1831)年から天保4(1833)年にかけて制作。
とても70歳を過ぎてからの作品とは思えません。
80歳を過ぎても創作意欲は衰えず、死の床に就いた嘉永2(1849)年、「あと10年、いや5年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。
常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい臨終の言葉でした。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-7-7・緑町公園】



史跡 | 19:26:22 | Comments(0)
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