FC2ブログ
 
■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

■最近の記事
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2ブログランキング
■ブロとも申請フォーム
■最近のコメント
■小さな天気予報


-天気予報コム- -FC2-

■ブログ内検索

■リンク
■RSSフィード
■FC2カウンター

大森貝墟碑(レプリカ)
082_convert_20200311172720.jpg

《大森貝墟》碑の由来

大正14年12月、大森貝塚を発掘し、江戸・明治期の文化を海外に紹介したエドワード・シルベスタ・モース博士の訃報(ふほう)が伝わると、ただちに博士と関係のあった石川千代松・岩川友太郎・臼井米次郎・佐々木忠次郎・松村瞭・宮岡恒次郎の6名が発起人となり、大森貝塚の顕彰(けんしょう)とモース博士の偉大なる功績(こうせき)を後世に伝えるため、調査場所に記念碑をたてることにした。
その場所は、発掘に参加した佐々木忠次郎の日誌と記憶、ならびに当時の地形、立木、村道の位置、大森駅との距離などにより、小林脳行店主の臼井米次郎の所有地(東京府荏原郡入新井町字新井宿山王下255番地・現在の大田区山王1丁目3番1号)とされた。
21名の研究者らが発起人となり建碑を呼びかけたが、昭和2年にアメリカで起きた世界恐慌(きょうこう)が日本にも及び、献金は集まらず、臼井米次郎が土地と資金を提供し、《大森貝墟》碑が完成したと、佐々木忠次郎は語っている。
除幕式は昭和5年4月13日におこなわれた。
碑の材料は仙台石で、高さ6尺、幅3尺、これに二段の台石を据(す)え、碑の表面には碑名、英文記事、発起人の氏名を刻(きざ)み、裏面にはモース博士の貝塚発見の由来を彫(ほ)った。
昭和30年3月24日、《大森貝墟》碑は品川区の大森貝塚遺跡庭園内にある《大森貝塚》碑とともに国の史跡に指定された。
史跡《大森貝墟)碑は、日本の歴史に輝きをあたえた大森貝塚とその発掘者モース博士をたたえるとともに、氏を敬愛する明治期の人々の意気が感じられる。
私たちはこの碑を国の文化財の象徴として、末永く保存管理する使命をもっている。

東京都大森貝塚保存会
会長  関 俊彦

この像は《大森貝墟》碑の約二分の一寸法のレプリカです。
実物は左のNTTデータ敷地通路奥の階段を下りた先にあります。

2014年3月

(説明板より)


【東京都大田区山王1-3】



スポンサーサイト



史跡 | 15:12:46 | Comments(0)
廿三夜碑
079_convert_20200311172652.jpg 078_convert_20200310134208.jpg

廿三夜(にじゅうさんや)

この石碑は陰暦八月二三日の夜、月待ちをすれば、願いごとがかなえられるという二三夜待ち信仰に由来するものです。
上部には信仰のシンボルとして日輪と月輪が彫られていうのも特徴です。
裏面には、明治十七年(1884)八月二三日と世話人八名の氏名が刻まれています。

(説明板より)


【東京都大田区山王1-41-21・蘇峰公園入口】



史跡 | 15:11:18 | Comments(0)
カタルパ
070_convert_20200311171000.jpg

新島襄と蘇峰との子弟愛の樹
カタルパ
和名 アメリカキササゲ(ノウゼンカズラ科)

アメリカ原産の落葉樹。
高さ20mにもなる。
6月、香りのよい白いベル状の花をつけ、秋にはサヤエンドウの様な実をつける。
わが国では全国的にみても珍しい木。
明治10年代に同志社の創立者新島襄がアメリカから種子を持ち帰り蘇峰の父淇水(きすい)と蘇峰に贈ったのがはじまりと伝えられる。
蘇峰は明治15年、20歳の若さで郷里の熊本に「大江義塾」(おおえぎじゅく)を開いた。
青少年の教育に奮闘している姿に恩師新島が激励の意味で種子を贈ったといわれている。
新島と蘇峰の子弟愛を物語る由緒ある木。
この木は現在、熊本市立徳富記念館(大江義塾跡)にある2代目の木から昭和63年6月に挿し木した3代目であり、平成2年3月同記念館から贈られたものである。

(説明板より)


【東京都大田区山王1-41-21・蘇峰公園内】



史跡 | 15:10:07 | Comments(0)
山王草堂邸内の建築
046_convert_20200311155839.jpg (牛後庵跡)

049_convert_20200311155904.jpg (成簣堂文庫跡)

徳富蘇峰と山王草堂邸内の建築

徳富蘇峰(1863~1957)は大正13年(1924)、この地に居宅を建て、山王草堂と称して昭和18年(1943)熱海伊豆山に移るまでここに起居した。
邸内には母屋の他に三つの建築が建っていたことが知られており、それぞれ成簣堂文庫(せいきどうぶんこ)、一枝庵(いっしあん)、牛後庵(ぎゅうごあん)と名付けられていた。
それら蘇峰ゆかりの建築について記す。

成簣堂文庫(せいきどうぶんこ)
蘇峰の収集した和漢書10万冊に及ぶ書籍類を収蔵していた、鉄筋コンクリート造3階、地下1階の書庫。
大正9年(1920)、山王草堂に先立って着工され、大正13年(1924)、山王草堂と同時に落成した。
文庫には蘇峰が長年苦心して収集した収蔵品があり、中には国宝2点、当時の重要美術品(現在の重要文化財)72点が含まれていた。
それらは蘇峰によって体系的に整理され、わが国の文化史研究の資料として非常に価値の高いものであった。
この文庫の存在によって多くの資料が緻密に分類され、蘇峰の「近世日本国民史」執筆に大いに役立ったと考えられる。
後にそれらの書籍類は主婦の友社に譲渡され、現在は千代田区にあるお茶の水図書館に収蔵されている。
「成簣堂文庫」の名称の由来は、文政元年(1818)、江戸時代の歴史学者頼山陽(らいさんよう)が肥後来遊の際、山陽から蘇峰の祖父徳富美信(とくとみよしのぶ)に書き与えられた「成簣」(せいき=中国の古典「論語」の中の言葉で竹の箕(み)に盛った土の意)から採られたものである。

一枝庵(いっしあん)
大正12年(1923)、関東大震災直後に青山草堂の古材をもって建てられた間口一間半、奥行二間の小庵。
当時山王草堂が建築中であったため蘇峰は付近に借家していたが、借家が手狭なことと、国民新聞社社屋が震災で焼失したことからこの庵で「近世日本国民史」などを執筆した。
庵は、山王草堂落成後に門人の青木藤作氏に譲られたのち、栃木県佐久山町(現在は大田原市)に寄贈された。
なお、庵内の蘇峰の揮毫した書、遺品等は栃木県馬頭町、馬頭町広重美術館に所蔵されている。
「一枝庵」の名称の由来は、中国の古典「荘子」の「鷦鷯巣於深林、不過一枝」(鷦鷯(しょうりょう=みそさざい)深かれる林に巣くうも一枝をもちうるに過ぎず)から採られている。

牛後庵(ぎゅうごあん)
大正13年(1924)、蘇峰の次男の徳富萬熊(とくとみまんくま)の住居として建てられた木造二階建の建築。
蘇峰が山王草堂に居を構える以前の居宅、青山草堂の書斎を移築したもの。
萬熊は考古学の研究を趣味とし、古瓦、板碑、土器、石造物等約7千点を牛後庵1階に収蔵し、2階に起居していた。
これらの収蔵品のうち、4点は「徳富コレクション」として当記念館に展示しているが、他は主に国学院大学考古学資料館に寄贈されている。
「牛後庵」の名称の由来は、やはり中国の古典「史記」の「寧為鶏口、無為牛後」(むしろ鶏口となるとも牛後となるなかれ」から採られている。

これらの建築は蘇峰公園内には現存しないが、当時建てられていたと推測される地点に旧跡として標柱を建て、蘇峰の起居していた往時を偲ぶものである。

平成13年 地域基盤整備第一課

(説明板より)


【東京都大田区山王1-41-21・蘇峰公園内】



史跡 | 15:08:04 | Comments(0)
山王草堂記念館
063_convert_20200310121549.jpg

大田区立 山王草堂記念館

記念館のご案内
徳富蘇峰(とくとみそほう 1863~1957 ジャーナリスト)は、勝海舟(1823~1899 政治家)や新島襄(1843~1890 教育者)から直接教えを受けた後、日本で最初の総合雑誌『国民之友』(1887)を発行し、続いて『国民新聞』(1890)を創刊しました。
『国民新聞』創刊後、蘇峰は多くの作品を発表しました。
1918(大正7)年、56歳の蘇峰は『近世日本国民史』を書き始め、35年近くの歳月をかけて、全100巻を完結させました。
同書の原稿は、ほとんどが大森山王で書かれたものです。
1924(大正13)年、蘇峰は大森山王に居宅を建てて「山王草堂」と称し、1943(昭和18)年に熱海へ移るまで、そこで暮らしました。
その後、山王草堂は静岡新聞社が所有していましたが、1986(昭和61)年に同社から大田区が譲りうけて蘇峰公園として整備しました。
そして、山王草堂記念館は、蘇峰の旧宅である山王草堂の一部(2階部分など)と蘇峰ゆかりの資料を保存・公開するため、1988(昭和63)年4月に開館しました。
往時の趣を残した記念館から、近代日本ジャーナリズムの立役者として活躍した蘇峰ゆかりの品々をぜひご覧ください。
(リーフレットより)

053_convert_20200311154637.jpg
『近世日本国民史』全100巻

055_convert_20200310132700.jpg
山王草堂2階部分の復元された書斎

056_convert_20200311154706.jpg
「蘇峰と勝海舟」のコーナー

062_convert_20200311154731.jpg



【東京都大田区山王1-41-21】



史跡 | 15:06:51 | Comments(0)
尾崎士郎記念館
045_convert_20200310114633.jpg 043_convert_20200311144931.jpg

大田区立 尾崎士郎記念館

記念館のご案内
尾崎士郎(1898~1954 小説家)は、1923(大正12)年に馬込村中井(現・南馬込)に転入しました。
以後、一時的な転居を除き、尾崎は作家生活のほとんどを馬込文士村(馬込を中心として、隣接した山王や新井宿を含めた一帯)で過ごしました。
仲間との交流を大切にした尾崎は、文士村の中心人物となりました。
1937(昭和12)年、37歳の尾崎が山王に暮していた時、『人生劇場』がベストセラーとなり、尾崎は戦前を代表する小説家の一人となりました。
戦時中、尾崎は静岡県伊東で暮らし、1954(昭和29)年には大森・山王へ新居を建てて戻りました。
戦後も尾崎の人気は衰えることなく、1964(昭和39)年に亡くなるまでこの家で過ごしました。
そして、2008(平成20)年5月、尾崎の旧居(客間・書斎・書庫・庭)を復元し、尾崎士郎記念館として開館しました。
戦前から昭和30年代を代表する小説家の一人であった尾崎士郎の業績を知ることのほか、馬込文士村を愛した尾崎の息遣いを感じ取っていただければ幸いです。
(リーフレットより)

040_convert_20200310115340.jpg
書斎
仕事場として用いられていた部屋。
大田区立尾崎士郎記念館開設にあたり復元された。
本来の書斎は故郷の吉良町に移築、公開されている。
(説明板より)

038_convert_20200311151037.jpg
鉄砲の稽古をしたケヤキの木
士郎の相撲好きは有名。
昭和7年(1932)には大森相撲協会を結成し、文士仲間と相撲をとり、戦後は横綱審議会委員もつとめた。
自宅でもしばしばふんどし姿となり、ケヤキの大木を相手に鉄砲の稽古を繰り返したという。
(説明板より)



【東京都大田区山王1-36-26】



史跡 | 15:02:29 | Comments(0)
勝海舟記念館
018_convert_20200310151937.jpg

大田区立 勝海舟記念館

「国登録有形文化財 旧清明文庫」
清明文庫は、海舟没後、海舟の墓所や別荘「洗足軒」の保存、海舟に関する図書の収集・閲覧、講義の開催等を目的として、財団法人清明会が昭和8年に開館しました。
平成12年に国登録有形文化財に登録され、平成24年に大田区の所有となりました。
外観正面中央部のネオゴシックスタイルの柱型4本が特徴的で、内部にはアールデコ調の造作が施されるなど、西洋の建築技法も取り入れられたモダンな建築物です。
(リーフレットより)

026_convert_20200310152920.jpg

寄木床
展示室5(旧貴賓室)の寄木床仕上は、建設当時高級材料であったラワンやオーク材を用いて、美しいパターン貼りで構成されていました。
既存の床は傷みや破損があったため、建設当時と同じ樹種の新しい材料を使って復原しています。
皆様の目の前にあるのは、既存の寄木床の良好な部分を残したものです。
(説明板より)

030_convert_20200310153006.jpg

外壁
外壁面は3層に分かれて、基壇部と上段部が“人造石洗出し仕上げ”(注1)、中段部が“リシン掻き落とし仕上げ”(注2)tなっています。
これらは、昭和初期ころから一般的に用いられるようになったモルタル系仕上げです。
改修前は既存仕上げの上に塗装が施されていましたが、塗装材を丁寧に剥がして、建設当時の仕上げの状態に戻しました。
当時の材料や色味、年月を経て醸し出される風合いをご覧頂けます。
一方、所々色が異なる部分は建設当時の仕上材の色合いに合わせて復原し補修した箇所です。

※骨材が鋭く露出している部分がありますのでご注意ください。

注1 細かく砕いた石(骨材)を混ぜたモルタルを塗り、完全に硬化する前に水洗いして表面に石粒を浮きたたせる仕上げ方法。
注2 白セメントに骨材を混入して塗り上げ、表面をブラシや鏝で掻き落とし、ざっくりと仕上げる方法。


既存の窓枠はスチール製です。
現代の見慣れたアルミ製のサッシと比べて枠が細いのはガラスが直接取り付けられているためです。
建設当時のガラスが一部残っており、一枚ずつ外して再利用しました。
上の写真の左側(展示室6の室内から見ると右端)の建具に入っています。
当時の透明ガラスは現代とは製法が異なり、像が歪んで見える特徴があります。
(説明板より)



【東京都大田区南千束2-3-1】



史跡 | 15:01:21 | Comments(0)
『碧空』の碑
190_convert_20200204174858.jpg 188_convert_20200204152017.jpg

碧空
鈴鹿海軍航空隊之跡

空澄み風爽やかな緑の大地と、豊かな稔りを誇るこゝ白子の地に、広く県民より白子の航空隊と親しまれた鈴鹿海軍航空隊は、昭和13年10月1日に開隊された。
当隊は、海軍機搭乗の偵察員養成の教育機関であり、こゝに全国より厳選された若冠20歳に満たざりし少年達が、明日の大空をめざして厳正な規律のもと、日夜精魂をかたむけし処なり。
秋あたかも大東亜戦争の戦雲流るゝや、祖国防衛の第一線に馳せ参じよくその任務を遂行せり。
また、戦局の進展により、併設された第二鈴鹿空の実戦部隊の活躍もめざましく隊史を飾るものであった。
しかし、戦局はわれに勝機を与えず一層苛烈の度を加え、出身者、隊員の大半はひたすら祖国の安泰を念じつゝ特攻の華となり征きて還らなかった。
いま、この地にたゝずみて血と汗の歴史を綴った悲喜こもごもの青春の日々を振返るとき、戦後30余年の間その姿を留めえたことは、隊員達にとって感無量にして加ふるに言葉なし。
そこで、かつての隊員、関係者相集いて亡き戦友の鎮魂と心からの餞けとして、この地に顕彰の碑「碧空」を建立、留別を記念するものなり。

昭和51年11月
鈴鹿海軍航空隊を偲ぶ会
隊員、遺族一同
関係者一同

(碑文より)


【三重県鈴鹿市南玉垣町3500番地3・鈴鹿医療科学大学白子キャンパス】



史跡 | 17:49:48 | Comments(0)
谷川士清反古塚
185_convert_20200204171958.jpg

津市指定史跡
谷川士清(ことすが)反古(ほご)塚 1基
所有者 谷川神社
江戸時代 昭和31年5月14日指定

谷川士清は『日本書紀通証』『和訓栞(わくんのしおり)』などを著し、本居宣長と並び称される江戸時代の国学者である。
八丁に住み医者を家業としていたが、むしろ国学の研究に一生をささげた。
晩年、谷川士清はその研究が後世に誤って伝えられることのないように、近くの古世子明神(現在の谷川神社)の境内に塚を築いて著書の草稿・断片などを埋め、みずから「反古塚」と名付けた。
碑の裏面に「何故爾砕伎志身曽登人問婆其礼等答牟日本玉之譬(なにゆえにくだきしみぞとひととはばそれとこたえむやまとだましい)」と自らの歌を刻んだ。
これは、自分は一生国学の研究に身をささげてきた、何も悔いることはない誇りとしている、と歌ったものである。
塚を築いたとき美しい玉虫が3日間続いて出たので、本居宣長をはじめ僧徳巌など知己(ちき)学友から、それを祝う歌などが寄せられたという。
それで別名を「玉虫塚」とも言われている。
後年この塚を修理した際に「たまむしつか」と彫った小さい石碑が見つかり、当神社に保存されている。

津市教育委員会

(説明板より)


【三重県津市押加部町7-31・谷川神社境内】





史跡 | 17:19:01 | Comments(0)
谷川神社
177_convert_20200204165633.jpg

谷川神社 由緒
国学者 谷川士清 翁

玉むしの森と呼ばれ士清翁が日々祈念していた古世子明神ゆかりの押加部町の地に社殿を構える。
谷川神社は、津市が生んだ偉大な国学者・谷川士清翁の御事跡を後世に迄伝える事を目的に、神社の御祭神として祀る為、明治の末頃から地元の有力者が中心になって士清翁の顕彰活動を活発に行い、神社の創建を国に請願して、大正14年に国より創立認可され、昭和7年社殿などの境内整備が完了、その社殿は「石をこよなく好んだ」士清翁に因み1メートル程に積み上げられた石の上に建てられ昭和8年1月6日士清翁の御霊代を鎮めて「谷川会」が神社を守護し、そして平成21年生誕三百年を機に「谷川神社奉賛会」が設立され現在に至っています。

(説明板より)


【三重県津市押加部町7-31】



史跡 | 16:57:19 | Comments(0)
谷川士清旧宅
172_convert_20200204162814.jpg

国指定史跡
谷川士清(ことすが)旧宅

【谷川士清旧宅概要】
谷川士清旧宅は、津と伊賀を結ぶ旧街道(伊賀街道)沿いの八町にあります。
代々医を業とした谷川家はここに住んでいました。
建物の建築年代は、はっきりしていませんが、安永4年(1775)の銘がある瓦が残されています。
建物は、昭和33年市指定史跡に、同42年国指定史跡となり、同52年から54年にかけて解体復元工事を行い、現在津市教育委員会が管理し、一般に公開しています。

【国学者 谷川士清(1709~1776)】
谷川士清は、宝永6年(1709)2月26日、伊勢国安濃郡八町(現在の津市八町三丁目)で町医を営む谷川義章の長男として生まれました。
幼い頃から家業を継ぐために勉学に励み、享保15年(1730)頃からのおよそ5年間京都に遊学しました。
京都では、本草家松岡玄達から本草学・儒学などを学び、垂加神道を神道家松岡仲良に、ついで玉木正英に入門し神道許状を受けました。
医学は、医の宗家福井丹波守に学び医師免許を受け、本格的に学問を修めた後の享保20年(1735)8月、津に帰郷しました。
京都から帰った士清は、父の跡を継いで医者となり、地域・近郊の人々の信頼を受けていました。
医業のかたわら学問にも打込み、慕ってくる人々のために家塾「洞津谷川塾」を開き、また近隣に「森陰社」(振々霊社)という道場を設け、多くの人々を教えたと伝えられています。

門人には、頼山陽の祖父、頼惟清や宇佐八幡宮の宮司をはじめ、伊勢の蓬来尚賢・三重郡の橘守部の父、飯田元親・津藩士の七里勘十郎などがいて、現在も誓文や約盟書が残っています。
士清自身の研究による著作としては、『日本書紀』の注釈書の『日本書紀通証』35巻・わが国最初の本格的な五十音順国語辞典『和訓栞』93巻・考古学書『勾玉考』1巻・言語の語源を随筆風にまとめた『鋸屑譚』1巻などがあります。
しかし、大著『和訓栞』の出版にとりかかる矢先の、安永5年(1776)に不幸にも病のため亡くなってしまいました。

(リーフレットより抜粋)


【三重県津市八町3-9-18】



史跡 | 16:29:21 | Comments(0)
上野英三郎博士とハチ公像
092_convert_20200128123527.jpg

上野英三郎博士とハチ公

上野英三郎博士とハチ

上野英三郎は明治4年(1872)現津市元町(伊勢国一志郡本村甲109番屋敷)に生まれた農学博士です。
明治から大正期に日本農業の基盤となる水田の耕地整理を指導し大学はもとより全国各地で数多くの技術者を育成した農業土木分野の先駆け者でした。
東京帝国大学で教鞭をとった博士は54歳の若さで亡くなりました。
博士の飼い犬「ハチ・秋田犬」との生活は1年5カ月と短い間でしたが、人としての愛を注ぐ事により動物との紲(絆)が生まれました。
その後ハチが渋谷駅前で帰らぬ主人を待つ姿が、新聞で紹介され多くの人々に感動をあたえ「忠犬ハチ公」として広く世間に知られ映画化及び書籍にもなりました。

平成24年10月20日
上野英三郎博士とハチの銅像を建てる会
題字 津市長 前葉泰幸書
銅像制作者 稲垣克次

(碑文より)


【三重県津市久居新町1017-9・近鉄久居駅前・「緑の風公園」】



史跡 | 21:18:12 | Comments(0)
鈴鹿海軍航空隊 点鐘台
085_convert_20200128161229.jpg

鈴鹿海軍航空隊 点鐘台

鈴空開隊時より終戦まで隊員に時報の役目を果たしてきました。
多くの旧施設が解体されるにおよび鈴空を記念してこの地に移設する。
(昭和52年5月15日)



【三重県津市香良洲町6320・香良洲歴史資料館】



史跡 | 21:09:41 | Comments(0)
三重海軍航空隊正門
048_convert_20200128155457.jpg

碑文

この門は三重海軍航空隊の門なり
過ぐる日紅顔の少年達がこの門を入り情熱のすべてを祖国に捧げ朝な夕な猛訓練に励み大空へと巣立って行った
海軍飛行予科練習生である祖国の繁栄と民族の平和を念じつゝ悠久の大義に殉じていったその霊を顕彰するためにも最後迄残ったこの門を永久に保存するものである

昭和49年5月27日
三重海軍航空隊々門保存会
海軍乙種飛行予科練習生第24期
会長 藤原安雄

(銘板より)



【三重県津市香良洲町6320・香良洲歴史資料館】



史跡 | 20:52:03 | Comments(0)
大洗磯前神社
026_convert_20200115095312.jpg

大洗磯前神社

御鎮座
当神社の御創立は文徳実録の記す処によれば、斉衡3年(856)と云われておりますから今(平成31年)を去る1163年前の事であります。
文徳実録斉衡3年12月戊戌(29日)の條に、「常陸国上言鹿島郡大洗磯前有神新降云云」とその状を事細かに記してあります。
全国に名社、大社と云われる神社が数多くありますが、当社の様に御創立の年代の明確な御社は稀であります。

御祭神と御神徳
御祭神は文徳実録に「大奈母知、少比古奈命也」とありまして、大奈母知は大己貴命、即ち大国主神にして、日本書紀には素戔鳴尊の5世の孫と云い、古事記にはその御子神と記してあります。
大国主神、大物主神、葦原醜男神、八千戈神など数多の御名があり常に少彦名命と二柱相並び御出現になり、御神徳を顕されております。

少彦名命は高皇産霊神の御子神と記されてあります。
大己貴命は国土を開拓し殖産興業に力を尽し人々の生活の基礎を築き、少彦名命と共に山野に薬草を求めて、病難に苦しむ人々を治療し又禁厭(まじない)の法を定めて、民の災禍を防ぐ等、国土の経営と民生の安定を計り徳望高く人々は深くその恩恵を蒙っておりました。

御由緒
文徳実録の記録によれば斉衡3年常陸国鹿島郡大洗の里に御出現になり給いし時、里人の一人が神がかりして人々に教えられました。
「我は大奈母知(オオナモチ)・少比古奈命(スクナヒコナノミコト)也(なり)。昔この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰って来た」と仰せられました。
当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、国内が乱れておりました。
二柱の大神はこうした混乱を鎮め人々を苦しみから救う為に降臨されたのです。

即ち大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大神様御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。
翌天安元年(857)8月7日官社に列せられ、次いで10月15日には「大洗磯前薬師菩薩名神」の称号を賜りました。
当時国司の上奏から8カ月で此の待遇に預ると云う事は破格の事でありまして、如何に御神徳が顕著であったかを知る事が出来ます。
延喜の制当社を名神大社に列せられ東国の大社として祀田千石を領し祠宇宏壮にして、遠近の信仰を集めて栄えておりましたが、残念な事に永禄中、小田氏治の兵乱に際しその難を蒙り、御社殿以下の諸建造物は悉く焼失し爾来一小社に辛うじて祭祀を続けて来ました。

水戸藩2代藩主徳川光圀公は由緒深き名社の荒廃を見るに忍びず、元禄3年御造営の工を起し、次いで3代藩主綱條公に至り本殿、拝殿、神門に至るまで建造の工を竣え、名大社にふさわしき輪奐の美を整えました。
爾来歴代の水戸藩主は厚く当社を尊崇し幕末に至りました。
現存する社殿、神門等は当時の建造物で社殿の彫刻と共に徳川初期を偲ぶに足る文化財として貴重なものです。

明治新政府が、神社制度を定めらるゝや、明治7年9月県社に指定せられ、明治18年4月国幣中社に列せられましたが大東亜戦争終息を機に、神社は未曾有の変革を余儀なくせられ、政教分離の名の下に宗教法人としてのみその存続を容認せられました。
神社が国家の宗祀たりし時代より激動の時代を経て現代に至るまで、当社は人々の厚き信仰に支えられて発展して参りました。
そして悠久の昔より永遠の未来にわたり栄えて行く事でしょう。

(リーフレットより)


【茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890】



史跡 | 14:27:45 | Comments(0)
次のページ