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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
58歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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『独学で歴史家になる方法』


はじめに

第0部 歴史を独学する―何よりも自分のために

第1講 誰だって捨てられないものがある
       小さな「リスペクト」が欲しい
       学問に「リベンジ」しよう
       「お返し」という発想に学ぶ
第2講 なぜ「歴史」をお勧めするのか
       歴史研究に知識・技術は要らない
       テーマは身のまわりに転がっている
       独学者でも学問に貢献できる
第3講 私が「在野史家」を名乗るまで
       最初、「サカ」に関心を持つ
       『サンカと説教強盗』を執筆する
       村岡素一郎の『史疑』を復刻する
       「歴史民俗学資料叢書」を編集する
       ノンフィクションライターを返上する

第1部 独学者という生き方―今日からあなたも研究者

第4講 「研究者」としての自覚を持とう
       「本」の読み方を変える
       文献や資料を確保しておく
       自伝・自分史は記憶だけでは書けない
       自伝・自分史を書くための参考資料
第5講 生じた疑問は、そのつど解消しておく
       田中正造の性格は「少しく戇」
       佐久間象山撰「力士雷電之碑」
第6講 典拠がわかるものは典拠に当たる
       井上馨のセクハラに反撃した一婦人
       宮武外骨の『明治演説史』に学ぶ
       飯沢匡の「しんぱんいろはかるた」
第7講 引用文もまた論文の一部
       やや古い引用法、『近世叢談』から
       かなり特殊な引用法、『明治維新』から
       引用文が理解できない場合は?
       やってはいけない引用法
第8講 「史料」を批判的に読む
       「緑十字機事件」と浜松憲兵分隊長
       著者の回想を「校訂」しながら読む
       史料から重要な情報を読み取る
第9講 隠されたメッセージを読み取る
       『史疑徳川家康事蹟』のメッセージ
       『十訓抄』と閉塞された時代の文学者
       白川静、殷王朝の崩壊を論ずる
第10講 伏せられたものには伏せられた理由がある
       改造文庫版『懐往事談』の伏字
       安藤信正と『廃帝論』
       水野忠徳と「承久の先例」
       福地桜痴に「廃帝論」をぶつ
       二・二六事件と「廃帝論」
       「ネジレ」と「大攘夷」

第2部 独学者の恍惚と不安―研究の進め方

第11講 意外なところに貴重な情報が眠っている
       峯間信吉と「不穏文書臨時取締法」
       尺振八が所持していた「身分証明書」
       学問狂・加藤泰造と『日唐令の研究』(1937)
第12講 「史料の発掘」は難しいことではない
       水戸学を「再認識」して発禁
       雑誌『蕗原』、熊を獲る話を載せる
       終戦直後における「児童の思想調査」
       法文の口語化と満洲国「親族相続法」
       情報局編輯『週報』に見る銃後の実態
       スクラップブックに貴重な写真を発見
       一枚の「正誤表」から情報を読み取る
       「史料」は、どこでどうやって見つけるか
第13講 定説や先入観にとらわれてはいけない
       「玉音放送」は理解できなかったか
       「終戦の詔書」を理解した女学生18歳
       敗戦の日、皇居前でひれ伏した人たち
第14講 現地を訪ねれば必ず発見がある(大津事件篇)
       大津事件の「現場」に赴く
       御幸山に「記念碑」がない
       記念碑が写っている絵葉書
第15講 現地を訪ねれば必ず発見がある(松川事件篇)
       松川事件の現場で「女泣石」に出会う
       事件がこの地点で起きた理由
       富士崎放江の報告(女泣石と女形石)
第16講 手初めに「碑文」を写してみよう
       十思公園にある吉田松陰の「辞世」
       飛鳥山にある佐久間象山の「桜賦」
       仙台市子平町にある「林子平之碑」
第17講 同志を見つけ、研究会を立ち上げよう
       「研究の同志」を見つけよう
       「研究会」を立ち上げよう
       機関誌を発行すると会員が増える

第3部 研究成果は世に問うべし―研究をカタチにする

第18講 先輩の苦労話を読んでみる
       ウェーバー研究の基礎を築いた梶山力
       中山太郎と『日本巫女史』(1930)
       佐々木喜善と『農民俚譚』(1934)
第19講 見習うべき論文を見つける
       後藤象二郎を論じた浅井論文(1958)
       大津事件を論じた新井論文(1994)
       開戦と敗戦を論じた河原論文(2008)
第20講 自分の文体を確立しよう
       福沢諭吉の文章は句読点なしでも読める
       無名の勤皇家を回想する石黒忠悳
       ふたつの文体を操った瀧川政次郎
第21講 歴史とイデオロギーは近い関係にある
       瀧川政次郎と日本歴史「解禁」
       鈴木治『白村江』のイデオロギー
       よみがえる「朝鮮出兵」肯定論
第22講 ブログを研究日誌として活用する
       ブログを更新しながら文章修行
       独学者にとっての「研究日誌」
       データファイルとしても使える
       ブログを通し未知の人々と交流する
       ブログは出版の代用になる
第23講 研究はこうしてまとめる
       1 タイトルは、内容を明確に示すものになっているか
       2 テーマは明確に示されているか
       3 それまでの学問的な成果に一歩を加えているか
       4 自他の見解を、明確に区別しているか
       5 目次は、内容・流れがわかるようにできているか
       6 読みやすく、わかりやすい文章になっているか
       7 誤字・脱字などはないか
       8 判断の根拠とした史料・文献は示されているか
       9 引用は、適切に処理されているか
       10 注、参考文献のチェックは十分か
       11 資料を添えるのを忘れていないか
       12 謝辞などを忘れていないか

あとがき

【付録1】
こんな研究はいかがですか:そう言われれば私にも・・・・
   歴史独学者にお勧めする15の研究テーマ

【付録2】
こんな本はいかがですか
   歴史独学者にお勧めする55冊の本


題名に魅かれて読んでみた・・・・
「歴史家」かぁ~
それも「独学」でねぇ~
なれるものならなってみたいものである。(笑)
で・・・読み始めたら・・・おや、意外にも可能かも・・・(笑)
で・・・読み進めて行ったら・・・・ちょっとレベルが高すぎるかも・・・
で・・・最後は・・・「研究」ねぇ~・・・・自分が、そんなもの書けるだろうか・・・(大汗)
・・・・である。(大笑)
が・・・読んでいて、勉強になる話が沢山・・・・
夢が見られる本だと思う・・・(大笑)


今年の読書:17冊目



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読書 | 01:51:30 | Comments(0)
『PRESIDENT 20019.3.4』


『毎日が楽しい「孤独」入門』という題名に魅かれて買ってみたのだが・・・
残念ながら、目新しい話は無く、特に参考にもならなかった。(大涙)
すでに私の持っている認識通りの話なのだから、どうしようもない・・・

この『PRESIDENT』という雑誌・・・
私が高校生の時によく読んでいた雑誌である。
あのころは面白い、ためになると思っていて、これは、と思う記事は切り抜いてノートに貼っていた。
結構な量を切り抜いていたという記憶があるのだが・・・
この程度の本だったのかと、数十年ぶりに読んでみてガッカリである。
それだけ歳を取ったという証拠かもしれない。
こう言っては、編集されている人たちに失礼かもしれないが、もしかしたら、昔の方が内容が良かったのかもしれない。(大汗)

ただし・・・
何も得るものがなかったというわけではない。(苦笑)

偉人列伝 孤独こそ最強の生き方である
   もし彼らが孤独を嫌えば、歴史が変わった (加来耕三)

大久保利通、西郷隆盛、織田信長、徳川家康の4人を取り上げている。
「人生をいかに生きるか。孤独は心の鍛錬である」
「独創的な発想は孤独から生まれる」
「類まれな忍耐力を育んだのも孤独」
結構、面白い話だった。

   そして孤独な哲学者たちは、王を倒し、神を葬った。(日比野 敦)

話の中に、キルケゴール、ルソー、ショーペンハウエル、ニーチェなどが出てくる。
これら哲学者の「孤独」に関する話が面白い。
彼らの著作をちょっと読んでみたい気になった。(笑)

この記事2つと、もう1つの記事だけが気に入った・・・

達人が伝授 毎日毎日、幸福感に包まれる生活のコツ
   「人生100年」の生きがいは自分で探すしかない(外山滋比古)

お茶の水女子大学名誉教授で95歳の外山さんのお話し・・・・
これが一番良かった!(笑)
「老いて学べば、即ち死して朽ちず」
これは江戸時代の儒学者・佐藤一斎の言葉だが・・・
なるほどねぇ~である。

著名な企業の社長さんの成功談や自慢話も結構だが、私は、こちらの3つの話“だけ”が勉強になった。(大笑)


今年の読書:16冊目



読書 | 20:45:21 | Comments(0)
『動乱の日本史 徳川システム崩壊の真実』


第1章 幕藩体制と危機管理―徳川家康のグランドデザイン

なぜ「徳川三百年の泰平」は到来したのか
   戦争と平和のバイオリズム
   負け組から怨霊が生まれる
   秀吉の朝鮮出兵の目的
   戦争失敗から誕生したニューヒーロー
   リアリストで合理主義者
   仮想敵国は薩摩と長州
   家康の「千慮の一矢」
   「想定外」が育てた危機管理の才能
なぜ薩長の江戸攻略は不可能だったのか
   築城名人・加藤清正の悲劇
   不変の祖法と政策決定システム
   熊本・小倉・広島の三重要塞
   危機管理の天才は想像力の天才
   常識はずれの巨城・江戸城
   日本史上極めてユニークな半蔵門
   甲斐国へ続く脱出口
なぜ水戸徳川家は「天下の副将軍」と言われたのか
   服部半蔵はCIA長官兼ボディーガード
   武田家の諜報作戦
   信康切腹事件のトラウマ
   屈辱と苦い経験をバネに
   小山会議で戦わずして勝った家康
   「言葉を消せば実体も消える」
   徳川家存続のための保険「御三家」
   最後の仮想敵は天皇家
   水戸徳川家は徳川家の丁半博打
   勤皇水戸家のヒントは真田昌幸!?
   政治家家康の反乱防止策とは

第2章 平和崩壊への序章―朱子学という劇薬の作用

なぜ幕府は最後まで開国を渋ったのか
   240年保った平和維持システムの秘密
   人間の価値を決める朱子学
   商人は「うさん臭い」?
   勝海舟の正論は不道徳行為
   朝貢貿易はなぜ始まったのか
   「敵に学ぶ」を妨げる祖法の呪縛
   鳥居耀蔵の愛国心
なぜ田沼政治を「改革」と呼ばないのか
   劇薬「朱子学」の猛烈な副作用
   家康は鎖国するつもりはなかった
   幕府は儲かる手段を長崎商人に丸投げ
   勝海舟が憎まれた根本理由
   幕府のナンセンスな経済政策
   田沼意次は「悪者」なのか
   田沼時代は歴史の分岐点
   朱子学の「主君」と家康の大誤算
   朱子学の常識が倒幕の正当化に
   江戸防衛計画を崩壊させた技術革新

第3章 黒船とは何だったのか―幕府と薩長土肥の明暗を分けたもの

なぜ日露友好は夢物語に終わったのか
   「敵は陸路で」が大前提
   常識を変えた蒸気機関
   黒船来航を予見した男
   黒船への心構え奪った松平定信
   人を身分で判断する朱子学
   日露友好の夢物語
   通商条約でなく和親条約
   宣諭使は「スポークスマン」ではない
   上から目線で教え諭す
   長崎入港許可証の波紋
   ラクスマン帰国から11年の空白
なぜ幕府は黒船の問題を先送りしたのか
   日本外交史上最低の対応
   武装解除要求は最大の侮辱
   レザノフの譲歩と忍耐
   教訓ゼロのロシア外交
   問題先送りの事なかれ主義
   日本の運命変えたフェートン号事件
   ペリー以前の黒船ショック
   佐賀藩の科学技術水準は欧州諸国並み
   アームストロング砲の製造に成功
なぜアメリカは日本との通商を熱望したのか
   「無二念打払令」を出した幕府の愚行
   アメリカにとって日本はアジアの入り口
   日本は最良の捕鯨拠点
   当初の目的は貿易より燃料補給
   ロシア外交の二の舞
   モリソン号が用意した「土産」とは?
   ペリーが「突然やってきた」のウソ
   モリソン号の失意
   世界戦国時代の亡国システム
なぜ朱子学では外国から学ぶことが悪なのか
   ドラマ以上の極悪人
   朱子学の権化
   地図競作で蘭学者を逆恨み
   正論を封じた蛮社の獄
   国防の重要人物・高島の投獄
   己の正義にとりつかれた妖怪
   帝国主義に走ったイギリス
   帝国主義の波に乗れなかった清国
   日本はある意味で幸運
   オランダからの国書
   ペリーの前任者・ビッドル提督
   ペリーを選ばせたのは日本人
   日本に対する強硬論の台頭

第4章 ペリーが来た―連鎖する日本の空理空論

なぜ「ペリーは突然やってきた」が歴史常識になったのか
   日本開国のミッションとヒーロー待望論
   地球の4分の3を回る9ヵ月コース
   ペリー来航を把握していた幕閣
   ペリーは「提督」ではなく「代将」
   目先をごまかそうとする日本人
   阿部正弘の功績とは何か
   老中阿部がバカなら現代人は大バカ
   ミサイルは人工衛星!?
なぜ攘夷派は目の前の現実を無視し続けたのか
   「昔は愚か者が多い」わけではない
   護憲派と攘夷派はまったく同じ
   日本人の心に巣くう「平和念仏主義」
   歴史の「なぜ」を説明しない歴史書
   絶対に目の前の現実を認めない
   「何もしなかった」からこそ名老中
   井伊直弼と勝海舟の違い
   薩英戦争で目覚めた薩摩
   日本史上最も愚かな馬関戦争
   馬関戦争の二人のキーマン
   中島名左衛門を「悪魔」と決めつけ
   改憲派は平和の敵と断定
   祖法の絶対視は戦争のもと
なぜ明治革命ではなく明治維新なのか
   国賊扱いされた山本五十六
   神州不滅の総本山を変えた政治力
   朱子学で自由と進歩が消えた
   孔子以来の儒教と朱子学の大きな違い
   ペリー来航から52年でロシアに勝利
   日本が朱子学と縁切りできた理由
   天皇の神格化で民主化成功
   歴史とはつながりである

関連年表


ちょっと面白い視点からの「日本史」・・・
キーワードは「朱子学」である。
なかなか面白い話・・・
また、近代、現代の話とも絡めているので、読んでいてわかりやすい。
歴史とは、「時代」ごとに区切れるものではない。
必ず連続性があるはずで、それから何を学び取るかが歴史の勉強ではないだろうか?
そういう意味でも、非常に面白い本だった。


今年の読書:15冊目



読書 | 22:25:43 | Comments(0)
両国橋と百本杭
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両国橋と百本杭
所在地 墨田区両国1丁目~横綱1丁目

両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。
昭和5年(1930)に荒川放水路が完成するまで、墨田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。
そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。
両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。
水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。
夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。
江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。
「十六夜清心(いざよいせいしん)」でも、冒頭に「稲瀬川(いなせがわ)百本杭の場」がおかれています。
稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。
観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は墨田川を舞台としていることに気づくのです。
百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。
また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。
明治35年(1902)に香田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特(こと)に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。
このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。
しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と墨田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。

平成23年3月
墨田区教育委員会

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(説明板より)


【東京都墨田区両国1-11-2】



史跡 | 20:16:22 | Comments(0)
石尊垢離場跡
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江戸の町
石尊垢離場跡(せきそんこりばあと)

石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。
山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。
出発前に水垢離を取り、体を清めました。
その垢離場が旧両国橋の南際にありました。
川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。
その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国1-2-11】



史跡 | 20:03:30 | Comments(0)
赤穂浪士休息の地
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忠臣蔵
赤穂浪士休息の地

元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。
これが世に言う赤穂事件で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。
赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。
吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。
休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国1-2-11】



史跡 | 20:03:13 | Comments(0)
旧両国橋・広小路跡
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江戸の町
旧両国橋・広小路跡

旧両国橋は現在の両国橋の下流約50メートルの辺りに架かっていました。
完成は万治2年(1659)12月。
明暦3年(1657)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。
橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。
橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。
西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。
寛保2年(1742)の調査では1日に2万人以上が往来したとされています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国1-2-11】



史跡 | 19:43:01 | Comments(0)
葛飾北斎生誕地
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絵画と文学
葛飾北斎生誕地(墨田区亀沢付近)

宝暦10(1760)年9月23日、本所南割下水(墨田区亀沢)付近に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立させて、多くの名作を遺しました。
代表作『富嶽三十六景』は、天保2(1831)年から天保4(1833)年にかけて制作。
とても70歳を過ぎてからの作品とは思えません。
80歳を過ぎても創作意欲は衰えず、死の床に就いた嘉永2(1849)年、「あと10年、いや5年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。
常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい臨終の言葉でした。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-7-7・緑町公園】



史跡 | 19:26:22 | Comments(0)
津軽家上屋敷跡
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両国物語
津軽の太鼓・津軽家上屋敷跡

南割下水に面した弘前藩主・津軽越中守の上屋敷には、火の見櫓がありました。
通常、火の見櫓で火災を知らせる時は板木を鳴らしますが、この櫓には板木の代わりに太鼓が下がっていて、その太鼓で火事を知らせていました。
なぜこの屋敷の櫓だけに太鼓が許されていたのかは誰も知らず、不思議なこととされていました。
これが本所七不思議の一つ「津軽の太鼓」の話です。
七不思議とはいいますが、伝説なので伝わり方によって話もまちまちで、話の数も七つと決まったわけではありません。
この「津軽の太鼓」には「越中守屋敷の火の見櫓の板木を鳴らすと、奇妙なことに太鼓の音がする」という話も伝えられています。

墨田区

(説明板より)



【東京都墨田区亀沢2-7-7・緑町公園】



史跡 | 19:13:17 | Comments(0)
江川太郎左衛門屋敷跡前
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江戸の町
江川太郎左衛門屋敷跡前

江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称です。
なかでも有名だったのが、36代の江川英龍(1801~55)です。
彼は洋学の中でも、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、日本に西洋砲術を普及し、韮山に反射炉を築いて江戸防御のため、江戸湾内に数ヵ所あった砲台(お台場)を造りました。
また、日本で初めてパンを焼いた人物だともいわれています。
この屋敷は、代官の役所も兼ねていて、土佐国中濱村の漁師で、嵐で遭難し、米国の捕鯨船に救われ、ほぼ10年振りに帰国した中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたといわれています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-7-7・緑町公園】



史跡 | 18:49:19 | Comments(0)
歴代横綱の石碑
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歴代横綱の石碑
所在地 墨田区亀沢2丁目8番10号 野見宿禰神社内

歴代横綱の名前を刻んだ2基の石碑は、昭和27年(1952)11月に日本相撲協会が建立しました。
1基は、初代明石志賀之助から46代朝汐(潮)太郎までの名前を刻み、もう1基には、47代柏戸剛以降の名前が刻まれています。
野見宿禰神社は、明治17年(1884)に初代高砂親方(高砂浦五郎)が相撲の始祖とされる「野見宿禰」を祀ったのが始まりです。
玉垣には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、今でも東京での本場所前には、必ず日本相撲協会の関係者が神事を執り行うなど、相撲界が信仰している神社です。
創建当時は、神社の東側に初代高砂親方の部屋があったそうです。
また、この地は、陸奥弘前藩津軽家の上屋敷跡でもあります。

平成28年3月

墨田区教育委員会

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-8-10・野見宿禰神社内】



史跡 | 18:17:22 | Comments(0)
野見宿禰神社
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大相撲
野見宿禰神社

かつてこの東側に相撲の高砂部屋がありました。
明治18年(1885)に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。
石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。
境内には、昭和27年(1952)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から46代朝潮太郎までの名が、もう一基には47代柏戸剛以降の名前が刻まれています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-8-10】



史跡 | 17:52:38 | Comments(0)
河竹黙阿弥終焉の地
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河竹黙阿弥終焉の地
所在地 亀沢2丁目11番

河竹黙阿弥は坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」と呼ばれた狂言作者です。
黙阿弥の本名は吉村芳三郎。
江戸日本橋の商家に生まれるも遊興にふけって勘当され、遊蕩三昧の生活を送る中で細木香以(さいきこうい)らと交流を深めました。
歌舞伎をはじめ、狂歌や茶番などにも興じ、20歳で五代目鶴屋南北に入門、勝諺蔵(かつげんぞう)を名乗りました。
後に二代目河竹新七を襲名し、嘉永7年(1854)に江戸河原崎座で初演された「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)(忍ぶの惣太)」が四代目市川小団次との提携で大当たりを取り、「小袖曾我薊色縫(こそでそがあざみのいろぬい)(十六夜清心・いざよいせいしん)」、「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)」など、現在も上演される作品を柚木次人世に送り出してゆきました。
七五調の美しい台詞を巧みに活かして幕末の人々を生き生きと描き出し、360編に及ぶ作品を残しました。
明治の新時代にも活躍、明治14年(1881)に引退を表明し、黙阿弥と号しましたが、その後も劇作の筆を置くことはありませんでした。
明治20年3月、黙阿弥は浅草の自宅を三代目新七に譲り、自身は葦原だった本所南二葉町31番地(現亀沢2丁目11番)に自宅を新築し、転居しました。
周囲に堀をめぐらせた広い新宅は南割下水(現北斎通り)のほど近くにあり、庭には潮入りの池や二階建ての土蔵、書斎とした四畳半の離れが造られていました。
黙阿弥は「本所の師匠」と呼ばれてこの地で6年間を過ごし、九代目市川團十郎のために「紅葉狩」、五代目尾上菊五郎のために「戻橋」などを書き上げました。
黙阿弥の人柄は彼の作品とは対照的で、穏やかで物静かであったとされています。
自らの死も予期していたのか、黙阿弥は財産分与や蔵書などの整理、友人への挨拶まわりなどなすべきことを終えて、明治26年1月22日に77年の生涯を閉じました。

平成27年1月

墨田区教育委員会

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(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-11】



史跡 | 16:18:45 | Comments(0)
三遊亭圓朝住居跡
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三遊亭圓朝住居跡
所在地 墨田区亀沢二丁目十三番七号

三遊亭圓朝(1839~1900)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した落語家です。
本名は出渕(いずぶち)次郎吉。
父は二代目三遊亭圓生の門人橘家圓太郎で、後に圓朝も圓生に弟子入りしました。
初舞台は弘化2年(1845)3月で、小圓太と名乗りますが、異父兄で僧侶の玄昌の勧めにより一時高座から離れました。
池之端の紙屋葛西屋で奉公したり、玄昌の住まう谷中の長安寺に母と同居したのもこの頃で、新作怪談の創作に影響を与えたと考えられています。
その後、再び圓生門に戻り17歳で圓朝を称します。
元治元年(1864)に26歳で両国垢離場(こりば)の昼席の真打となります。
人情噺、怪談噺、落し噺などで江戸落語を集大成し、とりわけ人情噺では落語の話芸をより高度な次元に押し上げました。
圓朝は明治9年(1876)10月に浜町から本所南二葉町23番地(この公園の南側、現在の亀沢2丁目12番)に移り、同28年に牛込に転居するまでの19年間をこの地で過ごしました。
この間、本所に住んだ薪炭商塩原太助をモデルにした名作『塩原多助一代記』を生み、明治22年4月には三遊派の隆盛を記念して木母寺境内に三遊塚を建立しました。
代表作に「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」「怪談牡丹灯籠」「怪談乳房榎」「塩原多助一代記」「文七元結(ぶんしちもっとい)」など多数あります。

平成25年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)



【東京都墨田区亀沢2-13-7】



史跡 | 15:22:44 | Comments(0)
公立本所小学校跡
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公立本所小学校跡
所在地 墨田区亀沢四丁目11番15号 墨田区立竪川中学校

当地にほど近い亀沢三丁目13番地には、久保尊保(田安徳川家旧臣)が明治4年(1871)に開いた私塾、松川堂(しょうせんどう)がありました。
松川堂は明治7年5月に公立本所小学校となり、明治8年11月、当地に校舎が新築されました。
校舎は日本で本格的な洋風建築が普及する前に建てられた擬洋風建築(ぎようふうけんちく)の建物で、バルコニーに唐破風(からはふ)を付けた二階建ての洋風建物を中央に配し、その両側にガラス戸をはめ込んだ平屋の和風建物が接続していました。
本所小学校は、開校当時、近所に屋敷を構えた尾張徳川家より多額の寄附を受けました。(このため尾張学校とも呼ばれました)。
徳川家の資料の中には校舎を撮影した写真が残され、文明開化の息吹きを伝える建物が本所地域の子供たちの新しい教育の場になったことをよく伝えています。
児童256名、教員5名から始まった本所小学校は、明治44年(1911)には児童2,094名、教員30名を数えまでになり、廃校となる昭和21年(1946)までの間に8,000名を超える卒業生を送り出しました。

平成30年11月10日   墨田区教育委員会

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本所小学校は、近所に屋敷を所持した尾張徳川家より寄付を受けて開校し、尾張学校とも呼ばれました。
写真は、その尾張徳川家に伝来したものです(徳川林政史研究所提供)。

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢4-11-15】



史跡 | 14:52:15 | Comments(0)
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