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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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Jアラートは役に立つのか?
昨日、北朝鮮が弾道ミサイルを発射したそうだ。
で・・・・日本上空を通過して太平洋上へ飛んで行ったそうだ。
通過した場所は、北海道の襟裳岬上空とのこと・・・
弾道ミサイルは襟裳岬の東、約1180kmの太平洋上に落下したという。

例に漏れず、日本はこの弾道ミサイルを迎撃しなかった。
まぁ、仕方がないかなぁ~・・・・日本だから・・・(苦笑)
何でもかんでも、犠牲者が出てからじゃないと動かない国だからなぁ~

で・・・この弾道ミサイルの飛来について、Jアラート(全国瞬時警報システム)が、我が茨城県を含む12道県で避難を呼びかけたそうである。
ん?・・・北海道上空を通過したんだよね?
なんで茨城県に警報が発令されたの?(苦笑)
よくわからんなぁ~・・・この警報・・・

北海道上空を通過したんだよね?
それに対して茨城県民は、どこへ避難しろって?(大笑)
もしかして、北海道上空通過は“結果論”で、本当はどこを飛んでいるのか知らなかったとか?
とにかく、片っ端から警報を出しておきましょう・・・ということなのか?

警報を発するのは結構だが・・・
どこに避難しろっていうんだろう?
日本には現在、“防空壕”というのは無いのである。
弾道ミサイルが着弾するかもしれないから机の下に隠れろっていうのか?
それで身を守れると思っているのか?(苦笑)

警報システム以前の問題として「避難施設」を用意しておくべきではあるまいか?
まずは「防空壕」を用意した上で、警報の発令、避難指示ではあるまいか?

防空壕を造ろうとか、個人宅に地下室を造ろうとかというのは、一度、ミサイルの犠牲者が出てからでないと、やらないんだろうなぁ~
ということは・・・このJアラートは、現状では何の意味もないのではなかろうか?
下手に知るより“知らぬが仏”のほうがいいんじゃあるまいか?

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エッセイ | 21:42:26 | Comments(0)
茨城県「ヤード」条例の効果
自動車の解体施設を「ヤード」というらしい。
この「ヤード」の届け出を義務化した茨城県独自の規制条例が4月に施行された。
ということは・・・今までは無届けで勝手に何をやってもよかったのか?(汗)

我が茨城県の自動車盗の発生率は昨年まで10年連続の全国ワーストワンである。
10年も連続とは・・・大したものである。(苦笑)

この「ヤード」の適正化を図る条例により、中古車等の自動車を引き取るときに相手の免許証の写しなどの保管をしなければならないとか、「ヤード」経営者の氏名や住所などの届け出が義務付けられたそうである。
これ、当たり前のことだと思うのだが、今までが、そうじゃなかったことに驚く。
持ち込まれる車が盗難車の可能性もあるわけだから、持ち込んだ人の身分証明の写しくらいは保管するのは”商売”として当たり前のことだと思うのだが・・・
この「ヤード」の経営というのは、今まで、かなりいい加減なものだったのか?
空き地があれば、誰でも“経営”が出来ちゃったわけ?(唖然)

日本在住の、どこかの国の人間が“経営”していたとすると、怖くて手が出せず、怪しいと思っても見て見ぬふり、今まで黙認していたのかな?(大汗)

この条例を受けて、茨城県警は「ヤード」への立ち入り検査を強化したらしい。
そのせいか、今年の自動車盗の認知件数は大幅に減ったという。
7月末現在で、昨年比330件も減ったそうだ・・・(驚)
盗難車を処分するルートの一つである「ヤード」が厳しく管理されたら効果てきめんということか?
ということは・・・今までは、それだけ、自動車盗と「ヤード」が直結していたということになるか?
「ヤード=盗難車処分場」ということか?
まじめな解体業を営んでいる人にとっては迷惑な話だろうなぁ~

それでもまだ、「違法ヤード」というのがあるらしい。
この条例には罰則が設けられているそうだが、届け出義務違反とか、相手の確認の義務違反の罰則は、3か月以下の懲役か30万円以下の罰金だそうだ。
甘いんじゃない?
もっと罰則を強化して、違法行為をやったら“割が合わない”というようにしないと根絶できないんじゃなかろうか?
30万円以下ではねぇ~・・・
摘発される前にガッポリ儲けて、最高額でも30万円だけ払えばいいんでしょ?
それじゃ無くならないんじゃないかね?・・・・「違法ヤード」・・・・

エッセイ | 20:02:56 | Comments(0)
自動運転の“罪”
法人会の理事会後の懇親会の席でのこと・・・・
会場でビールを勧められたが断った・・・

「え?ウーロン茶?」
「いやぁ~車で来たものですから・・・」
「あ~それじゃ、駄目だね」
「え~・・・私の車は自動運転じゃないので・・・」(笑)

と・・・冗談話から話が弾んだ・・・

「そうかぁ~・・・でも、自動運転だったら酒を飲んでも大丈夫なんですかね?」
「いいんじゃないんですか?酔っぱらっていても・・・だって、自動運転ですから、私は運転してないもん!」(笑)
「そうだよねぇ~」
「だから、ビール瓶を片手に運転席に座ってラッパ飲みしていても大丈夫でしょ?」(大笑)
「いや・・・それは、ちょっとやり過ぎでしょ」(苦笑)
「でもハンドル握ってないし・・・アクセルペダル踏んでないし・・・ただ座っているだけですけど・・・」(笑)
「そうだよなぁ~・・・・そういう場合、どうなんだろうねぇ~」(苦笑)
「自宅でソファーに座って酒を飲んでいるのと同じ状態なんですけど・・・」(笑)
「そうだよなぁ~そういうことになるよなぁ~」(苦笑)

酒気帯びした人、もしくは泥酔した人が運転席に座って「自動運転」で車を“運転”した場合、これを「酒気帯び運転」とか「飲酒運転」という罪に問えるだろうか?
法務省はどう考えているのだろう?
もしかして「酒気帯び運転」とか「飲酒運転」という言葉は死語になっちゃうかも・・・(大笑)
そうなると・・・「酒気を帯びた状態もしくは泥酔した状態で自動運転の設定をした罪」という新たな刑罰を作っておかないとマズイんじゃあるまいか?(大笑)

で・・・さらに思ったのだが・・・
「居眠り運転」も同様で・・・
車は自動運転、運転席には熟睡した人が乗っていた・・・なんていう場合も、どうなるんだろう?
「運転」していないんだから「居眠り運転」じゃないよね?(苦笑)

たとえば・・・パトカーから「前の車!止まりなさい!」と言われても、「自動運転」だから止まらないと思うんですよね。(大笑)
この時に、万が一、ブレーキペダルを踏んじゃうと、その時点で「自動運転」ではなくなるわけで・・・
その時点で、酒気帯び運転や飲酒運転、居眠り運転を指摘されて罪に問われちゃうでしょうから・・・
それなら警告を無視して「自動運転」のまま走り続けたらいいということになる。
そうなった場合、警告を無視したんだから・・・「公務執行妨害」ということになるのかな?(苦笑)
「公務執行妨害」をしたのは、運転席に座っていた人なのか、それとも「自動運転」で走り続けた車なのか・・・
「車の調子が悪くて自動運転が解除できなかったんです!」(涙)と言い訳されたら・・・
警察は、どちらを罪に問えばいいんだろう?(大笑)

「自動運転」って便利なようで厄介なような気がしてきた・・・(大汗)

エッセイ | 22:53:00 | Comments(0)
大腸の内視鏡検査を受ける
今日は、拙者自身の検査・・・・
気になっていた大腸の内視鏡検査である。
前回の検査は、もう10年ほど前のこと・・・・
母が亡くなってまもなくの頃で、自分では頑丈だから大丈夫と思っていたが・・・
看病疲れと母を看取ったショックと生まれて初めて葬儀を出すということで、かなり精神的にも肉体的にも参っていたのだろう。
自分では全く自覚がなかったが、検査をしてみたら大腸にポリープがあったので切除した。
あれからもう10年も経つ・・・
あっという間だなぁ~(唖然)

1年後に再検査をするはずが、ズルズルと延びてしまい10年である・・・・(苦笑)
ヤバイよなぁ~・・・これ・・・・
体質的にポリープができやすい体質ならば、10年も放置というのはヤバいだろ?(苦笑)
なんか・・・腸に違和感を感じているのはそのせいかもしれない。

で・・・・今日、ようやく検査をすることにした。

大腸の内視鏡検査は“大変だ”“苦しいらしい”とかって聞くけど、なぜか拙者は何ともない・・・(笑)
看護師が「痛み止めの薬を使いましょうか?」と言うが、お断りする。
ウトウト寝ている間に検査が終わるらしいが、それでは、折角、自分の大腸内部を見られるチャンスを失うことになるので、それは嫌だ・・・(苦笑)
特に痛みも感じないし・・・・いいんじゃない?・・・このままで・・・・(笑)

横になってモニターを見ながらの検査・・・・
ほぉ~・・・・である。(笑)
自己診断では、どこにもポリープらしきものは見当たらない。
うん、異常なしだな・・・と自己判断する。(大笑)

ずいぶん昔・・・・胃のレントゲン写真を見せてもらって、すぐに胃潰瘍の部分をみつけたことのある拙者である。
自己診断については、生意気にも“自信過剰”なところがある。(大笑)
後日、血液検査、超音波、CTの検査結果などとまとめて医師から報告を受けることになっているが、とりあえず、大丈夫だろう。

胃や腸の違和感は「気のせい」ということで片づけることとする。(大笑)

日記 | 19:43:54 | Comments(0)
『日本人とロシア人』


日本と隣国ロシア
     地図上の日本
     シベリアへの進出
     蝦夷地の開発

ロシア人の東方発展
     イヴァン雷帝の時代
     コサックとは?
     シベリア征服のはじまり
     ロシア人の開拓精神
     オホーツク海沿岸へ
     ポヤルコフの探検

アトラソフと伝兵衛
     デジニョフのアジア北東端回航
     カムチャーツカ半島へ
     漂流の日本人
     大坂を出て7年
     ピョートル大帝
     日本語学級の教師として
     日本語学級後日譚

ベーリングの探検
     ネルチンスク条約
     千島の探検
     ピョートルの熱中
     第1回の探検
     発見者フョードロフ
     第2回の探検へ
     遭難と死と
     チリコフの航海

元文の黒船
     シュパンベルグ、日本へ
     東北の東海岸へ
     おく病な艦長
     日本側から見た異国船
     房州沖の黒船
     紙幣と思ったはトランプ

ハンベンゴローの警告
     カムチャーツカ脱出
     オランダ商館長へ
     ロシア人南下の警告
     ラッコを追って
     イルクーツクの日本語学校
     松前藩とロシア
     赤蝦夷のうわさ
     交易を求めるロシア人
     江戸へは内密

幕府の蝦夷地巡視―工藤平助と林子平
     鎖国時代のロシア観
     松前藩のロシア知識
     長崎からおこる北辺論
     『赤蝦夷風説考』
     第1回の蝦夷地巡視
     罰せられた林子平

最上徳内と3人の赤人
     師の代わりに
     3人の赤人
     禅問答
     庭に十字架が
     つづく激論
     ウルップ島から戻って
     別離
     北方問題の先駆者

大黒屋光太夫とロシアの女帝
     漂流8ヵ月
     孤島へ上陸
     苦難のなかの喜劇
     出迎えを待って
     カムチャーツカへ
     レセップスとの出合い
     イルクーツクへ
     庄蔵の入信
     救いの人
     首都ペテルブルグへ
     新蔵の来訪
     女帝の招き
     女帝の手にくちづけ
     気に入られた光太夫
     光太夫を詠んだ歌謡曲
     都内の見学
     帰国のゆるし
     女帝のおくりもの
     首都へのわかれ
     生別離苦のかなしみ
     キリール夫人さようなら
     ヤルクーツクへ
     シベリアの炎暑の旅
     キリールとのわかれ

最初の遣日使節
     エカテリーナ2世の遣日勅書
     アダム・ラクスマン中尉
     根室に到着
     根室で越年
     熊蔵と小市の死
     箱館へ
     松平定信のはら
     松前へ
     幕吏との会見
     光太夫らの引っ越し
     ラクスマンの贈答品
     使節の帰国
     漂民ご覧の光景
     お飼殺しの一生
     光太夫の死

近藤重蔵らの活躍
     急迫する北辺情勢
     ロシアの事情
     最初の世界周航計画
     仙台漂流民が同乗
     上陸はしたが・・・・
     幕府の応接
     遠山の金さんとの会見
     レザーノフの失望
     仙台漂流民の運命
     レザーノフの死
     世界周航が終わる
     レザーノフの内命

ゴロヴニンの日本幽囚
     ロシア将校らの海賊行為
     ゴロヴニンの逮捕
     松前での軟禁
     脱走の失敗
     捕らえられた高田屋嘉兵衛
     「長官」とうやまわれて
     間宮林蔵との会見
     クナシリへ
     リコルド、箱館へ
     ゴロヴニンの帰国
     高田家の没落

最初のロシア語通訳
     上原熊次郎と村上貞助
     足立左内と馬場佐十郎
     ゴロヴニン『日本幽囚記』

文化年間の漂流民
     安芸の久蔵
     『漂流聞書』と種痘苗
     尾張の小栗重吉
     漂流民のロシア語
     その後の日本語学校

プチャーチンの長崎談判
     まず日本語の研究
     リンデンベルグ、下田へ
     漂流民の受けとりを拒絶
     プチャーチン、長崎へ
     見えかくれする大砲
     待たされた3ヵ月
     会談の開始
     激論の国境問題
     談判終わって

下田条約の締結
     クリミア戦争の勃発
     プチャーチン、大坂へ
     談判の開始
     談判つづく
     川路聖謨と写真
     修好条約の調印
     両全権の感想

戸田村のロシア人
     幕府、造船を許可
     造船の開始
     困難をのりこえて
     村民との交流
     船の竣工と帰国

密航者橘耕斎
     なぞの生いたち
     日本脱出
     ペテルブルグへ
     日露事典の刊行と協力
     “蔭の接待者”
     姿をあらわした橘耕斎
     おどく森有礼
     帰国と晩年

日露通商条約の締結
     幕府、蝦夷を直轄
     日露通商条約の締結
     ムラヴィヨーフ、江戸へ

ロシア・士官水夫殺傷事件
     オールコックの見た殺傷事件
     ロシア士官の記録
     犯人は水戸浪士

対馬事件
     竹内使節団
     ペテルブルグへ
     実らなかった交渉
     帰化をすすめられた諭吉
     交渉再開へ
     暫定協定に調印
     日本最初の樺太周航者岡本監輔

最初の遣露留学生
     人選
     出帆
     首都における生活
     新学期はきたが・・・・
     山内の帰国
     留学生の帰国

箱館にきたロシア文化
     レーマンとマクシモーヴィッチ
     牧野富太郎とマ博士
     ロシア行きの挫折
     ゴシケーヴィッチ領事
     洋医診察と洋式建築
     長崎花街のロシア語

榎本武揚と樺太・千島交換条約
     維新はじめの外交
     樺太問題と黒田清隆
     榎本と黒田
     ペテルブルグへ
     西徳二郎
     もつれる交渉
     条約の調印
     舞踏会に招かれて
     露土戦争の報告
     帰国の決定
     シベリアを横断して
     その晩年

大主教とニコライ堂
     ニコライ堂を建てる
     鎖国禁教下の日本へ
     ニコライ、東京へ
     半世紀におよぶ日本伝道

大津事件と日本の司法
     真夜中の非常ラッパ
     ロシア皇太子の来日
     皇太子切らる
     犯人、津田三蔵
     天皇のマッチ・サービス
     山をなす見舞品
     皇太子の帰国
     死刑をのぞむ政府首脳
     児島惟兼
     公判と司法権の独立
     激怒する西郷内相
     後日談

福島中佐のシベリア単騎横断
     二つの冒険
     シベリア横断へ
     盛大な歓迎式

二葉亭四迷とロシア文学
     生いたち
     外国語学校入学
     ロシア語の授業
     文学に魅せられて
     外語の廃校と退学
     『浮雲』
     青春彷徨
     外国語学校教授として
     職を投げうつ
     ハルビンにて
     北京から帰国
     朝日新聞社入社
     日波協会
     第二のチャンス
     いよいよ出発
     白夜の露都
     重なる不運
     死の航路

ロシア人捕虜と松山収容所
     日露戦争勃発
     ロシア戦傷兵、松山へ
     捕虜第一号
     捕虜慰問
     捕虜の観光
     労役と学校
     海軍少尉レインガルト
     “オハナサン”
     外出禁止
     恋文がばれて
     実らなかった恋
     捕虜の帰国

広瀬武夫とロシアの恋
     “軍神”という虚像
     「ロシア語をやりたい」
     ロシア留学へ
     ペテルブルグへ
     スペランスカヤ嬢
     ロシアの家にうつる
     ロシア語の勉強
     駐在武官になる
     コヴァレフスキー少将一家
     アリアズナ嬢の訪問
     わきたつ血
     父の死
     ソリに乗る約束
     破られた「相思の情」
     さらばペテルブルグ!

あとがきにかえて (中村新太郎)

後記 (中村新珠)

主要参考文献

写真出所一覧

【地図】
千島・樺太周辺
ベーリング海・アレウト列島周辺
日本とロシア


今年の読書:47冊目



読書 | 22:42:24 | Comments(0)
『満鉄中央試験所』


序章 “淡い存在”との出会い
       郷愁の街・大連
       非業の死を遂げた満鉄技術者
       今に引き継ぐ技術
       満鉄技術者の生きざま

第1章 満鉄技術者の気風
       海を渡る御神酒徳利
       二人の名物科学者の下に
       独立自尊の総合研究機関
       首切りの嵐
       ヨーロッパ留学
       大豆から人造石油を
       オイルシェール開発
       技術論争を巡る悲劇
       ロマンと自由な空気に憧れて

第2章 戦時下態勢に移行
       戦火渦巻く中国大陸
       「満鉄包囲網線」の形成
       満鉄「改組事件」
       関東軍を屈服させた満鉄社員会
       満洲国誕生と満鉄
       大豆エタノール抽出法の確立
       石炭液化は海軍方式で

第3章 科学者魂の男
       中央試験所の所長人選
       総裁に三顧の礼で迎えられた人物
       頑固一徹の血筋
       大正デモクラシーの科学者
       「万有還銀術」事件で教授辞任
       所員二百人増員計画
       研究者の人材確保に奔走
       戦時下の留学研修制度
       石炭液化問題に最終決着

第4章 揺らぐ満鉄、試練の中試
       日中全面戦争に突入
       揺らぐ満鉄の経営基盤
       満鉄「大調査部」の発足
       華麗なマルクス主義者
       生え抜きの所長誕生
       丸沢常哉を再び招聘
       ついに国家総動員態勢へ
       目の前にせまった終戦

第5章 いかにして中央試験所を残すか
       大連の大空を覆った焚書の炎
       研究施設の引き渡しを潔く決断
       消えた膨大な満鉄関係資料
       ソ連駐留軍に財産目録を提出
       原子力開発研究の嫌疑
       モスクワの直轄管理
       国共内戦の勃発
       生活維持のための生産活動
       帰還を前に強引な留用工作
       中国側への移管準備

第6章 残留科学者の戦後
       大連市政府への移管
       最後に残留した10名の科学者
       研究業務を再開した科学研究所
       帰還技術者の就職斡旋に奔走
       政治闘争の嵐に直面
       新中国での研究業績
       組合問題の再燃で帰国中止命令
       帰国直前の大陸奥地勤務

終章 受け継がれた精神と技術
       人目をはばかりながらの旧友来訪
       生き続けている「丸沢精神」
       満州開発ロマンの追認

年表

参考文献一覧

解説 (佐高 信)


今年の読書:46冊目



読書 | 12:05:33 | Comments(0)
原田さんの映画を見に長野へ行く
今回は2泊3日の小旅行。
昨日家を出て前泊して長野市にある映画館へ向かう。
親父のことが多少心配だったので、東京から妹に来てもらい、拙者が留守中、親父の面倒を見てもらう。
妹に留守を任せて兄は映画鑑賞とは申し訳ないが・・・(苦笑)

先日、予科練の“戦友”からご連絡をいただいた。
零戦搭乗員だった原田要さんが昨年お亡くなりになっていて、氏のドキュメンタリー映画が完成したので、その上映があるという。
が・・・場所は長野市にある「相生館」という映画館だけでしか上映せず、しかも期間限定だという。
「長野じゃ無理ですよねぇ~」とのことだったが・・・
いや、いや、まてよ・・・・
11日には東京で伯父の新盆の法要がある。
これには参列するつもりでいたから・・・じゃぁ、その前に長野に足を延ばして映画を観賞しようと計画した。

原田さんは、零戦の搭乗員・・・・
真珠湾攻撃にもミッドウェイ海戦にも参加されている。
7年前にミッドウェイ島で開催された「日米合同慰霊祭」にご一緒させていただいたことがある。
当時92歳・・・・
92歳で海外旅行をするとはすごいなと思った。
この時に、艦上攻撃機や偵察機などの元搭乗員なども参加されていたが、零戦の搭乗員は一目置かれていた。
で・・・・なぜか、拙者も「零戦の搭乗員ですよね?」と言われ驚いたことがある。
「さすがは零戦の搭乗員ですねぇ~杖もつかずかくしゃくとして・・・さすがですねぇ~」と褒められた。(大笑)
いったい、皆さんは拙者を何歳だと思っていたのだろう?(大笑)
そんなに老けて見えるのか?(大汗)
みなさん異口同音に「機上火災で大火傷を負った戦友に似ている」とおっしゃる。
拙者の雰囲気が零戦搭乗員ぽいのだそうだ・・・・
戦後生まれですと教えたら大笑い・・・・
今でも強烈な思い出の一コマである。

原田さんが去年お亡くなりになられていたとは知らなかった・・・・(大汗)
99歳9ヵ月だったそうである。
あと、もうちょっとで満100歳を迎えられたのにねぇ~
お亡くなりになった当日のこと・・・
アメリカの元太平洋軍司令官であるヘイズ海軍大将の名代として副官だったマイヤーズ元海兵隊中佐がハワイから来日した。
原田さんの100歳を祝って、プレゼントを持参してきたのだが、長野駅に降り立った時、迎えに来た方から「今朝、お亡くなりになりました」と言われ愕然としたという。
あ~なんというタイミングか!

期間限定で、しかも上映場所は1ヶ所しかないとなると、これは何としてでも行かねばなるまい!
直接、お別れすることが出来なかったので、映画を見てお別れをしたい。

長野駅には過去に降り立ったことがあるはずなのだが・・・・・
相変わらずの記憶力の悪さ・・・・(涙)
さっぱり思い出せない。

タクシーで映画館に向かう。
茨城から映画を見に来たんだと運転手さんに話したら「茨城にも映画館はあるでしょう?無いんですか?」と笑われた。(苦笑)
実は・・・・ということで原田さんのお話をしたら、この運転手さん、原田さんへ取材に向かうTV局のスタッフを乗せて原田さん宅に行ったことがあるという。(驚)
「あ~あの原田さんですか!」ということで、一気に話が盛り上がった。
なんという偶然だろうか?

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なんともレトロな雰囲気の漂う映画館である。
こういう映画館・・・・懐かしくて大好きである!(喜)
我が町にも映画館がいくつかあった・・・・3ヶ所だっけ?2ヶ所だっけ?
小学生の時に「バットマン」や「ドリフターズ」のドタバタ劇の映画を見た映画館は早々と廃業した・・・・
大学生の時に見に行った映画館は、観客が拙者一人・・・
その昔、中学生の時に学校で「映画鑑賞会」があり、ジョン・ウェインと11人の少年カウボーイの映画を見た大きな映画館は、拙者が大学生の時には観客は拙者一人という閑散さ・・・
館内に観客がいなくても、時刻通りにフィルムを回すのだそうで、ただライトを点けないので映写はしないとのこと。
「途中からでもいいですか?」と言われ、拙者のためだけに映写をしてくれた映画館・・・・
広い観客席のど真ん中に一人で座って見たが・・・・何の映画だったか思い出せない・・・・(汗)
その映画館も、まもなく廃業してしまった。
今では我が町には映画館は1軒ものこっていない。
ここ長野には、かなり昔からやっていたのだろう、レトロな映画館が今でも現役なのには大感激した!

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少し早めに到着したせいか、観客が4名ほどしかいなかった。(汗)
余計なお世話だが・・・・大丈夫だろうか?
着座して待っている間にパラパラと観客が入ってきたが、それでも10名程度である。
上映ギリギリになってから続々とやって来て、最終的には50名以上いたと思う。
平日で、しかも午前と午後の2回の上映で、午後の上映に50名以上も集まるんだからすごいものである!(驚)

原田さんは戦後、幼稚園を経営されていた。
親子二代でお世話になったという人も多いと伺っている。
こんなに集まるとは・・・・この方々は幼稚園関係の方々なのだろうか?
原田さんの人柄がわかる。
長野駅に降り立ったマイヤーズ元海兵隊中佐のシーンも地元のTV局が撮影していたのだろうか、映画の中でも最後に流れた。
原田さんの亡骸に英語で話しかけるマイヤーズ元海兵隊中佐を見ていると涙が溢れてきた。
マイヤーズさんとは、何度もお会いしているだけに、その心境を思うとツライ・・・
わざわざハワイからやって来たのに、一足違いで先立たれてしまったとは・・・・
ラストシーンは本当につらかった・・・
涙が止まらない・・・・

帰りがけに原田さんの著書が販売されていたので購入する。

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帰りは地下鉄で長野駅まで戻る。
長野に地下鉄が走っていたなんて知らなかった・・・(汗)
本当に拙者は長野に来たことがあるのだろうかと、その記憶自体が疑わしくなった。(苦笑)
映画館近くの駅から乗ったのだが、これまた昭和レトロ雰囲気の漂う駅で・・・・
いやぁ~嬉しくなっちゃうなぁ~これ・・・・

長野駅からそのまま真直ぐ東京に向かい、上野駅近くのホテルにチェックイン・・・・
従姉と明日の伯父の新盆の打ち合わせをする。

日記 | 10:50:15 | Comments(0)
手すり設置の打ち合わせ
今日、友人の“ウメちゃん”に自宅に来てもらう。
彼は材木屋さんで一級建築士で、工務店もやっている。
以前、うちの親父の体調に合わせて、家の中のバリアフリー改造をしたいとの話をしておいた。
あとは、親父の状況次第でゴーサインを出すということにしておいたのである。

で・・・このところの親父の衰弱は一時的というより“慢性化”しているように思える。
廊下を歩くにもフラフラしている。
ということで、以前に話した“方針”に従って、“ウメちゃん”にゴーサインを出すことにした。

事前に「計画」を話しておいたので、打ち合わせは簡単である。
やっぱり、事前に何でも話しておくと後が楽である。(喜)
廊下とトイレ、トイレの手洗い場に手すりを付けることにした。
事前に、このあたりに、こんなものを取り付けようかと話をしていたので、打ち合わせは、改めて親父の動きに合っているかの確認と、取り付け部の寸法測定のみである。
パパッとあっさりと打ち合わせを終了する。

問題は・・・補助金の申請である。
以前と違って昨年あたりから申請書の添付資料が面倒くさくなったそうだ。(唖然)
まぁ、お役所のやることだから・・・・(苦笑)
あれやこれやの資料を整えるのは確かに面倒だし、そこまで“ウメちゃん”に手数をかけるのも申し訳ない。
しかも申請してから許可が出るまでに時間がかかる。
許可が出てからでないと工事に取りかかれないとなると、その間に、もし転倒して怪我でもされたのでは、補助金の額以上の医療費を支払わねばならぬことにもなりかねまい。
親父の介護の費用は、親父の年金から出すわけだし・・・(笑)
拙者は自分の貯金を1円たりとも親父の為に使おうなんて気はないし・・・(大笑)
実費でいいんじゃないのぉ~
どうせ親父のカネだ・・・・(大笑)
“遺産”など残しても仕方があるまい。
自分のカネは自分のために使えばよろしい。(笑)

というわけで・・・・ケアマネージャーには補助金の申請をせず実費で工事をすることにした旨を伝える。
さすがに呆れたような返事をもらったが・・・(苦笑)
何でもかんでも補助金に頼る根性は拙者は好きではない。
本当にカネがないなら、いざ知らず、とりあえず何とかなるなら補助金は必要な人に使ってもらうべきだ。

医者からは「いつどうなってもおかしくない状態だ」と言われている。
手すりを付けた途端にポックリ逝かれたら・・・ちょっともったいない。(笑)
補助金の申請なんかでモタモタしている余裕などないのである。
「取り付けた途端に一度も使わずポックリ逝ったらどうしようか?」
「いやぁ~それはやめてよぉ~せっかく取り付けるんだから頼むから使ってくれよなぁ~」と“ウメちゃん”・・・
「一度も使わなかったら、おカネ、払わなくてもいいよね?」(笑)
「うそ!おい、おい、勘弁しろよ~、絶対使ってくれないと困る!お父さんを長生きさせろよ!」(大笑)
ワイワイとふざけながら打ち合わせ終了・・・・
こういう友人がいて本当にありがたいと思う。

日記 | 11:14:12 | Comments(0)
親父が衰弱・・・
今日、医師の往診があった。
で・・・・その結果・・・
かなり衰弱していて危険な状態であるという。(大汗)
いつどうなってもおかしくないという。(大汗)

そうだろうなぁ~
なにせ、この暑さの中、飲まない食べない・・・なのだから、そりゃ衰弱もするだろう。
とにかく親父は頑固である。
しかも、ただの頑固者ではない。
間違ったことを頑固にやろうとする。
他人から何か言われると素直に受け取らず、言われたことの逆をやるという、ひねくれ者でもある。
これは昔からのことだから、歳を取っても変わらない。

飲ませよう、食べさせようとしても口を真一文字につぐんで食べようとしない。
「食欲がない」の一点張り。
「このままでは衰弱してしまうから少しでも飲んだり食べたりしないと駄目だぞ」と言えば言うほど頑強に抵抗するのである。
で・・・・1日1食がやっと・・・というありさま。
拙者の目を盗んでお菓子などをこっそり食べているようだが、そんなお菓子では栄養が取れるわけがない。

ついに家の中を歩くのにも苦労し始め・・・フラフラ、ヨタヨタとなる。
「どうして、こうフラフラするんだろう?」と親父・・・
「食べてないからでしょ!水分も取ってないからでしょ!」と言ってもダメ・・・・
原因はそこではない・・・・他に何か原因があるに違いないと勝手に思っているらしく、「何か効く薬はないのか?医者に聞いてくれ」と言うんだからお話にならない。
若い頃から何かというと薬に頼っていた男である。
何十年も薬漬けになっているんだから、まともじゃない・・・

医者から「危険な状態」と言われても手の打ちようがない。
無理やり口をこじ開けて、飲ませたり食べさせたりするわけにもいかないだろう。
気管に入ったら、それこそ、そっちのほうが問題ではなかろうか?
参ったなぁ~・・・こういう頑固おやじには・・・・
何かあっても「自業自得」と割り切るしかないか・・・
半分ボケている親父に「自業自得」とは可愛そうな言い方になるが・・・・

医者から、先々の話ですけど・・・と“家族”として最期をどう看取るかの意思の確認をされた。
拙者の回答は「延命処置はやらなくて結構です。そのまま逝かせてください」である。
で・・・可能な限り、その最後の最後まで、できれば自宅で拙者が面倒を見ようと思っていると伝える。
最悪の場合は施設に入れることも選択肢の一つだろうが・・・・
できれば施設とか病院で息を引き取らせたくないんだよねぇ~
拙者自身が施設や病院では息を引き取りたくないから、そう思ってしまうのだが・・・・
拙者の場合は自宅で死にたい。
できれば土の上で死にたいのである。
見た目は悪いし、他人から見たらみじめな死に方に見えるかもしれないが・・・・(笑)
土の香りや草の香りを嗅ぎながら・・・ス~ッと息を引き取れたら最高だと思っている。
親父の場合はどうなんだろ?
どういう死に方をしたいんだろ?
呆けた親父に確認のしようもないが・・・・(苦笑)

これ以上、衰弱したら点滴で栄養補給という手もあると拙者は考えていたのだが・・・
往診の先生は「危険な状態です」の一点張りで、じゃぁ、どう対応しようかという意見は一言も言わない。
往診とは、そんなものなのだろうか?
拙者の言っている「延命処置拒否」は、何も手を打たずにそのまま放置するという意味ではないのだが・・・・(汗)

日記 | 20:01:52 | Comments(0)
自分自身の検査をせねば・・・・
毎年2回、集団健康診断を受けているが、一応、受けているだけ・・・・(苦笑)
自分の体調が知らぬうちに最悪の状態になっているかどうかだけがわかればいいという感じ・・・・

先日、近くの病院に、健康診断の結果を持参して相談に行った。
実は、このところ胃と腸に違和感があったのである。
どちらかに、もしかしたら両方にポリープがあるのではなかろうかという気がした。

各項目の検査結果を見て、最初に先生が気にしたのが「胆のう」の結石である。
超音波検査で小さいものが多数あるらしいことがわかっている。
この結石は、消えてなくなるとか、体外に排出されることはないのだそうだ。
で・・・問題となるのは、この結石が胆汁の出る管に詰まってしまった場合である。
「過去に激痛を感じたことはありませんか?」と尋ねられたが・・・
過去に3回ほど腹痛を起こしたことがあるが、これがとんでもない激痛だったが、位置的に胆のうのある場所ではなかったような気がする。
なにせ、痛みが消えれば忘れてしまうたちなので・・・
どのあたりが痛かったのさえ覚えていない。(苦笑)

というわけで・・・今日は、胆のうの超音波検査とCT検査、血液検査を受けることとなった。
とりあえず、どういう状況か把握しておこうということらしい。

で・・・・胃の方は、健康診断の結果から見て、特に問題があるようには見えないので、検査はしないとのこと。
大腸の方は、10年ほど前に大腸ポリープを切除しているので、念のため内視鏡検査を後日行うこととなった。
「で・・・その時はポリープは何個取ったんですか?」と尋ねられたが・・・
「さぁ~?」
「大きさはどのくらいだったんでしょ?」
「さぁ~??」
医者に笑われてしまったが・・・・
もう昔のことなので全然覚えていない。
そもそも、そういう話を聞いた覚えがない。
「取りました」と言われただけだったような気がする。
なんともいい加減な話だが・・・(苦笑)

親父の介護をしている、こちらが先に倒れたのではお話にならないので、とりあえず、先手を打つ。(大笑)

日記 | 11:53:02 | Comments(0)
『中国に夢を紡いだ日々』


まえがき

Ⅰ はじめての訪中で折り紙つき親中派に
     「戦後民主主義」のメッカに入社
     「長すぎた春」
     60年安保前年の訪中―1959年4月6日~5月13日
     後で分かった、考えた

Ⅱ 文化大革命支持で党除名
     60年安保とは何だったのか
     深まる中ソ対立
     文化大革命始まる

Ⅲ 二度目の訪中、文革の見直し
     「あさま山荘事件」直後の再訪中―1972年3月18日~4月6日
     日本、中国との国交樹立―芽ばえ始めた違和感
     後で分かったこと
     文化大革命を振り返る
     文革、終熄す

Ⅳ 改革開放、天安門事件、「日中友好」との訣別
     鄧小平の時代来る
     ナマの中国人とつきあう
     「右派分子」だった中国人
     民主の壁、そして天安門事件
     「日中友好」との訣別

Ⅴ 江沢民反日政策への疑問、「拉致」の打撃
     北京での1年
     「反日」教育の成果―「抗日戦争勝利50周年」
     金正日、日本人拉致を認める―私には二重の打撃
     北は「善」、南は「悪」
     初の韓国行き
     『現代コリア』のお手伝いを始める
     いろいろ見えて来たこと

Ⅵ 幻想の「日中友好」
     中国の反日行動たかまる
     2008年の中国
     2009年の中国
     うっかり病気になれない中国、アメリカも
     「認識には過程がある」、自立した思考を

Ⅶ 中国点描
      1 北京だより
      2 浪費と虚栄
      3 「旅行大国」中国
      4 早春の北京
      5 北京の日本人
      6 カギの国
      7 ハードとソフト
      8 1年ぶりの北京
      9 コピーの国
     10 やっぱり中国人が好き
     11 中国人のここがキライ
     12 中国人と戸籍
     13 北京の住宅
     14 「ちがい」を楽しむ
     15 散砂の民
     16 この夏、中国の旅で
     17 中国への親近感について
     18 秋の北京へ
     19 中国の高齢者
     20 科挙の国(その1)
     21 科挙の国(その2)
     22 下崗
     23 1年ぶりの北京
     24 汚職体質
     25 裴斐先生を憶う
     26 変わる北京、変わらぬ北京
     27 格差社会
     28 2年ぶりの北京
     29 へなへなの国

あとがき


著者は、「戦後民主主義」のメッカと呼ばれた岩波書店に入社した人・・・・
岩波書店が「戦後民主主義」という左翼だと初めて知った。(苦笑)
そして著者は組合運動の活動家になり、共産党員にもなって、「中華人民共和国」大好き人間となったらしい。
が・・・・そのうち、中国の実態を知ると、今までの“熱病”に変化が起こった。
著者は天安門事件がきっかけとなり日中友好協会を脱会した。
この事件で親中の人たちは冷や水を浴びた感じだったのではないかと思う。
それでも、“媚中”のままでいる人の気が知れないが・・・(苦笑)
まともな人なら・・・「おや?」と思うだろう。
中国は素晴らしい国だと信じていたのに、あの事件なのだから・・・・
著者には今年、たぶん90歳近くになるとおもうが、一度だけお目にかかったことがある。
中国大好き人間が、どのような経過で、中国を冷めた目で見るようになったのか、ご自身の半世紀の検証を試みた回顧録が本書である。
いわゆる左翼から右翼に“転向”したというわけではなさそうで、今でも中国共産党が支配する「中国」ではなく、広い意味での「中国」は好きなようである。
どっぷりと共産主義に浸った人が冷めた目で見た「中国」という面白い本である。


今年の読書:45冊目



読書 | 10:29:52 | Comments(0)
『北一輝論』


Ⅰ 北一輝解釈と時代背景

Ⅱ 「国体論」の粉本

Ⅲ 史的「乱臣賊子」論

Ⅳ 明治天皇と天智天皇

Ⅴ 「改造法案」の自注

Ⅵ その行動軌跡の示すもの

Ⅶ 北一輝と西田税

Ⅷ 決行善後

Ⅸ 断罪の論理

対談 ある国家主義者の原像 (久野収・松本清張)


北一輝に興味があって読んでみたが・・・・
松本清張の文章って、こんなに難しかったっけ?・・・・というのが第一印象。(苦笑)
なんだか、わかったような・・・わからなかったような・・・で読み終える。
かなり読解力が衰えてしまったような気がしてならない。


今年の読書:44冊目



読書 | 00:43:56 | Comments(0)
『太平洋戦争終戦の研究』


まえがき

 1 原爆の決断
       原爆予知と恐怖
       原爆開発の決断
       遅々たる進展
       日本の原爆

 2 痛恨の開戦
       開戦への道
       最後の点火
       近衛文麿の悲嘆
       ハック痛恨の書簡
       ルーズベルトの憤激
       チャーチルの歓喜
       真珠湾作戦の利害得失

 3 驕兵久しからず
       戦訓生かされず
       ミッドウェーの大敗

 4 アメリカ海軍の首脳
       日米海軍最高人事の優劣
       キング
       ニミッツ

 5 原爆の進展と開発攻防戦
       マンハッタン計画のスタート
       徹底した機密保持
       ドイツ原爆への妨害作戦

 6 やむにやまれぬ特攻
       日本海軍の暴走
       日本潜水艦戦の失敗
       特攻への発端
       米日海軍の客観情勢

 7 崩れゆく戦線
       ギルバート、マキン、トラックの悲惨
       特四内火艇と㊅兵器
       連合艦隊司令部全滅
       あ号作戦の大敗と米日潜水艦の明暗
       特攻本格化す
       大海指発令
       特攻部の発足と桜花部隊創設

 8 捷号作戦と神風特攻
       捷号作戦
       神風特攻隊出現
       天皇と特攻

 9 水中特攻「回天」の戦い
       回天作戦準備指令
       海底の悲歌
       ウルシー礁内の劫火

10 航空特攻、海上戦の主力となる
       神風特攻の猛攻
       連合国海軍士気への影響

11 ヤルタ会談
       その前夜
       ルーズベルトの理想と健康
       ポーランド問題
       対日参戦の協定
       チャーチルの手記
       ヤルタ会談の功罪
       ルーズベルトの急死
       ヒトラーと鈴木貫太郎

12 硫黄島の激戦
       日本軍の基本戦略
       陸上戦闘
       神風と回天特攻

13 沖縄の死闘
       前哨戦
       「インディアナポリス」の被害
       陸と海との戦い
       日本潜水艦の悪戦苦闘
       回天洋上へ進撃す
       航空特攻の凄絶
       ボールドウィン観戦記
       沖縄の最後

14 原爆とトルーマン
       ケベック会談と原爆
       原爆用航空部隊
       大統領、陸軍長官と原爆
       トルーマン新大統領と原爆

15 対日作戦計画と原爆使用計画の決定
       トルーマン声明
       対日作戦計画決定
       原爆使用計画決定

16 原爆実験と運搬
       原爆投下目標の検討
       原爆実験成功
       原爆の運搬

17 親日紳士3人の和平努力
       ユージン・ドウマン
       ジョセフ・C・グルー
       ヘンリー・L・スチムソン
       グルーの進言
       スチムソンの覚書

18 ポツダム会談
       チャーチルの意図
       鉄のカーテン電報
       アメリカの世論
       トルーマン大統領の意図
       トルーマンとチャーチルと原爆
       トルーマン強くなる
       軍事委員会の結論
       対日宣言発表
       トルーマン『回顧録』と対ソ応対

19 終戦への長い道
       和平への難関
       哀れをとどめた小磯首相
       鈴木貫太郎組閣
       終戦へのあがき
       外務官僚の本音
       在欧陸海軍武官の和平工作

20 日本海軍掉尾の偉功と米海軍の悲惨
       伊53、「アンダーヒル」を撃沈
       針路西へ
       伊58、敵発見
       総員退艦せよ
       戦闘速報発信
       米海軍最大最悪の悲劇

21 終戦
       ポツダム宣言入電
       原爆投下、ソ連参戦
       聖断
       アメリカの対応
       聖断ふたたび

あとがき

参考文献


今年の読書:43冊目



読書 | 19:32:43 | Comments(0)
新選組長倉新八墓
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新選組長倉新八墓
従二位勲三等侯爵蜂須賀正韶書

永倉新八君本姓長倉家世松前藩に事へ禄百五十石を食む父勘次君江戸に在勤す天保十年四月十一日君を下谷松前藩邸に生む幼名榮次君少にして気誼あり撃剣を岡田十松に學ぶ年十九決志脱藩して江戸本所百合本昇の塾に入り益剣法を修む既にして君近藤勇の人と為りを慕ひ親交を訂し又土方歳三と相知る文久三年幕府将軍の入朝に先たち其の護衛の士を募るや君勇歳三等と之に應して入京す新徴組是なり幾くもなく隊首清川八郎の同志の刃に斃るゝや君勇歳三及芹澤鴨新見錦山南敬助沖田総司原田左之助井上源三郎藤堂平助平山五郎野口健司平間重助十三人京都守護職會津侯の指揮に属す世に之を壬生浪士と称す後一隊に編成し新選組と称し君其の隊将の一人たり尓来同隊は八月十八日の變に宮門を警衛し明年六月浮浪の徒池田屋に陰謀を企つるや不意を襲ふて之を斬獲し七月賊徒の禁門を犯すや剿討に與かりて皆功あり而して君の奮勇剣撃も見るべしと云ふ明治戊辰伏見の役に新選組は會津軍と共に奮戦利あらず江戸に還る尋て甲府を攻略せんとして成らず勇は歳三と共に流山に赴き勇は敵に捕へられ板橋に斬らる君は同志と靖兵隊を組織し其の副長と為り野州に至り大鳥圭介軍と共に小山宇都宮に轉戰し遂に會津の将山川大藏の軍に投じて今市に戰ひ大藏か若松に入城するや君偶々雲井龍雄と相知り米澤に抵り尋て東京に入り諸所に潜居す明治二年松前藩に復帰し藩兵に操練を授く是より先君雲井龍雄の擧に與みせんと約したるも龍雄の蹉跌に因りて成らず尓来怏々として樂とす藩醫杉村介菴の女婿と為る八年家を襲き名を義衛と改め居を小樽樺戸千葉千葉東京に移し子弟に撃剣を授け悠々閑日月を送り大正四年一月五日北海道小樽市に歿す享年七十七夫人米子との間に一男一女を生む是より先明治八年君近藤勇の霊を板橋に弔ひ松本順氏の題墓を得て墓石を建て土方歳三の名を併せ刻し且つ新選組士百餘名を其の側面に列記せり昭和三年瀧野川町北谷端睦會は践祚大體及皇弟雍仁親王同妃両殿下慶事を紀念して此の墳墓の改脩を企て寿徳寺及君の男義太郎君の同意を得て是を實行せり而して義太郎君に其の十三回忌辰に父君の事蹟を刊行して知人に配贈し今又君の遺骨を分ちて近藤の墓側に瘞め墓表を建てんと欲し余に文を嘱す余■■君の故國義援の擧を懐ひて快諾し其の行實に據り之を概記すと云ふ

昭和四年二月

従二位勲一等男爵林権助撰
正三位勲三等男爵杉溪言長書
       深川小林松年刻

(碑文より)


【東京都北区滝野川7-8-1 寿徳寺境外墓地(JR板橋駅前)】

史跡 | 12:52:35 | Comments(0)
近藤勇墓所
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東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
近藤勇と新選組隊士供養塔
北区滝野川7-8-1 寿徳寺境外墓地

慶応4年(1868)4月25日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。
その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
本供養塔は没後の明治9年(1876)5月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。
高さ3.6メートル程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。
正面には、「近藤勇 冝昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。
なお、近藤勇の諱(いみな)である昌宜が冝昌とされていることについては明らかになっておりません。
右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計110名の隊士などの名前が刻まれています。
裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 發起人 旧新選組永倉新八改杦村義衞 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衞門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂(たもと)を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。
本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。

平成16年3月
東京都北区教育委員会

(説明板より)


【東京都北区滝野川7-8-1 寿徳寺境外墓地(JR板橋駅前)】

史跡 | 11:16:44 | Comments(0)
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