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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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宇佐神宮
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宇佐神宮

御祭神
一の御殿 八幡大神(応神天皇)
二の御殿 比賣(ひめ)大神
三の御殿 神功皇后(じんぐうこうごう)

宇佐神宮は全国八幡宮の総本宮 勅祭(ちょくさい)の大社であり 歴代天皇は伊勢の神宮につぐ宗廟(そうびょう) 我朝(わがちょう)の太祖 として御崇敬になられています
また私たちの祖先は各地に宇佐の八幡宮をお迎えして 氏神や鎮守のお社としました
神代に三神の比賣大神がご降臨(こうりん)になったこの宇佐の地に 約千四百年前の欽明(きんめい)天皇32年 応神天皇のご神霊(しんれい)がはじめて八幡大神(はちまんおおかみ)としてあらわれになり 各地を巡幸(じゅんこう)後この亀山にお鎮(しず)まりになりました
のち弘仁14年 応神天皇の御母君であられる神功皇后をお祀りし 三殿のご鎮座(ちんざ)となりました

(説明板より)

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下宮(げぐう)

御祭神
一之御殿 八幡大神(応神天皇)
二之御殿 比売(ひめ)大神
三之御殿 神功(じんぐう)皇后

下宮は嵯峨天皇の弘仁年間(810~824)に朝廷より造宮使が遣わされ、上宮の御分神をお鎮祭し創祀されました。
古くは御炊殿(おいどの)ともいわれ、神前にお供えする御饌(食事)を炊く竈殿(現下宮授与所)があり、農業・漁業をはじめとする一般産業の発展充実を御守りになる神様であります。
上宮と同様に歴代の皇室をはじめ、国民の崇敬篤く、特に宇佐地方では「下宮参らにゃ片参り」と称され親しまれております。
また、一之御殿には、八幡大神を顕しになった大神比義(おおがのひぎ)の神霊を祀る、大神祖神社が相殿として奉斎されております。

宇佐神宮庁

(説明板より)


【大分県宇佐市南宇佐2859・宇佐神宮】



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史跡 | 11:40:57 | Comments(0)
神武天皇聖蹟莵狭顕彰碑
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神武天皇聖蹟莵狭顕彰碑

(碑文)
神武天皇甲寅年冬舟師を師ヰテ筑紫國莵狭ニ至リ給ヘリ聖蹟ハ此ノ地方ナリト推セラル

昭和十五年十一月 紀元二千六百年奉祝會



(側碑・碑文)
神武天皇聖蹟莵狭顕彰碑

日本書紀によれば、神武天皇は御東征のとき、日向を発たれ、椎根津彦命(しいねつひこのみこと)の水先案内で豊後水道の難所を通り抜け、宇佐に上陸されました。
このとき宇佐国造の祖である莵狭津彦命(うさつひこのみこと)・莵狭津媛命(うさつひめのみこと)が天皇一行をお出迎えになり、一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を建て饗(みやえ)(ご馳走)を奉ったことなどが記されています。
これを記念して昭和15年にこの顕彰碑が建てられました。
一柱騰宮跡は寄藻川に架かる呉橋の南側の高台と伝えられ、この一帯は騰隈(とうのくま)とよばれています。
宇佐上陸の地とされる和気地区には柁鼻(かじはな)神社が、また大尾山の東側台地には椎根津彦命を祀る椎宮が鎮座しています。


【大分県宇佐市・宇佐神宮】



史跡 | 10:49:31 | Comments(0)
宇佐参宮線26号蒸気機関車
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宇佐参宮線26号蒸気機関車

大分県指定文化財

この機関車は、明治24年(1891年)にドイツ・ミュンヘン市のクラウス社が製造、明治27年に九州鉄道(株)(国鉄の前身)が購入し活躍していましたが、昭和23年機関車の大型化に圧され、大分交通(株)に譲渡の後、宇佐参宮線の主役になりました。
宇佐参宮線は、大正5年(1916年)3月開業し、昭和40年8月に廃止されました。
二六号機関車は形式10、製造番号2550号、最大長7.509m、高さ3.546m、幅2.546m、運転装備時重量23.36tで、実に71年間にわたり活躍しました。

(説明板より)


【大分県宇佐市・宇佐神宮】



史跡 | 10:31:54 | Comments(0)
宇佐神宮に行く
前回、“ヤスダさん”にお会いした時に、「史跡好きならば、ここを拠点に少し回ってみてはどうか」と言われた。
病院に訪問するついでに、別府を中心に史跡巡りをしたら・・・ということである。
つまりは・・・ちょくちょく遊びに来て欲しいということかな?(笑)
で・・・この間は、宇佐海軍航空隊に関する新聞記事の切り抜きを送ってきた。
そうなると・・・行かねばなるまい?(苦笑)
わざわざ新聞記事を送って来たということは、ここを見学するついでに病院に顔を出してくれということなのだろう。

というわけで・・・今日は、宇佐に行くことにした。(笑)
ホテルはそのまま・・・
今晩も、もう1泊して明日帰ることにしてある。
まる一日、宇佐周辺を見て歩くことにした。

電車で宇佐駅まで行き、そこからタクシーで宇佐神宮に向かう。
宇佐に行ったら、まずは「宇佐神宮」でしょ?(笑)

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宇佐神宮には初めて来たが、さすがは「神宮」っていうくらいだから、結構、広い感じである。



宇佐神宮御由緒

当神宮は全国に4万社あまりある八幡宮の総本宮であります。
神代に比売大神(ひめおおかみ)が馬城の峰(大元山)に御降臨になった宇佐の地に、欽明天皇32年(571)応神天皇の御神霊が初めて八幡大神としてあらわれ、宇佐の各地を御巡幸ののち神亀2年(725)に亀山の一之御殿に御鎮座になりました。
また天平3年(731)比売大神を二之御殿にお迎えし、のち弘仁14年(823)神託により神功皇后(じんぐうこうごう)が三之御殿に御鎮祭されました。
皇室は我が国鎮護の大社として御崇敬篤く、特に八幡大神が東大寺大仏建立援助のため神輿にて上洛されたこと、また和気清麻公が天皇即位にかかわる神託を授かった故事などは有名であり、伊勢の神宮に次ぐ宗廟、我が朝の太祖として勅祭社に列せられております。

(説明板より)



参道を歩く人は無く・・・・閑散としている。
テクテク歩いていたら、韓国人の団体客たちとすれ違った・・・・
まもなく、小さな可愛い機関車を発見!(苦笑)

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(宇佐参宮線26号蒸気機関車)

この機関車は明治24年にドイツで製造された蒸気機関車で、大正5年に開業した宇佐参宮線で使用されていたものだそうだ。
当時は、宇佐神宮に来るのに汽車に乗って来ることが出来たらしい。
宇佐参宮線は昭和40年に廃止されたとのことであるから、そのころには、参拝客は自家用車か観光バスでやって来る人が多くなって汽車に乗る人がいなくなったのかも・・・

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(宮本武蔵 誠心直道之碑)

ちかくに「誠心直道之碑」というのが建っていた。
宮本武蔵と言えば熊本県だが・・・なんで大分県の宇佐にこの碑が建っているのかと思ったら、近くに説明板があった。
それによると、「正統兵法二天一流」が宇佐市在住の方が宗家として相伝されたため、熊本から大分の宇佐の地に宗家が移ったためらしい。
以前、福岡県北九州市の小倉城で「誠心直道の碑」というのを見た覚えがある。
この碑を建てた“団体”も二天一流の宗家と名乗っていたが・・・・
更に熊本県の霊巌洞で、二天一流の由来の説明板を見たことがあるが、こちらも別の“団体”で宗家とのこと。
う~ん・・・兵法二天一流というのはいくつもの流派に分かれているのだろうか?
それで、こちらの“団体”はあえて「正統宗家」と名乗っているのか?
よくわからん・・・
まるで和菓子屋の「元祖」「本家」「総本家」みたいな感じなのかな?
若かりし頃、京都の銘菓「生八つ橋」を「本家でもなく総本家でもなく分家で買ってみたい」と言ってお店の人にヒンシュクを買ったことがあるが・・・(大笑)
いったい、どの“団体”が直系なのだろう・・・という気がしないでもないな・・・(大汗)

直ぐ近くに種田山頭火の碑が建っていた!
お久しぶりの山頭火との再会である。(喜)
全国を旅していると、時々、バッタリと山頭火の碑に出会うことがある。
これがなんとも嬉しい・・・

228_convert_20170918224550.jpg (種田山頭火の碑)


種田山頭火

自由律俳人・種田山頭火、本名・正一。
明治15年山口県防府市に生まれる。
早稲田大学を病気中退し帰郷、結婚して父と酒造場を開業する。
一方、荻原井泉水が創刊した新傾向俳句誌『層雲』に投句し入門、やがて同人・選者として活躍した。
大正5年に酒造場は失敗、破産する。
熊本に移り無軌道な酒に浸って市電を止める事故を起こしたのを機に出家得度。
九州をはじめ東北地方まで全国を行乞漂泊の旅を続けた。
ここ宇佐神宮には、昭和4年と13年に訪れており、禅僧でありながらも殊のほか敬虔なおもいで参拝している。
昭和14年四国霊場巡拝を終え愛媛県松山市に「一草庵」を結んだが、昭和15年10月11日同庵に歿した。
山頭火は、花鳥諷詠や季語を約束とする五・七・五の定型俳句とは異なり、「俳句といふものは・・・魂の詩だ、心のあらはれを外して俳句の本質はない」と言い、その人生や俳句においても、より真実なるものを模索し非定型を貫いた。
行乞流転の旅にあって詠んだ数々の日本語独特な口語のリズムを生かした自由律作品は、いまも多くの人のこころを捉えている。

(碑文より)



このすぐ近くに、「神武天皇聖蹟菟狭顕彰碑」というのが建っていた。

249_convert_20170919145925.jpg (神武天皇聖蹟莵狭顕彰碑)

石碑などに目が行ってしまい、なかなか先に進めない・・・(大笑)
宇佐神宮って・・・まだ先だよね?(苦笑)

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境内に大きな池が・・・・蓮の花が咲いていた。

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立派な建物を発見!(笑)
なかなかの建物である。

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写真の左側が「宇佐神宮儀式殿」で、右端の建物が「宇佐神宮庁」の建物・・・

更に進むと「茅の輪」があった・・・

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説明板によれば、この「茅(ち)の輪(わ)くぐり」というのは、盛夏を乗り切る方法の一つなのだそうだ。
茅の輪をくぐることで、心身の穢(けが)れや厄を払う儀式なのだそうである。
以前、水戸藩士の”シミズくん”に付き合って某神社に行った時に、彼は茅の輪をくぐっていたが・・・(笑)
う~ん・・・たぶん彼は穢れていたからやったのだろうが・・・(大笑)
拙者には自分の心身が穢れているという自覚はない。(大笑)
が・・・
周囲を見渡したら誰もいないので、ちょっとやってみるか・・という気になった。
決して拙者は穢れていないのだが・・・(笑)
説明板に書かれている作法によると・・・
まず、正面に立ち一礼をするのだそうだ。
この時に、正月から現在まで健康でいられる感謝を込めるのだそうだ。
次に左回りで一度、茅の輪をくぐる。
その次に今度は右回りで茅の輪をくぐり・・・
と・・・ここまでやっていたら、周囲に参拝者がチラホラと集まっていた。(驚)
ゲゲゲッ!なんとも恥ずかしい・・・(大汗)
しかし、途中でやめるというのもねぇ~・・・・マズイでしょうねぇ~
で・・・最後にもう一度、左回りで茅の輪をくぐり、正面に立って一礼をする。
この時、この夏から来年の正月まで健康でいられますように・・・という願いを込めて一礼するのだそうだ。
よし!他人の視線を散々浴びながら・・・(涙)・・・「茅の輪くぐり」は終了!
これで、来年の正月まで健康でいられるよな?

更に進む・・・・

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「宇佐神宮社叢(しゃそう)」
国指定天然記念物

この御(み)山は亀山、また小椋(おぐら)山とも称し、森の大部分はイチイガシ(一位樫)、クスノキを優占種とする常緑広葉樹林でほぼ自然の状態で残されている。
高木層、亜高木層、低木層はほとんど常緑樹で占められているため、四季を問わず緑深い神域が保たれている。
イチイガシは常緑広葉高木で、樹高30mに達し幹の直径が1.5mになるものがある。
樹皮は灰黒褐色であるが、皮目が多く薄片となってはげ落ち波状の模様が残る。
葉には鋭い鋸(のこぎり)歯の表面は光沢があるが下面は黄褐色の短い毛が密生している。
他のカシ類と同様に堅果(どんぐり)が出来る。

(説明板より)



「イチイガシ」・・・ねぇ~
どの木がイチイガシ????
植物に関する知識が全くないので、さっぱりわからん・・・(涙)

更に進むと色鮮やかな門が・・・
あら・・・すごい・・・

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この門をくぐると・・・これまたビックリ・・・

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あらぁ~この屋根・・・すごいなぁ~
これ・・・・杮葺きかな?
ここを回り込むと・・・そこが宇佐神宮・・・・
これが本殿かな?

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これまた素晴らしい建物である。(喜)
この宇佐神宮は、参拝の仕方が他の神社とは違っているらしい。
説明板に「二礼、四拍手、一礼」と書いてあった。

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この説明に従い、ニ礼して、パン、パン、パン、パンと四拍手して、一礼・・・・
ところが、他の参拝客はみなさん、パンパンパンパンと猛スピードで四拍手するのである!(驚)
え~!(驚)・・・そうやるのか?
パン、パン・・・と拍手の間にワンテンポ入れるんじゃないのか?
説明文には四拍手のテンポまでは書いてはいない・・・
パンパンパンパン!・・・・では、なんとも気忙しい気がするんですが・・・
本当はどっちが正しい四拍手の仕方なんだろう?
うっかり社務所の人に尋ねるのを忘れた・・・・(汗)

社殿は一つに見えるが、「一之御殿」「ニ之御殿」「三之御殿」と三つに分かれていて、それぞれに賽銭箱がある。
仕方がない・・・三つともお参りするしかない・・・(苦笑)
そのたびに賽銭箱にお賽銭を入れねばならぬ。

社殿の反対側に「宇佐神宮奥宮 大元神社遥拝所」というのがあった。

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説明板によると・・・・
『左手奥に見える山が、宇佐嶋とも呼ばれる御許山(馬城峰)です。宇佐神宮発祥の聖地として摂社大元神社が鎮座し、現在でも毎月の祭祀が厳修されています』とある。

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へぇ~・・・あんな遠くの山が発祥の地ですか・・・・
あそこに行くのは大変だろうなぁ~(大汗)

参拝を終え、帰ろうかなと・・・
途中、「若宮神社」というところに帰路を示す看板があったので、これに従うことにした。

297_convert_20170920161446.jpg (重要文化財・若宮神社)

この帰路は「下宮経由」とのこと・・・・
うまくハメられた・・・(苦笑)

303_convert_20170920162045.jpg (下宮)

この下宮(げくう)も一之御殿から三之御殿の3つに分かれていて、それぞれに賽銭箱が設けられている。
社員旅行のついでに立ち寄ったという感じの他の参拝客が「小銭がなくなったから、俺はパス!」と言うのを聞いて、思わず笑ってしまった。
やたらと賽銭箱があるので、あっという間に小銭が無くなってしまうのである!(大汗)
こう言っては、失礼かもしれないが・・・・商売上手である・・・(苦笑)
幸い、拙者の財布には、小銭がたんまりあったので助かったが、宇佐神宮に来るときは小銭を十分に用意しておいた方が良さそうである。(大笑)

この境内に兆竹(さましだけ)というのがあった。

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兆竹 (さましだけ)

往古、宇佐神宮では神事や豊穣、国家の大事を決する時の神意の卜占を、摂社若宮神社の拝殿にて対馬の卜部が亀甲を焼いて行っていた。
その際、この下の宮境内の竹を用いて熱した亀甲を「冷まし」たといわれる。

(説明板より)


どうでもいいことだが・・・なんで「兆」と書いて「さまし」と読ませるのだろう?
「さましだけ」なら「冷竹」でもいいと思うのだが・・・・(笑)

更に戻って・・・・境内の一角にある公衆トイレのところが喫煙所となっているので、そこで一服・・・(笑)
そこへ、ワーワーキャーキャーと騒ぎながらやって来た一団・・・
韓国人のツアー客たちである。
中年のオバチャンたちは、ほぼ全員が真っ黒いサングラスをかけているという異様な雰囲気・・・(苦笑)
今にも雨が降りそうな、どんよりとした曇り空なのに・・・・真っ黒いサングラスとは・・・ねぇ~
ファッションなんでしょうが・・・
日本人の中年女性には、こういうサングラスをかける人はいないよな。
やっぱり韓国人というのは、感覚的に、どこか違うんだろうなぁ~
それにしても・・・偶然なのかもしれないが、やたらと何組もの韓国人ツアー客に会うんですけど・・・
宇佐神宮は、韓国人に人気のある観光スポットなのか?

時刻は12時を過ぎている・・・
近くに宝物館があるが、ここに行ったら、たぶん拙者のことだからじっくりと見学してしまうかもしれない・・・
そうなると、今日は宇佐神宮だけで終わってしまうような気がする。
それだけでは勿体ない気がしないでもない。
ここは・・・宝物館があることに気が付かなかったということで・・・無視することにする。(大笑)

一服後、更に境内を散策してみる。

「頓宮」というのが、境内のはずれの寂しい場所に建っていた・・・(苦笑)

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頓宮

頓宮(とんぐう)は仮殿(かりどの)、御仮屋(おかりや)ともいわれ、当神宮では夏越神幸祭(なごしのしんこうさい)(7月31日~8月2日)が斎行される際に三基の神輿(みこし)(御鳳輦・ごほうれん)がこの頓宮まで御巡幸ののち遷御(せんぎょ)される。
この大祭は明治以前まで御祓会(おはらいえ)御禊会(みそぎえ)とも称されたが、古式による独特な祓いの儀、菅貫神事(すがぬけしんじ)が今も行なわれている。
また現在の頓宮は昭和7年より始まった昭和大造営の折に新築されたものである。
古く元慶4年(880)には33年毎の式年造替が行われ、この頓宮一帯に上宮、下宮、若宮の各本殿と寸分たがわない白木造りの「仮殿」が建てられた。
しかしこの仮殿の造営も中世戦乱のため次第に行われなくなり、延宝8年(1680)には神橋付近に頓宮が造営され昭和初期まで使用された。
尚、宝物殿には我が国最古の建築指図である「宇佐宮仮殿地判指図」(国重文・鎌倉時代)や、「応永の古図」また「宇佐宮絵図」数点が展示されており参考にされたい。

(説明板より)



ここから更に奥に向かい、宇佐神宮の境内の外側に、どうも「和気清麻呂」の碑があるらしい。
ちょっと行ってみるかと、雑草の生い茂る細道を歩く・・・

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どうやら、あの木々で鬱蒼とした小山辺りにあるようである。

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一歩、足を踏み込んで・・・・唖然!
シマッタ・・・この石段・・・・(大涙)

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登るのを諦めて引き返そうとも思ったが・・・・
ここまで来て引き返すのもねぇ~
相変わらずの運動不足による呼吸困難と筋肉痛を伴う“登山”である。(苦笑)
しかも、服装は、いつものようにスーツにビジネスシューズである。(大笑)
こういうところを歩くにはふさわしくない格好である。(大笑)

323_convert_20170920202447.jpg (和気清麻呂公の碑)

まもなく、大きな石碑が見えた・・・・
これが「和気清麻呂公の碑」である。
宇佐八幡神託事件で活躍したということで、大正4年に、この碑が建立されたらしい。
文字は日本海海戦で活躍した東郷平八郎の揮毫である。

更に、奥のほうに神社があるらしいので・・・・
ここまで来たら、もう、ついでということで行ってみる。

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大尾山

天平神護元(765)から16年間、現在の上宮があった場所です。
11世紀中頃には参議源資通(みなもとのすけみち)により蓮台寺が創建されました。

(説明板より)


摂社 大尾神社

御祭神 八幡大神

八幡大神は奈良の都の大仏開眼式に臨まれ、宇佐へご帰還ののち、天平神護元(765年)この大尾山にしばしの間鎮座するとの御託宣により山上に本殿を造営、15年間お鎮まりになった。
この間、神護景雲3年(769年)7月11日、和気公は「宇佐使」として当地に参向、皇統を守護する託宣を受けられた。
大神が本宮へ還御されたのち神勅拝受の聖蹟として八幡大神の御分霊を祀り、大尾神社と称された。

(説明板より)



どうも“神様の話”はよくわからない・・・・(大汗)
帰る途中、もう一つ神社があったので寄ってみた。

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末社 護王神社

御祭神 和気清麻朝臣命

神護景雲3年(769年)7月11日、和気公は宇佐使として当地に参向「我国は開闢以来君臣の分定まれり、天津日嗣は必ず皇儲をたてよ。無道の者は速やかに掃い除くべし」という八幡大神のご託宣を受け、道鏡の野望はくじかれ皇統が守護された。
山上の摂社大尾神社附近は神託を受けた旧蹟である。

(説明板より)



滑る落ち葉に神経を使いながら、山を下り・・・・
宇佐神宮に戻り・・・・参道わきの店を覗く。
定休日で閉まっているのか、潰れてしまったのか、シャッターが閉まっている店が何軒もあった。
なんとも活気のない“商店街”であるが・・・
こんなに参拝者がいないのなら、仕方がないかも・・・
またもや韓国人ツアー客たちが、たむろしていたが、彼らがここでお土産を買うとは思えない・・・
そうなるとパッとしないよねぇ~(苦笑)
たまたま覗いたお店に「ふくろうグッズ」があったので、妹へのお土産に一つ購入・・・
でも、お店の人は・・・シラ~ッ・・・・(汗)
まぁ、そうなるのも無理はないか・・・・

時刻は午後1時を過ぎていたので、近くの食堂で遅い昼食をとる。

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旅行 | 10:06:55 | Comments(0)
別府港跡と天然砂場跡
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別府港跡と天然砂場跡

明治4年5月、九州の表玄関といわれた別府港が完成。
九州の三大波止場のひとつ。
のちに別府温泉の発展に大きな役割を果たした。
港の北側には北浜天然砂場があり、南側も砂場だった。
多くの湯治客は海から訪れていた。

平成14年3月 あなたの町の郵便局

(碑文より)


【大分県別府市北浜1-14】



史跡 | 13:10:17 | Comments(0)
「地獄めぐり遊覧バス」発祥の地
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「地獄めぐり遊覧バス」発祥の地

亀の井バスの創立者・油屋熊八は、昭和3年、日本初の「女性バスガイド」と「遊覧バス」を発案。
そのコースの沿線で、流川情緒や史蹟名所を美文調で説明した。
若い女性ばかりのバスガイドは、旅行者にすごい人気を博した。

地獄めぐりは 亀の井バスよ
乗ればニッコリ 乙女の車掌
名所解説 節・面白ふ
唄う車内の 和やかさ

平成14年3月 あなたの町の郵便局

(碑文より)


【大分県別府市元町19-10】



史跡 | 12:56:53 | Comments(0)
伊能忠敬測量史蹟
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伊能忠敬測量史蹟

往時この街角に高札場あり徳川幕府禁制を掲ぐ
文化7年(1810年)2月11日伊能忠敬来りて測量をなしこの処に国道元標を建つ
江戸日本橋より263里(1052km)
この元標より西1丁目に庄屋宅ありと

流川通り会
平成9年6月建立

(碑文より)


【大分県別府市・流川4丁目交差点】



史跡 | 11:41:59 | Comments(0)
別府の“戦友”に会いに行く
先日、別府在住の我が戦友会会員の“ヤスダさん”からお手紙を頂いた。
この間、ベッドから落ちて体調を崩したらしい。
90才を過ぎると、病院のベッドに寝ていても、そういうことが起こるらしい。
話によると、ベッドから降りる時に倒れたのではないかと思うとのこと。
自分でも記憶がないらしく、気が付いたらベッドの下に倒れていたらしい。
体調を崩して危うく死にはぐったが、ようやく回復したので手紙を書くことが出来たと書いてある。
いやはや、なんということか・・・・
さぞかし心細かっただろう。
以前、お会いしたときに「死ぬ前にもう一度会いに来て欲しい」と言われてたし・・・(苦笑)
こりゃ、お見舞いがてら顔を見に行かねばなるまい!
ということで・・・昨晩、上京して前泊し、今朝、羽田から大分空港に向かった。

大分空港から高速バスで別府へ・・・・
別府駅前で少し遅めの昼食を食べて、“ヤスダさん”のいる病院へ向かう。
毎度同じパターンでの行動・・・(笑)
今回は珍しく雨!
傘をさしてテクテクと向かう・・・
事前に手紙で到着予定時間を知らせておいたので、“ヤスダさん”が病院のロビーで首を長くして待っていた。
こうなると、毎度毎度、時間ピッタリに到着しなくては申し訳ない・・・(笑)
今回も、たぶん、そうだろうなぁ~と思い、近くのコンビニで一服して時間を調整して時間ピッタリに到着!(大笑)

病室へ向かい、早速、おしゃべり!(笑)
いつもは、“ヤスダさん”の体調を考えて、1時間程度の訪問なのだが、今回は、何だかんだとおしゃべりが弾み、あっという間に2時間も経ってしまい、まもなく夕食の時間・・・
それでは、今回はここまでということで、お別れをする。
やっぱり寂しかったのだろう・・・“ヤスダさん”は、ずっと話しっぱなし・・・(笑)
いつも、おしゃべりな拙者は聞き役に徹する・・・(笑)
拙者相手で気分転換していただけるなら嬉しい限りである。

病院を辞してホテルに向かって歩く。
すでに雨はやんでいたので助かった。

で・・・思い出した・・・
前回来た時に見落とした“史跡”があったので、ちょっと探してみたい・・・
伊能忠敬が測量しに別府に来たことを示す石碑がどこかに建っているはずなのだが・・・

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交差点の角、電信柱の裏に、それらしきものを発見!
あれ?・・・・この道・・・・以前にも歩いたんだけどなぁ~(汗)
電信柱の裏では見落とすわなぁ~(大汗)

185_convert_20170909211948.jpg (伊能忠敬測量史蹟碑)

そのままホテルに向かい歩く・・・
ここから先は初めて歩く道である。
途中、「地獄めぐり遊覧バス」発祥の地碑を見かける。

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さらに、その近くに、「別府港跡と天然砂場跡」の碑をみつけるが・・・・

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碑が建っている場所は、どう見ても「天然砂場跡」とは思えないような場所だった・・・(大汗)

ホテルは前回も泊まった同じホテル・・・・
勝手知ったる・・・である。(笑)
ホテル近くのレストランで一人寂しく夕食を食べ・・・(苦笑)
今日の行動は、これで終わり・・・

日記 | 10:13:11 | Comments(0)
『日本海軍 失敗の研究』


まえがき

 1 司馬遼太郎氏の大正、昭和史観

 2 堕落への第一歩
       日露戦争の辛勝
       講和への道
       大山巌と山本権兵衛
       東京騒攬事件
       参謀本部刊行「日露戦史」
       夏目漱石の“大和魂”

 3 日韓併合

 4 立憲主義と統帥権の相剋

 5 山県有朋と桂太郎
       参謀局から参謀本部へ
       現役将官専任制への移行
       軍制の転換
       メッケルの功罪

 6 統帥と輔弼
       統帥権
       輔弼

 7 倨傲、狡猾、国家エゴへの傾斜
       対支二十一カ条要求
       シベリア出兵
       田中義一と中野正剛

 8 張作霖爆殺事件

 9 海軍軍縮会議の明暗
       ワシントン会議
       ジュネーブ会議
       ロンドン会議

10 満州事変

11 右翼と下剋上
       5・15事件
       天皇機関説問題
       2・26事件

12 横暴と暴走
       広田内閣の苦悩
       軍部大臣現役制の復活
       日独防共協定
       支那事件勃発
       ノモンハンの惨敗

13 陸軍豹変す

14 三国同盟締結

15 仏印進駐

16 南進への野望

17 痛恨の逸機

18 南部仏印進駐
       永野軍令部総長と第一委員会
       南部仏印進駐

19 近衛首相の苦闘
       御前会議
       陸海軍の対立
       五相会議(荻外荘会談)
       建前と本音

20 万策つき開戦へ
       嶋田繁太郎海相に就任
       開戦

あとがき

主な参考文献と資料


今年の読書:41冊目



読書 | 23:45:45 | Comments(0)
『南海の大探検家 鈴木経勲』
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はじめに

前編 主として『南洋探検実記』にみられる記事の検証



第1章 経勲の記事についての疑問
       経勲らマーシャルへ赴く
       ラエ島に乗り込む
       兇行人の逮捕
       日本人虐殺事件の不可解な謎

第2章 欧米人との最初の接触の歴史
       経勲の誇張
       欧米人との衝突
       キリスト教の伝来
       貿易商人の登場
       キリスト教の発展と酋長の困惑
       キリスト教への反発
       貿易商人の活躍
       カペルレの活躍
       マーシャルの文明化
       火器の普及と内乱の活発化
       ドイツの支配
       ドイツの植民地となる

第3章 経勲の歴史的記述の検討
       マノワの特定
       アルノの戦争
       マジョロの最後の戦争
       カブアとロイアクの確執
       ラリック列島の王に過ぎない
       『探検実記』にみられる空白の期間の謎
       経勲はジャルートの離島には出かけていない

第4章 経勲の民族誌的記述の検討
       マーシャル諸島の地理、人、文化
       経勲の民族誌的記事の検討
       更なる考察
       経勲の掲載したマーシャル語

第5章 マーシャル人の凍死と国旗撤回の謎
       マーシャル人凍死の真相
       国旗撤回
       経勲のマーシャル訪問の目的
       謎のハーデー船長とエーダ号

第6章 外国の文献にみられるラエ島日本人虐殺事件

後編 主として『南洋探検実記』以外の文献の検証

第1章 『南洋探検実記』以外の代表的文献についての考察
       1 猛太郎の伝記
       2 経勲の自叙伝
       3 大内青琥氏発見の『復命書』
       4 M・R・ピーティ氏の経勲批判
       5 殺人者の処罰中止の謎
       6 オーストラリア・イギリスの資料からの検証
       7 日本側の記録
       8 経勲らはエーダ号に乗船していたか
       9 ラッコ猟に対する疑問
      10 横浜開港資料館蔵の史料
      11 『東京横浜毎日新聞』の記事
      12 「無人島探検記」の検討
      13 まとめ

第2章 『南洋探検実記』以前の記事についての考察
       1 『東京地学協会報告』の記事の検討
       2 野沢藤吉の口述筆記
       3 「明治十七年マーシャルに使して―ヤルート三十二島占領の思い出―」の記事
       4 丸山義二の「豪胆・鈴木経勲の椰子島譚」
       5 「原始時代にあるマーシャル群島」の検証
       6 外務省へ提出された『復命書』

第3章 以上の史料に基づいてのまとめ
 
第4章 種本はレイニア号漂流記
       1 ヒントはレイニア号の本から
       2 レイニア号漂流記との類似点
       3 残された疑問と虚偽

第5章 結語
       補遺
       追記

付録 最後の海賊ブリー・ヘイズ
       海賊ヘイズの正体
       デイズの文献からみたヘイズの最後

あとがき

参考文献一覧


本書の題名「南海の大探検家」の文字に魅かれて読んでみた。
昔、こういう「大探検家」がいたのかと驚いたのだが・・・・

明治17年に横浜に入港した英国船から、マーシャル群島の中の一つの島、「ラエ島」で、ここに漂着した日本の漁夫が島民によって殺害されたというニュースがもたらされた。
このため、日本の外務省は2人の官吏を現地に派遣したのだが、そのうちの一人が鈴木経勲という人物である。
帰国後、彼は『南洋探検実記』という本を発表し、これが日本初の民族誌的文献として高い評価を受けた。

本書の著者は大学院で太平洋考古学を専攻した方だそうで、実際に太平洋上の島々に調査に出かけてもいる専門家のようである。
その著者が、この『南洋探検実記』を検証してみたら・・・・あれ?(笑)
書かれている内容がおかしい・・・
間違った記述が多く、正しい記述は外国の文献にも載っている話だけ・・・となると、怪しい・・
「探検実記」とは言っているが、その「探検」は、外国の「探検記」や「漂流記」からの引用ではなかろうかという疑いが出てきた。
「実記」といっているが、果たして本当に現地に行っているかも疑わしくなってきた・・・
この本は、実は、外国の文献を種本とした創作ではなかろうか?

『ガリバー旅行記』という本がある。
この本をノンフィクションの旅行記だと思っている人は、いないだろう。
あれは、創作で、おとぎ話である。
鈴木経勲の『南洋探検実記』も、もしかしたら、その程度のものかもしれない・・・
しかし、そんな本を多くの人が学術的に高く評価し続けてきたことが不思議である。

本書のテーマは、非常に興味深く、面白い・・・
詳細な検証がされているが、話の展開が行ったり来たりしている構成なので、ちょっと読みづらいかもしれない。
惜しむべくは、鈴木経勲の『南洋探検実記』の原文の引用がされていないところである。
何か理由があってのことなのだろうか?
原文と対比しながら検証するという形の方が原本を読んだことのない人には分かりやすかったかもしれないと思った。


今年の読書:40冊目



読書 | 01:14:17 | Comments(0)
20数年ぶりに恩師に会う
この間、大学の恩師から電話を戴いた。
先生の甥がピアニストなのだそうで、そのリサイタルを聴きに上京しないかとのお誘いの電話・・・
ついでに、誰か誘ってくればいいと、おっしゃるので・・・
ピアノを弾く妹と姪を誘い、3人で聴きに行くことにした。
場所は、上野の東京文化会館・・・
3人分のチケットは先生からのプレゼント!(大喜)
感謝、感謝である。

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恩師の甥の松岡氏は、国際コンクールで賞を取ったほどのピアニストだそうだ。
が・・・拙者は音楽についてはよくわからない・・・(大汗)
正直言って上手いのか下手なのか、さっぱりわからない・・・(苦笑)
自分が聴いて心地よければ「上手い」、心地よくなければ「下手」と思うという程度である。
ピアニストの演奏テクニックについては、妹や姪の方が良く分かっている。

とにかく、「非日常」という、いい時間を過ごさせていただき、先生には感謝である。
で・・・・会場で先生にお会いしようと思った時になって気が付いた・・・(大汗)
大学を卒業して33年ほど経つのである。
卒業して間もない頃に二度ほど先生にお会いした程度・・・
ということは、あれから20年以上、30年近くお会いしていないのである!(汗)
拙者の記憶にある先生の姿は、大学時代の先生・・・
あれから30年近く経っているのだが・・・先生はお幾つになられているのだろう?
参ったぞ・・・“加齢”後の姿が思い浮かばない!(大笑)
あれ?・・・次々と思い浮かぶのは30年ほど前の若々しい姿ばかり・・・
これでは、この会場の中で先生を見つけるのは難しい・・・
あの頃は若々しかったが・・・もしかしたら腰の曲がった、おじいちゃんになっているかもしれないし・・・(苦笑)
頭がツツツルに禿げ上がっているかもしれないし・・・(大笑)
会いたい気持ち半分、会うのが怖い気持ちが半分・・・である。(苦笑)

とにかく、ロビーの人ごみの中をウロウロと歩き回ることにした。
と・・・・聞きなれた声が・・・
間違いなく、先生の声である!(喜)
声の主のところへ向かい、ご挨拶・・・
やっぱり、30年も経つと歳は取るね・・・(大笑)
(お互い様だろうけど・・・)(大笑)
それにしても、あの張りのある元気なお声が全く変わっていないのには驚いた。
いやぁ~一瞬にして大学時代に戻った気分・・・(笑)
妹と姪を紹介して、立ち話・・・
他にも先生にご挨拶したい人が待っていたようなので、おしゃべりは短時間で打ち切ってお別れしたが・・・
いやぁ~嬉しかったなぁ~
まさか30年近く経って再会できるとは・・・

わざわざ声をかけてくださって、チケットまでプレゼントしてくださった先生に感謝!

日記 | 10:11:02 | Comments(0)
「共謀罪」法が成立
犯罪を計画段階で処罰する「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ「テロ等準備罪」を新たに設けた改正組織犯罪処罰法が可決して成立した。
今までの我が国の刑法では、犯罪実行後に処罰するということが原則だったという。
それを犯罪実行前に処罰するということになるのだから、刑法の大変革ということになるかもしれない。

これに対し、野党側は、かなり反発していたようだが・・・
その解釈が、かなりの「拡大解釈」のような気がしないでもない。
「内心の自由の侵害」などと言い出しているようである。
つまり、心の中で思っただけでも逮捕されて処罰されるのではないかということのようだ。
極端な話のような気がしますが・・・(苦笑)

テロ行為に対して、この「準備罪」は有効であると思う。
野党は自分たちが政権を取った時に、この「準備罪」がなかったら、テロ対策の時に不便ではないかと思うのだが・・・
野党は政権を取ろうという気はないから、こういう反対の仕方をするのだろうか?(苦笑)

共謀罪法は、277の犯罪に適用されるそうで、対象をテロ組織と暴力団などの「組織犯罪集団」と規定しているという。
構成員が2人以上で犯罪を計画し、そのうちの1人でも現場の下見や資金調達などの「準備行為」をした場合、その計画に同意した全員が処罰されるのだそうだ。
それなら、何の問題もないと思うのだが・・・

国民の安全を守るため・・・というのが与党の言い分で・・・
基本的人権の侵害だ・・・というのが野党の言い分だそうだが・・・
何でもかんでも「基本的人権」を持ち出せばいいというものではないと思うが・・・
「テロリストにも基本的人権はあるのだから、テロリストの基本的人権を尊重して、テロ事件が起こって、犠牲者が出てからテロリストを逮捕して処罰すべきだ!」と野党は、正しく、かつ分かりやすく言うべきではなかろうか?(大笑)
(そう言ったら国民は誰も賛同しないかもしれないけど・・・)(苦笑)

問題は、捜査機関による法の乱用や悪用である。
これは、人間がやることだから避けるのは難しいと思う。
自分の好みの女性をテロリストの一員ということにして、その女性の情報を集め、処罰するぞと恐喝して男女の関係を要求するという捜査員が出てこないとも限らない。(大笑)
この法の乱用や悪用に対しては、罰則の強化で対処するしかないと思うのだが、日本の処罰というのは甘い気がする。

例えば、一般人が放火事件を起こした場合と、消防士や消防団員が起こした場合では大きく処罰に差を設けるべきではなかろうか?
例えば、一般人が懲役5年なら、職務上(立場上)やってはいけない人がやっちゃった場合は、その10倍の懲役50年にするとか・・・・(笑)
そのくらいの重罪を適用してもいいのではなかろうか?
それじゃ「法の下での平等」に反するか?
私が野党だったら、法を乱用した場合の処罰の厳罰化のほうに力を入れて要求するけどなぁ~
何でもかんでも10倍!
通常なら1年ぐらいの刑でも、自動的に10倍となって、懲役10年!
悪質な乱用の場合は仮釈放なしの終身刑!(一生刑務所から出られないとか・・・)
となれば・・・かなり、法の乱用の抑止力になるんじゃなかろうかという気がするんだけど・・・・

犯罪犠牲者が出てからでは遅いと思うんですけどねぇ~
「この法案に反対するというのは、テロリストを利する行為ではないか?大規模テロが起きた場合、この法律が存在していなかったために阻止できなかったと明らかになった時に、野党は責任を取ってくれますね?」とでも与党は言うべきではなかろうか?(大笑)
リスクの大きさからいうと、やっぱり「準備罪」は無いよりはあった方がいいと思うなぁ~

エッセイ | 17:36:28 | Comments(0)
『台湾人元志願兵と大東亜戦争』


序文―鄭春河氏への謝辞―
     明星大学教授・文学博士 小堀 桂一郎

異国の民となりて―日本の皆様へ
     鄭 春河(旧名 上杉重雄)

第1章 大東亜戦争聖戦論

戦争責任
   前言
   老頭脳
   意外な記事
   戦争責任と元臣民の意識
   結言
目覚めよ我等が同胞
   歴史の真実を探求せよ
大東亜戦と日本世相の再認識
   前書
   戦後の日本教育
   戦後の日本世相
   大東亜戦の真相
   東京裁判
   現今の日米関係
   結論
終戦45周年感懐
   其一 敬告、日本戦友
   其二 正義感
大東亜戦争は確かに聖戦だった
   1 序言
   2 大東亜戦争は侵略戦争ではない
   3 東京裁判は不当、大きな誤りだ
   4 判事パール博士の日本無罪論
   5 大東亜戦争の結実―民族解放に世界的貢献
善有善報悪有悪報
   1 聖なる戦―大東亜戦
   2 大東亜戦争の勝利者―日本(善有善報)
   3 世界識者の評価
戦犯
   1 「戦犯」と軍事裁判
   2 日本人は「戦犯」ではなく「敗戦犯」だ
   3 戦犯は誰か?
   4 戦犯の善後処理
   5 現地に於ける戦犯
   6 戦犯の霊魂今いづこ
   7 因果論
   8 日本同胞よ、心理建設目ざして頑張らう
嗚呼大東亜戦争
   1 まへがき
   2 大東亜戦争の原因と経過
       (1)世界通念と白人世界
       (2)歴史とその時代背景
       (3)明治維新と日本の生きる道
       (4)泥沼の支那事変
       (5)日米交渉
       (6)窮地に立つ日本の選択
       (7)アメリカの最後通牒ハルノート
       (8)宣戦と経過
       (9)終戦
   3 大東亜戦争の目的と結果
   4 パール判事の正義感
   5 東京裁判の再審と汚名の払拭
   6 結び
細川首相「侵略発言」の因果
細川首相の「侵略」発言に想ふ
   1 どうしてあんな馬鹿な発言を
   2 戦後日本社会の混乱
   3 日本経済の発展
   4 日本国憲法と諸悪の根源
   5 新世紀と日本の使命
   6 『嗚呼大東亜戦争』と細川首相の「侵略」発言
   7 大東亜戦争に生きる大和心(『嗚呼大東亜戦争』の読後感)
日本同胞よ大義に生きよ
懸崖勒馬
   昭和天皇と戦争責任
   大東亜戦争の再確認
   「謝罪決議」「不戦決議」は亡国の暴挙(日本の政治家よしっかりしてくれ)
   経済支援は何の為か?
   結び
嗚呼大東亜戦争(終戦50年版)
天の声地の声
   台湾志願兵は今もなほ「大日本帝国の軍人」だ
   反日傾向的教科書について
   昭和天皇の戦争責任について
戦犯と英霊
   1 台湾人戦犯26柱、無言の凱旋
   2 軍事裁判と戦犯
   3 戦犯受刑者の辛酸血涙
   4 大東亜戦争は侵略戦争ではない
   5 事後法の裁判―不法
   6 日本同胞に忠告
       1 対米宣戦は東条首相の独断にあらず
       2 昭和殉難者―法務死
       3 首相までが英霊を冒瀆
       4 情けない愛媛玉串料の最高裁判決
       5 英霊の名誉回復
   7 結び
覚醒

第2章 旧日本軍隊の思ひ出

旧日本軍隊を偲ぶ
天晴れ日本軍人の亀鑑・飯田弘大尉
屠羊記
   まへがき
   1 炊事使役―(カンビンポトン)
   2 軍隊生活の心構と秘訣
   3 台湾志願兵の苦悶
   4 台湾志願兵の選抜は不当
   5 尻の黒い兵隊
   6 古兵の清涼剤
   7 大隊本部の下給品
   あとがき
旧日本軍隊を偲んで
   英霊の痛哭
   英霊の名誉回復
「戦陣訓」は「軍人精神」である

第3章 台湾の戦前戦後

教育勅語と台湾島民
   1 領台当時の国民教育
   2 幼年時代の思ひ出
   3 教育勅語の薫陶
   4 吾人の信仰
   5 教育勅語の機能停止と復活
   6 教育勅語―人倫の常経・天地の公道
   7 結語
領台50年回顧
   1 前言
   2 台湾はどんなところか
   3 日本の領土となる
   4 日本の南進政策
   5 台湾統治(1895~1945)
       1 殖民地の経営
       2 台湾人の皇民化
       3 歴代総督の治政
   6 終戦
       1 中国復帰
       2 明治の台湾志願兵
       3 台湾同胞よ贅沢する勿れ
   7 結論
自立自強
   1 台湾住民の自決権いづこ
   2 日本国籍の喪失
   3 台湾人の失望
   4 台湾人の悲境
   5 結び
   ◎ 附記事項
       1 当初の国府軍
       2 躍進台湾の民主化
嗚呼六士先生
   1 芝山巌精神
   2 六士先生
   3 日本語の伝授
   4 六士先生の殉難
       1 芝山巌事件と六士先生の功績
       2 遭難碑
       3 六士先生招魂歌(伊沢修二先生作)
   5 教職は聖職
   6 戦後の台湾教育
   7 結論
延平郡王祠の祭典と神道
   1 日本神道祭儀実現の経緯
   2 神道
   3 戦後台湾の神社
   4 21世紀は神道思想文化の時代
   【資料】 祝詞
台湾と大東亜戦争
   1 前言
   2 台湾の沿革と民情
       ◎ 現在の台湾人は中国人ではない
   3 戦前の台湾世相
       1 満州事変と支那事変の勃発
       2 応急動員下令
          ◎附記
       3 台湾陸軍特別志願兵制度の施行
   4 従軍記
       1 応召
       2 補充隊
       3 野戦転属
       4 豪州攻略作戦
       5 終戦―復員準備
          ◎船上の誓ひ
   5 復員
       ◎帰郷後感
   6 戦後の台湾
       1 終戦当初の台湾世相
       2 国民党政権の台湾占領
       3 日本人の引き揚げ
       4 接収
       5 台湾経済の破局
       6 台湾人国民党政権に失望
       7 2・28事件
       8 国民政府の遷台と戒厳令
       9 戒厳令の解除
      10 台湾人総統の誕生
      11 新台湾意識―総統選・世界の関心も史上初
      12 台湾の戦後は未だ終わってゐない
      13 旧宗主国日本の無常か手落か
      14 台湾の主権は明らかに台湾にあり
      15 米台共同防衛
      16 金門・馬祖は国共の命綱
      17 アメリカの対台政策
   7 中共との問題と将来の生路
   8 日中各50年の植民地支配比較
   9 反日・排日教育が親日感情を生んだ
  10 台湾人の願望
  11 結び

第4章 かつての戦友を見捨てるのか

台湾志願兵の告白
   其一
   其二
   其三
忘れられた民族の犠牲者・汪兆銘
   1 国父孫文と汪兆銘
   2 道義を忘却した日本
21世紀への元日本人の遺言
   大東亜戦争と台湾
   日本統治50年の成果
   日本の現状を思ふ
   国民精神の荒廃と社会動乱
   アプレ・ゲール
   破壊された日本の家族制度
   日本青年の享楽志向と国家観念の喪失
   戦後日本の変調教育
   目覚めよ日本同胞、日本人らしく生きよう
   未来の日本の主人公―青少年への願ひ
   運命の子台湾
   結び
汪兆銘と蒋介石
   かつての日本戦友汪兆銘
   以徳報怨
   日本は道義を忘却した

第5章 英霊の名誉を回復せよ

皇民
   日本人
   日本精神―大和魂
   目覚めよ日本同胞
   日本同胞よ家鴨と鷓蛄(しゃこ)に学べ―本性(能)を発揮して早くふるさと日本へ帰れ
救国の道
嗚呼救国之神靖国英霊
   序に替へて  靖国神社宮司 湯澤 貞
   序        前靖国神社宮司 大野俊康
   1 日本の神社神道
   2 神道と宗教
       1 神道は宗教か
       2 宗教と政教分離
   3 鎮魂の場―靖国神社
   4 靖国神社の御祭神
   5 昭和殉難者(法務死)
   6 「靖国神社」の「国家護持」
   7 日本の同胞よ正しい歴史を認識して英霊の名誉を回復せよ
   8 英霊の名誉回復を

第6章 懐旧の台湾と日本

中東動乱に対する吾人の見解
再見二十世紀(さようなら二十世紀)
   20世紀は時代の大転換期
   新世紀への願望―平和な世紀でありたい
   日独の時代へ―歴史は繰り返す第二次世界大戦前に逆戻る
   取り残された世界問題
       1 ソ連中共の民族闘争
       2 湾岸問題
   結び
終戦四十六周年有感
荒地に播いた種が芽生えた
   種蒔
日本大学生来訪記
雑感
   不毛の論
   感謝報恩
   日本国民は貨幣になってしまった
   認命
   台湾のはやり言葉
   神様にも間違ひがある
   これはをかしい
   井戸端会議
   今昔のサラリーマン
   洋食
   人生観
世にも不思議な物語
   鬼神幽霊の実在
   鬼(幽霊)
   亡霊
   『嗚呼大東亜戦争』は武聖関公の賜もの
何をか正義人道と言ふ
これは面白い
   絶対と例外
   正直と嘘
   日本の総理大臣で一番だらしないのは誰か
   橋本首相閣下にお伺ひ致します

第7章 鎮魂の詩

心声(詩・歌・句集)
還我霊魂(魂を返せ)

著者(鄭春河 旧日本名・上杉重雄)略歴

あとがき


著者は台湾人の方。
元台湾人志願兵で、今もって「日本人」としての矜持を持っている人である。
もしかしたら、日本人より日本人らしい人かもしれない・・・
本書を左翼の連中が読んだら「時代錯誤」とか「軍国主義者」と猛反発されるかもしれないほど“過激”な発言の部分もある。
しかし「日本人」として一生懸命生きていたのだということは理解してあげたいと思う。
同じような話が繰り返し出てくるので、辟易してしまう部分もあるが、「著作集」としてまとめられたものなので仕方がないだろう。
台湾人志願兵に関して知るには非常に貴重な本だと思う。
著者の言う「日本は道義を忘れている」という批判は耳に痛いが、おっしゃる通りだと思う。


今年の読書:39冊目



読書 | 23:00:19 | Comments(0)
退位特例法が成立
天皇陛下の退位を実現する特例法が可決成立したという。
ようやくですか?・・・・と言いたいくらいだが・・・

皇室典範では、皇位継承は「天皇が崩じた時」とされているそうで、生前に退位するというのは、江戸時代後期の光格天皇以来、約200年ぶりのことだそうだ。

それにしても、今頃になってようやく生前退位を認めるとは・・・今まで何をしていたのかという気がしてならない。
その昔・・・戦前は、天皇は「神様」だったんでしょ?
神様は死ぬことはないから、死ぬまで仕事をされるのは当然という考えだったんでしょ?
しかし、戦後、天皇陛下は「人間宣言」をされたわけで・・・
この時点で天皇陛下は「神様」から「人間」になったのだから、当然、天皇陛下の「基本的人権」というのは尊重されるべきだったのではなかろうか?
「死ぬまで働かせる」というのは基本的人権の侵害ではあるまいか?
それを戦後半世紀以上も続けていたというのは異常である。
昭和天皇が崩御した段階で、天皇の生前退位、我々一般人に当てはめると「定年退職」ということになりますが、誰もそのことを考えなかったのだろうか?
「ワンマン社長」と揶揄されるオーナー経営者ですら、ある程度の年齢に達すると、息子に社長の座を譲り、「会長職」に収まるというのに・・・・

ようやく「生前退位」が認められたと思ったら、今回限りの「特例」だそうだ。
どうしても「神格化」したいらしい・・・・
これは「明治の元勲」と呼ばれた連中の悪意の継承か?
「神様」として崇め奉るが、体力の限界、精神力の限界を理由に辞めるなんていう、おまえの気持ちなど聞く耳は持たない、死ぬまで働け・・・というのは天皇陛下に対する「虐待」ではなかろうか?
今回だけは認めてやるが、後継者の皇太子徳仁親王(浩宮)には認めないというのも、いかがなものか・・・
天皇陛下には「人権」はないのか?
もし、天皇陛下が「過労死」した場合、誰が責任を取るんだろう?

天皇陛下の地位は「国民の総意に基づく」と憲法で規定されている。
このため、国民の総意で選ばれたものが、自己都合で勝手に辞めるなんて許さないということなのかもしれないが・・・
「この方を天皇陛下にしてよろしいでしょうか?」なんて国民の意見を聞いたことがあっただろうか?
意見も聞かず「国民の総意」というのはおかしくないか?
皇太子が後継者というのは当然・・・ということで、国民に賛否を問うてはいないように思えるのですが・・・
そうなると「国民の総意」を確認しないというのは「憲法違反」ではなかろうか?
世襲制なら世襲制として明確にすべきではなかろうか?
そういう意味でも憲法改正は検討の余地ありである。

「天皇の地位」に関しても、どうも言っていることとやっていることに、かなりのズレがあるような気がしますが・・・
自分たちには「人権」を認めろ、天皇には「人権」は認めない・・・は、正しいか?
「人権擁護団体」と称する連中は、なんで黙っているんだろう。
国民の「象徴」が「人権無視」されて「死ぬまで働かされる」というのはマズイんじゃないか?

天皇は国民に心を寄せるが、国民は天皇に心を寄せない・・・というのでは天皇陛下が可哀想である。
ようやく・・・・・と思ったら、一代限りの特例法ではねぇ~
ガッカリである・・・・国会議員は何を考えているのやら・・・・

エッセイ | 17:34:38 | Comments(0)
『最後の連合艦隊司令長官』


序文   草鹿任一

まえがき  昭和42年11月 著者

プロローグ 統率哲学
「無欲」
「いくさは人格なり」
「陣頭指揮」
「陸海軍の協同」
「血の通う統率」
「作戦の様相がにおいでわかる」
「幕僚の使い方」
「人情味」

第1章 面目躍如、マレー沖海戦

日米開戦まで
   暗雲、日本を包む
   野村大使の努力むなしく
開戦の準備すすむ
   「安宅(あたか)の関」の山本と小沢
   陣頭指揮のため意見具申す
   コタバル上陸作戦決定
   艦隊、海南島三亜港に集結
小沢長官の決断
   大本営を戦慄させた作戦緊急信
   コタバル上陸に成功
幸運と不運の分岐点
   「ワレ味方ナリ、ワレ味方ナリ」
   ついに敵主力艦隊を発見
   確立された航空機主兵主義
英艦隊側からの展望

第2章 少年時から太平洋戦争まで

海兵と七高に合格
   手に負えない乱暴少年
   頭脳も抜群だった
思い出の青年士官時代
   人材続出の「宗谷」乗組員
   鍛え上げられた船乗り根性
   「いくさは人格なり」
若き戦術家小沢治三郎
   いくさは正奇の組み合わせ
   荒天下に艦橋倒壊す
   海大における小沢の講義
ふたたび海へ出る
   戦術の大変革期に直面
   連合艦隊参謀長の一策
   第8戦隊司令官の独断専行
   一航艦司令官の発案
   日米関係いよいよ悪化

第3章 戦う小沢治三郎

南遣艦隊、敵要衝を席捲
   南方各地の上陸作戦
   遁走したガスパル海峡の英蘭連合艦隊
戦局の転換点に立つ
   シンガポール占領余聞
   今村軍司令官との約束
   英国艦隊との決戦を前に
   独創的機動作戦構想
   暗号の漏洩を看破する

第4章 激化する米軍の反攻

山本司令長官の戦死
   ガダルカナルをめぐる死闘
   小沢長官ラバウルへ
   ラバウル陣中クラス会
   巨星、山本長官南海に墜つ!
   激戦つづくソロモン海域
マリアナ海戦(あ号作戦)
   小沢中将、第一機動艦隊司令長官に就任
   古賀司令長官の殉職
   小沢長官苦心の秘策
   アウト・レンジ戦法も空し

第5章 レイテの囮艦隊

捷一号作戦計画(レイテ海戦)
   航空兵力の編成替え
   「捷号作戦」計画の立案
   「捷一号作戦」発動
   栗田艦隊緒戦で旗艦を失う
   「武蔵」シブヤン海に死す
   暗中模索逡巡の栗田艦隊
ハダカの空母艦隊
   本艦隊の損害はかえりみず
   米空母1隻分の飛行機で
   敵に発見されるための努力
囮作戦は成功したが
   ハルゼー北進を決意
   敵機ついに来襲
   「第34任務部隊いずこにありや」
“レイテ作戦”ならず
   栗田艦隊、謎の反転
   ばらばらに戦った4提督
乗るべき艦のない連合艦隊司令長官
   遅すぎた軍令部次長就任
   沖縄陥ち憂色満つ
   最後の連合艦隊司令長官
   太平洋戦争終わる

エピローグ 戦後と逸話

戦後の小沢
   慎独(しんどく)の生活
   郷友連盟の創設
   三軍統一問題
   正しい戦史記録の保存
   青少年に対する関心
   陸軍の人々との交流
   日々の生活
終焉
   巨人逝く
   酒と女と歌と
   山本五十六元帥との交誼
   同期の桜
   「強きをくじき弱きを助く」
   六然の人

小沢治三郎年譜


今年の読書:38冊目



読書 | 20:41:14 | Comments(0)
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