FC2ブログ
 
■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
58歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

■最近の記事
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2ブログランキング
■ブロとも申請フォーム
■最近のコメント
■小さな天気予報


-天気予報コム- -FC2-

■ブログ内検索

■リンク
■RSSフィード
■FC2カウンター

両国橋と百本杭
051_convert_20190816131956.jpg

両国橋と百本杭
所在地 墨田区両国1丁目~横綱1丁目

両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。
昭和5年(1930)に荒川放水路が完成するまで、墨田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。
そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。
両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。
水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。
夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。
江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。
「十六夜清心(いざよいせいしん)」でも、冒頭に「稲瀬川(いなせがわ)百本杭の場」がおかれています。
稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。
観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は墨田川を舞台としていることに気づくのです。
百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。
また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。
明治35年(1902)に香田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特(こと)に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。
このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。
しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と墨田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。

平成23年3月
墨田区教育委員会

050_convert_20190816135433.jpg

(説明板より)


【東京都墨田区両国1-11-2】



スポンサーサイト
史跡 | 20:16:22 | Comments(0)
石尊垢離場跡
045_convert_20190812205934.jpg

江戸の町
石尊垢離場跡(せきそんこりばあと)

石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。
山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。
出発前に水垢離を取り、体を清めました。
その垢離場が旧両国橋の南際にありました。
川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。
その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国1-2-11】



史跡 | 20:03:30 | Comments(0)
赤穂浪士休息の地
045_convert_20190812205934.jpg

忠臣蔵
赤穂浪士休息の地

元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。
これが世に言う赤穂事件で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。
赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。
吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。
休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国1-2-11】



史跡 | 20:03:13 | Comments(0)
旧両国橋・広小路跡
045_convert_20190812205934.jpg

江戸の町
旧両国橋・広小路跡

旧両国橋は現在の両国橋の下流約50メートルの辺りに架かっていました。
完成は万治2年(1659)12月。
明暦3年(1657)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。
橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。
橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。
西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。
寛保2年(1742)の調査では1日に2万人以上が往来したとされています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国1-2-11】



史跡 | 19:43:01 | Comments(0)
葛飾北斎生誕地
031_convert_20190812121236.jpg

絵画と文学
葛飾北斎生誕地(墨田区亀沢付近)

宝暦10(1760)年9月23日、本所南割下水(墨田区亀沢)付近に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立させて、多くの名作を遺しました。
代表作『富嶽三十六景』は、天保2(1831)年から天保4(1833)年にかけて制作。
とても70歳を過ぎてからの作品とは思えません。
80歳を過ぎても創作意欲は衰えず、死の床に就いた嘉永2(1849)年、「あと10年、いや5年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。
常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい臨終の言葉でした。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-7-7・緑町公園】



史跡 | 19:26:22 | Comments(0)
津軽家上屋敷跡
029_convert_20190812120155.jpg

両国物語
津軽の太鼓・津軽家上屋敷跡

南割下水に面した弘前藩主・津軽越中守の上屋敷には、火の見櫓がありました。
通常、火の見櫓で火災を知らせる時は板木を鳴らしますが、この櫓には板木の代わりに太鼓が下がっていて、その太鼓で火事を知らせていました。
なぜこの屋敷の櫓だけに太鼓が許されていたのかは誰も知らず、不思議なこととされていました。
これが本所七不思議の一つ「津軽の太鼓」の話です。
七不思議とはいいますが、伝説なので伝わり方によって話もまちまちで、話の数も七つと決まったわけではありません。
この「津軽の太鼓」には「越中守屋敷の火の見櫓の板木を鳴らすと、奇妙なことに太鼓の音がする」という話も伝えられています。

墨田区

(説明板より)



【東京都墨田区亀沢2-7-7・緑町公園】



史跡 | 19:13:17 | Comments(0)
江川太郎左衛門屋敷跡前
027_convert_20190812115713.jpg

江戸の町
江川太郎左衛門屋敷跡前

江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称です。
なかでも有名だったのが、36代の江川英龍(1801~55)です。
彼は洋学の中でも、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、日本に西洋砲術を普及し、韮山に反射炉を築いて江戸防御のため、江戸湾内に数ヵ所あった砲台(お台場)を造りました。
また、日本で初めてパンを焼いた人物だともいわれています。
この屋敷は、代官の役所も兼ねていて、土佐国中濱村の漁師で、嵐で遭難し、米国の捕鯨船に救われ、ほぼ10年振りに帰国した中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたといわれています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-7-7・緑町公園】



史跡 | 18:49:19 | Comments(0)
歴代横綱の石碑
021_convert_20190814222859.jpg

歴代横綱の石碑
所在地 墨田区亀沢2丁目8番10号 野見宿禰神社内

歴代横綱の名前を刻んだ2基の石碑は、昭和27年(1952)11月に日本相撲協会が建立しました。
1基は、初代明石志賀之助から46代朝汐(潮)太郎までの名前を刻み、もう1基には、47代柏戸剛以降の名前が刻まれています。
野見宿禰神社は、明治17年(1884)に初代高砂親方(高砂浦五郎)が相撲の始祖とされる「野見宿禰」を祀ったのが始まりです。
玉垣には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、今でも東京での本場所前には、必ず日本相撲協会の関係者が神事を執り行うなど、相撲界が信仰している神社です。
創建当時は、神社の東側に初代高砂親方の部屋があったそうです。
また、この地は、陸奥弘前藩津軽家の上屋敷跡でもあります。

平成28年3月

墨田区教育委員会

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-8-10・野見宿禰神社内】



史跡 | 18:17:22 | Comments(0)
野見宿禰神社
024_convert_20190812114132.jpg 023_convert_20190814220145.jpg

大相撲
野見宿禰神社

かつてこの東側に相撲の高砂部屋がありました。
明治18年(1885)に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。
石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。
境内には、昭和27年(1952)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から46代朝潮太郎までの名が、もう一基には47代柏戸剛以降の名前が刻まれています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-8-10】



史跡 | 17:52:38 | Comments(0)
河竹黙阿弥終焉の地
015_convert_20190809154534.jpg 016_convert_20190809154702.jpg

河竹黙阿弥終焉の地
所在地 亀沢2丁目11番

河竹黙阿弥は坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」と呼ばれた狂言作者です。
黙阿弥の本名は吉村芳三郎。
江戸日本橋の商家に生まれるも遊興にふけって勘当され、遊蕩三昧の生活を送る中で細木香以(さいきこうい)らと交流を深めました。
歌舞伎をはじめ、狂歌や茶番などにも興じ、20歳で五代目鶴屋南北に入門、勝諺蔵(かつげんぞう)を名乗りました。
後に二代目河竹新七を襲名し、嘉永7年(1854)に江戸河原崎座で初演された「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)(忍ぶの惣太)」が四代目市川小団次との提携で大当たりを取り、「小袖曾我薊色縫(こそでそがあざみのいろぬい)(十六夜清心・いざよいせいしん)」、「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)」など、現在も上演される作品を柚木次人世に送り出してゆきました。
七五調の美しい台詞を巧みに活かして幕末の人々を生き生きと描き出し、360編に及ぶ作品を残しました。
明治の新時代にも活躍、明治14年(1881)に引退を表明し、黙阿弥と号しましたが、その後も劇作の筆を置くことはありませんでした。
明治20年3月、黙阿弥は浅草の自宅を三代目新七に譲り、自身は葦原だった本所南二葉町31番地(現亀沢2丁目11番)に自宅を新築し、転居しました。
周囲に堀をめぐらせた広い新宅は南割下水(現北斎通り)のほど近くにあり、庭には潮入りの池や二階建ての土蔵、書斎とした四畳半の離れが造られていました。
黙阿弥は「本所の師匠」と呼ばれてこの地で6年間を過ごし、九代目市川團十郎のために「紅葉狩」、五代目尾上菊五郎のために「戻橋」などを書き上げました。
黙阿弥の人柄は彼の作品とは対照的で、穏やかで物静かであったとされています。
自らの死も予期していたのか、黙阿弥は財産分与や蔵書などの整理、友人への挨拶まわりなどなすべきことを終えて、明治26年1月22日に77年の生涯を閉じました。

平成27年1月

墨田区教育委員会

014_convert_20190814214901.jpg

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-11】



史跡 | 16:18:45 | Comments(0)
三遊亭圓朝住居跡
011_convert_20190809153004.jpg

三遊亭圓朝住居跡
所在地 墨田区亀沢二丁目十三番七号

三遊亭圓朝(1839~1900)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した落語家です。
本名は出渕(いずぶち)次郎吉。
父は二代目三遊亭圓生の門人橘家圓太郎で、後に圓朝も圓生に弟子入りしました。
初舞台は弘化2年(1845)3月で、小圓太と名乗りますが、異父兄で僧侶の玄昌の勧めにより一時高座から離れました。
池之端の紙屋葛西屋で奉公したり、玄昌の住まう谷中の長安寺に母と同居したのもこの頃で、新作怪談の創作に影響を与えたと考えられています。
その後、再び圓生門に戻り17歳で圓朝を称します。
元治元年(1864)に26歳で両国垢離場(こりば)の昼席の真打となります。
人情噺、怪談噺、落し噺などで江戸落語を集大成し、とりわけ人情噺では落語の話芸をより高度な次元に押し上げました。
圓朝は明治9年(1876)10月に浜町から本所南二葉町23番地(この公園の南側、現在の亀沢2丁目12番)に移り、同28年に牛込に転居するまでの19年間をこの地で過ごしました。
この間、本所に住んだ薪炭商塩原太助をモデルにした名作『塩原多助一代記』を生み、明治22年4月には三遊派の隆盛を記念して木母寺境内に三遊塚を建立しました。
代表作に「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」「怪談牡丹灯籠」「怪談乳房榎」「塩原多助一代記」「文七元結(ぶんしちもっとい)」など多数あります。

平成25年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)



【東京都墨田区亀沢2-13-7】



史跡 | 15:22:44 | Comments(0)
公立本所小学校跡
009_convert_20190809152209.jpg

公立本所小学校跡
所在地 墨田区亀沢四丁目11番15号 墨田区立竪川中学校

当地にほど近い亀沢三丁目13番地には、久保尊保(田安徳川家旧臣)が明治4年(1871)に開いた私塾、松川堂(しょうせんどう)がありました。
松川堂は明治7年5月に公立本所小学校となり、明治8年11月、当地に校舎が新築されました。
校舎は日本で本格的な洋風建築が普及する前に建てられた擬洋風建築(ぎようふうけんちく)の建物で、バルコニーに唐破風(からはふ)を付けた二階建ての洋風建物を中央に配し、その両側にガラス戸をはめ込んだ平屋の和風建物が接続していました。
本所小学校は、開校当時、近所に屋敷を構えた尾張徳川家より多額の寄附を受けました。(このため尾張学校とも呼ばれました)。
徳川家の資料の中には校舎を撮影した写真が残され、文明開化の息吹きを伝える建物が本所地域の子供たちの新しい教育の場になったことをよく伝えています。
児童256名、教員5名から始まった本所小学校は、明治44年(1911)には児童2,094名、教員30名を数えまでになり、廃校となる昭和21年(1946)までの間に8,000名を超える卒業生を送り出しました。

平成30年11月10日   墨田区教育委員会

005_convert_20190813221526.jpg 006_convert_20190813221551.jpg

本所小学校は、近所に屋敷を所持した尾張徳川家より寄付を受けて開校し、尾張学校とも呼ばれました。
写真は、その尾張徳川家に伝来したものです(徳川林政史研究所提供)。

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢4-11-15】



史跡 | 14:52:15 | Comments(0)
津軽稲荷神社
001_convert_20190809150016.jpg 003_convert_20190809150132.jpg

津軽稲荷神社由来

津軽稲荷神社は青森県弘前城主津軽四郎為信10万石の下屋敷にて1万坪は明治43年の大水害と共に拂下られ太平町1丁目町会の所有となる
昭和7年町名変更の際錦糸1丁目町会の守護神となり祭神は伏見稲荷神社の分神にて町民の信仰厚く大正12年関東大地震及昭和20年戦災の為焼失昭和35年拝殿及社務所会館再建落成致しました
又辨財天は江之島辨財天の分神で鳥居は明治百年を記念して昭和44年再建されました
町民一同之信仰の的とされて居ります
尚津軽華子様常陸宮様との御結婚之際当町より津軽家に御祝品贈り御礼として礼状及記念品を頂戴致しましたので神社内に保存してあります

昭和58年  明友会

(社殿の張り紙より)


【東京都墨田区錦糸1丁目6-12】



史跡 | 14:36:25 | Comments(0)
烏亭焉馬居住の地
306_convert_20190727114931.jpg 304_convert_20190727114903.jpg

303_convert_20190729231418.jpg

烏亭焉馬(うていえんば)居住の地
所在地 墨田区千歳2丁目14番

烏亭焉馬は江戸時代中期に活躍した戯作者(げさくしゃ)、狂歌師で、江戸落語を中興した人物です。
本名は中村英祝、通称を和泉屋和助、居住地にちなみ立川焉馬とも名乗りました。
寛保3年(1743)に本所相生町3丁目(現墨田区両国4丁目)に生まれ、文政5年(1822)に亡くなるまで堅川沿いに住まいを構えたことから、太田南畝(なんぽ)は『太平楽紀文』の序文で、「相生町のはへ(え)ぬき」と呼びました。
焉馬の父は大工棟梁、兄も山形庄内藩お抱えの棟梁でした。
焉馬も幕府小普請方(こぶしんがた)の大工棟梁を務めました。
演劇や茶番に通じ、俳諧や狂歌を嗜(たしな)むなど町人としては余裕のある暮らしぶりでした。
隠居の後は町大工棟梁として采配を振るい、家族は足袋屋や香堂を営み、さらにゆとりが増えます。
多くの文人と交流があった焉馬は、その人脈をもとに精力的に活動します。
まず、作品として両国の見世物を題材とした滑稽本や、現在でも上演される人気演目「碁太平記白石噺(ごたいへいきしろいしばなし)」などが発表されます。
天明6年(1786)、向島の料亭武蔵屋にて「落噺(おとしばなし)の会」が行われました。
焉馬の狂歌師仲間や競演作者たちが百人余り集い、その中には焉馬が贔屓(ひいき)にする五代目市川團十郎もいました。
その後、焉馬の自宅などで定会(月例会)が開かれるようになり、鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)以来途絶えていた落語が復活しました。
この流れから初代三笑亭可楽(さんしょうていからく)や初代三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)らの職業落語家が誕生し、現在伝統をつないでいます。
ゆえに焉馬は、江戸落語中興の祖と呼ばれています。
現在、牛嶋神社の境内にある焉馬の狂歌碑(墨田区登録有形文化財)には「いそがずば濡れまじものと夕立のあとよりはるる堪忍(かんにん)の虹 談洲楼(だんしゅうろう) 烏亭焉馬」、裏面には「文化七歳庚午三月吉日建 本所堅川相生街 中村和助英祝」と刻まrています。

平成22年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)


【東京都墨田区千歳2-14】



史跡 | 18:12:20 | Comments(0)
塩原橋
297_convert_20190729225256.jpg 296_convert_20190729225148.jpg

塩原橋の由来

塩原橋(しおばらばし)は関東大震災の復興事業の一つとして、昭和3年11月に架けられました。
当時は木橋でしたが、昭和29年3月、現在の鋼桁橋(こうげたばし)に架け替えられたものです。
橋名は江戸時代の末「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と謳われた塩原太助がこの辺りに住んでいたことから、それに因んで付けられたものです。
太助は上州(群馬県)沼田から江戸に出て薪炭(しんたん)商人として成功した人ですが、その立志伝は明治の初め、南二葉町(亀沢3丁目)に住んでいた三遊亭円朝によって人情話(にんじょうばなし)に仕立てられ、その後浪花節(なにわぶし)や演劇にもなりました。
歌舞伎の「塩原多助一代記」は明治25年に初演され、愛馬の別れで大変な評判をとったそうです。
天明元年(1781)当時、本所相生(あいおい)町(両国3丁目)に住んでいた太助が、亀戸天神に寄進した燈籠(とうろう)は今も境内に残っています。

平成4年3月
墨田区

(説明碑・銘板より)


【東京都墨田区両国】



史跡 | 17:54:14 | Comments(0)
次のページ