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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
いつの間にやら62歳!
独身生活62年!(大笑)
あの世への道をまっしぐら!(苦笑)

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入管法改正・・・何やってるの?(怒)
法務省と出入国在留管理庁(そんな役所があったのか・・・と今頃驚きましたが・・・)が、外国人の収容や送還のルールを見直す入管難民法改正案・・・・
秋の臨時国会への再提出を見送るという・・・(唖然)
昨年にも提出したが、野党のいちゃもんで廃案となっていた。(大汗)

で・・・
名古屋出入国在留管理局でのスリランカ人女性死亡問題や、ロシアの侵攻を受けたウクライナ避難民への対応を踏まえて、当初案の見直しをしたらしいが・・・
「作業が難航し・・・」ということで、再提出も見送ることになったらしい。

いやはや何と能力の低いことか・・・(大汗)
モタモタと・・・
で・・・また、問題が起こって、対策が後手に回って、“お飾り”の政治家が頭を下げるんでしょ?
能力の低い役人は担当から外すべきだと思いますが・・・(笑)

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エッセイ | 18:05:37
『伊能忠敬』


まえがき 1978年1月 小島一仁

Ⅰ 変転した忠敬像

1 “偉人”忠敬の誕生
     忠敬の印象
     「精神一到何事カ成ラザラン」
2 江戸時代の忠敬伝
     伊能家のホープ
     源空寺の墓碑銘
     「推歩先生」―人間忠敬像
3 “偉人”への道
     自由民権運動と贈位運動
     国家的“偉人”として
     少年向き偉人伝第1号
4 分裂する忠敬像
     国定教科書への登場
     実証的研究はじまる
     「国語」から「修身」へ
     『神学の先駆』
5 「決定版」の出現とその後
     大谷亮吉のライフ・ワーク
     忠敬の業績の科学的解析
     戦後の忠敬伝
     ユニークな視点に立つ今野版忠敬伝
6 見直される忠敬
     伊能忠敬翁百五十年祭
     小説家のみた忠敬

Ⅱ 飛躍への布石―佐原村の30年

1 軽視されてきた前半生
     忠敬伝のアナ
     偉人伝の「すじ書き」
2 干鰯と塩の道
     小関と小堤
     少年三治郎の身辺
3 下総国香取郡佐原村
     お江戸見たけりゃ
     町の「自治」的活力
     名門・伊能家
     新主人への期待
4 試練に立つ新当主
     「家」の中で
     牛頭天王祭礼騒動
     佐原邑河岸(さわらむらかし)一件
     伊能景利の残したもの
5 天明の飢餓の中で
     奥州紀行
     伊能家の伝統
     本宿組名主となる
     浅間焼け
     強まる発言力
     丙牛・丁未の大凶年
     危機を脱して
6 退隠の志
     暦学への道
     家訓
     50歳、江戸へ

Ⅲ 風雪20年―全国測量行

1 西洋の暦法と忠敬
     麻田一門
     西洋暦学への傾注
2 蝦夷地測量行
     学問と政治
     「測量試み」の許可下る
     最初の沿海実測
3 測量と地図
     測量の方法
     忠敬の地図
     「子午線1度」への執念
4 「測量御用」の波紋
     糸魚川事件
     トラブルの原因
     忠敬、幕吏に登用
     増大する現地側の負担
     郡蔵“破門”のてんまつ
5 哀別離苦
     『ラランド暦書』と至時
     景敬の死
     忠敬と林蔵
     老いと病をおして
     忠敬の死とその後
6 科学者の精神
     忠敬を支えた力
     忠敬と近代科学精神

伊能忠敬年表

読者のための参考書

あとがき 小島一仁



伊能忠敬が日本全国の海岸線や街道を実測して、精密な日本地図を作った人・・・ということは誰もが知っていると思う。
高齢なのに、よく全国を歩いたよなぁ~とその健脚ぶりに誰もが驚いていると思う。
で・・・伊能忠敬に対するイメージは、それだけ・・・というのが多いのではなかろうか?
著者は、今まであまり研究されなかった伊能忠敬の前半生に力を入れて、事実の発掘に取り組んでいる。
伊能忠敬が、どんな歴史的環境の中で成長したのか、なぜ全国測量が成し遂げられたのか・・・・
非常にわかりやすく書かれている。
佐野常民(日本赤十字社の創設者で有名)の伊能忠敬に関する講演の話・・・
幸田露伴の『伊能忠敬翁』という本の話とか・・・
いろんな人物の名前が飛び出してきて、意外な話を知ることが出来て、なかなか面白い本だった。


今年の読書:88冊目



読書 | 22:12:15
『史実を追う旅』


第1章 探りあてた事実

鯨が日本を開国させた  (「海の祭礼」文春文庫)
水を吸いつくした魔のトンネル  (「闇を裂く道」文春文庫)
脱獄の天才  (「破獄」新潮文庫)
戦艦を爆沈させた水兵  
逃亡者の跡をたどって

第2章 北国への旅

マクドナルドの上陸地
マクドナルドの顕彰碑
苫前への5度目の旅
小樽の丘に立って
終戦直後の悲話
間宮林蔵にいきつくまで  (「間宮林蔵」講談社文庫)
トド撃ちの名人たち  (「海馬」新潮社刊)
フェリーでの出会い
五寸釘寅吉のことなど
囚人が作ったマッチ

第3章 小説を書き上げるまで・・・・

小説の映画化
闇の中からの声
プロペラと箒星
幕府軍艦とフランス人  (「幕府軍艦『回天』始末」文藝春秋刊)
「桜田門外ノ変」への旅  (「桜田門外ノ変」新潮社刊)

あとがき 1990年12月 吉村昭


今までに書いたいくつもの小説の裏話というか、小説には書けなかった“秘話”というか・・・・
こういう話も、また面白い。
それにしても、小説を書き上げるためには、かなりの関係者に会い、取材をして書いていることがわかる。
吉村さんのような緻密な取材を、他の小説家もしているのだろうか?
もしかしたら、吉村さんだけだろうか?
本書で、吉村さんの小説が、なんであんなに面白いのかがよく分かった。


今年の読書:87冊目



読書 | 11:26:17
『謎の参議暗殺 ~明治暗殺秘史~』


平四郎遭難

大臣暗殺

紀尾井坂の変

不死身の宰相

右大臣斬撃

自由は死せず

兵部大輔暗殺

謎の参議暗殺

あとがき 1996年7月 三好徹


各章立てを見ても、誰の話を書いているのかがわからない。(汗)
どうして、こういう分かりずらい名称にしたのだろう?
内容は大変面白いのに・・・

「平四郎遭難」・・・横井平四郎(横井小楠)の話・・・
「大臣暗殺」・・・森有礼の話・・・・
「紀尾井坂の変」・・・大久保利通の話・・・
「不死身の宰相」・・・大隈重信の話・・・
「右大臣斬撃」・・・岩倉具視の話・・・
「自由は死せず」・・・板垣退助の話・・・
「兵部大輔暗殺」・・・大村益次郎の話・・・
「謎の参議暗殺」・・・広沢真臣の話・・・


今年の読書:87冊目



読書 | 15:03:17
会沢正志斎の像
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会沢正志斎像

会沢正志斎は、藤田幽谷の弟子として学問を深め、史館に入って修史に携わり、後に彰考館総裁となった。
幽谷から正志斎へと発展した水戸学の思想は、藩政改革の指導理念となった。
特に、文政8年(1825)に著した「新論」は、わが国体に基づいた大改革の構想を示したもの。
幕末志士たちに尊王攘夷論の教科書として熟読され、長州の吉田松陰・久留米の真木和泉守などに強い影響を与えた。

(碑文より)

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会沢正志斎の屋敷跡
銅像 小鹿尚久作

会沢正志斎は藤田幽谷の弟子として学問を深め史館に入って修史に携わり、後に彰考館総裁となった。
また第九代藩主徳川斉昭やその子第十五代将軍徳川慶喜の師でもあった。
幽谷から正志斎へと発展した水戸学の思想は藩政治改革の指導理念となった。
特に文政8年(1825)に著した「新論」はわが国体に基づいた大改革の構想をしめしたもので幕末志士達の尊王攘夷論の教科書として熟読され長州の吉田松陰、久留米の真木和泉守などに強い影響を与えた。
この辺りが、屋敷跡と言われている。

水戸市教育委員会
南町三丁目商店街振興組合

(説明板より)



【茨城県水戸市南町3ー4-9】



銅像 | 17:05:34
水戸黄門の像
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水戸黄門さん像

水戸黄門で知られる水戸藩2代藩主徳川光圀公は青年期より文武はもとより世情にも心を配られ人道の真理を生涯の教えとつらぬき、数々の改革と家臣領民に慈しみの心で藩政にあたった。
以来63才で引退を期に「権中納言」に任ぜられ、この官位が中国では黄門と呼ばれた事から光圀公は「水戸黄門」と尊称されるようになった。
太田西山に隠居後も領内を度々巡見されその時の多くの逸話がご老公への敬愛の念から黄門さん漫遊記の素地となった。
この水戸黄門さん像は、常陸太田の西山荘に向かって出立される姿に、そのお顔立ちから音声学的に電子合成された声で春夏秋冬の季節ごとに呼掛けられる言葉を再現したもので、市街地南北道完成記念、街の賑わい創出、観光と中心商店街の活性化へのおもいを込めて、茨城県や水戸市をはじめ多くの方々のご協力により、隣接二商店会の共同事業をもって完成し、ここ太田街道の起点に建立した。

平成14年3月吉日
南町三丁目商店街振興組合
南町四丁目商店会
題字揮毫 庄司漱雲
銅像制作 能島征二

(碑文より)


【茨城県水戸市南町3丁目・黄門さんおしゃべりパーク】



銅像 | 17:04:06
吉田松陰水戸留学の地
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吉田松陰水戸留学の地

吉田松陰が水戸を訪れたのは、嘉永4年(1851)12月19日から翌年1月20日にかけてである。
この地にあった永井政介宅に約1カ月余り滞在したが、その間、会沢正志斎・豊田天功等の碩学に師事し、また水戸の青年有志と交わり、水戸の学問の神髄を学んだといわれる。
その精神は、やがて長州藩の志士を奮起させ明治維新の原動力となった。
この詩は、松陰が水戸を去るにあたり、政介の長子芳之介に与えて志を励ましたもので、石に刻んで永く松陰の水戸留学を記念するものである。

平成10年4月吉日
水戸市教育委員会
関東ハウジング株式会社
   会長 佐川清一



【茨城県水戸市南町3-4-57】



史跡 | 17:02:06
藤田幽谷生誕の地
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藤田幽谷生誕の地

※ 碑文は判読不可



【茨城県水戸市宮町3-4-7】



史跡 | 17:01:05
藤田東湖生誕の地
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水戸指定文化財
史跡 藤田東湖生誕の地
指定年月日 昭和28年9月10日

水戸藩第9代の藩主徳川斉昭(烈公)を助けて藩政改革に尽力し、また「弘道館記」の草案を書き、「弘道館記述義」等を著して、藩校弘道館の創設に大きな足跡を残した側用人藤田東湖(名は彪)が、文化3年(1806)3月16日、父幽谷の長男として生まれたのが、この地であった。
ここは、寛政8年(1796)父幽谷の代に、藩から与えられた屋敷地で敷地内には、私塾青藍舎があり、東湖は、そこで父から学問を受けて成長し、また、江戸へ出て剣術や槍術の修行などもつんだ。
この地は、昭和26年藤田家から水戸市に寄贈され、現在はみと好文カレッジの敷地となっているが、「藤田東湖生誕の地」の碑と、東湖産湯の井戸跡が残されている。

水戸市教育委員会

(説明板より)



【茨城県水戸市梅香1-2-20】



史跡 | 16:59:01
徳川斉昭の像
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徳川斉昭公像

徳川斉昭公(烈公)は、文政12年(1829)に30歳で第9代水戸藩主となり、弘道館創設や偕楽園の造園に情熱を傾ける一方、蝦夷開拓の計画を幕府に訴えるなど斬新的な藩主であった。
ペリー来航という事件が起き、幕府は斉昭公を海防参与に抜擢したが、「安政の大獄」により水戸城に永蟄居を命ぜられたまま、城中で61歳で没した。

(碑文より)



【茨城県水戸市南町2丁目】



銅像 | 16:57:42
会沢正志斎寓居跡
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「新論」を書いた仲町寓居跡
現在=日産・大町店辺り

この地は、徳川斉昭や15代将軍徳川慶喜の師であった水戸藩の学者会沢正志斎が、文政4年((1821)から天保元年(1830)までの9年間ここ仲町の鯉渕幸蔵宅を借りて住んだところである。
正志斎は、文政7年(1824)大津浜に上陸してきたイギリス船員との応接に筆談役をつとめたが、その危機意識から翌文政8年(1825)に「新論」をここで書き上げたといわれている。
その後「新論」は、幕末志士たちの尊王攘夷論のバイブルとして大きな役割を果たしたといわれる。

平成10年2月 水戸市教育委員会
          制作 茨城日産自動車(株)

(説明板より)


【茨城県水戸市南町2-5-24】



史跡 | 16:56:11
豊田芙雄子の像
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豊田芙雄子像

豊田芙雄子は、国事多難な時学問に志し、29歳で教育者としての第一歩を踏み出した。
特に、明治9年には東京女子師範付属幼稚園の保母となり、日本の保母第1号となった。
また欧州に留学して女子教育を学び、帰国後は各府県において初等・中等教育に従事し、明治34年帰郷して水戸高等女学校(現・県立水戸第二高等学校)の教壇に立つなど、わが国女子教育界の発展に大きく貢献した。

(碑文より)



【茨城県水戸市大町2-2-14・県立水戸第二高等学校】



銅像 | 16:54:02
水戸城跡(塁及び濠)
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県指定史跡
水戸城跡(塁及び濠)

所在地 水戸市三の丸1丁目
指定年月日 昭和42年11月24日

この場所は、旧水戸城三之丸の西端に造られた空堀(からぼり)の跡である。
水戸城の歴史は、平安末期から鎌倉初期の頃に、馬場小次郎資幹(ばばこじろうすけもと)が東西に長い台地の東端に館(たて)(たち・やかた)を築いたことに始まる。
その後、室町中期の応永(おうえい)年間頃に、河和田(かわわだ)城主江戸通房(えどみちふさ)が馬場館(水戸城)を襲撃して城主となり、160余年間にわたって江戸氏の水戸城支配が続いた。
しかし、戦国末期の天正(てんしょう)18年(1590)12月に常陸太田(ひたちおおた)の佐竹(さたけ)氏が水戸城を急襲攻略、翌年3月に佐竹義宣(よしのぶ)が入城して、水戸城は、佐竹氏支配への時代へと移る。

義宣は、一段低い丘の東端を下之丸(したのまる)、その上の段丘を本丸、、堀を越えて二之丸、その西側に三之丸の廓(くるわ)を造るなど城郭の整備を進めていったが、慶長(けいちょう)5年(1600)の関ケ原合戦に際し、徳川家康方に参陣しなかったため、慶長7年に突然秋田への国替えを命ぜられ、佐竹氏による水戸城支配は、実質12年間で終りを告げた。
豊臣氏没落後、東北諸大名の押さえとして水戸を重視した徳川家康によって、まず五男武田信吉(たけだのぶよし)が、次いで十男徳川頼将(よりまさ)(頼宣)(よりのぶ)が封ぜられたが、慶長14年(1609)に十一男の徳川頼房(よりふさ)が城主となるに及んで、水戸城は、明治初年まで水戸徳川家260余年間の領内支配(28万石、のちに35万石)の中心となった。

頼房は、寛永(かんえい)2年(1625)頃から水戸城の大修築を行った。
城郭としての構造は、佐竹氏の時代とほぼ同じで、東から下之丸、本丸、二の丸、三之丸がおかれ、水戸城の中心は二之丸であった。
また、三之丸は北・中・南の3地区に分かれ、重臣屋敷が甍(いらか)を並べていたが、九代藩主斉昭(なりあき)が天保(てんぽう)12年(1841)に、中三之丸(なかさんのまる)の地に藩校弘道館(こうどうかん)を建設したことから、文教学問の中心地区が形成された。
現在、水戸城跡の史跡指定区域は、本城桝形(ほんじょうますがた)及び土塁(どるい)(水戸1高)、大手門桝形及び土塁(茨大付属小、水戸2中)、県庁正門の土塁・空堀の3か所となっている。

〈旧水戸城三之丸空堀跡〉
三之丸西側のこの空堀跡は、台地を掘削(くっさく)して造成された水戸城外堀で城内と町屋(まちや)地区とを区画する重要な役割を持っており、古絵図を見ると空堀(からぼり)であったことがわかる。
また、水戸城の塁壁(るいへき)は全体土塁と土の堀で、石垣は構築されなかった。
ただし、家康や三代将軍家光の頃に、二度ほど石垣構築の命が出され、一部石材の準備もなされたが、実現を見なかったと伝えられている。
今に残る三之丸西側の空堀跡は、往時の水戸城を偲ばせる貴重な史跡であり、春の桜花や秋の黄銀杏(きいちょう)の彩りも見事な場所である。

茨城県
茨城県教育委員会

(説明板より)


【茨城県水戸市三の丸1丁目】




史跡 | 16:50:57
本間玄調の像
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本間玄調像

水戸藩医、小川村(現・東茨城郡小川町)に生まれ、棗軒と号した。
父祖の始めた稽医館に学び、17歳で原南陽に入門、のちに杉田立卿・花岡青洲・蘭医シーボルトなどに師事し、漢洋折衷の学識と医術を修めた。
斉昭の招きによって弘道館医学館教授に転じてからは、講義・治療・著述などに活躍し、水戸藩医政の第一線を担い、数多い著書は現代医学徒にも尊ばれている。

(碑文より)

本間玄調ゆかりの地・弘道館医学館跡

本間玄調(1804~1872)は水戸藩の藩医で、漢方ばかりでなく西洋医学も学び、それぞれの良いところを取り入れた医療を行った。
また、藩校弘道館の医学館教授として後進を指導し、多くの著作も残している。
九代藩主徳川斉昭とともに天然痘予防に尽力し、「牛痘(ぎゅうとう)」を使った種痘(しゅとう)を広め、多くの人命を救った。
後に斉昭から「救(たすく)」という名を賜ったことが、彼の功績をよく示している。

(説明板より)


【茨城県水戸市三の丸1-1-60・三の丸市民センター】



銅像 | 16:26:22
役員会ついでの史跡巡り(嬉)
今日は大学の同窓会茨城県支部の役員会である!
何年ぶりの役員会だろ?(苦笑)
コロナのおかげで、ここ2年ほど同窓会を開催していない。(大汗)
いくらなんでも、3年も開催しないとなると、ちょっとマズイだろう。
大学側としては、開催するかどうかは各支部の判断に任せ、大学側は一切関知しないという。(笑)
下駄を預けたか・・・(苦笑)
規則に則れば、昨年あたりが役員交代の年だったはずで・・・(大汗)
どうせ、全員、留任になるとは思うけど・・・(大笑)
形だけでも総会を開いて会員の承認は得たほうが良い。
総会に出席するかどうかは、まだコロナ禍の下ですから、各人の判断に任せることとする。

2年もブランクがあると、どうも手順を思い出すのが大変である。
いずれにせよ、案内状の文面から、総会の式次第、名簿、名札、配布資料・・・全部拙者が作るのである。(大笑)
そのご当人が、半分ボケていて、3年前にはどうやって作成したのかが思い出せないんだからどうしようもない。(大汗)
とりあえず、久しぶりに先輩役員皆さんとお喋りが出来て楽しかった。(笑)

で・・・今日は、久しぶりに史跡巡りをしようと思い、真っすぐ帰宅せず、水戸市内を散策する。
いやぁ~こういうことになると体調が絶好調になるんだから不思議である。

で・・・市内の史跡を見て歩きながら、写真を撮るが・・・
なんと!
途中で、カメラの調子が悪くなった!
まさかの故障である!
カメラのレンズのシャッターがうまく開閉しなくなったのである。
あらら・・・(大汗)
が・・・騙し騙し、何とか写真を撮ったが・・・
突然どうしたことか・・・(汗)
藤田東湖先生・生誕の地で突然起こったから・・・まさか、東湖先生の怨霊のせいではあるまいな?(苦笑)

駅に向かって帰る途中、のどが渇いたので、果物屋に立ち寄る。
ここで、フルーツの生ジュースを作っていたので、それを飲むことにした。
なかなかの美味・・・
定番のバナナジュースは100円だった!
で・・・追加で梨のジュース・・・これまた美味であった!
で・・・店のおばあちゃんと、お喋りを楽しむ。(大笑)
初めて立ち寄った店なんだけどね・・・話が弾んで楽しい。(笑)
だから、一人旅はやめられない。(大笑)

日記 | 15:05:57
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