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Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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和平英魂観音亭
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(碑文)

和平英魂観音亭
霊安故郷紀念碑  建立由来記

1975年宝覚寺前住持林錦東宗正在職中、石原正一郎氏は第二次世界大戦に於ける台湾の戦没者の為に萬霊塔建立の志を立てたが当時の台湾の状況は極めて困難であった。
越えて1987年、元第48師団南星会長森晴治氏は当時台湾南星同学聯誼会役員に謀り1937年の不幸な事変により多くの人々が戦死・戦傷死し、更に第二次世界大戦でも多数の青年が主として南方諸島界域にて多くの犠牲者を出した。
更に台湾本土に於ても爆撃で大衆が尊い生命を失った痛恨事に鑑み、これら戦没勇士や不幸にして戦災に殪れた人々の冥福を祷り且、永遠の恆久平和を祷念するため、台湾南星会同学及び中日海交聯誼会台湾軍第48師団南星会長西村庄五郎氏等にも相謀り、和平英魂観音亭及び紀念碑の建立を計画した。
依て中・日両国南星会及び海交会を中心に、日本の南星会を筆頭に台湾協会岸田実理事長、元台北医専南溟会長奴田原正一会長、元台北一中麗正会長後藤威会長、台中会長緒方健一氏、元日赤看護婦南十字会長金川トヨ子氏の方々の心からなる御支援と御協力を得、また台中宝覚寺管理委員長周賜斌氏らの御厚志により、有末精三閣下の筆になる「和平英魂観音亭」の慈光燦たる観音亭、及び李登輝総統閣下の揮毫による「霊安故郷」の偉大なる紀念碑を建設することが出来た。
茲に台湾全島・日本全国より寄せられた温かい御協賛の諸賢に対し満腔の感謝の意を表すると共に、これを子々孫々に伝え千古に輝く英魂を永えに顕彰する。

   とこしへに、しずまりたまへ、くにのため
            つくせしひとの、みたまやすけく
                   森 晴治

中華民国79年
日本平成2年   11月25日

(~以下略~)


【台湾・台中市・宝覚寺】



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史跡 | 20:08:38 | Comments(0)
追遠亭
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(碑文)

追遠亭銘記

大東亞戦争に於いて、台灣人民も踴躍大日本帝國陸海軍人屬を志願し、或いは應召により二十餘萬人従軍して勇戦奮闘のあげく、三萬三千餘人戦歿せり。
然るに戦後日本國政府はこれ等の戦死傷者の特定弔慰金以外の補償は一切謝絶したのみならず、軍事郵便貯金、未拂給與等の確定債務を50年後の今日120倍の不合理な倍數で償還せんと一方的に決定し、其の他恩給等除外されるに因り、内外識者の顰蹙を囤うに至れり。
適適1996年の10月、北海道の戦友 伊庭野政夫氏これを見かねて、日本國政府の不信、不徳を補わんと欲し、發起人同志の増田元光、村田 登、桝澤昭衛、宮坂文一、中園健一、玉谷又勝、上田篤次郎、小堀桂一郎、本間正信等諸士と謀り、『台灣出身元日本軍人軍屬感謝表明期成會』を決成して日本全國に呼びかけ、募金活動を展開せり。
1997年9月23日その募金日圓肆佰拾萬圓也(換算新台幣九拾六萬七百拾貳元也)を台灣に送達せられたり、台灣戦友會各代表者直ちに研討の結果、此處に『追遠亭』の建立を議決して即時著手、11月25日予定通り、その完成を見るに至れり。

1、總工事費・・・・・・・・・新台幣九拾萬元也
2、寶覺寺へ供養費・・・新台幣貳萬六仟元也
3、業務費・・・・・・・・・・・新台幣参萬四仟七百拾貳元也
合計・・・・・・・・・・・・・・・・新台幣九拾六萬七佰拾貳元也

茲に謹んで 伊庭野政夫會長等御一同様の御芳志に、深甚の感謝を満腔の敬意を表すると共に願わくは之を日台親善の證として、後世に傳承せられんことを望む。

1997年11月25日

(~以下略~)



【台湾・台中市・宝覚寺】




史跡 | 20:05:04 | Comments(0)
霊安故郷慰霊碑
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  第二次世界大戦期間日軍征赴
  海外殞身台灣同胞英魂碑
霊安故郷
     李登輝敬題

(碑文)

建立由来記

霊安故郷記念碑は中日海交聠誼会の発願により日本國海交会全國連合会竝に台湾縁りの心ある日本國民の協賛奉仕により建立された。
この碑は台湾との過去の歴史にみる日本國植民地統治下の大東亜戦争に、日本國陸海軍人軍属として戦場に散華した台湾戦没者三萬三阡余柱英霊の鎮魂慰霊碑である。
諸霊は日本國皇民化教育の名の下に育まれ、日本國危急存亡の戦場に進んで高砂義勇隊、陸海特別志願兵となり、更には日本國民の義務として施行された徴兵令により、南方諸戦域をはじめ各戦域に参加した元日本陸海軍人軍属二十萬七阡余名の戦友であり、また台湾縁りの元日本陸海軍人軍属と死生を誓った戦友であった。
1945年8月15日大東亜戦争は終戦を迎えたが、悲しい哉!
諸霊は再び生きて故郷台湾の土を踏むことはなかった。
日本國政府は諸霊を靖國神社に御祭神として合祀し、春秋例大祭には勅使が参向され最高の儀礼をつくし、日本國民は斉しく崇敬の誠を捧げているが、1972年中日両國の國交は、複雑な國際状況下に不幸にも断たれて今日を迎えている。
諸霊の遺族補償問題は國際法上の國交が條件であり、長期に及ぶ幾多の紆余曲折を経たが、台・日間の歴史上の人道的精神に基き、1987年「台湾住民である戦没者の遺族に対する弔慰金等に関する法律」が、日本國國会超党派の「台湾戦没者問題議員懇談会」による議員立法として成立し、遺家族竝に重傷病者に対し特定弔慰金・見舞金が支給された。
本法案成立には、和平英魂観音亭敬題の日本國陸軍中将有末精三閣下を会長とした台湾縁りの心ある補償問題推進十七民間団体の支援協力が貢献した。
因に霊安故郷記念碑の敬題は、中華民國總統李登輝閣下の諸霊に捧げる鎮魂の御仁慈の筆になり、總統府参議台南県黄崑虎先生を介したものであり、台湾全島にその例をみない。
希くば諸霊よ!
碑台内に納めた高麗大藏経の守■経により霊安故郷に鎮まり、恩讐を超えて中日國交修復と、永遠に中日善隣友好の懸け橋となられ、世界眞の平和達成の礎となられんことを。
合掌

1991年11月25日建立一周年記念慰霊祭に當り、碑台正面に中・日海交会縁りの世界の名提督日本國元帥海軍大将東郷平八郎御祭神を祀る東郷神社筑土龍男宮司の英霊鎮魂の敬題御揮毫を受く

1990年11月25日
中日海交聠誼会
(~以下略~)


【台湾・台中市・宝覚寺】



史跡 | 17:42:20 | Comments(0)
東部・北部地区 日本人遺骨安置所
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(碑文・1)

此處には左記各縣市に在住中死亡した日本人の遺骨を蒐集の上納骨した
台北市
台北縣
基隆市
陽明山管理局
桃園縣
新竹縣
苗栗縣
宜蘭縣
花蓮縣
台東縣
昭和36年3月
在中華民國日本國大使館

(碑文・2)
この納骨堂には、第二次大戦終戦までに台灣に居住し、台灣にて亡くなられた日本人物故者の遺骨を収めてあります。
終戦後在留日本人は總て故國に引き揚げましたが、着の身着のままで物故者の遺骨を持ち歸る余裕もありませんでした。
當時唯一家族で残って居た苗栗縣大湖に住む野沢六和氏がある日畑を耕していたところ、この大湖にあった舊陸軍病院の戦病死者と思われる埋葬の遺骨を發見し、この遺骨を鄭重に拾い自宅に持ち歸り安置していました。
その後各地から日本人の墓地が荒れて遺骨が散亂しているとの連絡が多くこのままにして置く事には忍び難く各地の日本人墓地に残された遺骨を採骨する悲願を立てて昭和22年春より台灣全島を巡り採骨の悲願行脚に旅立たれました。
この悲願の旅は十數年に及び、約二萬柱の採骨を終えたのは昭和35年秋でありました。
昭和36年秋に當時の日本大使館の肝いりで採骨の地域別にここ中和寺と台中の寶覺寺、高雄の公墓三ヶ所に分けて納骨することになり一應採骨は終わりました。
その後大使館が主催して年一度の慰霊祭がこの三地區で行われて来ましたがその後この慰霊祭は現日僑協會が主催する事になり現在に及んでいます。
現在ここに納骨されているのは羅東より苗栗附近までに採骨された約八千柱です。
この採骨をされた野沢六和さんは中國広東系の中國人ですが、夫人は新潟縣出身の野沢ムメさんで結婚後夫人の籍に入り野沢姓になられたのです。
この採骨には當然この御夫人の協力があったことは申すまでもありません。
この野沢六和さんは採骨時の苦勞が禍いして喘息を患い以後保養をされていましたが昭和58年7月10日に日本の神戸郊外に住む御長男宅にて他界されました。
この崇高なる人格は永遠に私達日本人の鑑として記憶に留どめたいと思います。

平成元年3月吉日



【台湾・台中市・宝覚寺】



史跡 | 16:26:52 | Comments(0)
乃木別邸
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乃木別邸

昭和41年栃木県史跡指定
栃木県那須郡西那須野町石林820番地

乃木邸の地は、文化年間の頃は当所 石林の薄井氏が所有し、明治13年鹿児島藩士 吉田清皎氏(静子夫人の叔父)が手に入れる迄に所有者が3人かわりました。
吉田氏はここで農園を営みましたが、明治23年急逝の後、乃木将軍が農地3ヘクタール・山林10ヘクタール・家屋共ゆずり受け農耕に従事せられ、同25年母屋を新築、旧家を納屋として使用され、つづいて石蔵・肥料舎・農具舎・薪小屋等を建て、御夫婦自ら鋤・鍬をとられ村人と共に収穫を喜び、詩歌を吟ぜられる生活をされ、勧農の範をたれ給いしところです。
大正元年9月13日明治天皇のみあとを慕い奉り殉死の後は、将軍の遺言に依り実弟 大舘集作が住み、昭和3年以降神社により維持保存するところとなりました。
旧家は、昭和46年不審火による焼失の後、復元。
母屋は、平成2年10月過激派による放火で被災し、5年4月旧体に復元したものです。

(説明板より)


史跡 乃木希典那須野旧宅

栃木県指定文化財
昭和41年3月18日

乃木希典は長州藩支藩の長府藩出身の陸軍大将・伯爵である。
後に、学習院院長なども務めた。
明治24年、この地に約14ヘクタールの土地を求め、静子夫人の叔父(旧薩摩藩士・吉田清皎(きよあき))が所有していた土地と家屋を譲り受けた。
当初は住宅一棟と納屋があったが、同25年、乃木将軍は自ら設計して農家風の質素な別邸を建てた。
栗の木の板を小さく切って重ねた栗木羽葺(くりこばぶき)(後に瓦)平屋で、建坪は間取り寸法が関西間風で建てられているため53坪であるが、関東間(かんとうま)に換算すると約57坪となる。
土間と囲炉裏があり、畳の部屋は八畳間が3つ、六畳間が変形六畳を含めて3つ、その他物置場・屋根裏部屋等がある。
乃木将軍は生涯に4度の休職をしたが、別邸を建ててからは休職中(のべ48か月)の多くをこの別邸で過ごし、晴耕雨読の生活を送り、村人とも親しく交わったという。
なお、別邸は平成2年(1990)に焼失し、同5年(1993)3月に復元された。

那須塩原市教育委員会

(説明板より)

史跡 | 22:08:42 | Comments(0)
乃木将軍石像と愛馬殿号の塚
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乃木将軍石像と愛馬殿号の塚

この石像は昭和初期、愛知県岡崎で開催された石刻展に入選した作品で、学習院の院長であった乃木将軍にちなんで一度学習院に献納されました。
時を経て平成2年、ゆかりの那須乃木神社に奉納されたものであります。
殿号(しんがりごう)は大正天皇がまだ皇太子殿下頃、乃木将軍に賜わった白馬です。
将軍は殿下より賜った名馬であるため、殿号と名付けて愛育されました。
将軍ご夫妻は自然を愛され、禽獣草木にまで温情をもって接し、わけても馬に対する愛情は篤く、老齢になった殿号も那須野へ移し労られました。
この愛馬も将軍の後を追うように、大正3年12月27日に斃れましたので、ここに土葬し、生駒守護神として慰霊の誠を尽くしたのであります。

 武士が乗る荒駒の勇みあひて
     那須の廣野も狭くぞおもほゆ 希典

 黒駒にしらあわはませますら雄が
     岩が根木の根ふみさくみゆく 希典

乃木希典命
乃木静子命  百年祭記念

平成23年9月13日

(説明板より)

史跡 | 21:26:41 | Comments(0)
帆足萬里の墓
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帆足萬里墓

豊後国(ぶんごのくに)日出藩(ひじはん)が輩出した偉人「帆足萬里(ほあしばんり)(1778~1852)」は、三浦梅園(ばいえん)(国東)、広瀬淡窓(たんそう)(日田)とともに「豊後の三賢人」と称される、江戸時代後期の儒学者・経世家(けいせいか)(政治・経済の論者)です。
萬里の功績は、大きく教育者・学者・政治家の三つに分けられます。
まず、教育者として、萬里は家塾(かじゅく)「稽古堂(けいこどう)」や私塾(しじゅく)「西崦精舎(せいえんせいしゃ)」などを通じ、生涯の多くを門弟の教育に捧げました。
萬里の人間性とその教えの広さゆえ、門弟の数は日出領内外数百名におよぶといわれています。
次に、学者として、萬里は和・漢・洋の学問、窮理(きゅうり)・医学・天文・歴史・政治・経済・兵制などの様々な分野に通じ、その代表的著書『窮理通(きゅうりつう)』(西洋の自然科学書)は、日本の科学史の発展に大きく寄与しました。
最後に、政治家として、萬里は天保3(1832)年より3年間、日出藩の家老に就任し、綱紀(こうき)の粛清、藩費の節減、風俗の改善、賞罰の励行など、財政的に行き詰る日出藩の藩政改革に取り組みました。
萬里の墓は、日出藩14代藩主木下俊方(としかた)の命により建立され、別府湾を眺望するように日出城に向けて建てられています。
墓碑の正面は門弟であった杵築(きつき)藩主松平親良(ちかよし)の弟親直(ちかなお)の筆、他の三面は高弟(こうてい)米良東嶠(めらとうきょう)の撰(せん)・筆(ひつ)による碑文が刻まれています。
墓碑が欠けているのは、この石片を持ち帰り、学業の向上を祈る人が多かったためといわれています。

大分県史跡 昭和33年3月25日指定
日出町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日出町佐尾】

史跡 | 16:47:31 | Comments(0)
松屋寺の蘇鉄
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国指定天然記念物
松屋寺のソテツ
大正13年12月9日 指定

ソテツは、高さ6.1m、株元の周囲(地上より1.2m)6.4m、南北幅8.5mの巨樹である。
このソテツは、雌樹で一つの株元から十数本の支幹が分岐している。
いづれの支幹も指定当時より1m以上大きさを増して成長している。
寺伝によると、日出藩2代藩主・木下俊治が府内城(大分市)にあったものを移植したものと言われている。
江戸時代より日本一のソテツとして名高く、樹齢600年以上と推定される。
これまで嘉永4年(1851)、大正4年(1915)の二度の火災に遭い、一部消失したり、自然災害により損傷・倒壊したりしたが、いずれも見事に樹勢を回復し、堂々とした威容を見せている。

平成8年3月
松屋寺
日出町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日出町1921・松屋寺】

史跡 | 16:33:21 | Comments(0)
旧成清家 日出別邸
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国重要文化財
旧成清(なりきよ)家 日出別邸 (的山荘)

的山荘(てきざんそう)は、福岡県みやま市瀬高町出身の成清博愛(なりきよひろえ)氏が大正3年(1914)から翌4年にかけて建てた別邸です。
博愛氏は、明治43年(1910)、馬上金山(ばじょうきんざん)(現 杵築市山香町)の経営に着手し、その採掘に成功しました。
当時、採掘された鉱石の一部を日出港より海上輸送しており、博愛氏の別邸は、単に個人の清遊のためのものではなく、鉱山経営の拠点的機能を兼ねていました。
昭和39年(1964)、的山荘を料亭として開業。
以来、城下かれいは全国に広く名が知られ、皇室をはじめ数多くの著名人が的山荘を訪れました。
的山荘は、江戸時代以来の伝統的建築手法を受け継ぐ貴重な近代和風建築で、広大な庭園もまた、別府湾と高崎山(たかさきやま)・鶴見山(つるみさん)・扇山(おうぎやま)を見渡す眺望豊かな近代庭園として、貴重な価値を有しています。
的山荘の周辺にも、馬上金山の鉱滓(こうさい)を用いた煉瓦(れんが)塀が随所にみられ、当時の名残を留めています。

日地町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日地町2663】

史跡 | 15:53:33 | Comments(0)
瀧家住居(二十番屋敷跡)
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楽聖瀧廉太郎
瀧家住居(二十番屋敷跡)

瀧家は代々日出藩の給人格(上士)の家柄で廉太郎の祖父平之進吉惇は碩学帆足萬里の高弟であり、天保3年藩政改革時に萬里と共に家老をつとめた。
父の吉弘は藩政時代は武頭をつとめ明治3年日出藩大参事、同5年8月大蔵省九等出仕となり此の地を離れ単身上京、家族は同7年6月一家4人上京した。
当時の家族 父 瀧吉弘 (33才)
        祖母 ミチ (67才)
        母 マサ (24才)
        姉 リエ (5才)
        義兄 大吉 (14才)
楽聖瀧廉太郎は明治12年8月24日父吉弘内務省一等属出仕の時代東京乏区南佐久間町2丁目18番地に生まれた。
一家が日出の地を離れた5年後である。
初代以下の瀧家の墓は日出町佐尾の龍泉寺にある。

(説明板より)


【大分県速見郡日出町2674.日出幼稚園】

史跡 | 15:33:06 | Comments(0)
日出城の石垣
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日出城(暘谷城)の石垣

日出(ひじ)藩初代藩主木下延俊(のぶとし)は、慶長6年(1601)秋より約1年の歳月をかけて日出城(ひじじょう)を築きましたが、石垣の構築は細川忠興(ただおき)の家臣で築城の名手・穴生理右衛門(あのうりえもん)の指揮によってなされたといわれています。
「穴生(あのう)」は、近江国穴太(おうみのくにあのう)(滋賀県)の石工(いしく)の集団・穴太衆(あのうしゅう)を指します。
穴太衆は、安土桃山時代から江戸時代にかけて多くの城の石垣を手がけました。
穴生理右衛門もまたその一員であったと思われ、彼の指揮により築かれた日出城の石垣は、「穴太積(あのうづ)み」として呼び親しまれています。
日出城の石垣は、築石(つきいし)に自然石や粗割石(あらわりいし)を用いた「野面積(のづらづ)み」の技法で、「乱積(らんづ)み」(石材を不規則に積み上げ横目地(よこめじ)が通らない)と「布積(ぬのづ)み」(石材を一段ずつ横に並べて据え、横目地を通す)の中間にあたる「布目崩し積み」により構築されました。
日出城本丸天守台の石垣にみられるように、こうした規模の「穴太積み」の石垣は、大分県下においても大変珍しいといわれています。
日出城の歴史とともに「穴太衆」そして「穴太積み」の歴史を語り継ぐ貴重な石垣です。

日出町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日出町・日出城跡】

史跡 | 13:09:24 | Comments(0)
日出城の時鐘
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日出城の時鐘

この時鐘(じしょう)は、元禄8(1695)年日出藩3代藩主木下俊長(としなが)の命により鋳造されたもので、日出城(暘谷城・ようこくじょう)外大手(そとおおて)(現二の丸館付近)の土居(どい)にかけられ、毎日十二刻の時を知らせていました。
明治時代を迎え、時鐘は現在地(日出城本丸裏門櫓跡)に移設され、太平洋戦争期には供出(きょうしゅつ)の危機にも直面しましたが、地元有志の手により守り伝えられ、現在、日出小学校児童が毎朝8時に鐘をつき、時の知らせとともに元禄の鐘の音を響かせています。
時鐘の総高はおよそ1.35メートル、口径75.5センチ、胴部はあまり張らず、撞座(つきざ)は八葉(はちよう)の法輪形を鋳出しています。
また胴部には、俊長と親交のあった幕府の儒官(じゅかん)人見竹洞(ひとみちくどう)筆の銘文が施されています。

日出町有形文化財 昭和33年10月1日指定
日出町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日出町・日出城跡】

史跡 | 11:49:43 | Comments(0)
千辛万苦の場
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史跡 千辛万苦之場
昭和43年1月29日市指定
別府市上田の湯6-37

元治元年(1864)9月徳川幕府は、長州征伐のいくさをおこした。
そのとき、長州の藩論は二つに分かれ、井上馨は、温和な解決を主張した。
そのため、御前会議の帰りみち山口城下袖解橋(そでとけばし)をすぎ一本松にさしかかったとき反対派に襲われた。
しかし危くも一命をとりとめた。
翌慶応元年(1865)馨は別府にのがれ、旅館若彦(のちの若松屋)に身をかくした。
若彦の主人彦七は事情を察し、手厚い保護を加えたためしばらくして全快した。
かれは、その後政界に身を投じ、47年後の明治44年(1911)5月末、別府の若松屋旧屋を訪ね、謝恩の意をこめて「千辛万苦之場」と扁額を書き、若松屋(松尾家)に贈った。
この建物は昭和57年12月18日移転復元されたものである。

別府市教育委員会

(説明板より)

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【碑文】

千辛万苦之場

井上侯千辛万苦之場移轉ノ記

明治維新ノ元勲世外井上馨侯幼名勇吉天保六年十一月二十八日山口城下湯田ニ生ル藩主敬親公ノ小姓ト為ルニ及ヒ名ヲ聞多ト賜ハル天資剛直夙ニ大義ヲ唱ヘ克ク藩公ヲ輔ケ常ニ萬死ヲ冒シテ國事ニ奔走ス元治元年幕府征長ノ軍ヲ起スヤ藩論二派ニ岐レ危機ニ直面ス公ハ九月二十五日ノ君前評定ニ於テ武備恭順ヲ主張シ正義一貫論戦長時俗論派ヲ説破シテ潘是ヲ一決シタルモ同夜山口城外袖解橋附近ニ於テ反對派ノ兇刃ニ撃タレ瀕死ノ重傷ヲ負フ為ニ藩政再俗論黨ノ掌中ニ歸シ侯亦幽閉ノ身トナル爾来正義派ノ身邊益危険ヲ感スルニ至レルヲ以テ慶應元年春同士多ク諸國ニ亡命シ侯ハ變装シテ別府ニ逃レ若松屋ニ潜伏ス主人松尾彦七ノ庇護ト侠客灘龜ノ同情トニ依リ疵ヲ養フノ傍専念時機ノ到来ヲ待ツコト月餘尋テ長州ニ歸リ高杉晋作伊藤博文等ト共ニ尊王倒幕ノ議ニ参畫開國進取ノ宏謨ニ邁進遂ニ維新ノ大業ヲ翼成セリ侯往時ヲ追懐シ明治四十四年五月別府ニ来リ若松屋ヲ訪ヒ曩ニ潜伏ノ室ニ入リ感慨無量即筆ヲ執リ千辛萬苦之場ト書シテ楣間ニ扁ス年ヲ閲スルコト実ニ四十七年也今茲市区改正ニ際シ若松屋當主彦七其ノ遺跡ノ湮滅ヲ惜ミ記念物一切ヲ挙ケテ市ニ寄附セムトス市欣ヒテ之ヲ納シ地ヲ相シテ茲ニ之カ移轉ヲ了ス乃碑ヲ建テ其ノ顛末ヲ勒シ題スルニ侯ノ書ヲ以テシ永ヘニ追慕ノ意ヲ表スト云爾

昭和八年六月   別府市長平山茂八郎



【大分県別府市上田の湯】

史跡 | 11:04:08 | Comments(0)
墨堤植桜の碑
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墨堤植桜の碑

所在 墨田区向島5丁目1番 墨田公園

この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額(てんがく)、濱邨大澥(はまむらたいかい)の撰文、宮亀年の彫刻です。
墨堤の桜は、初め四代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保2年(1717)に八代将軍吉宗が百本の桜を、同11年には桜、桃、柳各百五十本を植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。
その後文化年間に佐原鞠塢(きくう)、朝川黙翁、中山卜鄰が百五十本、天保2年(1831)に阪田三七郎が二百余株の桜を植えました。
弘化3年(1846)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村人が百五十本、安政元年(1854)に阪田三七郎が二百株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
さらに大倉喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鷗社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。
志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
このような功績を永世に伝えるため、明治20年に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治29年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。

平成2年3月
墨田区

(説明板より)

史跡 | 19:07:57 | Comments(0)
鷲津毅堂碑
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鷲津毅堂(きどう)

所在 墨田区東向島3丁目5番2号 白鬚神社内

鷲津毅堂は幕末明治の漢学者です。
文政8年(1825)尾張に生まれました。
通称を毅堂または蘇洲と号し、父、祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。
20歳のころ江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学び、嘉永6年久留米藩に仕え、次いで、尾張侯の招きに応じ侍読となり、さらに教授に進み、毅堂自身も師弟とともに学問に励みました。
時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられ国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました。
明治元年朝廷より権弁事(ごんべんじ)を任ぜられ、同2年大学少丞に転じます。
そして権大書記官五等判事、司法少記官、東京学士会々員に列するなど明治政府の要職を歴任しました。
明治15年司法権大書記官となりますが、同年(1882)10月5日、58歳で歿しました。
なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。
本碑の篆額は三条実美、撰文は三島毅、書は巌谷一六による碑です。

平成18年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)

史跡 | 16:57:00 | Comments(0)
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