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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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蛭ヶ小島
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蛭ケ島(ひるがしま)
(源頼朝配流の地跡)

このあたりを、韮山町四日町字蛭ケ島といい、平治の乱で敗れた源義朝(よしとも)の嫡子、兵衛佐(ひょうえのすけ)頼朝配流の地といわれている。
狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河(ふるかわ)・和田島(わだじま)・土手和田(どてわだ)等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ケ島であったことが想像される。
永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34才で旗挙げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではない。
しかし、「吾妻鏡(あづまかがみ)」治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。
このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、ここ蛭ケ島で過ごしたものといえよう。
当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿(ずしゅうしこう)の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財指定されている。
また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った荻原正夫が、明治26年に建立したものである。

伊豆の国市

(説明板より)


【静岡県伊豆の国市四日町17-1】



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史跡 | 13:24:12 | Comments(0)
パン祖の碑
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パン祖の碑

江川英龍は、天保13(1842)年、この韮山屋敷において、兵が携行する兵糧(ひょうろう)として乾パンを製造しました。
このことは、パン食の普及していなかった当時の日本においては、画期的なことでした。
昭和27(1952)年、「全国パン協議会」および「静岡県パン協同組合」は、英龍に「パン祖」の称号を贈るとともに、この「パン祖の碑」を建立して功績をたたえました。

パン祖江川担庵先生邸
   蘇峰正敬書

江川担庵先生ハ、維新期ノ先覚者ナリ。
材ハ文武ヲ兼ネ、識ハ東西ニ通ジ、百藝皆該(か)ヌ。
乃(すなは)チ製麺麭(パン)ノ術モ亦(また)、本邦ノ開祖ナリ。

昭和後学蘇峰正敬識

(説明板より)


【静岡県伊豆の国市韮山・江川邸内】



史跡 | 12:07:37 | Comments(0)
江川家住宅
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重要文化財 江川家住宅

江川氏の遠祖宇野氏は大和の国に住む源氏の武士であったが、保元の乱(1156)に参戦して敗れ、従者13人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられる。
現存の家屋の主屋は室町時代(1336~1573)頃に建てられた部分と、江戸時代初期頃(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。
この主屋は昭和33年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた。
同35年より文化庁、静岡県及び韮山町の協力を得て解体修理が行われ、文化14年(1817)に行われた大修理以前の古い形に復元された。
またその際に茅葺だった主屋の屋根は現状の銅板葺きとなった。
江川氏は徳川時代初期より幕末に至るまで代々徳川幕府の世襲代官を勤めた。
その中で幕末の江川英龍は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場築造の計画等をすすめたことで知られている。
昭和42年に財団法人江川文庫が設立され、重要文化財および代官所記録の維持管理にあたっている。
江川家住宅及びそのその周辺の重要文化財は次のとおりである。

江川家住宅宅地 11837平方米
同 主屋 552平方米
同 付属建屋、書院、仏間、土蔵等

(説明板より)


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パン焼き窯と鉄鍋

天保13(1842)年4月12日、江川英龍の命により、邸内に築かれた窯(かま)で、初めてパンが焼かれました。
当時の日本にはパン食は普及しておらず、長崎出島のオランダ商館用にのみ製造されていました。
英龍が焼かせたのは、柔らかいパンではなく、長期保存が可能な乾パンでした。
これは、英龍がパンを平時の食料としてではなく、戦争時に兵が携行する兵糧(ひょうろう)とすることを目指していたからです。
ここにあるのは、パン焼き窯を形作っていた伊豆石(いずいし)の一部です。
本来は上に載せてある鉄鍋が入る、もっと大きなものだったと考えられます。
なお、初めてパンが焼かれた4月12日は、現在「パンの日」として親しまれています。

(説明板より)


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塾の間
この部屋は、全国から砲術を学びにきた若者たちが、宿泊をし、学習をした部屋である。
天保14年(1843)より、多くの塾生が「実用専一」「精神統一」を合い言葉に、漢学、洋式砲術の理論などを学んだ。
また、実地訓練として屋敷の外で、鉄砲や大砲の試射、さらに山猟で疲れた体を癒しながら、日本の将来を語りあったであろう。

(説明板より)


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西蔵
幕末頃の建築で、正面から見ると将棋の駒のような形をしていることから「駒蔵」とも呼ばれています。
また、四方の壁が内側に向かってわずかに傾いた「四方ころび」といわれる技法で建てられています。
軒の屋根が、瓦ではなく伊豆石で葺かれているのが特徴です。

(説明板より)

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裏門
裏門は、文政6年(1823)の建築です。
ただし門扉はずっと古く、豊臣秀吉の軍勢が韮山城を包囲した天正18年(1590)当時のものだといわれています。
門扉に残る多数の穴は、激しい戦闘の様子を物語る、鉄砲玉や鏃(やじり)の跡だとされています。
また寛政4年(1792)に当地を訪れた老中松平定信(白河楽翁)が、この裏門越しに見た富士山の美しさに感歎し、御用絵師として伴っていた谷文晁(たにぶんちょう)に命じて、それを絵に描かせたという逸話も伝えられています。


【静岡県伊豆の国市韮山韮山1番地】



史跡 | 11:51:01 | Comments(0)
韮山反射炉
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世界遺産
国指定史跡
韮山反射炉

韮山反射炉は、韮山の代官江川太郎左衛門英龍(担庵)らにより、安政元年(1854年)に着工、同4年(1857年)に完成した洋式の金属溶解炉である。
18~19世紀におけるアジア近隣は、西欧諸国の力による進出で、国権さえ危うくする事態が諸所に起きていたが、鎖国政策により海外への目を閉ざされていた日本は、表面泰平をむさぼる状態にあった。
先覚者担庵はこれを深く憂え、国防特に海防の必要性を強く訴え、幕府に対し江戸湾防備の具体策を建言してきたが、やがて幕府の容れるところとなり、品川沖に台場を構築し、大砲を据え、侵入する異国船を打ち払う方針が打ち出された。
台場据え付けの大砲は、従来のものより長射程で堅牢、かつ価格の低廉さが要求され、この条件を満たすためには、鉄製で口径長大なる砲の製作が必要となった。
かねてより、このことあるを予想し、夙に研究と準備を進めてきた担庵は、幕府の裁許が下るや直ちに反射炉築造に着手するが、不幸にして安政2年1月病没、その意思を継いだ子の英敏らにより完成することとなる。
しかし、度々の天災や粗悪な銑鉄使用の弊害等が重なり、鋳砲の成功までには並々ならぬ困難があったと諸記録に見える。
炉が反射炉と呼ばれる所以は、燃焼ガスの反射熱を利用して金属を溶解する方式によるもので、幕末期わが国ではいくつかの反射炉が作られている。
しかし現存するものとしては、山口県萩と韮山のみ、また当時の姿をほぼ完全な形で残すものとしては韮山反射炉をおいて他に例はない。
更には、産業革命の進む西欧では、間もなく効率の良い高炉の発達により、反射炉は短期間に消滅していったところから、反射炉の実態を知る上で、世界的にも貴重な遺産として捉えることができよう。
近時わが国の鉄鋼業は、世界に冠たる業績を挙げてきたが、これも反射炉築造に挑んだ先人達の意気と、粒々辛苦の教訓が、今に受け継がれているものと思われる。

(説明板より)


韮山反射炉の構造

反射炉は、鉄を熔解する炉体と煙突から構成されている。
煙突は、高さ(出湯口地盤から)15.7mで、上部にいくほど細くなっているが、内部は同じ大きさで、人が1人はいれるほどである。
15.7mの高さを必要としたのは、燃焼時にふいごなどの人力にたよらない自然送風を確保するためである。
この反射炉の築造技術は、幕末に長崎を通じて輸入されたオランダの大砲鋳造法を翻訳して取り入れたもので、韮山反射炉の構造は、この原書に残された図面とよくにており、当時の技術伝搬をよく示している。
また、松杭の基礎事業にみられるとおり、当時の土木技術レベルの高さを示す貴重な産業記念物である。
創業当時は、煉瓦の上に漆喰を塗りこめた白亜の塔であった。
現在の鉄骨は、耐震補強用に取りつけたものである。

(説明板より)


【静岡県伊豆の国市中字鳴滝入268】



史跡 | 10:09:08 | Comments(0)
韮山を歩く
今日は、本命の韮山反射炉を見に行く!(大喜)

旅館をチェックアウトして、電車に乗って伊豆長岡駅へ・・・

042_convert_20170819094923.jpg (伊豆長岡駅)

時刻は午前9時半・・・
駅前の観光案内所で情報を収集・・・
反射炉まで歩いて行けないことはないな・・・(笑)
駅から少し離れたところにあるファミレスでコーヒーを飲んで早くも一休み。(大笑)
まずは、落ち着いて・・・今日の行動計画を練らねば・・・

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駅からテクテクと歩く・・・・

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遠くに、反射炉の“煙突”が見えてきた!
もう、胸ワクワク、ドキドキである!(大喜)

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エントランスは資料館になっていて、ほとんど強制的に上映される映像を見させられる。(苦笑)
その後、ボランティアガイドに、これまた半強制的に促されて、建物の外に誘導される。
おかげで、マイペースで見学できない・・・(涙)
外に出て、反射炉の場所まで行く・・・
おお!憧れの反射炉!(大笑)

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反射炉は、洋式の大砲の砲身を造るために建設された炉である。
日本各地に遺構が残っている。
初めて見たのは・・・鹿児島(薩摩藩)の反射炉だが、仙厳園の中に土台だけが残っているというものだった。
次に見たのが、山口県(萩藩)の反射炉で、かなり荒れ果てていて雑草に覆われた中で崩れかかっているように見えた。
(今はどうなっているかは知らないが・・・)
その次に見たのが、佐賀県(佐賀藩)の反射炉で、小学校の敷地内にミニチュアの模型が置かれていただけで、わざわざ見に行ってガッカリした・・・(苦笑)
そして、我が茨城県(水戸藩)の那珂湊の反射炉!
これは復元されたものである。
ここには水戸藩士の“シミズくん”と一緒に見に行った。
そして、最後に残ったのが、この韮山の反射炉なのである!
この反射炉だけは、まだ訪れたことがなかったので、やっと念願叶ったというわけ・・・(大喜)
これで主だった反射炉の遺構は“制覇”したと言っていいかな?(大笑)

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炉体の構造

炉体の外側は伊豆石積み、内側は耐火煉瓦のアーチ積みとなっている。
また、炉床の下には、半月形の鉄板で覆われた通気用の空間が設けられている。
ロストルと呼ばれる部分に木炭や石炭等の燃料を置き、燃焼させる。
それによって生じた炎と熱が、浅いドーム状に湾曲した天井に反射し、一点に集中することで、材料となる銑鉄を溶かす千数百度の高温を実現する。
熱や炎を反射して鉄を溶かすしくみから「反射炉」と呼ばれたのである。
溶けた鉄は、炉床の傾斜により、出湯口に向けて流れていく。
ひとつの炉で溶かすことのできる銑鉄の量は、約2~3tである。
安政4年(1857)9月、初めて鉄製18ポンドカノン砲を鋳造した際には、鋳造開始から完了までおよそ11時間かかったと当時の記録にある。

(説明板より)



ここでの見学もボランティアガイド主導で「こちらに集まってください!」と強制的である。
拙者は団体客ではない・・・(汗)
「個人での見学はお断り」という貼り紙を見た覚えはないから・・・“命令”に従わなくてもいいでしょ?
他の人たちはボランティアガイドに促されて、一塊になって見学していた。
まぁ~みなさん、なんと素直な方々か・・・(笑)
拙者は一人で別の方向に向かい、彼らが写らないように写真を撮る。
ガイドさんは一生懸命説明してくれるのだろうが、拙者は三歩も歩けば何の話をされたのか忘れるような人間である。
ボランティアガイドの説明を受けている時間が勿体ない・・・(苦笑)

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少し離れたところに江川太郎左衛門の銅像があった!
これ、これ・・・この写真を撮るのも今回訪問した目的の一つなのである。(大喜)

この後は、この江川太郎左衛門の家を見に行こうと思う。
で・・・資料館の受付の方に尋ねたら、ここに来るのに駅から歩いてきたと言ったら呆れられた。(笑)
さらに、ここから江川邸まで歩いて何分かかるかと尋ねたら驚かれた・・・(大笑)
「タクシーを呼んであげましょうか?」と言われたが、徒歩で30分くらいなら、歩いてみるのも面白いだろう。
タクシーは遠慮して徒歩で向かう。

教えてもらった近道は「韮山城」の山を、ひと山越すことになる。
平面だと思い込んでいたのだから間抜けである。
普段の運動不足で息が切れる・・・(大汗)
約40分ほどかかって、ようやく江川邸に到着。

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敷地内に「役所跡」があった・・・
え?・・・個人の敷地内に?
驚いた・・・

094_convert_20170821121447.jpg (役所跡)


役所跡

韮山代官所の役人が執務した建物のあった場所。
江川邸の周辺には、他にも役人たちの住む長屋や番人小屋、厩(うまや)、牢屋など様々な建物があり、代官役所として一体的に機能していました。
維新後も、明治時代の中頃まで、韮山県庁→足柄(あしがら)県韮山支所→静岡県韮山出張所として地方行政を担っていました。

(説明板より)


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屋敷内の展示品などを見学・・・
ボランティアガイドの方からも説明を戴き、その後、庭を見学・・・

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庭には、いくつもの蔵があった。
へぇ~・・・・である。
蔵の中も見学できる。
その中で目を引いたのが・・・これ!
「施条機械」!
これは珍しいものである!(大喜)

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木製施条機械 江戸時代末期

江川家に伝来した工作機械。
鋳造した銃身の内側に、ライフル(螺旋状の溝)を刻むための装置であると考えられている。
ライフル銃は、それまでの丸玉の銃にくらべて、射程距離・命中率が飛躍的に高いため、幕府にとってもその国産化は急務であった。
幕末の江川家では、西洋式の小銃・大砲の生産を行っており、この機械はそうした必要性から製作されたものであろう。
台座や刃の部分などが欠けていて、完全な形ではないが、国内では他に類例のない機械であり、幕末日本における西洋の軍事関連技術受容のありさまを示す、貴重な資料である。

(説明板より)


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ここには、反射炉に関するパネルも展示されていた。
貴重な古写真を見る。
ほぉ~・・・である。(笑)

145_convert_20170822110744.jpg (江川家の井戸)

約1時間ほど見学して次に向かう。
どうも、この近くに江川家の菩提寺があるらしい。
それほど遠くなさそうなので行ってみる。

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日蓮宗の本立寺・・・ここに江川太郎左衛門英龍のお墓があるらしい。

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江川太郎左衛門の石像があった。
で・・・お墓はどこにあるのだろうと境内をウロウロ・・・・
もしかして、本堂の裏あたりかなと思って坂道を登って行ってみたら・・・あった!

163_convert_20170822131246.jpg (江川家の墓所)

お参りをして・・・帰る・・・・

途中、喉が渇いたので近くのお店に入ってジュースを飲む・・・
と・・・お店のオバサンが「仕事ですか?」と尋ねてきた。
「いえ、観光です」と答えたら、「なんで観光なのにスーツなんて着ているの?」と呆れられた・・・(苦笑)
いいじゃねぇか、何を着ようと・・・(大笑)
拙者はスーツの方が落ち着くんだから・・・
そんな会話から、ちょうど店にいた地元の常連客と、おしゃべりを少々する。
「茨城の人?」と尋ねられた・・・(汗)
「俺は福島出身だから、あんたの話し方でわかるんだよねぇ~茨城でしょ?」と言われてショック!(苦笑)
茨城なまりが抜けていない・・・いくら気取ってもバレバレである。(大笑)
店内の皆さんと楽しい会話をして店を辞する・・・・

さて・・・もう1か所、行きたいところがあったはずなのだが思い出せない・・・
以前、韮山反射炉を見に行ってみたいと、水戸藩士の“シミズくん”に話したところ、「こういう史跡が近くにある」と彼が教えてくれた場所なのだが・・・(汗)
何だっけかなぁ~
源頼朝が配流された場所で・・・「小島」っていう地名だが、実は小さな島じゃなくて・・・
「島流し」のつもりが、全然島流しでもなんでもなく・・・
地名だけで島だと思い込んでいたという間抜けな話・・・だったような気がするのだが・・・
余計なことは覚えていても、肝心なことを覚えていない!(涙)
ようやく断片的に思い出した!
「蛭(ひる)」っていう字が付いていたような気がする・・・
タブレットで調べたら・・・「蛭ヶ小島」というのがあった。
そう!ここだ!(大笑)
次に「蛭ヶ小島」に向かう。

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「蛭ヶ小島」・・・・確かに“島”じゃない・・・(笑)

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源頼朝と北条政子の銅像・・・
そう、そう、この銅像の写真を撮りたいと思っていたのだ!(笑)
なぜ、ここを訪れないといけないと思っていたのか、ようやく理由を思い出した!(苦笑)
源頼朝と北条政子は、この地で結ばれたのだそうだ。
源頼朝と北条政子と言ったら鎌倉だとばかり思っていたのだが、こんなところで出会ったの?
へぇ~・・・・である。

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時刻は午後1時半・・・・
ここにある小さな茶店で、遅い昼食を食べて近くの駅に向かって歩く。

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振り返って「蛭ヶ小島」を見てみたが・・・・やっぱり“島”じゃない・・・・(大笑)
徒歩10分程度で「韮山駅」に到着。

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予想に反して・・・・小さな駅だった・・・・(汗)
今日はここまで・・・
帰途につく。

旅行 | 09:44:49 | Comments(0)
野戦重砲兵第2連隊跡
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野戦重砲兵第二聯隊跡

略歴

明治二十三年要塞砲兵大隊として神奈川県浦賀に創設
爾来野戦重砲兵第二聯隊と改称
大正八年十月三島に移転
大正天皇 今上陛下の行幸を仰ぎ日清、日露、日独戦役、上海事変、支那事変、大東亜戦争等に参加
昭和二十年八月終戦聯隊の跡を永く残すため、此の地に記念碑を建つ

昭和四十七年十月一日
野戦重砲兵第二聯隊
   関係有志一同

(碑文より)


【静岡県三島市・市立北中学校】



史跡 | 17:18:43 | Comments(0)
野戦重砲兵第3連隊兵営址
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野戦重砲兵第3連隊兵営址

野戦重砲兵第三聯隊は当初紀州深山の地に誕生し大正九年十一月五日此の処に転営す
終始十五糎榴弾砲を装備とし初は輓馬後に自動車を以て牽引せり
尓来星霜四十年 訓練に実戦に常に軍の骨幹たるの重責を果たし昭和廿年ビルマ及チモールに於て解隊す
此の間死生相許したる戦友実に三万を越ゆべし
その士どもの夢の跡 東西四百南北凡そ七百米に亘る兵営の址
歳と共に面影を失うに至るを歎き残存有志相図って茲に碑を刻し以て永く記念とするもの也

昭和四十年三月十日
元野戦重砲兵第三聯隊出身 愛鷹会員有志一同
撰文並書 元大隊長 本田森造

(碑文より)


【静岡県三島市・市立北幼稚園】



史跡 | 15:58:40 | Comments(0)
三島を歩く
以前から韮山の反射炉を見に行きたいと思っていた。
が・・・そう思いながら何年も経っている。(汗)
“思い立ったが吉日”ということで、グズグズ言わず・・・(笑)、思い切って出かけることにした。(大笑)

東京から新幹線で静岡県の三島駅に行き、そこから韮山へ向かうのだが、日帰りは不可能・・・
1泊して、翌日に韮山に行くことにして、今日は三島を歩くことにした。

001_convert_20170815225332.jpg (JR三島駅)

三島駅に降り立つのは30数年ぶりである。
当時の景色が全く思い出せない。(大汗)
30数年も経てば駅前の様子が変わるのも当然か・・・・

三島には日本大学の三島キャンパスがある。
この日大の大学院を受験するために来たのだが、どのあたりに宿泊したのか、大学がどこにあったのかも全く記憶がない。(苦笑)
記憶にあるのは、受験会場の教室だけ・・・
拙者は窓際の席に座って受験した。
合否の発表の日は雪が降っていて、友人の運転する車に乗って結果を見に来た。
で・・・掲示板に自分の名前がなかったことを確認して・・・(大笑)
失意のうちに、友人に慰められながら東京に帰った・・・(大笑)
そういう懐かしい思い出があるのだが・・・・街並みを見ても全く記憶にない・・・(大汗)

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この三島を歩くことにしたのには訳がある。
学校が集中しているあたりに野戦重砲兵の記念碑があるらしいので、それを撮影するためである。

三島市立北幼稚園のところに、野戦重砲兵第3連隊の営門と哨舎があった。

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そのまま真直ぐ歩いて行くと、ちょうど隣りの三島市立北小学校のあたりに、もう一つのレンガ造りの門がある。
たぶん、ここも野戦重砲兵第3連隊の駐屯地だったのだろう。
門が小ぶりなので、これは通用門か裏門か?

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更に歩くと、隣りは三島税務署!(笑)
ここで、税務署の写真を撮影・・・・
偶然にも法人会の会報に載せる記事のネタを拾ったが・・・
さて・・・どういう切り口で記事を書こうか・・・・
この間の神戸税務署は話の展開がすぐに頭に浮かんだが・・・
三島ねぇ~・・・・う~ん・・・(大汗)

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ここで道を渡って反対車線を戻る。
途中、日大国際関係学部の前を通ったが、入口を見ても全く記憶が蘇らない。(大汗)

更に進み、日大の隣りの三島市立北中学校のところに営門と哨舎があった。
こちらは野戦重砲兵第2連隊である。
この道路を挟んで、野戦重砲兵第2連隊と第3連隊が向き合っていたのだろう。

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この後、駅の反対側に行ってみる。
やっぱり記憶がない・・・(苦笑)

観光案内所で観光マップ等を集め、近くの喫茶店を教えてもらう。
そこでコーヒーを飲み、帰ろうかと思ったら、偶然、チラシが目に入った。

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「ミュシャ」?
どこかで聞いたような名前・・・・
先日、妹と電話で話をしていたら「ミーシャ」だか「ミューシャ」だかが、どうのこうのという話が出た。
もしかして・・・これか?(驚)
チェコの絵で、素晴らしい絵だから一度見るといいとかって言われたんだけど・・・
チラシを見てみたら「後援:チェコ共和国大使館、チェコセンター」とある。
これか!妹が話していたのは!(驚)
喫茶店のオーナーに話を聞いてみたら、「そこにあるのは全部ミュシャの絵です」と言う。
店内に飾ってあった絵は総てミュシャのオリジナルなのだという。(驚)
全然気が付かなかった・・・(大汗)
さらに尋ねたら、この方はミュシャのコレクターで、ミュシャの展示会に自分のコレクションを貸し出しているのだという。
あらら・・・驚きである。
現在も東京の展覧会に貸し出し中で、その展覧会は今日が最終日とか・・・
あっ!そういえば、そういうことを妹に言われたような・・・・(汗)
しまった!・・・ミュシャの絵を見てから、こっちに来ればよかった・・・(涙)
それにしても、この偶然は何だろう?
店内に飾ってあるミュシャの絵を改めて見せていただき“貸し切りの鑑賞会”をして(笑)店を出る。

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JR三島駅に隣接する「伊豆箱根鉄道三島駅」に向かい、ここから大仁駅へ向かう。
今日は、温泉宿に宿泊する予定・・・

038_convert_20170818153523.jpg (伊豆箱根鉄道・大仁駅)

「大仁(おおひと)」・・・・・
30年ほど前に伊豆大仁カントリークラブというゴルフ場でゴルフをしたことがある。
生まれて初めて「ゴルフコンペ」というのに出たのが、このコースだったのでよく覚えている。
が・・・駅舎は全く記憶にない・・・(苦笑)
この駅には降りなかったのかな?
それとも電車を使わずに行ったのか?
どうやって行ったのだろう?(笑)

ここからタクシーで温泉宿に向かう。

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この旅館・・・かなり古くてオンボロである。(苦笑)
が・・・大浴場は貸し切り状態だったので良しとする。(大笑)

旅行 | 14:24:14 | Comments(0)
『独立戦争ゲーム』


1 菫(すみれ)色の強奪

2 外なる暗闇

3 乱行の日々

4 誇り高き(プラウド)パーシー

5 ウォー・ゲーム

6 聖なる暗号(ホリー・コード)

7 ローリング・ホーム

8 ザ・ブル

9 エンダー館の内幕

10 エレホン

11 雇われテロリスト

12 送り主への返送

13 ナンバーズ賭博の仲間

14 バンカーズ・ヒル

15 バルーン・ゲーム

16 エポック

17 ダウン・エスカレーター

18 魔法の絨緞

19 鋤の刃

20 情事の終り

訳者あとがき


本書は「新ジェイムズ・ボンド・シリーズ」の中の1冊。
007 ジェームズ・ボンドの小説はイアン・フレミングという人が作者で、そこから映画化されたわけだが・・・
イアン・フレミングが亡くなった後に、ジョン・ガードナーという人が「新シリーズ」として引き継いだのだろうか?
久しぶりに「小説」というのを読んでみたが・・・
駄目だ・・・・
気持ちが入り込まない・・・・
読んでいても映像が頭に浮かばない・・・
ただただ、ボーッと文字を追っていくだけという感じ・・・
これは作者のせいではないと思う。
私自身が「小説」を読むには適していないのかもしれない・・・(大汗)


今年の読書:37冊目





読書 | 21:13:58 | Comments(0)
『大エルミタージュ展』を見に行く
昨日は「近代史検証会」の“お勉強”のため上京・・・・
いつものように一泊・・・・(笑)

で・・・今日は・・・
『大エルミタージュ美術館展』を見に行くことにした。
場所は森アーツセンターギャラリーとのこと。
六本木ヒルズの森タワーにあるというのだが、拙者は行ったことがない。
六本木ヒルズってどこだ?(大汗)

西洋絵画は、いつも上野の西洋美術館でばかり見ているので、そのほかの場所には行くことがない。
が・・・今回は思い切って行ってみた。
地下鉄を降りてからもオロオロ、ウロウロ・・・・
ビルに入ってからもオロオロ、ウロウロ・・・である。(苦笑)
他のイベントもあったようなので、その観客とごちゃまぜ・・・
いったい、どの列に並べばいいんだ?
入口はどこだ?(大汗)
係員に尋ねながら、ようやく目的地に到着!(大笑)

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実は、この展覧会・・・正直言って、あまり期待はしていなかった。
「オールドマスターの傑作が勢ぞろい」と銘打っているのだが、果たしてどんなものやら・・・(苦笑)
で・・・実際に見てみたら・・・
いい!とてもいい!(大喜)
拙者は技術的な事は全く知らない。
ただ、拙者の好みに合えば「いい絵」で、好みに合わなければ「ダメな絵」と判断している。(大笑)

こういう展覧会では、一つか二つ、下手をすれば半分以上が「好みではない絵」ということが普通なのだが・・・
この「大エルミタージュ美術館展」に出展されている絵は、どの絵も拙者の好みの絵だったのである!(驚)
こういうのは初めてである!
いやぁ~嬉しくなっちゃうなぁ~
オロオロ、ウロウロしながら来た甲斐があったというものである!(笑)

エルミタージュ美術館というのは、ロシアのサンクトペテルブルクにあるという・・・・
う~ん・・・・行ってみたいなぁ~(笑)
じっくりと鑑賞するとしたら何日かかるだろう?(苦笑)

大満足で帰途につく・・・・

日記 | 14:28:56 | Comments(0)
『南方の民族』
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『南方の民族』

著者:羽生 操
発行所:(株)興風館
昭和19年6月5日印刷
昭和19年6月15日発行
定価:2円50銭(特別行為税相当額20銭) 合計2円70銭


第1章 南方時代の臺頭

 新しき歴史の創造
 ジャングルの文化
 民族提携の道
 指導者の問題

第2章 世界最古の人類ジャワ猿人
 南方と世界文化の揺籃地説
 人類進化史上の東亞の位置

第3章 地球と人類の起源

 古生人類と眞の人類
 人類の發祥地

第4章 人種と民族の問題

 世界の人種
   (1)カウカシヤ人種
   (2)蒙古人種(黄色人種)
   (3)エチオピヤ人種(黒色人種)
   (4)アメリカ・インド人種(銅色人種)
   (5)マライ人種(褐色人種)
 根據のない白人優越説
 民族とは何か

第5章 南方民族の分類

 民族の移動状態
 民族の分布状態
 マライ族の二つの意味
 インドネシアの意味

第6章 南方特殊の生活と文化

 三つの文化階級
 共通の生活様式
 首狩りの動機

第7章 民族性の長所と短所

 果たして劣等民族か
 その血の中に眠るもの

第8章 フィリピンの民族

 第1節 民族の構成
        人種上の区別
        宗教上の区別
        比律賓の哀史
        文化の水準
 第2節 代表的諸族
        タガロック族
        ヴィサヤ族
        イロカノ族
        ビコール族
        パンガシナン族
        パンパンガ族
        モロ族
 第3節 其の他の諸族
        イバナッグ族
        原始教徒の行事
        イフガオ族
        イゴロット族
        ボントック族
        バゴボ族

第9章 東印度の民族

 第1節 民族の構成
        オランダの愚民政策
        歴史と宗教
        マライ語の重要性
 第2節 ジャワ島の諸族
        ジャワ族
        スンダ族
        マヅラ族
        欧亞混血人
 第3節 スマトラ島の諸族
        メナンカバウ族
        南部スマトラ・マライ族
        バタック族
        アチェー族
        ガヨ族・アラス族
 第4節 ボルネオ島の諸族
        1.北ボルネオの諸族
            マライ族
            ズスン族
            ムルット族
            バジャウ族
            ミラノオ族
            ダイヤ族
            カヤン族
            クレマンタン族
        2.南ボルネオの諸族
            (1)カヤン族
            (2)ケニヤ族
            (3)ムルング族
            (4)ペニヤボン族
            (5)サプタン族
            (6)オラン・バハウ族
            (7)プーナン族及びプカト族
            (8)ペニヒング族
            (9)オマ・スリング族
            (10)ロング・グラト族
            (11)ズホイ族
            (12)カチンガン族
 第5節 セレベス島の諸族
        ミナハサ族
        トラジャ族
        マカッサル族
        ブギス族
 第6節 小スンダ列島の諸族
        バリ族
        ササック族
        スンバワ島民その他
 第7節 モルッカ諸島の諸族

第10章 佛領印度支那の民族

 第1節 民族の構成
        日本との歴史的關係
        文化と宗教の種々相
 第2節 代表的諸族
        安南族
        カンボヂヤ族
        タイ族
 第3節 其の他の諸族
        チャム族
        ミュオン族
        ヤオ族
        メオ族
        インドネシア族(モイ諸族)
        ミンフォン族

第11章 タイの民族

 第1節 民族の構成
        タイ人の苦闘史
        タイ族の二つの意義
 第2節 代表族タイ族
        タイ人
        ラオ族
        其の他のタイ族
            (1)コーラート・タイ族
            (2)シャン族
            (3)サムサム族
            (4)プータイ族
 第3節 其の他の諸族
        クメール族
        モン族
        ラワー族
        安南族
        マライ族
        セマン族

第12章 マライの民族

 第1節 民族の構成
        昭南島の國際色
        母屋をとられたマライ人
        マライの變遷史
 第2節 マライ族の文化
 第3節 其の他の諸族
        セマン族
        サカイ族
        ジャクン族
        欧亞混血人

第13章 ビルマの民族

 第1節 民族の構成
        住民の性格と自然の影響
        深刻な反英闘争
        堅い團結の原因
 第2節 代表族ビルマ族
        強烈な民族精神
        愛國運動の先頭に立つ僧侶
 第3節 其の他の諸族
        シャン族
        カレン族
        タライン族
        アラカン族
        カチン族・チン族
        ワー族

第14章 南方の華僑と印度人

 第1節 華僑の現状
        南洋華僑の特色
        各地における活躍状況
            (1)比律賓
            (2)東印度
            (3)佛領印度支那
            (4)タイ
            (5)マライ
            (6)ビルマ
 第2節 印度人の現状

第15章 印度の民族

 第1節 民族の構成
        主要な種族と言語
            (1)インド・アリヤン族
            (2)ドラヴィダ族
            (3)アリヤン・ドラヴィダ族
            (4)シット・ドラヴィダ族
            (5)モンゴル族
            (6)モンゴル・ドラヴィダ族
            (7)トルコ・イラン族
        家畜に等しき生活
        民族發展上の毒素

第16章 太平洋諸島の民族

 第1節 太平洋諸島の分類
 第2節 メラネシアの諸族
 第3節 ポリネシアの諸族

第17章 濠洲の民族

 第1節 白濠主義の濠洲人
        東京都にも及ばぬ全人口
        白濠主義の正體
 第2節 太古の民オーストラリア族

第18章 日本の先住民族と南方民族

 各種の先住民族
 南方民族の通路


本書は戦時中に発行された、かなり古い本で、旧漢字なので読みづらいところがあるが・・・・面白い。
フィリピンの民族は、そこそこある程度は知っていたが、その他の国の民族は全くといっていいほど知らなかったので、なかなか興味深かった。
戦争末期に出版された本だが、当時の日本は学術的調査もしていたんだなということがわかる本である。


今年の読書:36冊目



読書 | 22:06:17 | Comments(0)
『嘘だらけの日韓近現代史』


はじめに―『人間・失格』の半島

第1章 嘘だらけの「自称」朝鮮史
       第1節 朝鮮半島は常に「場」にすぎない
       第2節 「古朝鮮」 朝鮮ははアジアの支配者だった!?
       第3節 「壇君伝説」 神話は史実である
       第4節 「新羅」 兄より強い弟などいる訳がない
       第5節 「高麗」 他国の栄光は自分の歴史
       第6節 「忠烈王」 王様は売国奴?
       第7節 「世宗大王」 愚民に文字を与えた名君
       第8節 朝鮮半島は秀吉の「通り道」だった

第2章 目覚める日本と眠る朝鮮
       第1節 江戸時代における朝鮮の軽さ
       第2節 属国朝鮮での「国王殿下」とは?
       第3節 朝鮮の歴史は常にファンタジー
       第4節 「仏米に勝った」というプロパガンダ
       第5節 無礼な朝鮮―征韓論の真相
       第6節 日朝修好条規はなぜ不平等条約だったのか?
       第7節 政敵を殺しあう宮廷

第3章 代理戦争の「場」でしかない朝鮮
       第1節 「壬午事変」 とにかく中華様に媚びる
       第2節 「甲申事変」 真人間(=親日派)の悲惨な末路
       第3節 「日清戦争」は朝鮮の約束違反が招いた
       第4節 「閔妃暗殺」の黒幕は誰か?
       第5節 「日露戦争」はロシアに媚びた朝鮮が招いた

第4章 日本に「帝国」は似合わない
       第1節 朝鮮など併合したくなかった
       第2節 安重根が朝鮮の主権を奪った
       第3節 日本に植民地を持つ資格なし
       第4節 お人よしすぎる日本人
       第5節 吉野作造の問いかけ

第5章 韓民族が「反中親日」だった時代
       第1節 朝鮮人をいじめる中国人
       第2節 朝鮮を守るために満洲事変は起きた
       第3節 支那事変で示された朝鮮人の赤誠
       第4節 創氏改名・強制連行・慰安婦について語っておこう
       第5節 反日を叫ぶほど金日成賛美になるジレンマ

第6章 やっぱり「地名」にすぎない韓国
       第1節 米ソ冷戦に振り回される半島
       第2節 米中代理「アコーディオン戦争」
       第3節 李承晩に鉄槌を下した外交官
       第4節 帝国陸軍の申し子、朴正熙

第7章 自ら地獄に落ちる韓国
       第1節 大統領を倒せるのは次の大統領だけ
       第2節 北朝鮮に核武装を許した金泳三
       第3節 拉致問題を無視した金大中
       第4章 北に浸透される反日国家
       第5節 泥舟中国にすり寄る朴槿恵と日本の運命

おわりに―今、日本で何が起きているのか?そして「戦後レジーム」の正体



読めば読むほど、この国と、この民族は“可哀想”だと思う。


今年の読書:35冊目



読書 | 21:53:54 | Comments(0)
ロジャー・ムーアさん逝く・・・
イギリスの映画俳優であるロジャー・ムーアさんが23日にお亡くなりになったという。
拙者の好きな俳優さん・・・・
残念である。
享年89歳・・・・
我が親父と同い年である。

初めて、ロジャー・ムーアさんを見たのは、ずいぶん昔のことで・・・
『セイント』という“天使”の絵が出てくるテレビドラマを見た時だったと思う。
主人公が「サイモン・テンプラー」という名前だということを憶えているから・・・
正確には『セイント天国野郎』というドラマだったのではないかと思うが、ストーリーは全く覚えていない。
小学生の頃に見たドラマだから仕方がない・・・(笑)
何やらスパイドラマみたいな感じで、世界を股にかけて活躍する“怪盗”というドラマだったような気がする。
のちの007のジェームス・ボンドっぽい感じだったような気がする。
とにかく格好良かったという印象しか残っていない。

その後、ロジャー・ムーアさんを見たのは、中学生の時・・・
東京新宿の映画館で007の映画を見た。
007シリーズ第8作目『007 死ぬのは奴らだ』(1973年)だったが、あまり記憶に残っていない。
いまでも映画のプログラムを持っているので、映画館で見たことは見たんだろうが・・・・
久しぶりに懐かしく思い、その映画プログラム(パンフレット?映画冊子?)を探したのだが、なぜか見つからなかった。
確かに、以前、我が部屋の中で見かけたのだが・・・(大汗)
捨てちゃったのか?(大汗)



その次に見たのは第9作目『007 黄金銃を持つ男』(1974年)で、ロジャー・ムーア主演の007シリーズの中では、これが拙者の一番好きな作品。
香港やタイが舞台となっていた・・・
いつか行ってみたいなぁ~と思っていたら、10年もしないうちに大学の海外研修団員として香港とタイに行く機会を得た。
生まれて初めての海外が、007の映画の舞台だったことが嬉しかった。
世界中を股にかけて飛び回るっていいなぁ~などと思っていたが、まさかその後、自分も海外に頻繁に行くようになるとは夢にも思っていなかった。
どこか、この007の映画の影響を受けているのかもしれない・・・(大笑)
国内旅行は『寅さん』シリーズの影響で、海外旅行は『007』シリーズの影響か?(大笑)



ロージャー・ムーアさんは007シリーズのうちの7作品に3代目ジェームス・ボンドとして出演している。
ちょうどあの頃は、拙者が映画館通いをしているような時期だったが、彼がジェームズ・ボンド役を降りた後は、映画館では007シリーズの映画を見ていないような気がする。(笑)

映画プログラムを探してみたら、3作分だけ見つかった・・・
そんなわけないんだよなぁ~・・・全作持っていたはずなんだけどなぁ~(大汗)

第12作『007 ユア・アイズ・オンリー』(1981年)

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第13作『007 オクトパシー』(1983年)
この映画も思い出深い・・・
舞台はインド・・・
で・・・この頃、拙者もインドに1カ月近くいたのである。(笑)

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第14作『007 美しき獲物たち』(1985年)
これがロジャー・ムーアがジェームズ・ボンド役で出た最後の作品である。
最新作は2015年の『007 スペクター』、24作目の作品である。
6代目ジェームズ・ボンドとしてダニエル・クレイグが演じている。

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ロジャー・ムアさん・・・・若いよなぁ~
中学生の頃、思わず親父の顔と見比べ、同じ歳なのに、この差は何だろうかと思ったものである。(大笑)

映画俳優というのは、ある意味、幸せな商売かもしれない。
ほぼ永遠にその姿を残すことが出来るのである。
ただし、その俳優さんの一番いい時期の姿だから、その後の加齢による衰えた姿を見られたくはないという苦痛は伴うかもしれないが・・・
どっちがいいのかなぁ~
スクリーンに残るのと、残らないのとでは・・・・

実は拙者はハリウッド映画に“出演”したことがある。(大笑)
某戦争映画の中で・・・・ワシントンD.Cのアーリントン墓地でのワンシーン・・・・
画面のど真ん中に拙者の後姿が写っている。
ハッキリ言って邪魔である。(大笑)
自分で23歳の時の自分の後姿を映画の中で見るというのは、非常に不思議な気分である。(大笑)
プロである映画俳優さんたちは、どういう気持ちでスクリーンの中の自分の姿を見てるのだろう?
特に“若かりし頃”の自分の姿の場合は・・・

89歳かぁ~
親父の顔を見ながら思う・・・・89歳にもなると、ロジャー・ムーアさんとの差は、それほどなくなったな・・・(苦笑)

ロジャー・ムーアさんが演技が上手だったかどうかは専門家ではないのでわからないが・・・・
とにかく格好良かった・・・
真似できるものなら真似をしたかった・・・(大笑)
また会いたくなったら、映画を見ようかな。

ご冥福をお祈りする・・・・

日記 | 17:09:24 | Comments(0)
史跡 楠木正成公戦歿地
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史跡 楠木正成公戦歿地

指定区域 四百十三坪九合

指定年月日 昭和26年6月9日

由緒
此の地は延元元年(西暦1336年)5月25日楠本正成公(大楠公)が一族16騎、郎党60余人と共に自刃せられた所である。
明治元年(1868年)明治天皇は大楠公を千載の一人、臣子の亀鑑として鎮祭すべき旨仰せ出され此の地を含めたところに湊川神社が創建せられたのである。

(説明板より)


【兵庫県神戸市中央区・湊川神社】



史跡 | 16:16:27 | Comments(0)
日本最古 湊川神社オリーブ樹
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日本最古 湊川神社オリーブ樹

日本のオリーブの歴史は明治の富国強兵・殖産興業政策に端を発します。
当時政府は有用植物栽培研究に乗り出し、外国産植物を積極的に栽培し、輸出の拡大を図りました。
そこで明治6年、ウィーン万博の事務副総裁・佐野常民が初めて日本にオリーブ樹を持ち帰り、兵庫県勧業場「神戸植物試験場」(現在の県公館附近)に植付けされました。
次に明治11年、パリ万博の事務長・前田正名が持ち帰ったオリーブ樹は内務省三田育種場神戸支園(現在の北野ホテル付近。後に「神戸阿利襪園」となる。)に植付けされました。
当社のこのオリーブ樹は、明治末期、両植物園が共に閉園を迎えた際に当社に移植されたものである、といわれていますが、どちらの園のものかは未だ定かではありません。
佐野常民・前田正名の両人と、当湊川神社初代宮司・折田年秀は大変親交篤い仲でした。
折田は珍しい植物を大変好んだ人で、佐野氏がユーカリなど多数の植物を折田宮司に寄贈したこと、前田氏にも様々な木苗の注文をしていたことなどが記録に残っています。
両人に縁ある植物園が閉園するにあたって、珍しいオリーブ樹が当社に移植されたことは想像に難くないのです。
同時代のオリーブ樹は、加古川の宝蔵寺以外、他に国内に現存することが確認されていません。
樹齢百数十年、日本最古のオリーブ樹のうちのこの1本は、歴史を見守りつつ毎年撓わに実を結び続けているのです。

平成27年 湊川神社社務所

(説明板より)


【兵庫県神戸市中央区・湊川神社】



史跡 | 14:01:50 | Comments(0)
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