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Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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パラオに行ってきます!
28日から3月5日までパラオに行ってきます!

最近、ブログの更新を怠けていますが・・・

さらに、ますます遅れます。(大笑)

とりあえず・・・近況報告です!

では・・・行ってきます!

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日記 | 19:32:52 | Comments(0)
モーナ・ルーダオの生家跡に行く
霧社から更に奥地に向かう・・・・
向かう場所は「廬山温泉」・・・・
そこに、事件の首謀者とされるモーナ・ルーダオの生家跡があるらしいので今回の予定に入れておいた。

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途中、「雲龍橋」という橋のところで下車して見学する。
この橋は史跡らしい。
が・・・ガイドの話が要領を得ない・・・・(苦笑)
史跡の説明板があったので読んでみるが中国語である・・・(涙)
この文章を、そのまま日本語に翻訳して欲しいのだが、ガイドは自分の知識だけで説明するので、よくわからない・・・(涙)
マイペースなんだよなぁ~(苦笑)

しかたがない・・・想像力を駆使しながら自力で読むしかないか…(苦笑)

説明板によれば・・・・
日本統治時代に斯庫部落(スーク社)の下にある濁水渓という川の畔に架けられた橋が前身のようである。
当時は、「斯車鐵線橋」と呼ばれていたらしい。
「鉄線橋」という言葉は聞いたことがあるが、どうも日本でいう「吊り橋」を指すのではないかと思われる。
で・・・このスーク社(斯庫部落)は「廃社」と書かれているから、現在は消滅しているという意味だろう。
この橋の西には賽徳克族(セデック族)のSUKU部落(スーク社)とGUNGU部落があるという。
わからないのは、このGUNGUの発音・・・(苦笑)
霧社の11社の部落に、このGUNGUに当てはまる発音の部落(社)がないのである。(涙)
このGUNGU部落は、現在は春陽部落と呼ばれているらしいのだが・・・・
東にはBOWARUNG部落と、MEHEBU部落がある。
BOWARUNG部落は「ボアルン社」のことで、MEHEBUは「マヘボ社」のことだろう。
ボアルン社は現在は廬山温泉部落と呼ばれているらしく、マヘボ社は現在の廬山温泉だと書いてある。
が・・・う~ん・・・「廬山温泉部落」と「廬山温泉」とは、どこがどう違うんだろう?(苦笑)
1930年10月、霧社事件が「爆發」したとき、「抗日領袖」だったMONA-RUDAW(莫那魯道=モーナ・ルーダオ)は、日本軍に追われて「敗退」するときに、この橋を「吹断」して(吊り橋を切り落としたという意味か?)日本軍が川を越せないようにしたと書いてある。
1949年、「台湾光復後」に、「龍雲将軍」という人が、橋を再建したらしく、「龍雲橋」と名付けられたと書いてある。
その後、再び名前が変わり、「雲龍橋」となったらしいが、その理由は・・・読んでも意味が分からなかった。(苦笑)

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当時の吊り橋の“主塔”部分が残されていて、そこに「雲龍橋」と刻まれている。
この橋の主塔が、どうも「史跡」らしい・・・
霧社事件当時の橋は、どのあたりにあったのかは全く分からない・・・
この橋は戦後に建てられた2番目の橋ということになるか?
説明文では、1972年に南投縣政府が、山地人(原住民)の交通の便を良くするために吊り橋を建設したというようなことが書いてある。
ん?・・・ということは、その時の橋がこれなのか?
よくわからん・・・
そうなると、この「雲龍橋」は3番目ということになるのか?
説明板によれば、「但」し・・・「小車」しか通行できないので、「大型車」に乗っている「遊客」は、ここで下車したという。
このため、「人車分離方式」の「座橋」を建てたらしい。
これが現在の「道路橋」ではないかと思うが、「人車分離」の「歩道」のほうは、どこにあるのか・・・見当たらなかった。(苦笑)
どうも、拙者の和訳も、最後の方になると怪しいものである。(大笑)

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橋のところに銅像が・・・(大喜)
男女の像であるが、服装から想像すると賽徳克族(セデッック族)ではないかと思うが・・・・
セデック族は、泰雅族(タイヤル族)の中の一つで、タイヤル族の亜流である。
以前は「タイヤル族」とされていたが、2008年に原住民の「セデック族」として台湾政府に認められた。
で・・・特徴は、顔に刺青(いれずみ)を入れているのだが・・・
この銅像の顔には刺青らしきものが見当たらない。
なんでだろう?
日本統治時代に、この刺青については厳しく禁止されたという。
そういうわけで、この顔に刺青を入れるという風習は現在では無くなったので・・・・それで銅像にも刺青を描かなかったのかも。

橋を渡り、トンネルを抜け・・・さらに山奥に向かう・・・

ガイドの話によれば、廬山温泉は、2009年に集中豪雨に遭い、壊滅的な被害を受けたという。
で・・・今では、廃墟と化しているというのだが・・・・
行って見たら、そんな風には見えない・・・(苦笑)
ごく普通に営業しているように見えるんですけど・・・(汗)

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吊り橋を渡って、向こう岸に向かう・・・

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結構、この吊り橋・・・怖いのである・・・(大笑)
拙者は高所恐怖症なのである!(大涙)
先を行くのはガイド・・・
揺らすなって!(怒)
あんたがドッシンドッシンと歩くと揺れるんだって!(怒)
向こう岸から中国人観光客の団体がやってきた!(大汗)
渡るなよ!来るなよ!・・・と言いたいが・・・中国語が話せない・・・(大汗)
橋の真中を歩くのもやっとだというのに・・・橋の上ですれ違うのかよぉ~(涙)
ゲゲッ・・・顔面蒼白である。(大笑)
キャーキャー騒ぎながら渡ってきた中国人観光客たちと橋の上ですれ違う・・・
お互いに橋の端を歩かねばならない・・・
言葉が通じないので、お互いに表情で“会話”・・・・
「怖いよねぇ~」(大笑)

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橋を渡った先の温泉街・・・・
どことなく昔の日本のような・・・そんな感じのする温泉街である。
ん?ちゃんと営業してるじゃないか?壊滅なんかしてないじゃないか?
閑散としていてお客さんの姿は見当たらないが・・・(笑)
だいたい、どこでも温泉街って昼間は閑散としてるんだよねぇ~
賑わうのは夜でしょ?(笑)

旅館と旅館の間の狭い路地から奥の山に向かって歩く・・・
ダラダラのなだらかな坂なのだが、こういう坂が実は歩いていて、運動不足の拙者には非常にキツイのである。(涙)
その景色を撮影したいが、先を歩くガイドが邪魔で写真が撮れない・・・(涙)

山奥に入り込んで約10分・・・道に迷った・・・(笑)
どこにもモーナ・ルーダオの生家跡らしきものは見当たらない。
「帰りましょう!」とガイドが言う。
いや、いや、ちょっと待て・・・ヘトヘトになりながら登ってきたのである。
ここで諦めて帰るわけには行かない・・・
が・・・ガイドは勝手に山を下りようと先に歩き出した・・・(唖然)
と・・・・見っけ!(喜)

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道標を見つけた!
ガイドはどこを見て歩いてるんだよ!(怒)
これに気が付かないとは・・・(汗)
「往莫那魯道紀念碑」と書いてあるじゃねぇか!
「こっち!こっち!」とガイドを呼び戻す。

更に山道を登ること約5分でモーナ・ルーダオの生家跡に到着する。

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ここがどうも生家跡らしい・・・

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紀念碑には・・・
「抗日英雄 
莫那魯道 紀念碑 
仁愛郷長 沈明徳 題
中華民國八十二年九月五日立」
・・・とある。
「中華民国八十二年」は、1993年、日本では平成5年である。

後ろにある建物は、復元された生家というわけではなさそうである。
「莫那魯道紀念館」という看板が取り付けられていたが・・・
どうも日本でいうところの「神社」「社」という感じである。
内部を見たら・・・・こんな感じ・・・・

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「紀念館」だけど・・・資料のようなものの展示は何もない・・・(苦笑)
祭壇らしきものがあるだけ・・・・
神様として祀っているということだろうか?

「往馬赫坡古戦場」という道標を見かけたが、「古戦場」って何だろう?
どうも、この生家跡の脇の道を通って更に奥地に向かうらしいが・・・
ガイドに尋ねたら「知りません」とのこと・・・(唖然)

今日はやけに暑い・・・
山地なので、少し肌寒いかと思っていたが、山道を登ったせいか暑くてたまらん。
拙者の出で立ちは、ジャケットにスラックスに革靴である。(笑)
ジャケットなんか着ていられない・・・まるで初夏の暑さか残暑なみの暑さである。
ガイドはTシャツを脱いで上半身裸で、拙者の前を歩く・・・
やめろって・・・その格好・・・(涙)
上半身裸の男が写真に写りこんじゃうじゃねぇか・・・そんな写真、使い物にならなくなるんだけど・・・(涙)

DSCN3723_convert_20170209120605.jpg (来た道を振り返って写す)

DSCN3724_convert_20170209120655.jpg (遠くに見えるのが廬山温泉)

ガイドが「別のルートを通って帰りましょう!」と言って歩き出した・・・
途中で人の顔を彫った石を見つけた。

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石像の前にある看板を見たら「馬赫坡原址」と書かれていた。
おお!・・・ここが馬赫坡(マヘボ)社跡なのか!(驚)
事件当時のマヘボ社の家の数は54戸、人口は231名(男113名、女118名)だったという。
ごく平均的な規模の集落である。
で・・・モーナ・ルーダオは、そのマヘボ社の頭目であり、事件の首謀者である。
その生家がある場所なんだから・・・この周辺がマヘボ社だというのは当然か・・・(笑)

DSCN3731_convert_20170209135959.jpg (マヘボ社跡周辺)

今は、集落らしきものは何もない・・・・完全に消滅している。
まぁ、“抗日集落”だから仕方がないか?
54戸の家はどのあたりに建っていたのだろう?

来た時とは別のルートで、更に山を下る・・・・

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山を下ること10分程度で麓の集落に出た・・・
「地熱井(廬山温泉)」という看板のある場所を見つけた。

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「地熱井」って・・・温泉の源泉のことだろうか?
ここが「廬山温泉集落」ということであれば、事件当時、ここには「ボアルン社」があったということになる。
事件当時のボアルン社は48戸、人口は192名(男97名、女95名)だったという。
この上の方にあったマヘボ社より、ほんのちょっとだけ小さい集落だったということになるが・・・・

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この集落のメイン通りのところに、今度は女性の顔の石像があった。
説明板には「女紋面石像」としか書かれていない。
「ボアルン社跡」というようなことが書かれていない・・・
どこかに「址碑」でもないかと見渡したが見当たらなかった・・・
でも、ここはボアルン社跡のような気がするんだよなぁ~・・・・単なる勘だけど・・・(苦笑)

この人面の石像の顔には刺青(イレズミ)が彫られていた。
この刺青は、男性の場合は勇敢を表わし、女性の場合は機織の技術を持っていることを表わしている。
ということで・・・この人の場合は、機織の技術を持っている・・・ということになるな。(笑)

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どう見ても、日本家屋にしか見えない建物があった。
これは何に使われているんだろう?
一般住宅というより、集会所のような気がしないでもないが・・・・

この家の前に近代的な設備が・・・(笑)

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説明板によると「経済部中央地質調査所衛星連讀追蹤站―警光山荘站」と書いてある。
さて、これを訳してもらおうと思ったのだが・・・ガイドがいない!(驚)
彼は山歩きが趣味だと言っていたが・・・・
わき目もふらず、スッタ、スッタと先に歩いて行ってしまったのである!
役に立たねぇなぁ~(怒)
こっちはウォーキングに来ているわけじゃないんだけどなぁ~
自分の趣味を優先するとは困った男である。(怒)
しかたがない・・・またもや自力で訳すしかないか・・・
どうやら、この設備はGPSらしい・・・(笑)
ここ十数年、この廬山温泉周辺では、台風や豪雨などで地盤に問題が発生していたようである。
「大規模岩體滑動」とか「滑動」という文字が何度も出てくる。
滑る?動く?・・・・地盤がずれるとか崖崩れを起こすとか・・・そういう意味かもしれない。
で・・・ここ廬山温泉の旅館と住民の安全のため、この機器を設置して、地盤のずれを観測し、「防災」と「預警的資訊」のために情報を提供する・・・とかって書いてあるようである。(汗)
ここのほかに、かなり離れた山の中に2ヵ所、同じ観測機器を設置しており、その配置図が描かれていた。
なんと丁寧な・・・(笑)
3点でGPS測定をして、地盤の変動を調べて警告を出すということだろう。
へぇ~・・・大したものだ・・・と感心・・・

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さらに道路わきに葉っぱの形をしたものを見っけ!
何だろうと思ったら、字が彫られている・・・・説明板である。(笑)
これもまた自力で翻訳せねばならない・・・(涙)
「仁愛郷廬山」についての説明文のようだ・・・
それによると、「廬山温泉」というのは、昔は「富士温泉」と呼ばれていたそうだ。
廬山温泉は霧社から東北へ「9公里」の場所に位置するという。
「9公里」って何キロメートルなんだ?・・・・9キロメートルでいいのかな?
尋ねたくともガイドがいない!(怒)
日本統治時代は日本軍人傷病兵の療養場所として使われていたらしい。
その後に、この場所が自然に恵まれた非常にいい場所だとか、温泉の効用について書かれていた。

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再び吊り橋を渡って対岸に戻る。
モーナ・ルーダオの生家跡から、ここまでゆっくり歩いて約20分である。

橋を渡ったところで、ふと目についた・・・・
地図である!

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ここに地図があったじゃないか!
スタスタと歩いて行っちゃうから見落とすんだよな!(怒)
この地図に「古戦場」が描かれていた。
そこにはモーナ・ルーダオの銅像が建っているらしい・・・
あ~あ~・・・・何が「知りません」だよぉ~(涙)
あの奥に、もう少し歩いていけば良かったんだよなぁ~
今更、もう戻る気は起らないし・・・(涙)
大失敗である!!(大涙)

「古戦場」と呼ばれるのは、モーナ・ルーダオ一族が最後にいた場所ではなかろうか?
事件後、日本の武装警察官隊と応援に駆け付けた日本陸軍により彼らは追い詰められていく。
どこかの洞窟にいたらしいが、その入り口に日本軍の砲弾が降ってきて死傷者が出た。
確か、弟か誰かが死んだと思う。
そこで、洞窟を出て向かった先がこの「古戦場址」と呼ばれる場所ではなかろうか?
そうだとすると・・・ここには小屋があり、そこでモーナ・ルーダオは一族の者たちに自殺を命じる。
次々と自殺をする中、モーナ・ルーダオの妻と子供が自殺をためらったので、彼が自分の手で殺害したという。
死体の首を刈られるのを避けるため、ここにあった小屋に火をつけて遺体を焼き払い、自身は山の中に入って自殺したという。
これが通説だが・・・・
その小屋があった場所、つまり一族が自殺した場所が「古戦場址」なのではあるまいか?
現地に行けば、説明板か何かがあるだろう・・・
あ~失敗した!(涙)
再訪問するしかないかぁ?
この廬山温泉にでも宿泊して、ここを拠点に歩くしかないか?

それにしても、この一族の最後の「説」には、拙者は個人的に疑問がある。
当時の彼らの「自殺」は「縊死」・・・つまり「首吊り」が一般的である。
その昔、日本でも「割腹」「切腹」が自殺・自決の一般的な方法であったのと同じようなもので・・・
彼らは、大木の枝で首を吊って自殺するという方法が一般的であったという。
これは私論であるが、山の中の檜(ひのき)は先祖の精霊が宿っている神聖な木という彼らの「信仰」に関係しているのではなかろうか?
そこで木の枝に縄をかけて首を吊るのではあるまいか?
実際、この事件で追い詰められた原住民たちの多くは首を吊って自殺をしている。
表現が不適切だとは思うが、まるでクリスマスツリーの飾りつけのように、一本の木のいくつもの枝に何人もの遺体がぶら下がっているのが発見されている。(当時、日本軍もしくは日本人が撮影したと思われる、その写真も残っている)
にもかかわらず・・・なんで小屋の中で自殺するんだろう?
周囲は山である・・・いくらでも木があるんだけど・・・
そして、首謀者も、同行していた一族も全員自殺したというのに、一体だれが、これを見て後世に最後の様子を伝えたのだろう?
不思議である・・・・

もう喉がカラカラである・・・
そのへんのお店に入ってコーヒーでも飲もうか?
ガイドが「おいしいコーヒーのお店がありますから、そこへ行きましょう」と言う。
そんなお店が、こんな山奥にあるのか?(苦笑)
とにかく車に乗り込み走り出す。
霧社のすぐ近くまで戻り、町には入らずそこから別の道を通り山を登っていく。
「すごく景色のいい場所があるので、案内します」とガイド・・・・
「いや、それより喉が渇いてるんだけど・・・何か飲みたいんですけど・・・」
「はい、コーヒーですよね?おいしい店に案内します」
しかし・・・彼の様子を見ていると、どうもお店を知っているようには見えない・・・(汗)
キョロキョロして、適当な店の前に車を止める・・・・
山の中腹にレストランが・・・
行って見たら休業だった!(唖然)
2軒目の店も休業!(怒)
さすがに腹が立ってきた!
「どこでもいいから入れ!喉が渇いてるんだって言ってるだろ!」(怒)
ようやく開店しているレストランを見つけ入る・・・

DSCN3762_convert_20170210134933.jpg (レストラン)

このレストラン・・・標高2044メートルにある。(そう看板に書いてあった)
で・・・・コーヒーは?
ガイドに尋ねてもらったら・・・「ありません」と言う。(唖然)
どこが「おいしいコーヒーが飲めるところに行きましょう」だ?(怒)
缶ジュースならあるというので、コカ・コーラを飲むことにした。
廬山温泉を出て約1時間後に、ようやく水分補給ができた。
結局、コーラを飲む羽目になるなら温泉街の店で良かったんじゃないか?

このレストランには展望台が併設されていた。

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目の前に広がる山々は3000メートル級の山々である。

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「すごいでしょ~!この景色!」とガイドは大喜びなのだが・・・・
彼はトレッキング、山歩きが趣味だそうだが、拙者は正直言って、「景色」には、それほど興味はない。(苦笑)
彼は決して悪い人間ではない。
気さくではあるが・・・軽いのである・・・・「無神経」に近い・・・(大笑)
自分がガイドであることを完璧に忘れている。
これじゃ、ガイドを付けて旅行をしているのではなく、台湾人の友人と二人で旅をしている感じ・・・
おい、おい、勘弁しろよ・・・・である。(苦笑)

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ここで、しばらくボ~ッと山を眺めることとなったが・・・・
時刻は午後3時・・・
「もう、山を下りましょう!」と声をかけ、無理やり移動することにした。(笑)

帰る途中、横道にそれた・・・
どこへ行くのかと尋ねたら、「原住民の村があるので、そこへ行く」と言う。
車1台がやっと通れるような狭い山道を延々と走るが、そのうちデコボコ道となり、とても乗用車じゃ走れない道となった。
ちょうど工事車両が来たので尋ねたら、この先は乗用車じゃ無理とのこと。
そうだろう?・・・・どう見てもそうだろう・・・(苦笑)
延々と走ってきたが、結局Uターンする羽目となる。
本当に、この先に原住民の村なんてあるのかね?
このガイド・・・調子がいいだけに信用できない・・・(大笑)
部落名を尋ねても、要領を得ない答えなので、なおさら怪しい・・・・(苦笑)
それにしても、大きく時間を無駄にしてしまった・・・(泣)
陽が沈み始め、まもなく山に沈む・・・・
今日は、ここまでだな・・・・(汗)

霧社に戻り、課長に会ってご挨拶・・・・
廬山温泉に行ってモーナ・ルーダオの生家跡に行った話をしたしたが「ふ~ん」の一言で終わり・・・(苦笑)
自分の“影響力”の及ばないところに行かれたのが面白くないという感じ・・・・
山の展望台へ行った話をしたら・・・・「あ~“見晴らし”に行ったのか」と言う。
「え!あそこが“見晴らし台”?・・・・そんな話、俺は聞いてねぇぞ!」とガイドに言ったら、焦っていた。
どうも彼は何も知らずに拙者を連れて行ったらしいことが、これでバレた。(苦笑)
“見晴”もしくは“見晴台”は、日本統治時代に名付けられた地名である。
確かに見晴らしがいい場所である。(笑)
「あの場所にたくさん建物が建っていただろ?レストランとか・・・あれは、全部、無許可で建てた不法建築なんだ」と課長。
中国人がやって来て勝手に家を建てて住み着いたというのである。
ちなみに、課長は建設課の課長である・・・(大笑)
「なんで取り締まらないんですか?」と尋ねたら、「政治的にいろいろあるんだよなぁ~」と言葉を濁す。
彼らが本省人(第二次世界大戦前から台湾に住み着いている中国人)なのか、外省人(第二次世界大戦後に大陸から来た中国人)なのか、どっちだったかは忘れたが・・・・
課長は、かなり苦々しく思っているようで・・・「あいつら・・・」を連発する。
もともとの原住民からすれば、そう言いたくなるのもわかる気がする。
山は原住民のものである・・・・ということだろう。
「霧社を仁愛郷なんて、変な名前に変えることが気に入らん!」としきりと言っていたくらいだから・・・(苦笑)
話し出したら、とにかく鼻息が荒くなる・・・(汗)
これは原住民の性格なのだろうか?
ちなみに課長はセデック族である。(笑)

明日は「川中島」という場所に行く予定。
課長が川中島も案内してやりたいが、仕事の都合でどうなるかわからないという。
明日は、明日になってから決めましょうということで別れる。

霧社を出て埔里に向かい、途中で見つけた喫茶店に入り、ようやくコーヒーが飲めた。(苦笑)

午後5時、ホテルに戻り一休み・・・
午後6時、ホテルから徒歩で町の中をウロウロ歩きながら、夕食場所を探す。
歩いてみると、結構、大きな町だということに気が付く。(笑)

最終的に、ちょっと洒落た店構えの店に入ることにした。
どうも“丼ぶり”の専門店らしい。(笑)

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店内は若いアベックばかり・・・(唖然)
男二人なんていうのは我々だけである。(大汗)
ん?台湾では「丼ぶり飯」がデートのディナーなのか?(笑)

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で・・・拙者が頼んだのが、これ・・・(汗)
丼ぶりではない・・・(大笑)
アベックたちが食べているのと同じものを頼みたかったのだが・・・何を頼んじゃったのかなぁ~
全くガイドが役に立たぬ・・・・(涙)
「これがいいんんじゃないですか?」とガイド・・・
「あの人たちが食べている丼ぶりがたべてみたいんだけどね」
「これ、いいですよ。これ、美味しそうですよ」
「これ?じゃぁ、これにするか」・・・と言ったのが、そもそもの間違い。
丼ぶりかどうか確認しなかった・・・(涙)

今日は山を歩いたし、クタクタである。(笑)
マッサージでも頼もうかと思ったら、「無い」と言う・・・(涙)
しかたがない・・・午後10時半に就寝となる。(大笑)

旅行 | 20:24:04 | Comments(0)
事件現場に行く
町のメインストリートから脇道に入り、少し坂を下ったところに「自然史教育館」がある。
ここを訪ねてみたいと、当初から予定していたので・・・・ここに向かう。

DSCN3622_convert_20170120164651.jpg (自然史教育館)

ここは「自然史」と名付けられているが、「霧社事件」に関する展示や先住民族に関する展示もあるので、どちらかというと「郷土史資料館」ということになるのではなかろうか?
名前だけで判断して見学しないと損をすることになる。(笑)

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「霧社事件」の首謀者とされる莫那魯道(モーナ・ルーダオ)の写真・・・・(中央の人物)

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蜂起した先住民族を討伐するため出動し、霧社に向かう途中の日本の部隊・・・・
写真には「日人部隊」と書かれていたが、服装からみて「武装警官」だと思う。

「霧社事件」に関しては、中国語と英語併記のパネル展示のみだった。
隣りの部屋には、かなりのスペースを割いて、先住民族に関する展示があった。

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各部族の民族衣装や生活品、祭祀品等々・・・・
なかなか貴重なものも展示されていた。
う~ん・・・台北にある先住民族博物館に展示されているものと肩を並べられるようなものも展示されていた。
こりゃ、すごい・・・・
嬉しいことに、この「自然史教育館」は入場無料!(喜)
他にお客さんがいなかったので貸し切り状態!(大喜)
受付には若い可愛い女の子が一人いて、拙者がじっくりと時間をかけて先住民族の展示品を見ているのが珍しかったようで・・・・(大笑)
ちょこちょこ、展示室を覗きに来てはニコニコしていた。(笑)
言葉が通じないので、身振り手振りでしか意思の疎通ができないが・・・
「これ、すごい!」「はい!そうです!」ってな調子である。(笑)

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ここにも「機織機」が展示されていた。
フィリピン、インドネシア、台湾等々、アジア各国の「郷土資料館」的な博物館に行くと必ずと言っていいほど「機織機」が展示されている。
各国とも、多少の違いはあるが、基本的な原理は同じである。
一体、どこの誰が最初に「機織機」を考え付いたのだろう?
毎回、「機織機」を見かけるたびに思うのである・・・・

「自然史教育館」の見学を終え、可愛い受付の女の子に笑顔で見送られ・・・(笑)
目の前の「愛国小学校」のグラウンドを横切って、「抗日紀念碑」に向かうことにする。
で・・・小学校の校舎の正面で見かけたのが、この銅像・・・・

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顔に先住民族のイレズミが描かれていたので、先住民の偉い人かなと思ったのだが・・・・
あとで課長に尋ねたら、蒋介石の銅像に誰かが落書きしたのだという。(唖然)
それ・・・マズイんじゃないの?(苦笑)
台湾で蒋介石の銅像に落書きしたのでは・・・(大汗)
ここは先住民族の土地だ!・・・という先住民族によるアピールなのかな?

この学校と道路を挟んだ反対側に「莫那魯道(モーナ・ルーダオ)公園」がある。
ここには23年ほど前に来たことがあるが・・・・
あれぇ~・・・ずいぶんと変わったなぁ~(苦笑)

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現在は、公園の前の道は舗装され、幹線道路のようになっていて交通量もあるが、当時は“裏道”のような場所で、滅多に車が通ることはなかった。
ちょうどカーブのところに車を止めて見学したことを覚えている。
あの時は、台北から一人で飛行機に乗って台中空港まで行った。
今になって思えば、中国語しか通じない国内線によく一人で乗ったものだと思う。(大笑)
台中空港(といっても、ただの原っぱみたいな飛行場だったが・・・)からガイド兼運転手の車に乗ってここまで来た。

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右の写真が、「自然史教育館」に展示されていた古写真。
この公園が出来たばかりの頃の写真である。

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公園の中には、「抗日原住民」の像が建っていた。
23年前にはなかったが・・・・
ただ、ちょっと違うかなぁ~という気がする。
まず、蜂起したのは各原住民中でも普段からの戦闘要員でもある成年男子の「壮丁」たちだったはず。
その壮丁の人数は各社の戸数とほぼ同じ・・・1軒に一人・・・という感じである。
というわけで・・・例えば、マヘボ社の場合は、戸数が54軒で、壮丁の数は53名となっている。
この銅像には女性や子供も入っているのだが、事件に女性や子供が加わっていたという話は聞いた覚えがない。
日本人に石を投げつけようとする少年と、片手に短剣を握った母親らしき女性の像が加わっているのだが・・・
これはあり得ないだろう。
“中国人(漢人)”特有の歴史の改竄か?(苦笑)
女子供も日本人に抵抗したのである・・・ということにしたいのだろう。

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ここに事件の首謀者とされるモーナ・ルーダオの像も建っていた。
民国86年に建てられたようなので、拙者がここに来た4年後に建てられたようである。
「抗日英雄」と刻まれている。
これは立場の違い・・・・日本にとっては犯罪者だが・・・・異論はない。
彼らにとっては「英雄」だろう。

役所で一仕事を終えた課長が公園にやってきて再び案内をしてくれた。

DSCN3648_convert_20170128170213.jpg (「霧社山胞抗日起義紀念碑」)

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モーナ・ルーダオの墓・・・・
左の古写真は「自然史教育館」に展示されていた写真で、台北で骨格標本とされていたモーナ・ルーダオの遺骸を持ち帰り、ここに納めるところを写したものである。

続いて向かったのは、事件現場である「霧社公学校」跡である。
事件当日、ここで運動会が開催されていた。
日本人の子供たちが通う尋常小学校と、原住民の子供たちが通う公学校、それに各地にある「蕃童教育所」の子供たちの合同運動会である。
ちなみに、「蕃童教育所」は、いわば分校のようなもので、教師は各駐在所の日本人警察官が行っていたという。
当時、ここにいた子供たちは日本人、台湾人、原住民(先住民族)あわせて289人だったという。
これに日本人の父兄が約100人、台湾人約50人、原住民約100人が見物に集まっていたようである。
そこへ各地の駐在所を襲った後、各社の壮丁が会場になだれ込み、片っ端から日本人だけを殺害していったのである。
この決起に参加した壮丁は約300人と言われている。
当時の霧社地区の各社の総計は、597戸、男女合わせて2178人だったので、抗日の社(反抗蕃と称する)の壮丁だけで300人程度になるから、壮丁による決起ということになる。
各社の住民、女子供全員が参加したわけではない。
というわけで・・・紀念公園に建っていた、あの銅像はおかしいのである。

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ここが「霧社公学校」の跡・・・
現在は「台湾電力公司 萬大發電廠第二辨公室」となっている。
ここが「霧社事件」の現場である。

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敷地内に入ってみる。
思ったより狭い・・・・
本当にここで運動会などが開催されたのだろうかと思ってしまうほど狭いのだが・・・
うちの近所の幼稚園・・・
拙者が通った幼稚園だが、園庭はかなり狭い。(笑)
でも、そこで運動会をやったことは間違いなく記憶にある。
大人になったら、やたらと狭く感じるが、当時、幼稚園児の拙者は狭いとは思っていなかった。
ということで・・・ここも同じだろう。
拙者が大人だから狭く感じるだけで、子供たちが運動会を開くには十分な広さだったのだろう。

実は、ここには23年前に一人で来たことがある。
運転手兼ガイドに「事件現場」として案内されたのだが、あまりにも敷地が狭いので、こんな場所が学校だったわけがないと信用しなかった。(大笑)
当時も「台湾電力公司」の事務所として使われていたので、なおさらである。
昔、学校だった場所は、今も学校のはずだと勝手に思い込んでいたのである。(苦笑)

今回、再び訪れて、やっぱりここが事件現場だということを知った・・・(汗)
あの時、素直に信じればよかった・・・(大笑)

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敷地内のコンクリートの地面に一本の溝が入っている。
課長が「この溝の左側が昔は道路だった場所で、溝から右側が昔の学校の敷地だった」と説明してくれた。
やっぱり・・・(苦笑)
23年前の記憶より、少し敷地が広くなっているような気がしていたのである。

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敷地内の、この建物・・・・
課長の話では「校長先生の家だった」と言う。
確かに、言われてみれば日本風の建物のような気がするが・・・・
でも、なんか違うような・・・(苦笑)
右側の建物が校長の宿舎だというのだが・・・そうなると左側の建物は何だ?(苦笑)

ここを襲ったのは、約100名の先住民壮丁たちだった。
この校長の家に日本人婦女子が逃げ込み、宿舎の入り口に立った新原校長が一人で日本刀で防戦したという。
が・・・多勢に無勢で、あえなく殺され、暴徒は宿舎内に入り込み、次々と婦女子の首を斬り落としていったという。
大人の中には死んだふりをして助かった女性もいたようだが、子供たち、特に幼児は死んだふりなどできない。
泣き声を上げるので、すぐに殺されたそうだ。
この校長宿舎内とその周辺で約50人が殺され、そのうちの39人が児童と幼児だったという。

なんとも残酷な話だが、それは現在の我々が思う感情であって、彼ら先住民族にとっては、首狩りは普通のことで、一種の文化だったようである。
それが日本の統治により、残酷だからと首狩りを禁止されていたわけで、ストレスは溜まっていただろうねぇ~
嬉々として首を刈ったに違いない。
彼らには、子供だから、幼児だから可哀想という感情はなかったのだろう。
日本でも戦国時代に敵将の首を斬り落としたりしたのだから、あまり台湾の原住民を非難はできまい。
首狩りの風習はインドネシアにもフィリピンにもあった。
もしかして首狩りは古代文明の遺産かも・・・・(汗)

でも、一体、誰が最初に始めたんだろう?

学校の運動会会場では、幼児を含めて17人が殺害されている。
ということは・・・ここで70名ほどが殺されたことになる。

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現地の説明板に掲載されていた写真。
当時の公学校の校庭・・・運動会会場の写真である。

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左の写真も、現地説明板に載っていた写真・・・
運動会会場の入り口の写真である。

事件当日、この会場入り口のところで最初の犠牲者が出た。
菅野政衛という映写技師だそうで、台中州から嘱託をされて前夜の映写会のために霧社に来ていた。
入り口のところに立って運動会が始まるのを見ていたのだろう。
真っ先に首を斬り落とされ、殺害された。
やったのは、スーク社のウカン・パワンという人物だという。
居合わせた日本人警察官が追いかけたところ、途中で首を落として逃げ去ったという。

次に向かったのは、すぐ近くの小高い丘・・・
ここに以前、「霧社事件日本殉難殉職者之墓」という碑が建っていたという。
今は何もない・・・・

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ここが、その碑が建っていた場所らしい。
今は荒れ果てた公園・・・という感じ・・・・

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現地の説明板に載っていた写真・・・・
当時は、こういう碑が建っていた。
「墓」と書かれているのだが、「墓」なのかどうかは知らない。
うっかり課長に尋ねるのを忘れた・・・(大汗)
たぶん、慰霊碑のことだと思うのだが・・・どうだろ?
蒋介石たち国民党が大陸を追われ台湾に来て、彼らの手で撤去されたようである。
まぁ~中国人のやることは、そういうことばかりである。(汗)
困った民族である・・・(苦笑)

ここでUターンして役所に戻ることとなる。
途中、バーラン社の案内板を見つけた!

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このバーラン社は、今はどうなっているんだろう?
行って見たいのだが・・・・
課長に尋ねたら「ない!」という一言で終わり・・・(唖然)
その後は・・・拙者を置いてガイドと一緒にサッサと立ち去ってしまった・・・・(唖然)
どうも課長の“案内”は雑なんだよなぁ~(苦笑)

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現地説明板に載っていた写真・・・・
「霧社最大の部落」であると書いてあるんだけど・・・
それが消滅するかねぇ~
どうも信じられないんだけど・・・・

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たぶん、この道を登っていくと昔のバーラン社に辿り着くんじゃないかと思うんだけど・・・・(汗)

サッサと先を歩く課長とガイドの姿が見えなくなった・・・(汗)
が・・・向かう方向は分かっているから、気にすることはない・・・(大笑)
写真を撮りながらマイペースで後を追うことにする。

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まもなく、記憶にある場所に来た・・・・
二股に分かれている、この地点・・・・23年前に来たことがある!(笑)

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右側の舗装された道は、現在は幹線道路となっているが、23年前に、この道があったかどうか、記憶にない。
もしかしたら、細い道があったかも・・・
この二股に分かれているあたりに当時は料金所があった。
ここで有料道路の料金を払ったことは鮮明に覚えている。
で・・・左側の坂道を登って行ったのである。
昔のメイン通りは、左側の坂道である。
変われば変わったものだ・・・・
新たな道を付け替えて、昔の道の上には建物がせり出して、昔の道は消滅してしまっている。

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(坂道を登って振り返ってみる)

この道を走るのに、当時は、お金を払ったのか?(苦笑)
なんで、この道が有料道路だったんだろう?
あれは、霧社の村に入るための「入村料」だったのかな?(大笑)

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道の両側に住宅が立ち並んでいる。
23年前は、どういう風景だったのか全く思い出せない。
先ほどの台湾電力の事務所が事件現場だと教えられたが、信じられないまま、この道を車で登った・・・
その時に、ふと、思い出した・・・
たしか、何かの本に「暴徒は坂道を一気に駆け下りて会場になだれこんだ」という一文があった。
たしかに、ここは坂道である。
じゃぁ、さっきの場所は、やっぱり事件現場だったのだろうか・・・と思ったことを覚えている。
この道を、100名ほどの暴徒たちが、向こうからこっちに向かって走ってきたのだろう・・・
ちなみに、先を行く人物が、課長!(苦笑)
サッサと一人で歩いて行ってしまうので、会話ができない・・・(苦笑)

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この坂道をまっすぐ登って、突き当たったのは、役所の駐車場!(唖然)
ここで行き止まりである!
あれぇ~???
23年前は、どうなっていたんだっけ?(苦笑)

時刻は12時を過ぎている。
お昼ごはんを食べよう!(笑)
一度、役所に戻った課長を誘って、役所の目の前にある食堂で昼食を食べることにした。

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課長が、1冊の書類を持ってやってきた。
先ほど見に行った「霧社事件殉難殉職者之墓」の復元計画書である。
土地の測量図、復元する碑の設計図、見積書等の詳細な計画書である。
すでに復元の許可は貰っているのだそうだ。
で・・・問題は、その資金・・・・
日本円にして、約1000万円かかるという。
どうも日本側からの援助が欲しい口ぶりである。(苦笑)
拙者を案内するより、こっちの説明の方が熱心である。(苦笑)

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昭和54年(1979年)に靖国神社で霧社事件50周年の慰霊祭が行われたと聞いている。
翌年には、ここ霧社でも50周年の式典が開催されたと聞いている。
この時に、犠牲者の子孫も参列していたはずだが・・・・その方々との交流はどうなっているのだろう?
その方々に先に話を持っていくのが筋だと思うが・・・・
課長に尋ねてみたが、要領を得ない・・・歯切れの悪い回答だった。

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食後、課長は一旦、役所に戻るので「少し待っていろ」と言う。
いや、いや、もう充分である。(苦笑)
待っている時間がもったいないし・・・・次の予定もある。
申し訳ないが、霧社の案内は、これで十分ということでお別れする。

旅行 | 16:43:35 | Comments(0)
霧社の役所巡り?(苦笑)
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(部屋から見た景色)

午前6時30分起床。
7時30分にホテル内のレストランに行ったら誰もいない!(大汗)
レストランは休みなのかなと思ったら、フロントの女の子が吹っ飛んできて中国語で何か言ってる。(苦笑)
拙者は中国語がわからないんですけど・・・(大汗)
どうやら「レストランはオープンしていますから、どうぞ」と言っているような・・・(勝手な想像だが・・・)
しかし、食べるものが、ほとんどない!(苦笑)
コーヒーは昨日作ったものかと言いたくなるくらい〝ぬるい”・・・(涙)
ほとんど水と同じ温度には参った・・・(大泣)
食べられそうなものは・・・キャベツを茹でたもの・・・
これは、なかなか美味しかったので〝おかわり”する。
薄い食パンと茹でたキャベツと〝ぬるい”コーヒーが今日の朝食である!(大笑)

午前9時、ホテルを出発!
「埔里」の町を抜けて山に向かい30分ほど経ったころ、「人止関」に到着した。
山の中の、ちょうど道路がカーブしている場所に「記念碑」が建っていた。
他の車には大いに迷惑をかけてしまうが、カーブの先に車を止めて記念碑のところに向かう。

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この「人止関」は、文字通り「人を止める関」なのである。
ここが「平地民」と「山地民」の居住地の境界線・・・・
平地から勝手に山地に入ってくると、このあたりで首を刈られて殺されてしまったらしい。
ということで・・・昔から、このあたりでは“戦闘”が行われている。
「霧社事件」が起こった時にも平地の「埔里」からこの道を通って「霧社」に日本の武装警官隊や日本陸軍の将兵が向かった、平地から「霧社」へ向かう唯一の“道路”・・・・
が・・・あれ?・・・なんか雰囲気が違う。
古写真を見たことがあるが、山の中の“切通し”のような感じの場所と思っていたのだが・・・・
「人止関」の碑が建っているのだから、このあたりで間違いはないとは思うが、どちらかというと、この先のカーブのあたりが、当時の雰囲気が残っているような気がしないでもない。

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ここにある「人止関」の碑には、「霧社事件」に関しては全く何も記載はされていなかった。
(雑草に覆われていて、碑の下のほうが見えなかったから断言はできないけど・・・)
ここには、「人止関」の史跡としての説明看板か何かが欲しいところである。

ここから車で10分ほど走ったら、「霧社」の町に到着。
早速、課長に会いに役場に行く。

DSCN3552_convert_20170113175156.jpg (仁愛郷公所=仁愛郷の役所)

開口一番、課長が言う・・・・「昨日は飲みすぎた!」(苦笑)
なんでも、夕方に職員同士で酒を飲み、その足で拙者に会いに来たという。
夕方から飲みっぱなしだったとか・・・(唖然)
シラフでは拙者に会えなかったということかな?(大笑)

「霧社」の町は小さい・・・
メインストリートが1本走っていて、その周囲が繁華街。
丘の上の狭い範囲にある小さな町・・・という感じである。

「霧社事件」は昭和5年(1930年)10月27日に発生した事件。
今から86年前のことである。
この一帯に住む先住民族(蛮族、蕃族、もしくは高砂族)が木材運搬の賦役の過酷さと、日ごろからの日本人警察官の横暴対する不満から一斉に蜂起して現地在住の日本人を襲撃した。
簡単に言うと、それが「霧社事件」である。

DSCN3556_convert_20170117103403.jpg (郵便局)

日本統治時代も、ここに「郵便局」があったという。
事件当時、ここも襲われ、日本人の郵便局長と、その家族が虐殺された。

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正面に見えるのが、消防署・・・
以前は、ここに警察署があった。
拙者が以前、ここに来たとき(たぶん1993年だと思う)は、ここに警察署があった。
現在は、斜め前の場所に移転している。

当時の「霧社」における日本側の統治の仕方は、どうも警察官にあらゆる権限が集中していたようである。
ここの警察署は「霧社分署」で、その下に「駐在所」が各地に置かれていた。
「霧社」地区には11の「社(村もしくは集落、部落)」があり、それぞれに駐在所が置かれていた。
昭和5年当時、ここ「霧社」では、建物の建設が目白押しだったようで、駐在所の建て替えや学校の寄宿舎の建設や何だかんだ・・・
それに使われる木材を山から切り出して運ぶという“使役”が原住民たちに強制的に課せられた。
警察官からの命令である。
ところが、この木材は引きずってはならず、傷をつけないように必ず肩に担いで運べという。
これが過酷な労働で、何十キロも肩に担いで運ばねばならないので、あっという間に肩が腫れ上がる。
「もう勘弁してくれ」と訴えても警察は聞き入れない。
それどころか、日本人警察官は、いちゃもんを付けて労賃すら支払わないこともあったらしい。
たぶん、着服、横領をしたのだろう。
加えて“女性関係”も事件の遠因となっているという。
各社の頭目(村のリーダー)の娘とか妹とかと結婚すれば、日本人警察官は彼らの親戚となるので、統治がしやすくなると考えるのは無理もないと思うが・・・
日本に妻子がありながら原住民の娘と結婚するとか・・・(佐塚愛佑という警部だそうだ)
または、結婚はしたが、最終的には捨てたり・・・(近藤儀三郎という巡査部長だそうだ)
駐在所の前を通りかかった原住民の娘を山に引きずり込んでレイプする警察官がいたり・・・(尾花長太郎という巡査だそうだ)
これで、「反乱」が起こらないほうが不思議というものである。

彼らが蜂起したときに、一番最初に襲ったのが、製材所・・・・
その次が、各地の駐在所と警察署・・・
最後は小学校・・・
この順番からいっても、彼らが何に恨みを持っていたかがわかろうというものである。
この「霧社」の警察署も襲われ、警察官が虐殺されている。

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旧警察署(現:消防署)の脇の坂道を登っていくと、日本統治時代の「霧社神社」にたどり着く。

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ちょうど消防署の真後ろに廃屋が見えた・・・
もしかして日本統治時代の日本家屋だろうか?
形からいって、なんとなく、それっぽいのだが・・・・
課長とガイドは、どんどん先に行ってしまい、質問することができなかった・・・(涙)
当時の建物ということになると、警察署の真裏にあるから、警察官官舎というこではなかろうか?
ここもたぶん、襲われているだろう・・・・

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まもなく神社の入り口に到着・・・
ここは現在は「徳龍宮」という現地の神社になっている。

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神社の石段の脇に灯篭が・・・
課長が言うには「日本の灯篭だ」というのだが、どうも形がシックリいかぬ。
とても日本人の手で建てられたようには見えないんですけど・・・(汗)

DSCN3569_convert_20170117114537.jpg (徳龍宮)

日本統治時代の神社の痕跡のようなものは何もなかった・・・

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ここから見た景色・・・・
ここが周囲を展望するには、一番高い位置になるのかな?

DSCN3573_convert_20170117131136.jpg (衛生所)

神社の脇の一段下がったところに「南投縣仁愛郷衛生所」の建物がある。
日本でいえば・・・「保健所」かな?
課長が、ここに用事があるので付き合えという。(唖然)

「衛生所」に入るなり「おはようございまぁ~す!」と課長が職員たちに日本語であいさつした。(唖然)
なんで日本語?
「この人、日本人、ということで、おはようございまぁ~す!」と拙者を指さし職員に挨拶・・・
あらら・・・である。
課長の用事というのは、所長に封書を1通、手渡しするだけのことだった・・・(汗)
で・・・ここのベランダに出て、再び周囲を展望する。

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「霧社」には11の「社」があった。
「ボアルン社」「スーク社」「マヘボ社」「タロワン社」「ホーゴー社」「ロードフ社」「カツツク社」「バーラン社」「タカナン社」「トーガン社」「シーパウ社」の11社である。
で・・・それは、どのあたりにあったのかなと課長に尋ねたら・・・
「あっち!」とか「こっち!」とか・・・指し示す方向が適当なのである。(涙)
今はどうなっているのか、できれば見に行きたいと話したのだが、「今は何もない」という。
本当だろうか?
すべての集落が消え去るなんてことはあり得ないと思うのだが・・・・(汗)

課長の話では、11社はみんな仲良しだったという。
特に各社の頭目(リーダー)は、日本に対して蜂起することに全員が反対していたが、若い連中が勝手に事を起こしたため、引きずられることになったという。
この話は、拙者が事前に調べた話とはかなり違っている。
11社のうち、6社が積極的に蜂起に参加し、5社だけが頭目の反対で蜂起には参加しなかったと聞いている。
この5社を日本では「味方蕃」と称した。
この11社がみんな仲良しだったという話も聞いたことはない。
逆に、お互いに相手の首を刈ったり刈られたりということがあって、内心、敵対関係にあった社もあったと聞いている。
だから11社が“共同戦線”を張れなかったと聞いているのだが・・・
課長の話が果たして正しいのかどうか・・・検証のしようがないのでどうしようもないが・・・・

木材を切り出したのは、向こうの山々の奥に見える山あたりからだと課長が言う。
へぇ~・・・・あんな奥地から切り出して、肩に担いで運んだのか?
そんな過酷な労働をさせられたら、そりゃ、逆らいたくもなるよなぁ~

DSCN3579_convert_20170117131538.jpg (霧社の町)

次に向かったのは・・・・
消防署の隣に建つ「戸籍事務所」という役所である。
なんで、ここに行くことになったのか、理由がわからない。(苦笑)

DSCN3583_convert_20170119192943.jpg (戸籍事務所)

相変わらず課長は日本語で「おはようございまぁ~す!」と叫ぶ・・・
職員たちが驚いた顔で、こちらを見るので、ちょっと恥ずかしい・・・(大汗)
ここの職員・・・10名が先住民族(蕃族・高砂族)で、中国人(中華?)は1人だけだと課長が言う。
で・・・コーヒーでもどうぞ、と職員からコーヒーをごちそうになる。
所長室でコーヒーをいただいたが・・・拙者はここに特に用事はないんですけど・・・(苦笑)
まもなく、「さぁ!行くぞ!」と課長・・・
う~ん・・・何しに来たのやら・・・である。(苦笑)
ちょうど、この戸籍事務所にやってきた現地のおばあちゃんたちがいた。
「この人、日本人だから・・・」と課長が言ったので、このおばあちゃんたちに「ニーハオ!」と挨拶したら、「日本語でいいんだよ。日本語が通じるんだから・・・」と課長。
おばあちゃんから流ちょうな日本語で「どこから来なさった?」と尋ねられた。(驚)
「茨城県です」
「へぇ~茨城県?で・・・何しに来たの?」
「歴史の勉強です」
「へぇ~歴史?こんなところにわざわざ?へぇ~」と半ば呆れて役所から出て行った・・・
このおばあちゃんも先住民族なのだと課長が言う。
それにしても、日本人のおばあちゃんと全く区別がつかない日本語を話すのには驚いた。

その昔、先住民族は、各部族ごとに言葉が違っていたという。
で・・・日本統治時代に、その部族間の共通語として日本語が使われたらしい。
今でも、昔と同じように部族間で使われているのだろうか?
尋ねるのを忘れてしまったが・・・
幼い時に日本語を勉強しただけでは、こうもいきなり流ちょうに話すことは難しいと思うのだが・・・
普段から使っていないとねぇ~・・・・忘れちゃうと思うんだよねぇ~(笑)

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ここには事件当時、日本人の旅館があったと課長が言う。
旅館というと・・・・「桜旅館」というのがあったという話を聞いたことがあるが・・・
課長がサッサと歩いて行ってしまったので、確認する暇がなかった。(大汗)
とにかく、拙者は写真も撮りたいので、立ち止まってしまうのだが、その間に、課長もガイドも行ってしまうのである!(苦笑)
いやはや後を追いかけるのが大変である。(大汗)

今度は・・・図書館!
といっても、小さな目立たない建物・・・
主に雑誌と児童図書ばかりが目立つ・・・
これといって見るものは無し・・・(汗)

これで「町」の中は一応見たことになる。
課長が、役所に一旦戻るので、ちょっと役所で待ってろ・・・と言う。
役所の外で待っていたが、いくら経っても戻ってこない。
これでは時間がもったいない。
ということで・・・ガイドの“キョさん”に課長への伝言を頼み、単独行動を取ることにする。

旅行 | 11:19:40 | Comments(1)
「それでも日本人か?」と言われてもねぇ~(汗)
発電所から約20分程度で「日月潭」に到着した。

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ここは「朝霧埠頭」もしくは「朝霧波止場」と呼ばれる場所らしい。
日月潭には、過去に2度ほど訪れているが、ここには来たことはない。
ここのボート乗り場(?)から、日月潭周遊の遊覧船が出ているとのこと。
ガイドの“キョさん”の話では、こういう遊覧船に乗るのは中国人や韓国人のツアー客ばかりで、日本人のツアー客は乗らないのだそうだ。
まぁ、遊覧船で湖をグルグル巡るのは時間の無駄とばかりに、次の観光地に行きたがるせいなのかもしれない。(大笑)

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ここの駐車場に続々と観光バスが入ってきたが、全員、大陸から来た中国人観光客だった。
彼らの会話をちょっと聞いただけで、大陸からの来た中国人の中国語か、台湾人の中国語か、すぐにわかると“キョさん”・・・・
拙者には全く区別がつきませんが・・・(苦笑)

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現地の案内板は中国語、日本語、英語、韓国語の4か国語で表記されていた。(驚)


水社朝霧―朝霧碼頭

水社朝霧は台21省道上の朝霧埠頭に位置し、日月潭4大埠頭の一つです。
東に面しているので日の出鑑賞には絶好の場所となっています。
気候や地形、湖水などの影響により、明け方になると湖面に霧が立ち上り、そこに朝日が差し込んで大変魅力的な光景が満喫できます。
「水社朝霧」という美しい名前で呼ばれる通り、日月潭八景にも選ばれています。
この埠頭は、日月潭周遊の観光船乗り場であるほか、毎年万人が参加する日月潭横断遠泳大会のスタート地点でもあり、選手たちはここから対岸の伊達邵埠頭を目指して全長約3.3kmを泳ぎ切ります。

(説明板より)


今日は朝食時にコーヒーを飲んだだけで、その後は飲んでいない。
拙者は普段、1日に3回はコーヒーを飲む。
どうもコーヒーを飲まないと調子が出ない・・・(苦笑)
というわけで、近くのレストランでコーヒーを飲んで休憩をとることにした。

DSCN3492_convert_20170105154525.jpg (朝霧埠頭のレストラン)

時刻は午後3時・・・・
一か所行ってみたい場所を思い出した!(笑)
「水社」という町にある「教師会館」・・・・
1983年の2月に、大学の海外研修団の一員として2週間ほどかけて台湾を縦断した。
生まれて初めての台湾訪問だった。
この時に、ここの「教師会館」に宿泊したことがあるのである。
今から33年も前のことである。(唖然)
ふと、思い出したので・・・
今は、どうなっているのだろう・・・ということで連れて行ってもらった。

DSCN3493_convert_20170106113737.jpg DSCN3494_convert_20170106113812.jpg

行ってみて驚いた!(唖然)
綺麗になってる!!
それもそうか・・・33年も経っているんだから・・・(大笑)
「教師会館」は、たぶん教職員のための宿泊研修施設だと思うが・・・・
あの時は、日が暮れるころに到着して建物の様子はよくわからなかった。
とにかくボロい建物で、「こんなところに泊まるのかよ!」(怒)と文句を言ったことを覚えている。(苦笑)
なにせ、うちの大学の合宿所(研修所)より古臭くてボロかったのである!(大笑)
廊下が薄暗くて気味の悪い建物だったことだけはよく覚えている。(苦笑)
それがねぇ~・・・・いやぁ~綺麗になっちゃって・・・・唖然である。

ここで愛想のない不親切なガードマンに断わって記念写真を撮る。(大笑)
「教職員以外は立ち入り禁止!」と言わんばかりの態度だが・・・それはわかるが、33年ぶりに来たんだぞ!記念写真くらいいいじゃないか!・・・と写真を撮る。(大笑)
あの時の研修団の仲間たちに、この写真を見せたいなぁ~(笑)
みんなは、今、どこでどうしているんだろう?

もう一つ、思い出の場所がある。
たしか、1991年か1992年の5月だったと思う・・・
25年ほど前のことである・・・(唖然)
一人で祖父の足跡を訪ねるため台湾に行くとき、一緒に連れて行ってくれと後輩の“サイトウくん”が言うので、急遽二人旅となった。
この時に、日月潭にも来たのだが・・・・
その時に泊まったホテルがどうなっているのか・・・(笑)
ホテル名も場所も覚えていない・・・
ただ、蒋介石の奥さんの宋美齢の別荘だったとかという話を聞いたような記憶がある。
で・・・食堂(レストランなんていう高級なものではない)の壁に、当時、ここに宿泊した時の蒋介石や宋美齢の写真が何枚も飾られていたことだけは覚えている・・・
で・・・そこって・・・どこだろう?(笑)
ガイドの“キョさん”に尋ねたら、すぐ近くのホテルがそうだと言う。
なんと「教師会館」の目と鼻の先にある!(唖然)

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あれ?・・・・ここがそう?(大汗)
当時は、イマイチ、パッとしないホテルだったが・・・・
超高級ホテルになっていた!(唖然)
まぁ、25年も経てば変わるか・・・・
もう、拙者は“浦島太郎”状態である・・・・(大笑)
で・・・ちょっとロビーに入り込み・・・(笑)
内部を勝手に見学する。

DSCN3498_convert_20170106135440.jpg (ロビーから見た景色)

当時も、拙者の部屋から日月潭がよく見えた・・・・
う~ん・・・こんな景色だったかなぁ~
景色までは覚えていない・・・(苦笑)
ここに宿泊した当時、日月潭に面した部屋の目の前のところが工事中・・・・
かなり大掛かりなコンクリートでの基礎工事だった。
ホテルに尋ねたら、改装工事をするとかって言っていたのを覚えている。
で・・・・こうなったのかな?(汗)
かなりの高級ホテルだそうで・・・・もう、ここに泊まるのは無理だろうなぁ~・・・カネがない・・・(大笑)

昔の思い出を辿りながら大いに楽しむ。
で・・・・この後は、平地にある「埔里(プーリー)」という町に向かう。
今晩から2泊、この町のホテルに宿泊するのである。
この町を拠点に「霧社(むしゃ)」方面の観光をするのである。

途中で、気が付いた・・・・
そういえば、「埔里」の町の近くに「台湾中心の地」っていうのがあったはず・・・
急遽、予定外の行動で・・・この「台湾中心の地」に立ち寄ることにした。

「台湾中心の地」を初めて訪れたのは1983年の研修団で来た時・・・・
その次に“サイトウくん”と一緒に来た時が2回目の訪問・・・・
当時、台北から運転手付きの乗用車で、この地までやって来た。
ガイドは26歳の女の子。
「台北に到着して、そのまま日月潭へ行くというお客さんってどんな人なのかと思っていました」と開口一番、空港で言われた。(笑)
日本人は台北を観光するのが普通なのに…・と言うのである。
で・・・・この地に来た時、彼女に「台湾中心の地」の碑が建っている場所を知っているかと尋ねたら、初耳だと言われた。(大笑)
ならば、拙者がご案内しましょう!・・・・と言って案内した。
方向音痴なのにねぇ~(大笑)
不思議なことに、8年ぐらい前にツアーバスで来た時の記憶が鮮明に残っていた。
で・・・「そこを右に曲がって!そこを左に曲がって!」とドライバーに指示して、驚くべきことに無事に迷わず到着したのである!(大笑)
当時の記憶では、何もない“広場”・・・・
道路がいくつか交差していたが、周囲には何もない・・・
“広場”の中に石碑がいくつか建っていた。
その碑文を読んだが、「民国〇〇年」が西暦何年なのかがわからず、ガイドに尋ねたことを覚えている。
彼女からは「あなたは歴史が好きなんですねぇ~“サイトウさん”は目的が違うみたいだけど・・・」と言われ大笑いした。
さぁ~その思い出の「台湾中心の地」に25年ぶりに訪問!

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あれれ!・・・・またもや“浦島太郎”状態である・・・(愕然)
森?・・・森になってる!・・・・あの何もなかった広場が????
もしかして・・・ここじゃないんじゃないの?(苦笑)
他にも「台湾中心の地」っていうのがあるんじゃないの?
いくらなんでも25年ぐらいで、こんなに変わるか?(唖然)
拙者の記憶にある景色と全く違うのである!

DSCN3517_convert_20170106151643.jpg (中心の地の前の道路)

こんなところに建物なんかなかったんですけど・・・・(汗)
道路が2本、接するところに「公園(広場)」があったのは覚えている・・・
道路から判断すると、この“地形”なのだが・・・
う~ん・・・・納得できないなぁ~
本当に、ここが拙者の記憶にある、あの「台湾中心の地」なのか?

DSCN3516_convert_20170106151804.jpg DSCN3515_convert_20170106151731.jpg
(「台灣地理中心」の碑)

2つの「台灣地理中心」の碑が建っていたが、25年前に拙者が読んだ碑文が刻まれていた碑が見当たらない・・・
白い碑だったような記憶があるのだが・・・・
おかしいなぁ~(大汗)

DSCN3508_convert_20170108164730.jpg DSCN3510_convert_20170108164611.jpg

記念のモニュメントだと思うのだが・・・・
全く記憶にない!(唖然)
参ったなぁ~・・・この記憶力の悪さ・・・(涙)

音楽を鳴らしながらゴミ収集車がやって来た。

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音楽を聴いていると、一瞬、アイスクリームの販売車でもやって来たのかと勘違いを起こしそうになるが・・・(笑)
この音楽を聴いて市民たちがゴミ袋を手に外に出てきて、自分で収集車に投げ入れるのである。
以前、澎湖島に行った時に見た光景と同じである。
日本では「集積所」に置きっぱなしだが、台湾では、このやり方なのだそうだ。
これなら収集日以外の日にゴミを出す不届き者がいるとか、カラスに荒らされるとか、そういうことはないから良さそうに思うが・・・
日本もゴミ収集のやり方を見直してみるのもいいのではなかろうか?
議員さんや役人さんには、こういうところを視察していただきたいものだ。

午後5時・・・市内のホテルにチェックイン

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思っていたよりシンプルな部屋である・・・(笑)
部屋でちょっと一休みし・・・午後5時半に夕食に出かける。
今晩は先住民族料理のお店!
これは最初からお願いしておいた。
折角だからねぇ~中国料理じゃなくて、先住民族・・・つまりは高砂族の料理を食べたい!(笑)

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開店早々のお店には、お客さんは誰もいなかった・・・
店内には原住民の方々が作った民芸品などが置かれていた。
で・・・店主の“コウさん”に「これ、タイヤル族が織った布でしょ?」と言ったら・・・(当然、ガイドに通訳してもらいましたが・・・)
「よくわかりましたねぇ~」と店主が驚く。
「この赤色と、この模様で、タイヤル族だとわかります」と言ったら“キョさん”が「へぇ~そうなんですか?」とキョトンとして言う。
いや、いや、あんたに話したんじゃない・・・・通訳して!通訳!
「これは・・・パイワン族が使う酒器でしょ?」
「おお!わかりますか!」(喜)と店主
で・・・奥から先住民族に関して書かれた本やら資料を持ち出して来て、あれやこれやと丁寧に説明してくれた。
今年の春に台北で先住民族の博物館に行ったりして、いろいろ見た記憶はまだ残っていたから助かった。(笑)
予備知識が無かったらチンプンカンプンだし、会話が成り立たなかっただろう。
店主の“コウさん”は中国系の方だが、先住民族の研究者でもあるという。
ついに、話が盛り上がり、興奮して話す店主の言葉を“キョさん”が通訳しなくなってしまった。(唖然)
話が難しくて日本語に訳せないのか、店主の興奮ぶりに驚いたのか・・・・(苦笑)
それとも、通訳するのに飽きたのか?・・・(大笑)
拙者は中国語が全く分からないのだが、不思議なことに店主が言っていることがなんとなくわかるのである。(大笑)
こちらの話は“キョさん”に中国語に訳して伝えてもらう。
と・・・「そのとおり!あなたの言う通りです!」とばかり身振り手振りで店主が応えてくれる。
いやぁ~楽しい夕食だった。

DSCN3526_convert_20170108173151.jpg DSCN3527_convert_20170108173244.jpg

DSCN3528_convert_20170108173324.jpg DSCN3529_convert_20170108173401.jpg

食事は、ごくごく素朴なもので、味は薄目、癖のない味・・・・
量的には女性向きかもしれない。
こりゃ、日本人の女性観光客なんかにはお薦めだなぁ~と思った。

結局、我々が店を出るまで、他にお客さんは来ず、貸し切り状態で店主とおしゃべりできたのは本当に良かった。(大喜)

ホテルに戻る・・・
明日は別のドライバーに変わるという。
彼は、昼食や夕食、コーヒーも遠慮していたので、ならばチップを渡そうとしたが断られた。
彼が言うには「自分は会社から、それ相応の給料をもらっているので、それ以上いただく理由はない」と言うのである。
これには驚いた・・・・なんと真面目な人だろう。
他の国では、隙あらばガイドの目を盗んで個人的にチップを要求してくるドライバーが多いのに・・・
いやぁ~感心した!

これから霧社の役所の“タク課長”がホテルに会いに来てくれるというのでロビーで待つ。

DSCN3531_convert_20170108203524.jpg (ホテルのロビー)

“タク課長”は102歳の“戦友”が紹介してくれた方。
この方が、台中の“キヨコさん”の転居場所を調べてくれたので、昨晩、会えたわけである。
で・・・課長とのアポは現地旅行社がやっておいてくれた。
いやぁ~大助かりである。(喜)

課長は「霧社事件」の時、日本人を殺害した原住民の子孫である。
事件について、いろいろとお話を伺おうと、ホテルのコーヒーラウンジに席を設けて待ち受けていたら・・・
やって来るなり・・・「おい!酒を呑みに行こう!行くぞ!」と日本語で言う。(唖然)
あのぉ~初対面なんですけど・・・・(大汗)
挨拶もそこそこ・・・である。

課長は息子さんの運転する車で来たので、息子さんも一緒に4人でホテルのすぐ近くの大衆食堂に入る。
102歳からの紹介状を渡して改めてご挨拶・・・
で・・・・肝心の“事件”の話だが・・・・
酒が入ったせいか、話は断片的、それより世間話のほうが長い・・・・(苦笑)
ついには、「乾杯!乾杯!」の連発である。
拙者が、これ以上は無理だと断ったら、「あんたは日本人ですか?」と言う。
「もちろん日本人です」と答えたら・・・・
「日本人とロシア人は酒が強いんだ!日本人なら酒が飲めるはずだ!さぁ、飲め!」と言う・・・・(唖然)

こうなると、もう滅茶苦茶である。(涙)
ただの“飲み会”である。
いやぁ~・・・・初対面の人に酒を強要するかねぇ~(唖然)
ふと、この「霧社事件」に関する本を読んだ中で、思い当たる節を思い出した。
とにかく原住民は酒が好きだということである。
で・・・この事件を起こす計画も、酒の席で盛り上がった末、「日本人たちをやっちまおうぜ!」となったという。
課長の強引さや、酔って話しているうちに激昂するところなどは、先住民族のDNAのなせる業なのだろうか?(大汗)

酒を無理強いされて付き合うのにも限度というものがある。
「明日がありますから、この辺でお開きにしましょう」と、持参して来た土産を渡して強引に解散することにした。(大笑)
「明日、役所に顔を出せ!案内してやるから」と言う。
良い人なのか悪い人なのか、さっぱりわからん・・・(大笑)
いずれにせよ、こう酔われてしまっては真面目な話は出来ない・・・(苦笑)
同行していた息子さんは、大人しい・・・・
「おい、親父をよろしく頼むぞ」と身振り手振りで話したら、理解したようでニコニコしながら頷いた。(笑)

二人をホテルの前で見送り、部屋に戻る。
いやぁ~疲れた!!(苦笑)

旅行 | 22:38:10 | Comments(1)
発電所に行く
台中市内を出て日月潭方面に向かう。
これから向かうのは「大観発電所」・・・・
観光地ではない・・・(苦笑)
祖父が戦時中、たしか昭和19年だったと思うが、一時期、台湾に駐屯していたことがある。
多分、3ヶ月程度ではなかったかと思うのだが、その後、レイテ島に米軍が上陸したため、急遽、フィリピンに転戦することとなった。
生前・・・今から30年以上も前だが・・・祖父に尋ねたら、霧社あたりにいたそうで、発電所とダムの警備と高砂族の訓練を担当していたという。
さて・・・その発電所というのはどこだろう?
もっと詳しく聞いておけばよかったと今頃になって後悔している。
たぶん、あの当時、あのあたりに存在していた発電所は、現在「大観発電所」と呼ばれている発電所しかないと思う。
とうわけで・・・今日の後半は、この発電所を見学する予定を入れてある。

その発電所に向かう途中、「集集」という名の町に立ち寄ることとなった。
ガイドの“キョさん”が、ここの駅舎を見せたいというのである。(汗)
1999年の台湾中部大地震の震源地が、この「集集」あたりらしい。
で・・・・ここの駅舎が、この大地震で崩壊したのだという。
現在では元の姿に復元されているらしい。

台中市を出て、約1時間で到着・・・・

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ありゃぁ~何だこりゃ・・・(苦笑)
駅がパネルで囲まれていて、駅前は整備工事中・・・・
この駅舎は日本統治時代に建てられたもので、総檜だったそうである。

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これ・・・写真の撮りようがないな・・・(苦笑)
どことなく、日本の田舎にある小さな駅という雰囲気で、昔懐かしいという感じの駅である。(笑)

この駅の脇に商店が・・・・お土産屋さんなのか市場なのか、よくわからないが・・・

DSCN3409_convert_20161229214051.jpg

拙者は、旅行をしても滅多に「お土産」というものは買わない。
が・・・この写真の左のお店に立ち寄ってみた。
この周囲には何軒もの、同じようなお店が並んでいる。
扱っているのは、乾燥させたフルーツのようなもの・・・・
乾物屋と言っていいのだろうか?・・・・こういうお店・・・・
試食を勧められ、あれやこれやとパクパク・・・(苦笑)
お店のオバチャンに「ドライマンゴーも美味しいですよ」(“キョさん”が通訳)と勧められたが、ドライマンゴーはフィリピン産のものを食べ慣れているので、台湾産を食べようという気が起こらず、断る。(苦笑)
「紫蘇梅も美味しいですよ」と勧められたが、梅は我が茨城県の名産でもある。
まさか、梅をお土産に買うわけにはいくまい。(笑)
“キョさん”に「茨城県は梅も名産なんですか!知らなかったなぁ~納豆だけかと思っていました!」と驚かれ・・・ムッ!(笑)
茨城県には納豆しかないわけではない!
だいたい、アピールが足りないんだよな!・・・茨城県は・・・(怒)
結局、オリーブを乾燥させたものを買うことにした。
「ドライ・オリーブ」って珍しいと思うんだよね。(笑)
このお店のオバチャンは人が良い・・・飴を山ほど拙者のポケットに突っ込んで、サービスだと身振り手振り・・・(笑)
いやぁ~申し訳ない・・・・

次に向かったのは、この「集集」の町にある武昌殿という建物・・・・
ガイドの“キョさん”の話では、大地震で1階部分が崩壊したまま“記念館”としてそのまま保存されているという。
「是非見るべきだ」と言うので立ち寄ることにした。
(なかなか本命の発電所には行けないんですけど・・・涙)

DSCN3410_convert_20170103132720.jpg (武昌殿)

どこが崩壊してるんだ?(汗)
話が違うんですけど・・・・
どこも壊れていないんですけど・・・・
「裏です!」と“キョさん”・・・・
チラリと裏を覗いたら・・・・あららぁ~・・・・である。

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DSCN3412_convert_20170103132849.jpg DSCN3419_convert_20170103132925.jpg

あらぁ~すごいことになってるわぁ~(唖然)
「1999年 集集九二一地震紀念館」の横断幕が張られていた。

このすぐ横に、“市場”のようなお店があったので、ちょっと覗き、喫煙所で一服・・・(笑)

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時刻は12時半・・・・腹が減った・・・(苦笑)
町の中の適当な店で食事をすることにする。
ドライバーも誘ったのだが、遠慮して、どこかに行っちゃった!
拙者は旅行するときは、ガイドやドライバーを一緒に誘って食事をすることにしている。
一緒に旅をしているんだから当然だと思っている。
そういうわけなので、旅費には「食事代」を含まないように旅行社に頼んである。
すべて現地で拙者が支払うことにしているのである。
このほうが楽しい・・・・

DSCN3422_convert_20170103134322.jpg

この太い麺が、なかなか美味しい・・・
で・・・餃子!・・・これまた美味しいのである!(大喜)
適当にウロウロして、偶然見つけて入ったお店だが・・・大正解だった!(大喜)

DSCN3423_convert_20170103134358.jpg (食堂のオバチャン)

DSCN3424_convert_20170103134433.jpg (食堂の前の様子)

この「集集」の町は観光地でもあるらしい。
驚いたことに、日本語の観光案内リーフレットまで駅に置いてあった。
ここを通る鉄道は、山奥から材木を切り出して運ぶための鉄道だったそうで、確か単線ではなかったかと思う。
で・・・休日には、この鉄道に乗るために観光客が押し寄せて混雑するとか。
1本しかない幹線道路は休日には大渋滞をするとか。
町にはレンタサイクルもあって、サイクリングする人も多いんだという。
へぇ~・・・これといって何もない町に見えるんですけど・・・(汗)
地図に「軍事公園」のようなものが載っていた。
戦闘機や戦車が展示されているらしい!(驚)
う~ん・・・見に行きたい気もするが、時間がない・・・(涙)
本命の発電所に行かねばならない・・・ということで断念・・・・
何もなさそうに見える町なのだが、本当は何かあるのかな?
この町は、日本における“町おこし”の参考になるかもしれないなぁ~

食後、「水里」という町を経由して20分程度で「大観発電所」に到着。

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ここは正確には「台湾電力公司 大観発電廠」という。
ゲートのところで守衛に敷地内見学の許可を求める。
いきなり敷地内を見学させてくれって言っても無理だろうなぁ~と思っていたが、意外にもあっさりと許可が出た。(驚)

最初に向かったのは、敷地内にある昔のトンネル・・・・

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右が、昔のトンネル(隧道)で、左のトンネルのように見えるのは、内部を覗いてみたら倉庫のようになっていた。
かなり古いもののようだから・・・・祖父もここを通ったかな?

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このあたりの景色が、またいい・・・・(笑)
このトンネルを抜けると、どこへ向かうことになるのかは、知らない・・・(苦笑)
昔のゲートでもあるのかも・・・・

この辺りは「門牌潭」という場所らしい。
ここは“史跡”らしい・・・中国語と英語の説明板が建っていたが、どちらを読んでも、よくわからない・・・(苦笑)
とにかく、この当りに発電所建設当時、宿舎や駐在所、工作所などが立ち並んでいたらしい。

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発電所完成後、工事時代の各種施設が無くなり人もいなくなって、昔の姿に戻ったというようなことが書かれていた。
操業開始から10年後は、どうだったのだろう?
まだ建物は残っていたとしたら、このあたりに祖父の部隊が警備隊として駐屯していた可能性はあるのではないかと思ったりする。

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発電所の建物の前にパネルの展示が・・・・
どうも普段から見学できるようになっているらしい。
それにしても、ダムだの発電所というのは重要施設だから、自由に見学なんて許されないと思うのだが・・・
監視役も案内役も付かず、勝手にどうぞ・・・なのである。(唖然)

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建物の内部にも勝手に入れるって・・・いいの?(苦笑)
この建物は建設当時のままなのだろう。
「歴史古蹟」に指定されている。

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まさか機械は新しくなっているとは思うが・・・(汗)
基本的には昭和9年当時と変わらない設備であることは展示されていた古写真を見てもわかる。
それでも、現在も稼働している“現役”の発電所のようである。

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祖父が言っていた「ダム」とは、あそこに見えるダムのことだろうか?
祖父のことだから、敷地の隅々まで巡視したに違いない。
ここも歩いたのだろうなぁ~
人間の命が永遠で、今も祖父が生きていたら、この写真を見せてあげられたんだけどなぁ~
「ほぉ~今も残っておるのかぁ~」と言うか・・・
それとも・・・「ん?俺がいたのはここじゃないぞ」と言うか・・・・どっちだろ?(大笑)

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ここの警備員にお礼を言って発電所を出たところで、アーチ状の門があるのに気が付いた・・・(汗)
「台湾電力公司日月潭第一発電所」と書かれている。
日本統治時代の名称と同じであるが・・・・当時の門にしては新しい気がする。

敷地内の「展望台」に向かい、全景を見てみることにした。

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が・・・全景ではない・・・
実際は、もっと広い・・・・(汗)
ちょうど中心部の導水管がよく見えるという場所・・・ということである。

時刻は午後2時・・・・
発電所とはお別れをして・・・日月潭という湖に向かう。

旅行 | 21:27:08 | Comments(0)
和平英魂観音亭
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(碑文)

和平英魂観音亭
霊安故郷紀念碑  建立由来記

1975年宝覚寺前住持林錦東宗正在職中、石原正一郎氏は第二次世界大戦に於ける台湾の戦没者の為に萬霊塔建立の志を立てたが当時の台湾の状況は極めて困難であった。
越えて1987年、元第48師団南星会長森晴治氏は当時台湾南星同学聯誼会役員に謀り1937年の不幸な事変により多くの人々が戦死・戦傷死し、更に第二次世界大戦でも多数の青年が主として南方諸島界域にて多くの犠牲者を出した。
更に台湾本土に於ても爆撃で大衆が尊い生命を失った痛恨事に鑑み、これら戦没勇士や不幸にして戦災に殪れた人々の冥福を祷り且、永遠の恆久平和を祷念するため、台湾南星会同学及び中日海交聯誼会台湾軍第48師団南星会長西村庄五郎氏等にも相謀り、和平英魂観音亭及び紀念碑の建立を計画した。
依て中・日両国南星会及び海交会を中心に、日本の南星会を筆頭に台湾協会岸田実理事長、元台北医専南溟会長奴田原正一会長、元台北一中麗正会長後藤威会長、台中会長緒方健一氏、元日赤看護婦南十字会長金川トヨ子氏の方々の心からなる御支援と御協力を得、また台中宝覚寺管理委員長周賜斌氏らの御厚志により、有末精三閣下の筆になる「和平英魂観音亭」の慈光燦たる観音亭、及び李登輝総統閣下の揮毫による「霊安故郷」の偉大なる紀念碑を建設することが出来た。
茲に台湾全島・日本全国より寄せられた温かい御協賛の諸賢に対し満腔の感謝の意を表すると共に、これを子々孫々に伝え千古に輝く英魂を永えに顕彰する。

   とこしへに、しずまりたまへ、くにのため
            つくせしひとの、みたまやすけく
                   森 晴治

中華民国79年
日本平成2年   11月25日

(~以下略~)


【台湾・台中市・宝覚寺】



史跡 | 20:08:38 | Comments(0)
追遠亭
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(碑文)

追遠亭銘記

大東亞戦争に於いて、台灣人民も踴躍大日本帝國陸海軍人屬を志願し、或いは應召により二十餘萬人従軍して勇戦奮闘のあげく、三萬三千餘人戦歿せり。
然るに戦後日本國政府はこれ等の戦死傷者の特定弔慰金以外の補償は一切謝絶したのみならず、軍事郵便貯金、未拂給與等の確定債務を50年後の今日120倍の不合理な倍數で償還せんと一方的に決定し、其の他恩給等除外されるに因り、内外識者の顰蹙を囤うに至れり。
適適1996年の10月、北海道の戦友 伊庭野政夫氏これを見かねて、日本國政府の不信、不徳を補わんと欲し、發起人同志の増田元光、村田 登、桝澤昭衛、宮坂文一、中園健一、玉谷又勝、上田篤次郎、小堀桂一郎、本間正信等諸士と謀り、『台灣出身元日本軍人軍屬感謝表明期成會』を決成して日本全國に呼びかけ、募金活動を展開せり。
1997年9月23日その募金日圓肆佰拾萬圓也(換算新台幣九拾六萬七百拾貳元也)を台灣に送達せられたり、台灣戦友會各代表者直ちに研討の結果、此處に『追遠亭』の建立を議決して即時著手、11月25日予定通り、その完成を見るに至れり。

1、總工事費・・・・・・・・・新台幣九拾萬元也
2、寶覺寺へ供養費・・・新台幣貳萬六仟元也
3、業務費・・・・・・・・・・・新台幣参萬四仟七百拾貳元也
合計・・・・・・・・・・・・・・・・新台幣九拾六萬七佰拾貳元也

茲に謹んで 伊庭野政夫會長等御一同様の御芳志に、深甚の感謝を満腔の敬意を表すると共に願わくは之を日台親善の證として、後世に傳承せられんことを望む。

1997年11月25日

(~以下略~)



【台湾・台中市・宝覚寺】




史跡 | 20:05:04 | Comments(0)
霊安故郷慰霊碑
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  第二次世界大戦期間日軍征赴
  海外殞身台灣同胞英魂碑
霊安故郷
     李登輝敬題

(碑文)

建立由来記

霊安故郷記念碑は中日海交聠誼会の発願により日本國海交会全國連合会竝に台湾縁りの心ある日本國民の協賛奉仕により建立された。
この碑は台湾との過去の歴史にみる日本國植民地統治下の大東亜戦争に、日本國陸海軍人軍属として戦場に散華した台湾戦没者三萬三阡余柱英霊の鎮魂慰霊碑である。
諸霊は日本國皇民化教育の名の下に育まれ、日本國危急存亡の戦場に進んで高砂義勇隊、陸海特別志願兵となり、更には日本國民の義務として施行された徴兵令により、南方諸戦域をはじめ各戦域に参加した元日本陸海軍人軍属二十萬七阡余名の戦友であり、また台湾縁りの元日本陸海軍人軍属と死生を誓った戦友であった。
1945年8月15日大東亜戦争は終戦を迎えたが、悲しい哉!
諸霊は再び生きて故郷台湾の土を踏むことはなかった。
日本國政府は諸霊を靖國神社に御祭神として合祀し、春秋例大祭には勅使が参向され最高の儀礼をつくし、日本國民は斉しく崇敬の誠を捧げているが、1972年中日両國の國交は、複雑な國際状況下に不幸にも断たれて今日を迎えている。
諸霊の遺族補償問題は國際法上の國交が條件であり、長期に及ぶ幾多の紆余曲折を経たが、台・日間の歴史上の人道的精神に基き、1987年「台湾住民である戦没者の遺族に対する弔慰金等に関する法律」が、日本國國会超党派の「台湾戦没者問題議員懇談会」による議員立法として成立し、遺家族竝に重傷病者に対し特定弔慰金・見舞金が支給された。
本法案成立には、和平英魂観音亭敬題の日本國陸軍中将有末精三閣下を会長とした台湾縁りの心ある補償問題推進十七民間団体の支援協力が貢献した。
因に霊安故郷記念碑の敬題は、中華民國總統李登輝閣下の諸霊に捧げる鎮魂の御仁慈の筆になり、總統府参議台南県黄崑虎先生を介したものであり、台湾全島にその例をみない。
希くば諸霊よ!
碑台内に納めた高麗大藏経の守■経により霊安故郷に鎮まり、恩讐を超えて中日國交修復と、永遠に中日善隣友好の懸け橋となられ、世界眞の平和達成の礎となられんことを。
合掌

1991年11月25日建立一周年記念慰霊祭に當り、碑台正面に中・日海交会縁りの世界の名提督日本國元帥海軍大将東郷平八郎御祭神を祀る東郷神社筑土龍男宮司の英霊鎮魂の敬題御揮毫を受く

1990年11月25日
中日海交聠誼会
(~以下略~)


【台湾・台中市・宝覚寺】



史跡 | 17:42:20 | Comments(0)
東部・北部地区 日本人遺骨安置所
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(碑文・1)

此處には左記各縣市に在住中死亡した日本人の遺骨を蒐集の上納骨した
台北市
台北縣
基隆市
陽明山管理局
桃園縣
新竹縣
苗栗縣
宜蘭縣
花蓮縣
台東縣
昭和36年3月
在中華民國日本國大使館

(碑文・2)
この納骨堂には、第二次大戦終戦までに台灣に居住し、台灣にて亡くなられた日本人物故者の遺骨を収めてあります。
終戦後在留日本人は總て故國に引き揚げましたが、着の身着のままで物故者の遺骨を持ち歸る余裕もありませんでした。
當時唯一家族で残って居た苗栗縣大湖に住む野沢六和氏がある日畑を耕していたところ、この大湖にあった舊陸軍病院の戦病死者と思われる埋葬の遺骨を發見し、この遺骨を鄭重に拾い自宅に持ち歸り安置していました。
その後各地から日本人の墓地が荒れて遺骨が散亂しているとの連絡が多くこのままにして置く事には忍び難く各地の日本人墓地に残された遺骨を採骨する悲願を立てて昭和22年春より台灣全島を巡り採骨の悲願行脚に旅立たれました。
この悲願の旅は十數年に及び、約二萬柱の採骨を終えたのは昭和35年秋でありました。
昭和36年秋に當時の日本大使館の肝いりで採骨の地域別にここ中和寺と台中の寶覺寺、高雄の公墓三ヶ所に分けて納骨することになり一應採骨は終わりました。
その後大使館が主催して年一度の慰霊祭がこの三地區で行われて来ましたがその後この慰霊祭は現日僑協會が主催する事になり現在に及んでいます。
現在ここに納骨されているのは羅東より苗栗附近までに採骨された約八千柱です。
この採骨をされた野沢六和さんは中國広東系の中國人ですが、夫人は新潟縣出身の野沢ムメさんで結婚後夫人の籍に入り野沢姓になられたのです。
この採骨には當然この御夫人の協力があったことは申すまでもありません。
この野沢六和さんは採骨時の苦勞が禍いして喘息を患い以後保養をされていましたが昭和58年7月10日に日本の神戸郊外に住む御長男宅にて他界されました。
この崇高なる人格は永遠に私達日本人の鑑として記憶に留どめたいと思います。

平成元年3月吉日



【台湾・台中市・宝覚寺】



史跡 | 16:26:52 | Comments(0)
台中市内を観光
午前6時、部屋に備え付けの目覚まし時計の音で目が覚める。
7時過ぎに朝食・・・8時15分にチェックアウトして8時半にホテルを出発する。

DSCN3302_convert_20161225160817.jpg (宿泊したホテル・皇家季節酒店)

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(ホテル前の道路)

今日は、まず最初に台中市内の“観光”を行なう。
拙者が日本統治時代の建物が好きだとガイドに話したので、急遽、本日の前半を“建物見学”としてくれたのである。
で・・・今回の旅行は拙者専用のワゴン車を用意していただいたので、行動はかなり自由である。
が・・・出発早々、ガイドとドライバーが、向かう先の道順か何かでもめているような雰囲気。
中国語なので意味は不明だが、語気を荒げているから何か問題でもあるのだろうと思い、ガイドに尋ねたら・・・
この運転手さん・・・台中に来てまだ1ヶ月しか経っていないため、どこに何があるのかがわからないのだそうだ。(唖然)
でも、この運転手さんは面白いことをしたのである。
ワゴン車にはナビが備え付けられているので、その通りに走ればいいのだが、彼は自分のスマホを取り出し、ナビを表示して、ダッシュボードに取り付けたのである。
ナビが2つ並ぶことになるのだが・・・2つあっても意味がないような気がするんですけど・・・(汗)
車のナビを信用していないのかな?(苦笑)
ナビの精度を比較検証するつもりなのかな?(苦笑)
失礼かと思い、敢えて尋ねなかったが・・・・なんでナビが2つ必要だったのだろう?・・・謎である・・・(笑)

最初に訪れたのは、日本統治時代、「台中州庁」だった建物である。
戦後は「台中市役所」として使われた建物・・・・

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その後、台中市役所は新たに別の場所に建物が建てられ、そこに移転したという。
現在は台中市政府の2部局、「都市発展局」と「環境保護局」が使用している。
で・・・・ちょっと内部を見学・・・・(笑)

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(中庭)

この建物の道の反対側に日本統治時代の「台中市役所」がある。
現在は整備され、展示会やイベントに使用されているらしい。

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車内から撮影したのでうまく撮れなかったが・・・・(涙)
少し離れたところに赤い建物が見えた・・・(たぶん赤煉瓦造りだと思うが・・・)
この建物は日本統治時代には図書館だったそうで、現在は銀行として使用されている。

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次に向かったのは、なぜか学校・・・・
これは「台中市大同国民小学」
日本統治時代も小学校だったそうだ。(建物は当時のままだと思う)

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その向かい側にあるのが「国立台中女子高級中学」
日本統治時代は、たしか「台中第一高等女学校」だったと思う。

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こちらの建物は、たぶん建て直されていると思う。
で・・・・ガイドの“キョさん”が何で拙者を案内したのかというと、この両方の学校とも、彼のお母さんが卒業した学校なのだそうだ。(唖然)
へぇ?・・・その話をするために拙者を連れて来たのか?(唖然)

次に向かったのは、日本統治時代の警察官の官舎・・・・
終戦後、建物は荒れ果てて廃墟化していたらしいが、それを復元して整備したらしい。
住宅街の中に小公園と共に「文学館」という形で遺されているようである。

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この一区画の真ん中を「文学散歩道」が通っている。
そこを中心に旧日本家屋が6棟ほど復元されていて、それぞれ「研修の施設」や「常設展示の施設」などに分かれている。
たぶん「文学道」は、当時は路地だったのだろう。
ところどころ赤煉瓦の塀が残っている。

時刻が10時前という事だったせいか、それとも休館日だったのか・・・・
「館区沿革の建物」が閉まっていて内部の見学ができなかったのが、ちょっと残念。
ここの沿革を知りたかったのだが・・・・

DSCN3332_convert_20161225211555.jpg (町の中の果物屋さん)

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果物を搾った果汁をペットボトルに入れて売っているようである。
う~ん・・・まさしく果汁100%・・・間違いなしだな・・・これ・・・(笑)
見た目に、かなり甘いような気がするのは色のせいかも・・・(苦笑)

ガイドの“キョさん”が、資料を自宅に忘れて来たので、一旦、自宅に立ち寄ることとなる。
ちょっと自宅に上がってお茶を飲んでくれとのことで、お宅にお邪魔することになった。
お母さんが出てこられてご挨拶・・・・
日本語がペラペラである。(驚)
「私は台湾第一高女の卒業生なんですよ」とおっしゃる。
「はい、さっき学校を見てきました!」(笑)
高等女学校のセーラー服に憧れていたそうで、入学したのが昭和20年の4月・・・・
そして8月には終戦・・・・
憧れのセーラー服は4ヶ月しか着ることが出来なかったので、それがなんとも残念だとおっしゃる。(笑)
小学校の同窓会の写真を見せてくれたが、同窓会には日本からも同窓生がやって来るのだという。
そうか・・・日本に引き揚げた日本人は、同窓会という事になると、そういうことになるか・・・・(苦笑)
いやぁ~同窓会に出るのにパスポートを持って飛行機に乗らねばならんのか・・・(汗)
いやぁ~大変だな・・・それ・・・
終戦から70年も過ぎてるのにねぇ~
こういうのが、日本と台湾の友好の基礎の一つになっているのかもね。
まだまだ、おしゃべりをしたいところだが、予定が詰まっているので、お茶を一杯頂いて辞することにする。
「また来てください!」と言われ「はい、また来ます!」と返事をしたが・・・また会えるかな?(大笑)

次に向かったのは「台中駅」・・・・

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う~ん・・・いいなぁ~・・・・台湾の駅舎は本当に見ごたえがあっていい。(喜)
ガイドの話では、現在は使われていないと言っていたが、なぜか人の出入りが多い・・・
駅舎の内部に入ってみた。

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改札口には駅員は誰もいない・・・・

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人の出入りが多い理由がわかった。
この駅の向こうに新しい駅舎ができたので、この古い駅舎の中を通って新駅に向かうらしいのである。
それで、皆さん、ここを通っているらしい。
日本だったら、壊して建て直してしまうか?
これが韓国だったら日本人の設計だからと言って何も考えずに恨みだけで壊してしまうか?
(建物に八つ当たりするのは愚かだと思うが・・・それが“儒教の国”というなら仕方がないか?)(苦笑)
この駅舎は文化財として保存されるそうだ。
間違っても拙者が建てた駅舎ではないのだが、とても嬉しい・・・・(喜)

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線路はホームの端で封鎖されていた。

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(駅構内)

この重厚な柱・・・・こういうデザイン・・・・好きだなぁ~・・・・見ていてワクワクしちゃうなぁ~(笑)
もちろん、日本統治時代に日本人設計者によって建てられた駅舎である。

ここを通って「新駅」のほうへ行ってみたい気もしたが、その余裕はなさそうなので(しかも駅前にワゴン車を待たせているし・・・)断念する。

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(駅前の景色)

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駅前のバスターミナルは閑散としていた・・・・よく見たら閉鎖されている。
どうりで誰もいないわけだ・・・・
新しいバスターミナルは、新駅の近くに移動したらしい。
で・・・・今日から新しいバスターミナルがオープンという横断幕があった。
ということは・・・・昨日までは、ここは使われていたのか?
いやぁ~“歴史的な日”に、訪問したわけだ。(大笑)
このバスターミナルのことは永遠に拙者の記憶に残るだろう・・・・(ちょっと大げさか?)

次に向かったのは「台中公園」・・・・
真っ先に目に付いたのが、公園の外にあった石碑である。

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これは「勝利碑」と呼ばれる碑だが、もともとは日本統治時代に建てられた「昭忠碑」である。
日本が建てたものだが、終戦後に「昭忠」の文字を削って、そこに「勝利」と書き入れた。
「勝利」とは、日本に勝ったという意味か?
台湾は日本領だったのだから、“台湾”が日本に“勝つ”わけがない。
一緒に負けたのである・・・(苦笑)
戦後、台湾に逃げ込んだ国民党の連中がやったのだろう。
さすがは、“中国人”である。
やることが、えげつない。

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“キョさん”の話では、この公園内に歴史的な建物があるという。
で・・・・それを見ようと思ったら・・・・公園内は、ちょうど整備中で見ることが出来ない!(涙)
なんとも残念・・・・次回、来た時に見るか・・・・(汗)

ここに公園の案内板があった。
珍しいことに中国語と日本語と英語の3か国語で書かれていた。(笑)


【台中公園簡介】
台中公園は1903年に整備されました。
当初は簡単なものでしたが、総督府が1908年10月に台中公園において台湾縦貫線路の全線開通式典を行い、載仁親王が主賓として参列しました。
このため、台中の行政当局は公園を全面的に再整備するとともに、日月湖に親王の休憩所として湖心亭を立てました。
これ以降、この湖心亭は台中のランドマークとなっています。
園内の更楼は1880年代に建築され、台中城建城当時は財務総管である呉鸞旂の公館として使用されていました。
後の1980年代に道路拡張の関係で、台中市はこの建物を園の北側に移転させました。
望月亭はもともと、台中城建城当時に大北門上に設けられた楼閣でした。
東大墩山丘の砲台山は、清朝の總兵(官職名)だった藍廷珍がここに砲台を2基設けたためにこの名がつきました。
台中の古名「大墩街」もこれに由来しています。
これ以外にも史跡や青々と茂る古木が数多く残っており、私たちの成長を見守ってきました。
みなさんも時にはぶらりと見て回ってはどうでしょうか。

(説明板より)



次に向かったのは「宝覚寺」・・・・
ここは、当初から拙者が訪問予定に入れていた場所である。
ずいぶん昔に、一度だけ、ここに来たことがある。
1993年の10月ではないかと思うのだが、23年ぐらい前のことなので、どうもハッキリしない・・・
1991年から1993年にかけて拙者は4回ほど台湾を訪問している。
で・・その4回のうち、何回目の時にここに来たのか・・・・う~ん・・・・記憶にない・・・(苦笑)
なんと記憶力の悪いことか・・・・(大涙)

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で・・・・「宝覚寺」に到着したが・・・・
う~ん・・・・全く記憶にない・・・(大笑)
あれ?・・・である。

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お寺の本堂は、さらに巨大な“屋根”で覆われていた。(驚)
こんなに変わった建物にもかかわらず、全く記憶にない・・・・(苦笑)
本当に、拙者は、ここに来たことがあるのか?

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巨大な布袋様・・・・
う~ん・・・これは、かすかに記憶に残っている。(苦笑)
ということは・・・やっぱり、ここに来たことがあるんだろうと思う。

今回の旅行で、ここを予定に入れた理由は、以前(23年前)に来た時に、予科練の碑を見た記憶があるからなのである。
甲種飛行予科練習生第14期・・・・親父と同期の予科練の碑だったと記憶している。
たしか、三角形の碑だったと思う。
(こういうところだけは、記憶力がいい)(苦笑)
金色の文字で書かれていて、多くの人名が刻まれていた。
残念ながら碑文の内容は覚えていない・・・・
ということで、今回、改めて碑文を確認しようと思って来たのだが・・・・
ない!・・・・拙者の記憶にある、あの碑が無い!(汗)
境内を探し回ったが、どこにもないのである。
あれ?・・・・ここじゃなかったのかな?
どこか、公園のような場所にあったような気がしないでもない・・・
どうも記憶力が悪くて、どうしようもない。
ここじゃないとしたら、どこなんだろ?
全くわからない・・・(涙)

ガイドの“キョさん”は座り込んで携帯電話とニラメッコ・・・・(唖然)
“ライン”というのをやっているようで、さっきから、ひっきりなしに着信音が鳴っていた。
その返事を書くので忙しいようだ。
“お客様”の拙者のことは、そっちのけ・・・である。
付き合いきれないので「俺は、勝手に一人で、このあたりを見てるから!」と言って境内を散策する。

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これは、「中部地区 日本人遺骨安置所」・・・・
あれ~・・・・記憶にないなぁ~
ここに来ているなら、拙者がここをお参りしない訳がないと思うのだが・・・・(汗)



【碑文】

此處には左記各縣市に在住中死亡した日本人の遺骨を蒐集の上納骨した
台中市
台中縣
彰化縣
雲林縣
南投縣
昭和36年3月
在中華民國日本國大使館



DSCN3380_convert_20161227112551.jpg (東部・北部 日本人遺骨安置所)

DSCN3386_convert_20161227130245.jpg (霊安故郷慰霊碑)

DSCN3393_convert_20161227130317.jpg (追遠亭)

DSCN3400_convert_20161227130347.jpg (和平英魂観音亭)

境内をウロウロしながら各碑文などを読んでいたら、ガイドの“キョさん”が吹っ飛んできて「どこにいたんですか!散々探し回りましたよ!」と言う。
はぁ?・・・・である。
“ライン”に興じて“お客様”を放置しておきながら、その言い方はないだろ・・・(怒)
最近は、こういう人が多い・・・・
フィリピンでもガイドが、やっぱり“ライン”に一生懸命で、お話にならなかった・・・・
「“ライン”は便利だから、あなたもやったら?」と言われたが、御免蒙る。
“ライン”に夢中になると会話もできないし、話の腰は折られるし、注意も散漫となる。
たぶん、ご本人は全く気にならないのだろうが・・・・
客としては、これで“ガイド”をしているつもりか?・・・・と文句を言いたくなる。(苦笑)

拙者が誰かに誘拐されて行方不明になったら、それは拙者から目を離して“ライン”に気を取られていたあなたが悪い!(大笑)
“お仕事”は真剣にやってもらいたいものである・・・・

ここで台中市内の“観光”は終わり・・・・
これから町を出て、山の方へ向かう。

旅行 | 15:58:23 | Comments(0)
台湾の台中へ行く
午前7時起床!
昨日のうちにコンビニで買っておいたサンドイッチなどを食べて・・・・午前9時にホテルをチェックアウト。
ホテルのレストランで朝食をとるとなると、混雑していてイライラするし、落ち着いて食事もできないし・・・ということで、拙者はいつもコンビニのサンドイッチを部屋で食べることにしているのである。(笑)

羽田空港に行くには4つの方法がある。
1つは、JR浜松町駅からモノレールに乗って行く方法。
かなり混雑するが本数が多いので、ちょっと待てば乗れないことはない。
が・・・最近、導入されたのだろうか、新型車両はスーツケースなどの荷物を置く場所が少なくなっている。
それでなくとも狭い車内の通路にスーツケースを置いたら混雑時には迷惑千万。
ということで・・・これは諦める。
2つ目は、京急蒲田駅から京急に乗って羽田に行く方法。
コマーシャルで、やたらと便利だと言っているのだが、確かに時間的には便利かもしれないが・・・
混雑するのである。(苦笑)
しかも車両は、普通の通勤列車と変わらない。
ここにスーツケースを持ち込むというのも気が引ける・・・・(汗)
時間的な視点からだけで「便利」というのは、どうかと思う。
これが成田空港へ向かう京成のスカイライナーのような車両なら、スーツケースの置き場もたっぷりあって、乗り心地も良いし、他者に迷惑をかけることもない。
“通勤電車”ではねぇ~・・・・スーツケースを持って乗るにはちょっと不便なので、これも諦める。
3つ目はJR蒲田駅前からバスで行く方法。
これは最悪である。
「空港行き」だから、リムジンバスのようなバスかと思ったら、普通の循環バス・・・つまり“通勤バス”である。
スーツケースを置く場所がない!(汗)
しかも、空港へ行く客だけが乗るわけではなく、途中下車する通勤客も乗るから混雑する。
それでなくとも狭いところに、スーツケースを持った乗客が3~4人乗ったら、もう立つ場所もないくらいのギューギュー詰めとなる。
バスの奥の方に乗った乗客は降車するときには、かなり苦労することになる。
そこまで迷惑をかけたくないしなぁ~(苦笑)・・・ということで、これも諦める。
で・・・最後の4つ目の方法はJR蒲田駅からタクシー!(大笑)
最初の3つは経験済みだが、このタクシーでの移動はしたことがなかったので、今回、贅沢にもタクシーを利用してみることにした。(大笑)
JR蒲田駅から走ること15分で空港に横付け!
今日は道路が比較的空いていたと運転手さん。
料金は2,260円なり!(笑)
200円~300円くらいで行ける距離をタクシーを使うと10倍の料金を支払うことになるが・・・
精神衛生上、他人に迷惑をかけることを気にしながら行くよりは良い。

空港でのチェックインは昨日の午後、上京するときに自宅のパソコンからネットで済ませておいたので、チェックインはスムーズ。
で・・・旅行保険の申し込みは、前回「VIPカード」を作ってもらっていたので、これまたスムーズ。(笑)
快調な滑り出しである。
その後、2階のカフェでコーヒーを飲んで一休み。
着て来たコートを手荷物のショルダーバッグに詰める。
このコートを入れるために、わざわざ大きいショルダーバックを担いできたのだ。(笑)
コートを空港に預けてもいいのだが、たぶん、帰国の時に受け取るのを忘れると思う。(大笑)

12時20分、搭乗開始。
機内は満席である。(驚)
機内で読書しようかと思い、読書灯を点けたら、角度が悪く、拙者の後頭部を照らすのである!(唖然)
なんだよ・・・これ・・・・
全く役に立たない!(怒)
やむなく、薄暗い機内で読書をすることになったが、目が疲れる・・・
読書灯の照らす位置の調整とか、そういう細かいところにも気を使ってもらいたいものである。

台北の松山空港に到着する直前、機体がかなり揺れた。
どうも最近、拙者が乗る便はよく揺れる・・・(苦笑)

機内アナウンスで、到着予定時刻より30分も早く到着したという。(唖然)
30分も違うって・・・当初の予定時刻は何に基づいて決めたのやら・・・(汗)
ところが、あまりにも早く着きすぎたので、到着ゲートに前の飛行機が駐機中だという。(苦笑)
この飛行機が移動してくれないとゲートに横付けできないらしい。(唖然)
このため、しばらくの間、待機・・・・
予定到着時間は午後3時50分。
実際に到着したのは午後3時20分。
で・・・・結局、機内から降りた時間は午後3時40分である。
結局、30分も早く到着しても、全く意味がなかった。(大笑)

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キティちゃんが描かれたエバー航空の飛行機を見っけ・・・・(苦笑)
子供は喜ぶかもしれないが、拙者は、こういう飛行機から降りてくる姿を見られたくないなぁ~(大笑)
でも、カラフルで面白いことは面白い。
いっそのこと、広告を描くというのもいいかもね。
赤と白のコカ・コーラのマークのデザインそのままの飛行機とか・・・・
それに対抗してペプシ・コーラのデザインの飛行機が隣に駐機するとか・・・(笑)
で・・・広告料を取って、その代わりに飛行機代を安くしてくれるとか・・・(大笑)
誰かやってくれないかなぁ~

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滑走路の向こうに、見たことのある建物が・・・・
あれは圓山大飯店である!
その昔、あの場所に台湾神社があった・・・・
で・・・・今回の旅の最終日に、あのホテルに泊まることにしている。
う~ん・・・楽しみである!(大喜)

今回の旅の目的は、昭和5年に起こった「霧社事件」の跡を訪ねるのがメインの目的である。
そのついでに、日月潭の近くにある発電所を訪問する。
そこは戦時中、一時期、祖父が駐屯して警備した場所だと思うのである。(確証はないが・・・)
そこで、歴史に詳しいガイドを旅行社に頼んでおいた。
春に来た時のガイドさんを指名したが、都合が悪いということで断念・・・
日本側の旅行社の都合で別の現地旅行社を使うことになったらしく、そのガイドさんが付いてくれる。

入国手続きを終え、スーツケースを受け取って、外に出てガイドと落ち合う。
開口一番、「“あけぼの会”の会員ですか?」と言われた。(笑)
拙者は会員ではない・・・・(大汗)
今回の旅行には、この「あけぼの会」を主宰している102歳の方も関わっている。
それで、拙者を会員と思ったらしい。
加えて「大学の先生ですか?」と尋ねられた。(苦笑)
大学の先生に間違われたのは、これで何回目だろう?(苦笑)
たぶん、4~5回目だと思うが、時々、大学の先生に間違われることがある。
そんなに知性のオーラが出ているのか?(大笑)

これといった肩書を持っていないと、こういう時は本当に不便である。
「研究者」といえるほどの研究なんかしていないし・・・
「作家」と言えるほどの素晴らしい文章は書いていないし、本も出版してないし・・・(笑)
「ブロガー」?・・・・ブロガーと言えるほどの大したブログを書いているわけでもないし・・・(大笑)
え~と・・・・ただの歴史好きな旅行者です・・・(大笑)

ガイドさんは“キョさん”という60歳の人。
日本大学の大学院を卒業しているという。
で・・・「あけぼの会」の会員なのだそうで、それで拙者を同じ会員仲間と思い込んだらしい。(笑)
当初、「先生!先生!」と拙者のことを言うので・・・(苦笑)・・・・以後、「先生」と呼ばないでくれるよう頼む・・・(大笑)

空港の銀行で両替をする。
春に来た時の台湾ドルの残りが1万円分くらいあったので、両替は4万円(1万970元)とした。

タクシーで台北駅に向かう。
ここから新幹線に乗って台中に向かうのである。
我々の乗る新幹線の発車時間までに余裕があったので駅ビルの中を見学・・・・
2階のレストラン街を見て回ったが、やたらと日本食を扱っているお店が多い。(笑)
日本の和菓子屋まであるのには驚いた。
今、台湾では日本の和菓子がブームなんだとか・・・・

午後5時17分発の新幹線で台中へ。
以前、ツアー旅行で来た時に乗ったことがあるので・・・・写真は撮らない。(大笑)
驚いたのは、乗客の殆どの人が思いっきり座席の背もたれを倒すのである。
これでもかぁ~というほど・・・(唖然)
後ろの席に何の断りもなく、いきなり・・・・(唖然)
日本人の拙者からすると“非常識”と思える行為なのだが・・・・
この国では、こういうことをするのは“常識”なのだろう。(唖然)
偏見的な言い方になるが・・・・全員、中国系の人間である。(苦笑)

午後6時18分、台中駅に到着する。
駅構内で軽く食事をしたい・・・・
ウロウロしてたらファミリーレストランの「ロイヤル・ホスト」を見つけたので、そこで軽く食事をとる。
知っている名前の店だと、心なしかホッとするのは何故だろう?(笑)

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今回の旅行・・・・出発直前に追加の予定が入った。
今回、霧社にいくことを93歳の“戦友”の“カワムラさん”に話したところ、霧社に知り合いがいるので会ってみてはどうかと紹介された。
原住民の女性らしいのだが、病弱なので「お見舞い」を届けてくれと郵送して来た。
え?・・・病弱?・・・・最後にお会いしたのはいつなんだろ?(苦笑)
失礼ながら、今も生きているという可能性はあるのだろうか?
さらに、“カワムラさん”が「あけぼの会」を主宰している102歳の“カドワキさん”に拙者が霧社に行くということを話したという。
“カドワキさん”は戦時中は特務機関員だったと思う。
今流の言葉で言うと・・・諜報員?スパイ?特殊工作員?秘密工作員?
“カドワキさん”には以前、お会いしたことがあり、“カワムラさん”の紹介でご挨拶させていただいたことがある。
ということなのか・・・“カワムラさん”が「我々の同志が今度、霧社に行く」と伝えたらしい。(苦笑)
“カワムラさん”も戦時中は情報関係の任務に就いていた方である。
はぁ?・・・・私が“同志”?・・・・もったいないお言葉である。
で・・・・現地の知り合いに紹介状を書いてくれると“カワムラさん”からの報告・・・・
いやいや・・・102歳の方に、そこまでお手数をおかけしたのでは申し訳ないんですけど・・・(大汗)
まもなく「紹介状」が郵送されて来た。
日本語と中国語で拙者のことを紹介する霧社の役所の課長宛ての「紹介状」である。
102歳で中国語まで書けるの?・・・・驚きである。
すごい方だとは思っていたが、本当にすごい方だ・・・・
しかも記憶力もすごいと思う。
拙者のことを覚えているんだから・・・・(笑)
添え状には「この課長に会えば、いろいろと便宜を図ってくれるはず」と書かれていた。

“カワムラさん”は、いつも拙者のことを高く評価してくれている。(実態以上に・・・・笑)
もしかしたら、一緒にフィリピンへ行って“活動”した時の、拙者の現地人への対応の仕方を評価してのことかもしれない。(笑)
いや、氏は拙者の祖父を非常に高く評価して尊敬してくれているので、きっと孫も“立派な人物”なのだろうと思い込んで高く評価してくれているのかもしれない・・・・(大笑)
いずれにせよ、嬉しい話なのだが、かなりのプレッシャーでもある。(苦笑)
で・・・ここで一肌脱いでやろうということで、“カワムラさん”がいろいろと協力してくれた。
で・・・・この“任務の追加”(笑)となったのである。

そこで、急遽、日本の旅行社に拙者の予定に若干の追加が発生したことを連絡・・・・
すでに旅費は振り込み済みなので、その範囲内で何とか収まるように現地旅行社が手を打ってくれるという。
早速、現地旅行社が役所の課長と連絡を取り合ってくれて・・・
課長は、“カワムラさん”から紹介された日本人名“キヨコさん”の居どころを調査してくれた。
で・・・・わかったことは・・・・
“キヨコさん”は現在は霧社には住んでおらず、台中市内に住むお孫さんと同居していることが判明した。
いやはや、驚くべき連携プレー(笑)
しかも、すでに拙者がご自宅を訪問するアポイントメントまで取っておいてくれた。(唖然)
現地に行ってから探し回るようかと思ったら、まったくその無駄が省けたのである。(喜)

”キヨコさん”訪問は午後8時過ぎでアポを取ってあるという。
台中駅からタクシーで“キヨコさん”に会いに行く。
孫娘さんがご自宅の外に立って我々の到着を待っていてくれた。
いやぁ~申し訳なし・・・・
拙者は中国語は知らないので・・・(苦笑)・・・・「ニーハオ!」しか言えなかった。(涙)
“キヨコさん”とは初対面・・・
いきなり先方から「わざわざ遠いところからおいでいただきまして・・・・」と日本語で挨拶された。(笑)
日本語が上手だとは“カワムラさん”からは伺ってはいたが・・・
上手なんて言うものではない、全く日本人の“おばあちゃん”である。
本人のお話によると・・・・「大正15年生まれの90歳です」とのこと。
お元気ではあるが、ご高齢のせいもあるのだろう・・・・
同じ話を4回くらい繰返され、話は堂々巡りで、全然先に進まない・・・(大汗)
とりあえず、頃合いを見計らって“カワムラさん”から預かってきた「お見舞金」と拙者が持参して来たお土産を渡す。
ようやく話が先に進み・・・・
「あと2週間もすれば霧社の自宅に戻る予定です」とおっしゃる。
ところがお孫さんの話をガイドの“キョさん”に通訳してもらったら、「もうここに2年も住んでいる」とのこと。(笑)
どうやら“キヨコさん”は自分の希望を述べているだけのようである。
「霧社の自宅は両親から譲り受けた唯一の私の財産なんです。だから放ってはおけないので・・・たぶん、2週間後には自宅に戻れると思うんですけどね。あなたはいつまでここにいらっしゃるの?自宅に霧社事件の資料もたくさん置いてあるから、自宅に戻ったら見せてあげられるんだけど・・・」とおっしゃるのである。
国が違っても、お年寄りは皆さん同じだな・・・
住み慣れた自宅に戻りたいらしい。
果たして拙者のことが判っているのかどうかはさっぱりわからないが、一方的にご自身の身の上話などが延々と続き・・・・
あっという間に1時間以上も過ぎてしまった。(汗)
お孫さんが中国語で“キヨコさん”に何か注意をしたらしい・・・・
「お疲れのところすみません」と“キヨコさん”が言ったところから想像すると、「もう遅い時間だから、おしゃべりはその辺にしたら?お客さんも疲れているんだから」とでも言ったのかもしれない。
手回しよく、ガイドの“キョさん”がタクシーを呼んでくれていて、すぐに迎えの車がやって来た。(笑)
相手は高齢者だし、もう夜の9時を過ぎてるし、まだまだ、お話を聞いてあげたいところだが、あまり長居するのは失礼だろう。
取りあえず、ちゃんと会いましたよ・・・と“カワムラさん”に報告するために、記念写真(証拠写真?)を急いで撮ってご自宅を辞する。
で・・・よく考えたら、拙者はまともに自己紹介をしていなかった。
会った瞬間から、ズ~ッと“キヨコさん”がしゃべっていたので、こちらが話をする暇がなかった・・・(苦笑)
まるで昔から拙者をよく知っているような雰囲気で話をしてくるので、うっかりしていた・・・(大汗)
「また会いに来てください」と言われ、「はい、また会いに来ます!」と答えたが・・・・
お元気なうちに、また会いに来れるかどうか・・・(汗)
こういうところが、ご高齢な方との出会いの辛いところである。(涙)
いずれにせよ、帰国したら改めてお手紙を差し上げよう・・・・

台中市内のホテルに向かい、チェックイン・・・・
夕食を食べていなかったので、町に出て、食事を済ませ・・・
午後11時にホテルに戻って・・・・寝る!
クタクタである・・・(苦笑)

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旅行 | 14:24:15 | Comments(0)
偶然の中華料理店!
明日から台湾旅行である!(喜)
ということで・・・今日は東京に前泊する。

いつものように、直前まで旅行の準備でバタバタして・・・午後5時発の特急で上京・・・
品川駅から京浜東北線で蒲田駅に向かうが、電車は満員状態!(大汗)
スーツケースにショルダーバック・・・周囲にご迷惑をかけて申し訳なし。
「すみませ~ん!」の連発である。(大汗)
大量の荷物と大きなスーツケースを持ちこんで平然としているあの中国人旅行者の図太い神経が羨ましくなるが、どうにも拙者には真似は出来ない。
つい「すみませ~ん」と言ってしまう・・・(苦笑)
で・・・教訓!
午後7時ごろの電車には乗っちゃいけないな・・・(苦笑)
次回は、もっと早い電車で上京しよう・・・(大笑)

今晩は従妹と夕食を食べる予定でいたが、残業が入ったため一緒に夕食を食べるのはキャンセルとなる。
彼女はJALだっけかな?
拙者はいつもANAを利用するので、ちょっと気が引けて・・・(大笑)
勤め先のことを尋ねたりしないので、よく知らないが・・・(大笑)
まぁ、いずれにせよ、残業するほど忙しいというのは結構なことである。

駅前のホテルにチェックイン後、外出し、どこで夕食を食べようかと繁華街をウロウロする。
散々歩き回りクタクタになったが、これといって入りたい店がない!(涙)
いつものことであるが・・・優柔不断なのである。(大笑)
で・・・ふと立ち止まった道の角に、どこかで見たことのある店構え・・・・
あれ?
以前、この店に入ったことがあるな・・・
外から覗き込んだら誰もお客さんがいない・・・(苦笑)
ということで・・・この店に入ることにした。

入店した途端、「ヒサシブリデスネェ~」とお店のオバチャン・・・(驚)
拙者のことを覚えているの?
たしか、9月にインドネシアに行くときも前泊で、散々迷った挙句、初めてこの店に入ったのである。
だから、今回で2回目なのだが・・・(汗)
このオバチャンの記憶のいいことには驚いた。
前回来た時に拙者が座っていた場所、頼んだ料理、読書をしていたことを覚えているのである!(唖然)
「最初にウーロン茶を頼んだでしょ?ビールを頼むかと思ったらウーロン茶だった」(大笑)
「で・・・・最後に、追加で杏仁豆腐を頼んだでしょ?」(大笑)
よく覚えてるよなぁ~(苦笑)
お昼には、そこそこお客が入ったらしいが、午後は、5時から店を開けていて初めての客が拙者だという。(大笑)
「今月は全然ダメ・・・給料出ない!」(苦笑)と言う。
じゃぁ・・・少しは売り上げに貢献してあげよう・・・
ということで、餃子を一皿追加注文した。(笑)
他にお客さんがいないので、このオバチャンと延々とオシャベリ・・・(大笑)
拙者は「中国人は大嫌いだ!」と平気で言っていることを友人たちは知っている・・・(笑)
その拙者が冗談を交えながら中国人のオバチャンとオシャベリをしている姿なんか友人たちは想像もつかないかも。(大笑)
拙者は、相手がどこの国の人間だからと言って、最初から敵愾心をむき出すわけではないのである。
一般論的に言って・・・・嫌いだと言っているだけなのである。(笑)
だから、このオバチャンとも話が弾む・・・たとえ中国人であっても・・・(大笑)

このオバチャンは、20数年前に中国の福建省からやって来たという。
日本語学校へ入ったが、勉強をなまけたので日本語は下手くそだと自分で言っている。(笑)
「そんなに記憶力がいいのに?」(大笑)
ご主人は同じ日本語学校で知り合った同級生だという。
このオバチャンは、初めて来たお客さんでも顔も座った場所も頼んだ料理も全部、自然と覚えてしまうという。
だから、2回目に来たお客さんには「いらっしゃいませ」ではなく「久しぶり」と挨拶するのだそうだ。(笑)
驚くべき記憶力である。

食事をしながら、何だかんだと、おしゃべりしていたら、ようやく常連客が1人、店に入ってきた。
で・・・・彼を交えて今度は3人でオシャベリすることになる。
初対面で、どこの誰なのかも知らないのだが・・・(大笑)
「これで、あなたも常連よ!」とオバチャン・・・(大笑)

さて・・・そろそろホテルに戻ろうかと思って・・・気が付いた!
ここが、どこなのかがわからない!(大笑)
え?ホテルって、どっちの方角に歩いて行けばいいの?(大笑)
散々ウロウロして、道に迷った挙句、偶然たどりついたのである。
場所を覚えていて、この店に来たわけではない。
さすがにオバチャンが大笑い。
「それは縁があるってことですね?」と言う。
たしかに・・・言えるかも・・・
で・・・ホテルへの道順を尋ねたかったが・・・・
あれ?・・・ホテルの名前が思い出せない!(大笑)
なんと記憶力の悪いことか・・・バカ丸出しである。
で・・・とりあえず、駅へ行くには、どっちの方角へ行けばいいのかな?(大笑)

「また来てください!」とオバチャンに言われたが・・・・(汗)
果たして次回も、うまくこの店に辿り着けるかどうか・・・・(大笑)
とりあえず「また偶然見つけたらお店に来るから」と中途半端な再会を約束して(大笑)店を出る・・・・

ブラブラ歩きながらホテルに向かうが・・・
途中の路地を見て・・・あ~あの先を左に曲がると、確か、こういうお店があったんだよな・・・なんて思ってしまう。
しかし、実際には、そのお店は無い・・・
あれ?・・・・と思い、よくよく考えてみると、拙者が思い出したのは北池袋の繁華街を外れた路地の景色・・・(汗)
記憶がごちゃ混ぜになっているのだ・・・・
これが、拙者の“方向音痴”の原因の一つかも知れない・・・(苦笑)

かなりの距離を歩いて・・・奇跡的にホテルに戻る。(大笑)

旅行 | 17:25:13 | Comments(0)
お知らせ
明後日、11月29日から12月3日まで・・・・

台湾に行ってきます!(大笑)

真面目に一生懸命働いている友人たちには申し訳ないのですが・・・

妻の尻に敷かれ、子供に振り回され、馬車馬のようにこき使われている友人たちには本当に申し訳ないのですが・・・(大笑)

ちょっと海外へ行ってきます・・・

今年最後の海外旅行!

本当に申し訳ないと思っているのに、ニヤケてしまうのは何故だろう?(大笑)

では・・・行ってきます!

日記 | 15:37:56 | Comments(0)
『武士道 日本人であることの誇り』


序として 武士道こそ日本人のアイデンティティー

第1章 世界が讃える美しき精神像
        武士道は消え去ってしまったのか
        司馬遼太郎の問い「人間はどう行動すれば美しいか」
        ブロードウェイを行進したサムライたち
        庶民にまで及んでいた日本人の高貴さ
        武士道を心から愛した外国人たち
        高き身分の者にともなう義務(ノブレス・オブリージュ)
        現代日本人がたしかに受け継いでいる武士道
        内村鑑三『代表的日本人』が解いた武士道
        西郷隆盛こそが「武士の最大なるもの」
        『南洲翁遺訓』にちりばめられた西郷の思想
        福沢諭吉が痛烈に批判した明治政府
        廃れゆく武士道を惜しんだ福沢

第2章 新時代の日本人が求めた「明治武士道」
        なぜ新渡戸稲造は『武士道』を著したのか
        私が『武士道』に魅かれた理由
        「近代日本の父」クラーク博士の教え子たち
        プロテスタンティズムと武士道は同根である
        日本人による日本人のための“和製聖書”
        『武士道』はなぜ、英文で書かれたのか
        江戸の町を火の海から救った「真勇は怯に似たり」
        禅の思想から本質に迫った「鉄舟武士道」
        『鉄舟二十訓』とその臨終秘話
        福沢諭吉版の武士道だった『瘦我慢の説』
        厳しく指弾された勝海舟の処世
        武士道が問い直す「日本人とは何か」

第3章 武士道の誕生とサムライたちの美学
        「自分を鍛える」こそが武士道の根幹
        武士道の源流にある「神・仏・儒」の思想
        「命より名こそ惜しけれ」が戦国時代の武士道
        「修己治人(しゅうこちじん)」は家康が求めた理想の教え
        「正義の戦い」を貫いた石田三成
        「信義」のために華と散った大谷吉継
        「恩義」に報いて死んだ宇喜多秀家
        なぜ『忠臣蔵』は武士道の華といわれるのか
        赤穂義士を教育した山鹿素行の「志道」
        泰平の世の「武士の本分」とは何か
        「人間の芸術品」として描かれた河井継之助
        「それでも日本男児か!」の真の意味

第4章 武士道のバックボーンは「義」「勇」「仁」「礼」
        「義」とは、人間としての正しい道
        「義」は武士道の最高の支柱
        「義」よりも「打算」「損得」を優先する現代人
        「義」の行動を貫いた上杉謙信
        武士道が「義」に求めた理想の精神
        会津武士道の悲しきまでの誉れ
        「なよ竹の心」と「死出の山道」の美学
        「義をみてせざるは勇なきなり」の真価
        黒澤映画「七人の侍」に見る勇の実像
        「仁」は至高の徳「思いやりの心」である
        江戸時代が明治以降より平和だった理由
        意外と安気だった武家社会の暮らしぶり
        おだやかな心で花鳥風月を愛した江戸の人々
        「権あるものには禄うすく、禄あるものに権うすく」
        「武士の情け」は正義にもとづいた“厳しい愛”
        「礼」とは日本人が創造した美しき行動の型
        礼儀を失い、非文明人になり果てたニッポン人
        太宰春台の教え「義で事を制し、礼で心を制す」

第5章 「誠」「忠誠」こそサムライの心髄
        「誠」は言行一致を表すサムライの徳
        小早川秀秋が教える「卑怯者の末路」
        「誠」における武士道と商人道の違い
        「名誉」とは人間の尊厳としての価値
        「名誉の戦死」が名誉でないのはなぜか
        本阿弥光徳が死守した「一族の名誉」
        「忠義」 ― 人はなんおために死ねるか
        『葉隠』に記された武士の死生観
        殉死が歴史から消えた事情
        サムライの真の「忠義」とは何か

第6章 武士の教育と現代日本人の教育
        “援助交際”がまかり通る理由
        「山高きが故に貴からず」の江戸の教育
        なぜ武士の教育から「算術」がはずされたのか
        「人」は教育によって「人間」となる
        教師とは「人間をつくる職業」のはず
        「身を修める」人格形成の重要さ
        「公人」たる義務を遂行したかつての武士たち

終章 武士道は日本民族の文化遺産である
        日本人の知性と道徳は武士道の所産
        “人の倫”を教えない不思議
        「仁の心」と「義の心」のある社会を
        未来を生きていく若者たちへ

おわりに


「武士道」という言葉は、かなり昔から延々と人気のある言葉ではないかと思う。
何かといえば「武士道、武士道」と持ち出してくる。
果たして「武士道」は存在するのだろうか・・・というのが私の正直な気持ちである。
もう、廃れてしまっていて、この世には存在していないのではあるまいか?(笑)
多くの人が言う「武士道」の「武士」は、作家が創作した時代小説やドラマや映画で見る時代劇の「武士」ではあるまいか?
これは誰かが作り出したイメージではなかろうか?

「武士道とは何ですか?」と知りたがる人が結構多い。
それは、すでに絶滅してしまった恐竜について尋ねるのと同じで、本当のところはわからないのではあるまいか?
だって我々は一人として本物の「武士」を見たことがないし、会話を交わしたこともないのであるから・・・(大笑)
いくつかの学術的な証拠の断片をつなぎ合わせ・・・
たぶん・・・恐竜は、こういう形だったのだろうとか、こういう生活をしていたのだろう・・・という程度ではなかろうか?
そういうわけで、正確なところは誰も分からないのではないだろうか?
復元想像図は、あくまでもイメージである。
果たして恐竜がトカゲのような爬虫類のお化けのようなものだったかどうかはわからない。
赤色や黄色、青色のカラフルな外見だったかもしれないではないか?(大笑)

そう考えると、「武士道」も、どこまでが本当か、真実かは分からないと思う。
伝聞は、自分たちにとって都合の悪いことは残さないようにして、後世に伝えている可能性もあろう。
紙に書かれたものも同様で、改竄されていないとは言い切れないだろう。
が・・・“当たらずとも遠からず”・・・こういうものであろうということは、色々な人が研究して“結論”を出している。
本書も、その一つで、かなりわかりやすく書かれていると思う。
著者が、今までに書いてきたものの集大成という感じの本である。

「武士道」が“おおよそ”何であるかを知ることは、とりあえず可能だと思うが・・・・
大事なことは、それを実践できるかどうかではあるまいか?
“長いものには巻かれろ”は、武士道に則しているだろうか?
“背に腹はかえられない”は武士道に則しているだろうか?
“見て見ぬふり”は武士道に則しているだろうか?
・・・ということを考えると・・・なかなか実行するのは難しい。
それが「武士道」の“道”の部分の難しいところかも。
知っていることと実行するということは、違うのである。

韓国人はよく「我が国は儒教の国です」と言う。
でも、彼らの(一部の人間かもしれないが・・・)言動を見ていると、とても“儒教の国”とは思えない。(苦笑)
儒教って、そういうものでしたっけ?・・・・である。(苦笑)
同じように、「日本は武士道の国です」と言っておきながら、その言動が正反対だとしたら、恥をかくことになるのではなかろうか?
「武士道とは何ぞや」を語ることが出来ても普段の言動が則していなければ意味はないのではなかろうか?
で・・・出てくるのが「知行合一」という言葉。
この言葉は「武士道」だけに留まらぬ、重要な言葉ではないかと思うのである。
「義を見てなさざるは・・・・」である・・・・

「武士道とは何ぞや」をスラスラと語ることが出来るということより、よくわからなくても結果的に「武士道」に則した行動がとれているというのが恰好いい(笑)という気がする。
普段から少しでも「武士道」を意識していれば、出来るかも・・・
忘れかけてきたら、再び本書を読み返してみる・・・
そういうことが大事だという気がする。
本書は、それには、うってつけの本だと思う。


今年の読書:57冊目



読書 | 11:37:03 | Comments(0)
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