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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
58歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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大石頼母助屋敷門
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大石頼母助屋敷門(おおいしたのものすけやしきもん)

構造形式 薬医門(一間一戸潜門付)
       木造 切妻造 本瓦葺
主要寸法 桁行3.18m 梁間1.91m
       軒高2.88m 棟高4.55m

大石頼母助良重(よししげ)は、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)の大叔父(おおおじ)にあたる人物で、家老職にあった。
藩主浅野長直(ながなお)に重用(ちょうよう)され、二之丸に屋敷を構え、その妻は長直の娘を迎えた。
山鹿素行(やまがそこう)が赤穂に配流(はいる)された際、素行はこの屋敷の一角で8年余りを過したという。
平成10~13にかけて実施された二之丸庭園の発掘調査によって、頼母助屋敷の門跡のほか土塀基礎石列、建物礎石、上水道遺構などが見つかった。
門は、発掘調査によって見つかった遺構に基づきその規模及び構造が検証され、薬医門(やくいもん)形式の屋敷門として平成21年3月に整備された。

赤穂市・赤穂市教育委員会

(説明板より)


【兵庫県赤穂市・赤穂城二之丸跡】



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史跡 | 14:13:53 | Comments(0)
山鹿素行先生銅像
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山鹿素行先生銅像

兵学者・儒学者として高名な山鹿素行(1622~1685)は、承応元年(1652)から万治3年(1660)の間、赤穂藩主浅野長直に千石で召し抱えられ、承応2年には赤穂城築城に参画して二の丸虎口(こぐち)の縄張りを一部変更し、家中に兵法を指南した。
その後、寛文5年(1665)に「聖教要録(せいきょうようろく)」の著述が幕府の忌諱(きい)に触れ、翌年から延宝3年(1675)まで赤穂に配流(はいる)され、二の丸内の家老大石頼母助(たのものすけ)の一隅に謫居(たっきょ)した。
配流(はいる)中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全(ししょくとうたいぜん)」「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」「武家事紀(ぶけじき)」「謫居童問(たっきょどうもん)」など、素行の学問を代表する大著を完成している。
大正14年(1925)、謫居(たっきょ)跡に建立された素行先生の銅像は、平成10年に赤穂城跡公園整備のため現位置に移転した。

赤穂義士会

(説明板より)


山鹿素行銅像碑文

~略~

【書き下し文】
隠山弥髙  ※「隠山」は、山鹿素行の別号
贈正四位山鹿素行先生銅像記
先生文武全才(ぜんさい)にして一世の推服(すいふく)する所たり。将軍家光公将(まさ)にこれをタ大用せんとするに公薨(こう)じて果たさず。赤穂侯長直其の賢なるを聞き聘(へい)して賓師(ひんし)となし、赤穂に赴(おもむ)き七月にして江戸に還る。慨然(がいぜん)として聖教要録を著し、これをもって譴(とどめ)を獲て赤穂に謫(たく)すること殆ど十年。侯これを遇すること旧の如し。また中朝事実を著し以て其の志を見る。長友襲封(しゅうほう)に及ぶや父子共に師事す。長友の嗣子長矩国除(こくじょ)に坐事(ざじ)するや、所謂(いわゆる)四十七士能(よ)く君の讎(あだ)を復するは、蓋(けだ)し先生の遺訓(いくん)の及ぶ所なり。わが祖鎮信(しずのぶ)も亦(また)優礼(ゆうれい)を以て待し子孫遂に我が家に仕う。近世吉田松陰・乃木大将皆先生に私淑(ししゅく)す。其の学将に天下に大行し頃者(けいしゃ)同志胥謀(あいはか)りて先生の銅像を謫居(たくきょ)の址に建てんとすべし。就いては余に文を求め浅野長勲(ながこと)侯に題額を乞う。乃(すなわ)ち其の梗概(こうがい)を記し後人をして矜式(きょうしょく)あらしめん。
大正十年十一月上浣 素行会長 正三位 伯爵 松浦厚撰并びに書

(赤穂義士会2014『山鹿素行の士道論』より)

(説明板より・一部略す)


【兵庫県赤穂市・赤穂城二之丸跡】



史跡 | 13:40:53 | Comments(0)
赤穂城二之丸門跡
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二之丸門跡

ここは赤穂城二之丸門のあった場所である。
浅野長直に仕えて赤穂に滞在していた軍学者山鹿素行(やまがそこう)が、築城工事中の承応2年(1653)、この門周辺の縄張りの一部を変更したことで知られている。

赤穂城二之丸の面積は1万7159坪であった。
二之丸門は櫓門で、桁行4間半、梁行2間、口幅3間1歩、高さ2間、建坪9坪という規模であった。

また、文久2年(1862)12月9日に、赤穂藩主森家の国家老森主税(ちから)が、藩政に対して意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。
いわゆる「文久事件」である。
この事件は、明治4年(1871)2月に和歌山県高野山で起こった「高野(こうや)の仇討ち」の導火線ともなった。

ここに置かれている半畳ほどの2つの大きな石は、小石を持って叩くと、「かんかん」という音をたてることから、誰言うとなく「かんかん石」と呼ばれている。

赤穂義士会

(説明板より)


【兵庫県赤穂市・赤穂城二之丸跡】



史跡 | 13:39:18 | Comments(0)
赤穂を散策!(その2)
大石神社を出て、ようやく赤穂城を“攻める”・・・(笑)

154_convert_20190415141344.jpg(二の丸門跡)

二の丸門跡の近くに、山鹿素行の銅像が建っている。
銅像好きの拙者としては、実は、この銅像がお目当て・・・(笑)

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が・・・なんと、台座の方が大きくて、肝心の山鹿素行先生の姿がよく見えない・・・(大汗)
どうも学者さんの銅像というのは座像が多い。
やはり座っている姿の方が学者らしいということなのだろうが、こう高い位置にあると、近づいた時に見上げることになるわけで・・・そうなると顔しか見えないということになるのである。(涙)
天気の悪さも手伝って、写真撮影に苦労する。(涙)
ただ、素晴らしいのは、台座に嵌められた碑文について、漢文で書かれた碑文と、その書き下し文を書いた説明板が設置されていたこと!(大喜)
これは、すばらしい!
こういう銅像で、碑文や書き下し文の説明板を設置しているところは、日本全国でも珍しいと思う。
是非とも他の地域でも真似してもらいたいものだ。

その先に「二の丸庭園」があった。
その当時は、ひょうたん型の広大な回遊式公園だったらしい。
現在は「旧赤穂城庭園」として国の名勝に指定され、平成14年から復元整備をしているらしい。

179_convert_20190415143410.jpg(二の丸庭園)

この庭園のすぐ隣に復元された赤穂城本丸門がある。
当時の門は明治10年代後半に取り壊されたそうで、平成8年に復元された。

183_convert_20190415143949.jpg(復元された本丸門)

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(復元された本丸門を本丸の内側から見る)

本丸門を抜けると、そこは本丸・・・(当たり前だけど・・・笑)
本丸には御殿、番所、倉庫等の建物と天守台、池泉などがあったらいい。
で・・・御殿は・・・
その跡にコンクリートの板が載せられているようで、座敷などの間仕切りなどが表示されていた。
たぶん、このコンクリートの下に当時の礎石などが並んでいるのではなかろうか?
今ブームの本丸御殿の復元が出来たら面白いだろうなぁ~と思う。

194_convert_20190415151211.jpg(御殿跡)

199_convert_20190415151445.jpg(本丸庭園・大池泉)

211_convert_20190415151714.jpg(天守台)

赤穂城は天守台は築いたが天守閣というのは作られなかったという。
ん?・・・なんでだろう?(苦笑)
ここまで石を運んで築いたのに・・・この天守台、無駄になっちゃったわけ?
資金と労力が無駄?
もったいない・・・・(苦笑)

202_convert_20190415152218.jpg(天守台の頂上からみた池泉)

203_convert_20190415152242.jpg(天守台の頂上からみた御殿跡)

時刻は午後1時過ぎ・・・・
ここからテクテクと20分ほどかけて花岳寺に向かう。

217_convert_20190415152700.jpg(花岳寺)

221_convert_20190415163948.jpg(二代目 大石なごりの松)

山門をくぐって入ると、すぐ目の前に大きな松が・・・
「二代目 大石なごりの松」と石柱に刻まれていた。
揮毫は陸軍大将・林銑十郎である。

このお寺は藩主浅野家の菩提寺である。
ここには義士墓所や義士宝物館、義士木像堂などがあり、拝観料を支払って見学する。

228_convert_20190416000128.jpg(義士墓所)

ん?・・・東京の泉岳寺にも義士のお墓があったと思うが・・・
どうも、こちらのお墓は遺髪墓らしい。

義士木像堂には千手観音像があった。
千手観音は大石家の守り本尊だそうだ。
あらら・・・確か子年生まれの拙者の守り本尊も「千手観音」である。
何という縁か・・・(驚)

ここには「大石家先祖の墓」、「義士家族の墓」、「浅野家三代の墓」、浅野家断絶後の赤穂城主である「森家の墓所」などもある。

一通り、ササッと拝観して、拝観受付兼売店で、受付のおばさんとおしゃべり・・・
ついでにちょっとした資料を購入・・・

と・・・境内に「雨情の歌碑」がある!(驚)
まさかの野口雨情!
何でここに碑が建っているんだろう?
受付のおばさんに尋ねたら、昭和11年に野口雨情がこの寺に来たそうで、そこで歌を詠んだという。
へぇ~・・・である。
昭和11年は拙者の母が生まれた年・・・
で・・・母は雨情の親戚・・・(笑)
ということは・・・拙者は雨情の親戚でもあるわけで・・・
雨情のお孫さんに「私は遠い親戚ですよね?」と言ったら「なに言ってるの、それほど遠くないでしょ!」と笑われたことがある。
ということで・・・それからは、拙者は雨情の親戚でもある・・・と名乗ることがある。(大笑)
受付のおばさんに、そういう話をしたら驚かれた。(笑)
それにしても、母が生まれた年に来ていたとはねぇ~
で・・・そこへ拙者が何も知らず訪れるとはねぇ~・・・・奇遇である。(笑)
しばし、おばさんと雨情の詠んだ詩の話で盛り上がる。(嬉)

244_convert_20190416002422.jpg(雨情の詩碑)

時刻は午後2時を過ぎた・・・
受付のおばさんに別れを告げて駅に向かう。

赤穂には、民俗資料館や歴史博物館もある。
博物館好きの拙者としては見学したい気持ちは山々なれど・・・
15:07発の電車に乗らねばならぬ。
やっぱり、もう1泊しないと見切れなかったか・・・(涙)

旅行 | 13:08:13 | Comments(0)
大石稲荷社
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大石稲荷社

内蔵助が元禄7年備中松山城請取りに当りその大任を果たすため浅野家前領地常陸笠間の稲荷大明神を邸内に勧請し、日夜祈祷の霊験により美事その大役を果たしたので「受取り稲荷」とも呼ばれ、今日では水商売の人々の信仰が厚い。

(説明板より)


【兵庫県赤穂市・大石神社・大石邸庭園内】



史跡 | 12:47:37 | Comments(0)
浅野家大坂蔵屋敷の舟石
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浅野家 大坂蔵屋敷の舟石

この舟石はその昔、赤穂浅野家、大坂藩屋敷(現在大阪市北区中之島4丁目常安橋付近)の庭にあったものである。
大きさは長さ3メートル、巾1メートル20センチ、重さ約2トンの自然石で水穴は長さ1メートル、巾60センチの花崗岩(かこうがん)の一枚岩である。
この石によって蓬来山の不老不死延命長寿の秘薬を求め、金銀財宝を得んとする中国の神仙思想から大名屋敷や社寺の庭園に据えられたものである。

(説明板より)


【兵庫県赤穂市・大石神社境内】



史跡 | 12:45:00 | Comments(0)
義士宝物殿
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義士宝物殿の由来

この建物は、大正の初め湊川神社の宝物館として建設されたもので、かつては国宝の法華経奥書を始め、大楠公由縁りの宝物が展観され、昭和20年の神戸大空襲に遭っても唯一つ戦災を免れた、由緒深い建物である。

面積は約90平方メートル、桧材木造千鳥破風屋根入母屋造りの唐破風車寄平屋建てで、屋根瓦は菊水の紋そのままに再現され、内部には大石家に相伝する討入関係遺物を始め、義士由縁りの宝物が展示してある。

先に神門が移され、其後またこの建物が移築され、楠公さんと大石さんの二大忠臣義士を結ぶ絆は、いよいよ強いものがある。

(説明パネルより)


【兵庫県赤穂市・大石神社境内】



史跡 | 12:43:07 | Comments(0)
山鹿神社
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境内社合祀殿

国助稲荷社
宇迦之御魂をご祭神とする国助稲荷は失せ物、落とし物を見つけるに霊験あらたかと信仰を集めている。

淡嶋社
和歌山加太に鎮座の淡嶋明神を勧請したもので特に婦人の諸病に霊験あらたかと信仰され毎月3、13、23の縁日には婦人の参詣が多い
例祭は10月3日

恵美寿宮
商売繁盛の神
毎年1月10日に商売繁盛・社運隆昌を祈願する祭典が行われる
尚、以前の社殿は市内田町に移築

天満宮
学問・書道上達の神
毎年7月25日の天神祭りには奉納の献書をボンボリに吊るし、多くの参拝者で賑わう

山鹿社
山鹿流兵学の創始者山鹿素行命を祀っており、その影響にてやがて四十七義士が生まれたと言われている

八田社
塩田の守護神
赤穂塩田の大地主、八田四郎右衛門が安芸の宮島から厳島大明神を勧請してお祀りした社

忠魂社
もとは赤穂霊社、旧制赤穂中学校出身者で大東亜戦争に散華した尽忠護国の英霊を祀ったのが始まりで旧赤穂町出身の明治以降の英霊を併せ祀っている

(説明板より)


山鹿神社(やまがじんじゃ)

素行山鹿甚五左衛門高興(そこうやまがじんござえもんたかおき)は元和8年(1622年)奥州会津で生を受け、6歳の時父貞似(さだもち)に従い江戸に出、9歳で儒学者林羅山(はやしらざん)に学びました。
素行は幼くして神童の誉れ高く四書・五経を始め論語・孟子等学問を深め諸藩から仕官の誘いがありましたが、尚一層学問の道に進みたいと応じませんでした。
しかし承応元年(1652)播州赤穂城主浅野長直(ながなお)の招聘に応じ禄千石を以て、31歳から39歳まで浅野家に仕え、この間築城中の赤穂城二の丸虎口(こぐち)の縄張りを改めました。
その後更なる学問研究のため浅野家を致仕(辞職)し学問に励みましたが、寛文6年(1666)幕府官学である朱子学(しゅしがく)を「聖教要録」を著し批判し、古代聖賢の道に帰ることを主張したため、その筆禍によって赤穂に配流されました。
赤穂城二の丸で約10年の間蟄居(ちっきょ)、この間名著『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』等を著すとともに浅野家城主を始め赤穂藩士に素行学を教授しました。
素行先生の教えは、大石良雄(よしたか)はじめとする赤穂義士を生み、元禄の快挙を成し遂げると共に吉田松陰に受け継がれ、乃木希典(のぎまれすけ)にと引き継がれました。
大正元年の大石神社創建に際し浅野家3代の城主並びに山鹿素行先生を祀る「浅山(せんざん)神社」が本殿奥に鎮座されていましたが昭和44年浅野家3代の城主は赤穂大石神社本殿に合祀され、素行先生は平成12年境内社合祀殿の一つ山鹿社に祀られ、9月26日の命日には祭典を行い、素行先生の偉業を讃えるとともにお偲び申し上げております。

(説明板より)


【兵庫県赤穂市・大石神社境内】



史跡 | 12:41:52 | Comments(0)
大石神社
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四十七義士を祀る
大願成就の神 赤穂大石神社

ご祭神
義士の統領大石内蔵助良雄命を始め、四十七義士命、中折の義士萱野三平命
播州赤穂城主浅野内匠頭長直・采女正長友・内匠頭長矩の三侯
浅野家断絶後の藩主森家の可成・長可・忠政・可隆・蘭丸・坊丸・力丸の七武将

由緒
大石神社は明治元年、明治天皇の東京行幸に際し、泉岳寺の義士墓前に宣旨並びに金幣を賜ったのを契機に神社奉斎の議が起こり明治33年神社創立が公許され、大正元年11月3日義士を崇敬追慕する方々の奉賛により御鎮座となった。
ご祭神四十七士義士が1年10ヶ月の永い間艱難辛苦の末見事主君の仇を討った事により大願成就、願望成就の神として全国よりお参りを頂いている。
境内地は大石内蔵助、同じく家老の藤井又左衛門そして義士片岡源五右衛門、大石瀬左衛門の邸跡一帯である。
尚、ご社殿を始めとする境内各施設は平成14年の義士討入り満三百年を記念した境内整備事業により一新された。
例大祭日は吉良邸へ討入り見事主君の仇を討った12月14日

義士史料館
境内には四十七義士の討入り関係遺品、浅野家・大石家に伝わる宝物を展示している義士宝物殿・同別館、義士自刃250年を記念し当代一流の彫刻家による浅野長矩像を始め四十七義士の木像を納めた義士木像奉安殿、大石内蔵助邸長屋門・庭園の4ヶ所が史料館として拝観できる

(説明板より)


【兵庫県赤穂市上仮屋旧城内】



史跡 | 12:39:43 | Comments(0)
大石瀬左ヱ門宅跡
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大石瀬左衛門信清
(おおいしせざえもんのぶきよ)

   馬廻 150石
   裏門隊 行年27歳

元禄14年3月14日の夜、瀬左衛門は原惣右衛門(はらそうえもん)とともに早駕篭に乗り、主君浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)公切腹の報を、国許赤穂に伝えるため江戸を立った。
主君刃傷の報はすでに同日夕方、早水藤左衛門(はやみとうざえもん)、萱野三平(かやのさんぺい)による第一の急使が携え赤穂に向かっている。
3月19日午後8時ごろ、主君切腹の報は、瀬左衛門と原惣左衛門によって赤穂城にもたらされた。
瀬左衛門は、大石内蔵助とは遠い親戚で、祖父が内蔵助の曽祖父の弟にあたり、剣を潮田又之丞(うしおだまさのじょう)とともに、内蔵助の剣の師でもあり、東軍流の剣豪として知られていた奥村無我(おくむらむが)に学んだという。
急使として赤穂に到着したのち、瀬左衛門はそのまま赤穂に留まって内蔵助に従ったが、城明け渡し後は京都に移り住み、元禄15年10月初旬には討ち入り決行のため、大石主税(ちから)、小野寺十内(おのでらじゅうない)、間瀬久太夫ませきゅうだゆう)らとともに江戸に入り、吉良方の偵察にあたった。
討ち入りのときは、裏門隊に属し、細川家にお預けののち、吉田孫四郎(よしだまごしろう)の解釈で切腹した。

赤穂義士会

(説明板より)


【兵庫県赤穂市・大石神社参道脇】



史跡 | 12:33:38 | Comments(0)
片岡源五右衛門宅跡
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片岡源五右衛門高房
(かたおかげんごえもんたかふさ)

  側用人 児小姓頭
  350石
  表門隊 行年37歳

源五右衛門は、浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)公とは同年齢で、幼い頃から君側(くんそく)に召し出された寵臣であった。
出世加増の少ない元禄時代に、初め100石であった俸禄が、19歳で200石、24歳で300石、元禄12年(1699年)正月には、32歳で350石えを給せられている。
元禄14年(1701年)3月14日内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は下乗(げじょう)で供待(ともまち)中、主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲(す)上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸士に大事を伝え事態の収拾にあたった。
田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気付いたが、主従は共に声なく、今生の別れを惜しんだのであった。
討ち入りの時は表門隊に属し、冨森(とみのもり)助右衛門、武林唯七(ただしち)と3人組合って、真っ先きかけて屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字鎗をふるって戦った。
細川家にお預けののち、二宮新右衛門の介錯で、従容(しょうよう)として切腹した。

赤穂義士会

(説明板より)


【兵庫県赤穂市・赤穂城内】



史跡 | 12:23:18 | Comments(0)
大石邸長屋門
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大石邸長屋門

この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家3代が57年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。
門口約26.8メートル奥行約4.8メートルの建物で、屋根瓦には双ツ巴の大石家の定紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。
かつては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、又元禄14年3月主君の刃傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。
安政3年(1856年)に大修理が行われ、大正12年国の史跡に指定された。
更に昭和37年に屋根の大修理を行ったが老朽甚だしく、昭和52年11月から国、県及び市の負担により、総工費3,138万余円をかけて全面解体修理を行い、昭和53年10月末に復元完了した。

赤穂義士会

(説明板より)


【兵庫県赤穂市・赤穂城内】



史跡 | 12:21:52 | Comments(0)
近藤源八宅跡長屋門
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赤穂市指定有形文化財 建造物 指定番号31
近藤源八宅跡長屋門
  所在地 赤穂市上仮屋124番地
  所有者 赤穂市
  管理者 赤穂市
  指定年月日 平成10年4月27日

近藤源八正憲(まさのり)は、甲州流(こうしゅうりゅう)軍学を修め、千石番頭(ばんがしら)の重職にあった。
源八の妻は、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)の叔母にあたり、大石家とは親戚関係にあったが、最初から義盟には加わらなかった。
源八の父である三郎左衛門正純(まさずみ)も、甲州流軍学者であり、兵法に則って赤穂城築城の縄張り設計を行った。

近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋(げんぱちながや)」の愛称で親しまれているが、現存している建物は長屋門の長屋部分である。
門部分は、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいにあったと考えられ、長屋部分を四戸分に別け、それぞれ下級武士の住宅として使われていた。
現在は、その内の北端部の一戸とその南隣りの一戸の北端の一部屋が残されている。
この長屋門は、18世紀以降に建て替えられたものと推察されるが、当時は総長21間半(約42.3m)の長大な長屋門であった。

城内に残された江戸期の建物は、大石良雄宅跡長屋門とこの近藤源八宅跡長屋門のみであり、礎石(そせき)や、柱材、梁材(はりざい)、天井、瓦、壁等の一部を保存し、平成11年3月に解体復原整備が完了した。
入り口部分の土間(どま)は、炊事場(すいじば)であったと考えられ、煙出(けむりだ)し窓や、天井周囲に残された煤(すす)が当時の生活ぶりを偲ばせている。
また、簀子野地(すのこのじ)天井は建築当時の姿を保っており、屋外にある赤穂旧上水道の汲み出し枡(ます)とともに人気が高い。

赤穂市教育委員会

(説明板より)


【兵庫県赤穂市上仮屋124番地(赤穂城内)】



史跡 | 11:47:19 | Comments(0)
赤穂城大手門
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国史跡 赤穂城

赤穂城は、近世になって発達した軍学・兵法に従って縄張された城であり、本丸、二之丸、三之丸のすべての廓(くるわ)が残された貴重な近世城郭遺構であることから、昭和46年(1971)に国史跡に指定された。
現在見ることのできる赤穂城は、浅野内匠頭長直(あさのたくみのかみながなお)が寛文元年(1661)に完成させたものである。
城は熊見川(くまみがわ)(現在の千種川(ちくさがわ))河口の西岸に位置し、南は瀬戸内海に面した海城(うみじろ)で、変形輪郭式(へんけいりんかくしき)の平城(ひらじろ)である。
縄張は藩の軍師であり、甲州流軍学者であった近藤三郎左衛門正純が行い、12の城門と10の隅櫓(すみやぐら)を築いた。
本丸には藩邸や、池泉(ちせん)庭園、天守台が、二之丸には大石頼母助良重(おおいしたのものすけよししげ)の屋敷や、錦帯池(きんたいち)を中心とした二之丸庭園、遊水池(ゆうすいち)、米蔵、馬場などがあった。
また、三之丸には大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)をはじめとした重臣たちの屋敷が配されており、城と熊見川との間には藩の米蔵と船入(ふないり)が備えられていた。
現在では大石良雄宅跡長屋門と近藤源八宅跡長屋門が江戸時代の建物として残されている。
城内、城下には熊見川から取水し、各戸給水を成し遂げた上水道が敷設されており、日本三大上水道の一つに数えられている。
上水道の余水は、邸宅に設けられた庭園池泉にも使われた。
池泉庭園のうち「本丸庭園」と「ニ之丸庭園」は江戸時代の大名庭園「旧赤穂城庭園」として、平成14年(2002)に国名勝に指定された。

(説明板より)


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大手門枡形

赤穂城の表虎口(こぐち)である大手門は、石垣を方形に積上げた枡形(ますがた)と高麗門(こうらいもん)、櫓門(やぐらもん)の二重の城門を備えた最も厳重な枡形門であった。
枡形は打ち出す兵を待機させたり、敵兵を閉じ込めて攻撃するためのもので、その規模は長辺10間(約19.8m)、短辺6間(約11.8m)、面積234㎡である。
現在ある高麗門は、隅櫓(すみやぐら)・土塀(どべい)とともに昭和30年(1955)に再建されたものである。

枡形石垣は、明治19年(1886)にその形状を大きく改変され、その後周辺は赤穂大石神社の境内となっていたが、文化庁の国庫補助事業によって公有化が図られ、平成15年(2003)に石垣の修復及び周辺整備が完成した。

発掘調査によって、枡形石垣、櫓門跡、番所跡、上水道施設、排水枡、大石内蔵助(くらのすけ)屋敷土塀石垣など多くの遺構が見つかっている。
櫓門は、幅4間半(約8.9m)、奥行2間(約4m)であったことが明らかとなり、新たに板石を埋め込んで礎石の位置を示している。
また、門の前後では川原石を並べた霰敷(あられし)きの雨落(あまお)ち施設も見つかっている。
この休憩所は、発掘調査で検出された番所跡の位置に、ほぼ同規模の番所を模して建てられたものである。
当時、番所には門番として足軽3名、下番(げばん)2名が詰め、大手門の警護にあたっていた。

(説明板より)


【兵庫県赤穂市・赤穂城】



史跡 | 11:32:32 | Comments(0)
赤穂で見かけた建物
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【兵庫県赤穂市・「JR播州赤穂駅」の駅前通り】



建物 | 11:24:35 | Comments(0)
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